神様にはなれない私たち   作:琴ノ葉しずく

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第75話 分倍河原仁という男

 

 

 その時だった。

 

 祈たちのいる部屋の廊下の向こうから、ばたばたと騒がしい足音が近づいてきた。

 

「おいおいおい! 聞いたぞ! いや、聞いてないぞ!どっちだよ!うるせえ! 俺だって何が何だかわかんねえよ!」

 

 灯が顔を上げる。祈も振り向いた。

 部屋の重い扉が勢いよく開き、トゥワイスが飛び込んできた。

 

「……えっと」

 

 祈は小さく瞬きをした。

 

「あなたは……?」

「俺はトゥワイス! 知らない!知られてない!」

 

 激しく矛盾した声を上げる男に、祈は少し困ったように首を傾げた。トゥワイスはそんな彼女の様子を見た瞬間、急に大きな口を閉じ、先ほどまでの勢いを完全に消し去った。

 

「……あー」

「はい」

「お前さ」

「はい?」

「……本気で、俺たちのこと心配してんの?」

 

 祈は少し考え、適切な言葉を探すように間を置いた。

 

「心配、というより……知りたい、のだと思います。どうして皆さんが、ここにいるのか」

 

 トゥワイスの仮面の奥から、軽い空気感が完全に消えた。

 

「どうしてって……」

「正しく生きていれば、誰かにとっての悪になることもありますから。人として、ヴィランであるからと決め付けることはしたくありません」

 

 トゥワイスは答えなかった。代わりに、頭をガシガシと強く掻きむしる。

 

「……俺は」

 

 その声が、少しだけ低くなった。

 

「俺は、自分が何人いるのかもわかんなくなったんだよ。自分が本物なのか、偽物なのか。何が本当で、何が嘘なのか」

 

 そう言って、自嘲気味に笑う。

 

「だから仲間を作った! だから一人になった! うるせえ! お前が言ってんだろ!」

 

 自分で自分に怒鳴ってから、トゥワイスは大きく息を吐き出した。

 

「……まあ、そんな感じだ」

 

 祈は、静かに彼を見つめていた。

 

「……怖かったのですね。自分が、自分ではなくなってしまうのが」

 

 トゥワイスは目を見開いた。

 

「……なんで」

「私も、自分が何者なのか分からなくなったことがありますから」

「お前が?」

「はい。私には二つの個性の側面があります。自分の中にいるものが、本当の自分なのか、それとも個性の生み出した幻影なのか。昔はよく分からなくなりました。だから……少しだけ、分かる気がします。自分を信じられないというのは、とても苦しいですよね」

 

 トゥワイスの身体が、微かに震えた。

 

「……お前、そういうこと言うの、反則だろ……。俺、泣くぞ!」

「泣いていいと思いますよ」

「いいのかよ!」

「はい。苦しいときは、泣いていいのです」

 

 即答だった。

 

 トゥワイスはしばらく黙り込み、やがて、顔をぐしゃぐしゃにするようにして笑った。

 

「……変な奴だな!」

「よく言われます」

「敵だぞ、俺!」

「知っています」

「誘拐されてんだぞ、お前!」

「それも知っています。ですが、お話しすることに敵も味方もありませんから」

 

 トゥワイスは頭を抱えた。

 

「なんなんだよ、もう!」

 

 その様子を見ていた灯がぽつりと言った。

 

「この人、うるさい」

「うるさくねえ!うるさい!二回言うな!」

 

 祈は思わず、小さく声を立てて笑った。その柔らかな笑い声に、トゥワイスが振り向く。

 

「っふ」

「……お前、笑ったな。さっきまで、そんな顔してなかっただろ」

「……そうでしたか?」

「そうだよ。だから、笑ってろよ。俺たち、悪いことしてるけどさ……ここにいる奴ら、全員が最初から悪かったわけじゃねえんだ」

「……はい」

「だからって、何しても許されるわけじゃないけどな」

「そうですね」

「でも……誰かに、最初から『お前は悪い奴だ』って決めつけられるのは……嫌なんだよ」

 

 祈は静かに頷いた。

 

「分かります」

「……本当に分かってんの?」

「全部ではありません。でも、分かりたいと思っています」

 

 トゥワイスはしばらく黙っていたが、不意に、自分のポケットを探り始めた。

 

「……あー、そうだ。腹減ってないか?」

「いえ、大丈夫です」

「嘘つけ! お前、顔色悪いぞ!」

「そうでしょうか」

「そうだよ! ちょっと待ってろ、飯持ってくる!」

「いや、そこまでしていただかなくても――」

「いいから! 俺が持ってくる! 俺じゃなくて俺が! どっちだよ!」

 

 トゥワイスは自分自身と揉めながら、慌ただしく部屋を出ていった。残された祈とクローンは、しばらくその扉を見つめていた。

 

「……トゥワイスさん、とおっしゃいましたね」

「うん。うるさいやつだけど、嫌いじゃない」

「そうですか」

 

 祈は目を細めた。

 その頃、監視室では、トゥワイスが食事を探して走り回る姿を見ながら、荼毘が呆れたように呟いていた。

 

「……あいつ、完全に懐いたな」

「懐いた! 懐いてない!」

「どっちだよ」

 

 トガがくすくす笑う。死柄木もまた、画面から目を離さなかった。

 

「……人間として、か」

 

 誰にも聞こえない声で、死柄木はそう呟いた。

 

 

 

 

 

◇

 

 

 

 

 

    

「なあ」

 

 数分後、小さなおにぎりを盆に乗せて戻ってきたトゥワイスが、不意に口を開いた。祈は顔を上げる。

 

「はい?」

「俺のこと、助けたことあるだろ?」

「……?」

 

 祈は少し考えた。目の前にいる男の顔を見る。白いマスクの輪郭。独特な喋り方。落ち着きのない仕草。けれど、それだけでは彼女の記憶の糸には繋がらなかった。

 

「……申し訳ありません。すぐには思い当たらないのですが」

「そっか。そうだよな!」

 

 トゥワイスは笑った。けれど、その笑顔には少しだけ寂しさが混じっていた。

 

「俺がまだ、分倍河原 仁ぶばいがわら じんだった頃だ」

「……分倍河原さん」

 

 祈はその名前を繰り返した。それでも、はっきりとは思い出せない。個性の影響で記憶が曖昧になった時期もあるし、彼女がこれまで助けてきた人間の数は、あまりにも多すぎたからだ。

 

「……すみません」

「謝るなって! 俺が勝手に聞きたかっただけだ!」

「いえ。でも……」

 

 祈は分倍河原を見つめ、静かに言った。

 

「困っている人がいたのでしたら……きっと、当時の私は、当たり前のように助けたのだと思います」

「……そっか。そうだよな」

「ありがとうございます」

「……なんで、あんたが俺に礼を言うんだよ」

「だって、生きていてくださったのでしょう? それが、私は嬉しいのです」

 

 助けたことを覚えていなくても、名前を思い出せなくても、目の前にいる人が、今ここで生きている。それだけで、祈の歪んだ心は満たされる。

 

「……俺、生きててよかったんだな」

「はい。生きていてくださって、本当によかったです」

 

 その迷いのない言葉に、トゥワイスはしばらく何も言えなくなり、静かに顔を覆った。

 

 

 

 

 

◇

 

 

 

 

     

 ――それは、彼がまだ「分倍河原仁」という一人の男だった頃の、ある雨の夜のこと。

 人気のない暗い路地裏で、ずぶ濡れの男が腕から血を流して蹲っていた。

 

「……俺は……俺は……本物だ……俺が本物だ……」

 

 頭を抱えて、何度も呟いていた。その声に混じって、脳内で別の自分の声が響く。

 

『偽物だ』

『お前は偽物だ』

『俺が本物』

 

「違う、違う、違う!」

 

 自分自身の影に追い詰められ、発狂寸前だった男の前に、静かな声が降ってきた。

 

「もしもし……大丈夫ですか?」

 

 顔を上げると、激しい雨の向こうに、黒い服を着た女が傘を持って立っていた。白いレースのヴェール。その隙間から覗く、澄んだ青い瞳。

 

「……誰だ、お前」

「神代祈と申します」

「来るな! 俺は危ない!」

「そうなのですか?」

「そうだ!だから離れろ!どっか行け!」

「…それでは、少し離れてお話ししましょう」

 

 祈は雨の中に平然としゃがみ込んだ。

 

「どこか痛いところはありますか?」

「分からない……でも、死ぬかもしれない」

「でしたら、治しましょうか?」

「……治せるのか?」

「はい」

 

 祈が手を伸ばす。男は怯えたように身を引いた。

 

「俺に触るな!」

「分かりました。では、触れてもよくなったら教えてください」

 

 彼女は逃げなかった。ただ、そこに静かに佇み続けた。

 しばらくして、男は震えながら、傷だらけの腕を差し出した。すると祈が男に近づき、差していた傘の中に入れた。

 

「……治してくれ」

「はい」

 

 祈がその手を取る。淡い光が傷口を包み、裂けた皮膚が瞬く間に塞がっていく。

 

「……すげぇ、治った……」

「よかったです。これで、もう大丈夫ですね」

「あんた、シスターなのか…」

「はい、お話したいことがあるのですね?」

「……俺、自分が二人いるみたいで…たくさん…どれが本物なのか分からなくて…訳が分からなくなって」

「……怖いのですね。分からないことは、怖いと思います」

 

 その一言でーーー分倍原は救われた。彼女は否定もしない。ただ、怖いという感情を、そのまま受け止めた。

 

「そうか……俺、怖かったのか。ずっと……怖かったんだ」

「そうですか。でも、今、生きているのでしたら、明日のことは、明日考えてもいいのではないでしょうか」

「俺にも、明日があるのか?」

「ありますよ。生きているのですから」

 

 その言葉を、分倍河原仁はずっと、心の最深部で覚え続けていた。

 

 

    

 雨は、深夜になっても止まなかった。

 

「……とりあえず、今夜は教会にいらしてください」

「いや、待て待て待て! 俺は悪いやつだ! そんな奴を教会に泊めていいのか!?」

「悪い人なら、通報をしないといけませんね」

「そうだ!通報しろ!いやダメだ、俺が困る!」

「では、明日にしましょう。今日はもう遅いですから」

「なんで明日なんだよ!」

「今日は疲れました。明日、元気になってから通報します。仁さんも疲れているでしょう?」

 

 ずぶ濡れで、頭の中もぐちゃぐちゃだった男を見て、祈は何でもないことのように教会の扉を開けた。

 

「どうぞ」

 

案内されたのは小さな客室。簡素な部屋だが、暖かそうなベッドと木製の机が置いてある。暗闇の中を、ランタンから漏れる優しい橙色の光が照らしていた。

 

「……いいのか?」

「一晩だけです。お腹は空いていませんか? 温かいものを作ってお持ちします」

「もっと警戒しろよ!」

「していますよ。ですから、明日通報します」

「それ警戒って言うのか!?」

「……違いますか?」

「違うと思う!」

 

 その奇妙なやり取りがおかしくて、久しぶりに心の底から笑った。

 

「……ははっ」

「笑えるようになりましたね。さっきまで、ずっと苦しそうでしたから」

「……俺、悪いやつなのに。お前、忘れてただろ!」

「少し」

「少しかよ!」

 

 祈はくすりと笑った。タオルと着替えを渡され、温かい食事も運ばれてくる。

 

「おやすみなさい、仁さん」

 

 扉が閉まり、布団の中で天井を見上げながら、男は呟いた。

 

「……あったけぇな」

 

 自分が本物か偽物かは分からない。それでも、今夜だけは、数年ぶりに安心して眠ることができた。

 

 

 

 

 

 ――だから。

 

 のちに「トゥワイス」と呼ばれるようになった男は、あの日、自分をただの人間として救ってくれた彼女の温もりを、絶対に忘れられなかったのだ。

 

 

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