その時だった。
祈たちのいる部屋の廊下の向こうから、ばたばたと騒がしい足音が近づいてきた。
「おいおいおい! 聞いたぞ! いや、聞いてないぞ!どっちだよ!うるせえ! 俺だって何が何だかわかんねえよ!」
灯が顔を上げる。祈も振り向いた。
部屋の重い扉が勢いよく開き、トゥワイスが飛び込んできた。
「……えっと」
祈は小さく瞬きをした。
「あなたは……?」
「俺はトゥワイス! 知らない!知られてない!」
激しく矛盾した声を上げる男に、祈は少し困ったように首を傾げた。トゥワイスはそんな彼女の様子を見た瞬間、急に大きな口を閉じ、先ほどまでの勢いを完全に消し去った。
「……あー」
「はい」
「お前さ」
「はい?」
「……本気で、俺たちのこと心配してんの?」
祈は少し考え、適切な言葉を探すように間を置いた。
「心配、というより……知りたい、のだと思います。どうして皆さんが、ここにいるのか」
トゥワイスの仮面の奥から、軽い空気感が完全に消えた。
「どうしてって……」
「正しく生きていれば、誰かにとっての悪になることもありますから。人として、ヴィランであるからと決め付けることはしたくありません」
トゥワイスは答えなかった。代わりに、頭をガシガシと強く掻きむしる。
「……俺は」
その声が、少しだけ低くなった。
「俺は、自分が何人いるのかもわかんなくなったんだよ。自分が本物なのか、偽物なのか。何が本当で、何が嘘なのか」
そう言って、自嘲気味に笑う。
「だから仲間を作った! だから一人になった! うるせえ! お前が言ってんだろ!」
自分で自分に怒鳴ってから、トゥワイスは大きく息を吐き出した。
「……まあ、そんな感じだ」
祈は、静かに彼を見つめていた。
「……怖かったのですね。自分が、自分ではなくなってしまうのが」
トゥワイスは目を見開いた。
「……なんで」
「私も、自分が何者なのか分からなくなったことがありますから」
「お前が?」
「はい。私には二つの個性の側面があります。自分の中にいるものが、本当の自分なのか、それとも個性の生み出した幻影なのか。昔はよく分からなくなりました。だから……少しだけ、分かる気がします。自分を信じられないというのは、とても苦しいですよね」
トゥワイスの身体が、微かに震えた。
「……お前、そういうこと言うの、反則だろ……。俺、泣くぞ!」
「泣いていいと思いますよ」
「いいのかよ!」
「はい。苦しいときは、泣いていいのです」
即答だった。
トゥワイスはしばらく黙り込み、やがて、顔をぐしゃぐしゃにするようにして笑った。
「……変な奴だな!」
「よく言われます」
「敵だぞ、俺!」
「知っています」
「誘拐されてんだぞ、お前!」
「それも知っています。ですが、お話しすることに敵も味方もありませんから」
トゥワイスは頭を抱えた。
「なんなんだよ、もう!」
その様子を見ていた灯がぽつりと言った。
「この人、うるさい」
「うるさくねえ!うるさい!二回言うな!」
祈は思わず、小さく声を立てて笑った。その柔らかな笑い声に、トゥワイスが振り向く。
「っふ」
「……お前、笑ったな。さっきまで、そんな顔してなかっただろ」
「……そうでしたか?」
「そうだよ。だから、笑ってろよ。俺たち、悪いことしてるけどさ……ここにいる奴ら、全員が最初から悪かったわけじゃねえんだ」
「……はい」
「だからって、何しても許されるわけじゃないけどな」
「そうですね」
「でも……誰かに、最初から『お前は悪い奴だ』って決めつけられるのは……嫌なんだよ」
祈は静かに頷いた。
「分かります」
「……本当に分かってんの?」
「全部ではありません。でも、分かりたいと思っています」
トゥワイスはしばらく黙っていたが、不意に、自分のポケットを探り始めた。
「……あー、そうだ。腹減ってないか?」
「いえ、大丈夫です」
「嘘つけ! お前、顔色悪いぞ!」
「そうでしょうか」
「そうだよ! ちょっと待ってろ、飯持ってくる!」
「いや、そこまでしていただかなくても――」
「いいから! 俺が持ってくる! 俺じゃなくて俺が! どっちだよ!」
トゥワイスは自分自身と揉めながら、慌ただしく部屋を出ていった。残された祈とクローンは、しばらくその扉を見つめていた。
「……トゥワイスさん、とおっしゃいましたね」
「うん。うるさいやつだけど、嫌いじゃない」
「そうですか」
祈は目を細めた。
その頃、監視室では、トゥワイスが食事を探して走り回る姿を見ながら、荼毘が呆れたように呟いていた。
「……あいつ、完全に懐いたな」
「懐いた! 懐いてない!」
「どっちだよ」
トガがくすくす笑う。死柄木もまた、画面から目を離さなかった。
「……人間として、か」
誰にも聞こえない声で、死柄木はそう呟いた。
◇
「なあ」
数分後、小さなおにぎりを盆に乗せて戻ってきたトゥワイスが、不意に口を開いた。祈は顔を上げる。
「はい?」
「俺のこと、助けたことあるだろ?」
「……?」
祈は少し考えた。目の前にいる男の顔を見る。白いマスクの輪郭。独特な喋り方。落ち着きのない仕草。けれど、それだけでは彼女の記憶の糸には繋がらなかった。
「……申し訳ありません。すぐには思い当たらないのですが」
「そっか。そうだよな!」
トゥワイスは笑った。けれど、その笑顔には少しだけ寂しさが混じっていた。
「俺がまだ、分倍河原 仁だった頃だ」
「……分倍河原さん」
祈はその名前を繰り返した。それでも、はっきりとは思い出せない。個性の影響で記憶が曖昧になった時期もあるし、彼女がこれまで助けてきた人間の数は、あまりにも多すぎたからだ。
「……すみません」
「謝るなって! 俺が勝手に聞きたかっただけだ!」
「いえ。でも……」
祈は分倍河原を見つめ、静かに言った。
「困っている人がいたのでしたら……きっと、当時の私は、当たり前のように助けたのだと思います」
「……そっか。そうだよな」
「ありがとうございます」
「……なんで、あんたが俺に礼を言うんだよ」
「だって、生きていてくださったのでしょう? それが、私は嬉しいのです」
助けたことを覚えていなくても、名前を思い出せなくても、目の前にいる人が、今ここで生きている。それだけで、祈の歪んだ心は満たされる。
「……俺、生きててよかったんだな」
「はい。生きていてくださって、本当によかったです」
その迷いのない言葉に、トゥワイスはしばらく何も言えなくなり、静かに顔を覆った。
◇
――それは、彼がまだ「分倍河原仁」という一人の男だった頃の、ある雨の夜のこと。
人気のない暗い路地裏で、ずぶ濡れの男が腕から血を流して蹲っていた。
「……俺は……俺は……本物だ……俺が本物だ……」
頭を抱えて、何度も呟いていた。その声に混じって、脳内で別の自分の声が響く。
『偽物だ』
『お前は偽物だ』
『俺が本物』
「違う、違う、違う!」
自分自身の影に追い詰められ、発狂寸前だった男の前に、静かな声が降ってきた。
「もしもし……大丈夫ですか?」
顔を上げると、激しい雨の向こうに、黒い服を着た女が傘を持って立っていた。白いレースのヴェール。その隙間から覗く、澄んだ青い瞳。
「……誰だ、お前」
「神代祈と申します」
「来るな! 俺は危ない!」
「そうなのですか?」
「そうだ!だから離れろ!どっか行け!」
「…それでは、少し離れてお話ししましょう」
祈は雨の中に平然としゃがみ込んだ。
「どこか痛いところはありますか?」
「分からない……でも、死ぬかもしれない」
「でしたら、治しましょうか?」
「……治せるのか?」
「はい」
祈が手を伸ばす。男は怯えたように身を引いた。
「俺に触るな!」
「分かりました。では、触れてもよくなったら教えてください」
彼女は逃げなかった。ただ、そこに静かに佇み続けた。
しばらくして、男は震えながら、傷だらけの腕を差し出した。すると祈が男に近づき、差していた傘の中に入れた。
「……治してくれ」
「はい」
祈がその手を取る。淡い光が傷口を包み、裂けた皮膚が瞬く間に塞がっていく。
「……すげぇ、治った……」
「よかったです。これで、もう大丈夫ですね」
「あんた、シスターなのか…」
「はい、お話したいことがあるのですね?」
「……俺、自分が二人いるみたいで…たくさん…どれが本物なのか分からなくて…訳が分からなくなって」
「……怖いのですね。分からないことは、怖いと思います」
その一言でーーー分倍原は救われた。彼女は否定もしない。ただ、怖いという感情を、そのまま受け止めた。
「そうか……俺、怖かったのか。ずっと……怖かったんだ」
「そうですか。でも、今、生きているのでしたら、明日のことは、明日考えてもいいのではないでしょうか」
「俺にも、明日があるのか?」
「ありますよ。生きているのですから」
その言葉を、分倍河原仁はずっと、心の最深部で覚え続けていた。
雨は、深夜になっても止まなかった。
「……とりあえず、今夜は教会にいらしてください」
「いや、待て待て待て! 俺は悪いやつだ! そんな奴を教会に泊めていいのか!?」
「悪い人なら、通報をしないといけませんね」
「そうだ!通報しろ!いやダメだ、俺が困る!」
「では、明日にしましょう。今日はもう遅いですから」
「なんで明日なんだよ!」
「今日は疲れました。明日、元気になってから通報します。仁さんも疲れているでしょう?」
ずぶ濡れで、頭の中もぐちゃぐちゃだった男を見て、祈は何でもないことのように教会の扉を開けた。
「どうぞ」
案内されたのは小さな客室。簡素な部屋だが、暖かそうなベッドと木製の机が置いてある。暗闇の中を、ランタンから漏れる優しい橙色の光が照らしていた。
「……いいのか?」
「一晩だけです。お腹は空いていませんか? 温かいものを作ってお持ちします」
「もっと警戒しろよ!」
「していますよ。ですから、明日通報します」
「それ警戒って言うのか!?」
「……違いますか?」
「違うと思う!」
その奇妙なやり取りがおかしくて、久しぶりに心の底から笑った。
「……ははっ」
「笑えるようになりましたね。さっきまで、ずっと苦しそうでしたから」
「……俺、悪いやつなのに。お前、忘れてただろ!」
「少し」
「少しかよ!」
祈はくすりと笑った。タオルと着替えを渡され、温かい食事も運ばれてくる。
「おやすみなさい、仁さん」
扉が閉まり、布団の中で天井を見上げながら、男は呟いた。
「……あったけぇな」
自分が本物か偽物かは分からない。それでも、今夜だけは、数年ぶりに安心して眠ることができた。
――だから。
のちに「トゥワイス」と呼ばれるようになった男は、あの日、自分をただの人間として救ってくれた彼女の温もりを、絶対に忘れられなかったのだ。