これは、公安に収容された体が回復してから、しばらく経っての出来事だった。
「お願いします、この子を助けてください……!!」
無機質な実験室のなかに、悲鳴のような懇願が響き渡った。
涙を流しながら、必死の形相で腕の中の子供を抱きしめている一人の女性。その胸に抱えられた子供は、十歳ほどだろうか。顔色は土のようにひどく悪く、浅く乱れた呼吸を辛うじて繰り返している。身体の芯からすべての力が抜け落ちてしまっているのか、母親の細い両腕で強引に支えられていなければ、床に座っていることさえ難しい状態だった。
「……その子の病状は?」
祈は、母子をこの部屋へと連れてきた公安の担当職員へ尋ねた。
「進行が進んでいます」と、職員は感情を一切排した声で、事務的に資料を見ながら答える。
「何もしなければ、もってあと数日の命とのことです」
「そう、ですか……」
祈は屈み込み、少年の痩せ細った顔を覗き込んだ。
全身の運動ニューロンが侵され、筋肉が急速に萎縮していく難病――筋萎縮性側索硬化症。現代の医学の粋を集めても、その進行を遅らせることはできても、止めること、完治させることは叶わない。一般的に四十代以降にかかる疾患で、十歳程度の子供がかかることは極めて稀だ。
祈は、静かに職員を見上げた。
「……あの、お母様の命を代わりにするのではなく、病気そのものを私のハイドで『殺す』のではダメなのでしょうか」
「ダメです。上の指示通りにお願いします」
「……ですが、この疾患はお母様の肉体が耐えられないと思うのです。命の等価交換はあまりにも――」
「指示通りに」
遮るような拒絶。
祈は、それ以上何も言わずに静かに目を伏せた。
「……はい」
これは、実験なのだ。
神代祈の個性が持つ『生の剥奪と付与』の応用。他人の命を物理的な代償として捧げることで、別の他人の命を救うことができるのか。その限界値と作用を確かめるための、非人道的な等価交換のシミュレーション。
本来ならば、祈の中にいる『ハイド』の破壊の性質を以て、少年の体内を蝕む病根そのものを概念的に殺害できればいい。けれど、今回はその最適解を試すことすら許されていなかった。大人たちが求めているのは、あくまで「命の移動」というデータの蓄積だったからだ。
祈は親子の前に立ち、子供の熱い額にそっと白く細い手を添えた。
「…失礼いたしますね」
まぶたを閉じ、個性を発動する。
ジキルの力が、少年の身体の奥深くへと侵入し、その構造を探る。病状は職員の言う通り極めて深刻だった。全身の機能が徐々に失われ、呼吸筋すらも停止しかけている。治癒の力を行使することはできる、けれど、病気の根本的な原因を消し去ることはできない。今回のルールは、ハイドによる病の殺害ではないのだ。
祈は、震える母親へと視線を向けた。
「……お母様」
「はい……!」
「ご自身の命を、この子の代償にできますか?」
女性は一瞬だけ、肺の空気をすべて失ったかのように息を呑んだ。
けれど、その瞳に迷いは一筋もなかった。我が子の命と引き換えにするための覚悟が、ぎらりと眸に宿る。
「はい……!!! この子を、私の命に代えても助けてください……!!」
用意周到なことに、差し出された同意書にはすでに彼女の署名が綺麗に捺されていた。
祈はそれを無言で確認した職員へ一度だけ目を向け、それから暗い表情のまま、母子を冷たい治療台へと案内した。
「それでは…こちらへどうぞ」
できることなら、二人とも助けたかった。
母親の命を削り取るような真似をせず、自分の力で、ただ子供を救いたかった。
(私を使えば――私の命を代わりに使えば、誰も死なさずに済んだのに)
けれど、その提案は公安の幹部によって事前にすべて却下されていた。彼女は国家の所有物であり、その命を無駄に消耗させるわけにはいかないからだ。
実験は彼らの予定通りに成功した。
子供の難病は完全に消失し、機能は修復され、助かった。
そして、母親は助からなかった。
すべての治療が終わった後、祈は静まり返った実験室の中で、しばらくの間動くことができなかった。
目の前の硬い治療台には、もう二度と息をすることのない、急速に冷えていく女性の肉体が横たわっている。そしてそのすぐ隣で、代償を受け取った子供が、弱々しくも、確かに安定した呼吸を刻み始めていた。
どちらも助けたかった。
でも、自分にはそれができなかった。大人たちの敷いたルールのなかで、人形のように個性を弄ぶことしか許されなかった。
「……ごめんなさい」
低く零れたその謝罪が、冷たい壁に反射する。誰に向けた言葉なのか、自分自身でももう分からなかった。死んでいった母親への哀悼か、あるいは。
祈は白いヴェールの下で、誰の目にも触れない涙を、ただ静かに流し続けることしかできなかった。
数日後。
実験の対象となった子供が、隔離病棟のベッドで意識を取り戻したという報告を受け、祈は静かにその病室へと足を運んだ。
病室の中は、耳が痛くなるほどに静かだった。
窓から差し込む昼の光の中で、ベッドに横たわる少年が、開いた扉の方へとゆっくりと視線を向けた。以前よりもさらに痩せ細ってしまった小さな身体。けれど、その胸元の上下運動は驚くほどに規則正しく、安定していた。命は、完全に繋ぎ止められている。
祈はベッドの傍らに立ち、穏やかな微笑みをどうにか口元に浮かべようとした。
「……具合はいかがですか?」
少年は、すぐには答えなかった。
ただ、じっと、憎悪の塊のような目で祈を見つめていた。その濁った瞳の奥に浮かんでいる感情の正体を、祈はこれまでの短い人生の中で嫌というほど知っていた。
「……人殺し」
掠れた少年の声が、無機質な病室の空気を切り裂く。
祈は、ただ黙ってその糾弾を受け止めた。否定することは、到底できなかった。
自分は、母親を救えなかった。母親の命を利用し、そのエネルギーを以て、この子供の肉体を強引に救ったのだ。たとえそれが公安の命令による実験だったとしても、たとえ母親自身が我が身を賭して望んだことだったとしても。
自分がその手を下し、一人の人間を死に追いやったという最悪の事実に、何一つ変わりはなかった。
「……はい」
祈は静かに頷き、その事実を受け入れた。
少年の瞳から、堪えきれ大粒の涙が溢れ、頬を伝って枕を濡らしていく。
「おかあさんを返せよ……!」
「……」
「返せよ!! おまえが殺したんだ!! 返せ!!」
激しい怒号と、子供の泣き声が室内に吹き荒れる。
祈は何も言い返せなかった。謝ることしかできない。けれど、その謝罪の言葉すらも、目の前で世界を失った子供にとっては、何の救いにもならないただの偽善の響きでしかないことを理解していた。
祈には、この少年の敵意や憎しみを『殺す』ことだってできた。
ハイドの力を応用すれば、目の前の少年が自分を激しく憎み、その負の感情の回路だけを、精神干渉によって一時的に消去し、穏やかな人形へと変えることだって可能だったのだ。
職員たちからも、「面倒なら記憶か感情を処理しろ」と言われていた。
けれど、祈は最後まで何もしなかった。
母親を失った底知れない悲しみも、世界を呪うほどの激しい怒りも、この少年が自分を人殺しだと指差して激しく憎むその感情も。
それは、他ならぬこの少年自身のものであり、彼が人間として生きている証明そのものだからだ。
自分が彼の命だけでなく、その心から大切な記憶や怒りまでをも身勝手に奪い去るような真似は、絶対にしてはならない。
祈は、少年に向けて、深く、静かに頭を下げた。
「……あなたには、私を人殺しだと罵り、生涯呪い、憎む権利があります」
少年の泣き声だけが、病室にいつまでも響き渡る。
祈はその絶叫を全身の鼓膜で受け止めながら、ただ静かに、微動だにせずその場に立ち尽くしていた。
「どうか、その激しい怒りを、私への憎しみを忘れないよう……生きてください」
自分を許さない人間が、この世界に確かに存在しているということを。
自分を激しく憎み、呪い続ける人間が、今も生きているということを。
自らの犯した罪の重さを、一瞬たりとも忘れないために。祈は少年の流す涙をじっと見つめながら、自らの胸の奥深くへと、静かに、深く刻みつけるのだった。