泣き疲れた啓悟が、俺の部屋のベッドで泥のように眠りについてから数時間後。
深夜の礼拝堂は、昼間の喧騒が嘘のように冷え切り、静まり返っていた。
俺は柱に背を預け、携帯灰皿を片手にタバコの煙をふぅと吐き出す。
その紫煙の向こう、祭壇に飾られた十字架の前に、彼女――神代祈はいた。
いつもと変わらない、黒い修道服に白いレースのヴェール。
神父を亡くしたあの日から、彼女はまるでそこから一歩も動いていないかのように、ただ静かに佇んでいる。
「……ねえ、神代さん。なんつーかさぁ、お前本当にいい加減にしなよ」
静寂を破るように、俺はわざとぶっきらぼうな声を投げかけた。
彼女はゆっくりとこちらを振り返る。レースの網目に遮られた顔は読めないが、相変わらず凛とした丁寧な敬語が返ってきた。
「はい、筑紫様。何か私に不手際がございましたでしょうか」
「不手際っつーか、全部だよ。お前のその、規格外の聖人っぷりのこと言ってんの」
俺はタバコを灰皿に押し付け、呆れたようにため息をついた。
俺の個性が、彼女の心から流れ込んでくる感情を捉える。
彼女の心の大部分は、今夜もガチガチに凍りついた漆黒の凍土のままだ。他人を拒絶し、誰も信じないと決めた暗黒。
……なのに、その隙間から溢れ出している「あのガキを守りたい」という、おめでたいほどの本物の情愛の熱量が、今も俺の脳をじりじりと灼いている。
「あのさぁ、公安が拾ってきたガキだよ? どこに盗聴器や監視の目が仕込まれてるかも分かんないような、いわば『生け贄のサンプル』なわけ。それをさ、初対面でいきなりヴェールまで引っぺがして、ボロボロ泣きながら抱きしめるって何?
…それだけじゃないよ。君、今日あいつのために、教会の少ない予算からわざわざ肉買ってきてスープ煮込んでただろ。自分はまともに食いもしないくせにさぁ。病院のボランティアの時だってそう。死にかけの爺さんの愚痴に何時間も付き合ってさ。
お前、本当に薄気味悪いよ。聖者様のフリして自分をすり潰すのが、そんなに楽しいわけ?」
ひねくれた俺の言葉は、我ながら最低の言い草だった。
お前がどれだけ優しくしたって、世界は、公安は、お前をバケモノとしてしか見ていないんだぞ――そんな、歪んだ警告を混ぜ込んだ愚痴。
だが、神代祈は、傷つく風でもなく、ただ静かに胸元の銀色のロザリオに触れた。
「いいえ、筑紫様。私は聖者などではありません。……私はただ、あの子の中に、かつての自分を見ただけなのです」
「……あ?」
「真っ白な部屋に閉じ込められて、名前を奪われて、世界中のすべてに怯えていた、あの子の背中の羽が……あまりにも痛々しくて。気づけば、身体が勝手に動いておりました。
……私は、あの子を失いたくありません。あの子がこれからの人生で、誰かに大切にされる幸せを知ってほしいと……凍りついた私の心が、そう願ってしまったのです」
レースの向こうから、彼女の静かな、けれど決意に満ちた声が響く。
愛が何なのかわからない、誰も信じられないと心を閉ざしたはずの女が、それでも「あのガキに大切にされる幸せを知ってほしい」と、命を懸けるような目で言っている。
(クソ……。だからやりづらいんだよ、この女は)
俺は頭をガリガリと掻き、そっぽを向く。
彼女のその「放つ光だけは本物」の博愛に、俺の『共感層』がまたしても強烈に毒気を抜かれていく。
言い負かされたような居心地の悪さに舌を打つと、彼女は薄いレースの網目越しに、ほんの少しだけ、仮面ではない悪戯っぽい微笑みを浮かべた。
「それに、筑紫様」
「何だよ」
「あのボロボロだった啓悟くんを、この教会へ連れてきてくださったのは……他ならぬ、筑紫様ではありませんか」
「……はぁ!? 俺はただの上層部からの命令! それに、ちょっとした悪戯心でさぁ、お前がどんなブサイクな顔してガキを拒絶するか見物したかっただけだし!」
必死に合理的な言い訳を捲し立てる俺に、彼女は遮るように、小さく、本当に鈴の音のように清らかに笑った。
「ふふ、左様ですか。ですが、筑紫様のその『共感層』の個性は、嘘を見抜くだけでなく、他人の痛みに誰よりも敏感に寄り添ってしまう、とてもお優しい異能なのだと、エリアス神父様の遺品に書かれておりました。
……お口は悪いですが、あの子を私の元へ連れてきてくださった筑紫様のそのお心を、私はとても、温かいものだと感じております」
「……っ」
言葉が、完全に喉に詰まった。
彼女の心はまだ凍りついている。なのに、俺に対しては、濁りのない本物の『感謝』が、確かにその瞳の奥から向けられているのが分かってしまった。
「お前さぁ……はぁ、もういいよ。本当に、やりづらいったらありゃしない」
俺はポケットに手を突っ込み、足早に礼拝堂の階段を上っていく。
お仕事だから、と割り切っていたはずの境界線が、彼女の静かな感謝の一言によって、音を立てて崩れていくのが分かった。
背中で、白いレースの裾が揺れる気配がする。
あの美しくも狂おしいお人形に、俺自身が、一番決定的に毒気を抜かれているのだという事実から、俺はまた、目を逸らすことしかできなかった。