その通信は、ひどく簡潔で、それゆえに冷酷だった。
神代祈の所在を確認した場合、まず生存状況を確認すること。
生存している場合は速やかに確保。
ただし、公安に対する明確な反抗、あるいは国家を裏切り敵に荷担したと判断される行動を確認した場合は――その場での『処分』を許可する。クローンに関しても同様。
なお、対象の確保・処理後も、ホークスは現在進行中の潜入任務をそのまま続行すること。
「……了解しました。いつも通り、迅速に動きます」
ホークスは、通信画面の向こうにいる公安の命令者に向けて、完璧な笑みを浮かべて見せた。一切の不満も、迷いも、余計な感情も差し挟まない。
プツリ、と電子音が鳴って通信が切れる。
その瞬間、彼の口元から笑みが完全に消え失せた。
「……ふざけんな」
誰もいないビルの屋上で、吐き捨てるような低い声が響いた。
確保。処分。そして、何事もなかったかのように任務続行。
公安の頭の固い大人たちは、神代祈という存在をどこまでも国家の「所有物」としてしか数えていない。もし彼女が彼らの管理を拒めば、自分は、自分のこの手であの人を――。
「おいおい。現役のトップヒーローが、上司からの命令にそんな物騒な毒を吐いちゃいけねぇなぁ」
背後から、不意に声がした。
ホークスは反射的に全身の神経を緊張させ、背中の剛翼を閃かせながら振り返る。
「っ……筑紫、さん?」
そこに立っていたのは、数年前に公安を辞め、今は完全に裏社会の闇へと潜っているはずの男だった。無造作な黒髪に、何を考えているのか全く分からないガラス玉のような瞳。
筑紫は気怠げに片手を上げてみせる。
「おう。そういやぁ、六年前のあの日も、こんなふうにお前と不穏な命令の確認をしたっけなぁ」
「……どうして、ここに……?」
ホークスは激しく目を瞬かせた。
「どうして、この場所にいるんすか? まさか、今このタイミングで筑紫さんが現れるなんて、夢にも思ってなかったんですけど」
「見てたからな」
筑紫は舌を出して自分の目を指差す。ホークスの取り乱した様子をじっと眺め、口元だけでにやりと意地悪く笑った。
「お前、あいつと喧嘩したろ」
「――っ」
図星だった。ホークスは思わず肺の空気を失ったように息を詰まらせる。
「……なんで、それを」
「顔に書いてある。お前、焦るといつも羽の先が不自然に動くんだよなぁ。公安仕込みのポーカーフェイスが台無しだぜ」
「書いてないっすよ。……っつーか、羽なんか動かしてないです」
「いや、動いてるねぇ。やっぱお前、あいつのことになると途端にアホになるなぁ、啓悟」
筑紫はけらけらと、いつものように他人事のように笑った。
「……筑紫さん」
「んだよ」
ホークスは何か言い返そうとしたが、結局、きつく唇を閉じて視線を床へと落とした。
祈へ押し付けてしまったあの最悪の言葉が、未だに引っかかっている。
――大嫌いです。
あのときの彼女の、ヴェールの奥の顔。彼女は怒らなかった。自分を責め立てることもしなかった。ただ、すべてを諦めたように、少しだけ傷ついた顔で笑っていた。
「……俺、何やってんでしょうね」
ぽつりと、自分の無様さに呆れたような呟きが漏れた。
筑紫は、それを見てからかうように笑うのをやめた。
「さあな。けど、今はそんな青臭ぇ反省会してる場合じゃねぇだろ」
「……」
「まず、公安からの命令の件だ。あいつの居場所を見つけたからって、すぐにバカ正直に報告する必要はねぇ。そんなもん、『ヴィラン側の妨害が激しく、通信の混線により一時的にロストした』とでも言っておけば、いくらでも言い訳は立つ。それらしい状況を現地で作っておけば、奴らも突っ込めねえよ」
ホークスはハッと顔を上げた。
「……それ、もし公安に後から精査されてバレたら、俺の立場が」
「おいおい、俺はもう公安の人間じゃねぇぞ? お前の立場がどうなろうと、俺の知ったことかよ」
「……そうでしたね。相変わらず薄情な人だ」
「お前なぁ」
筑紫は呆れたように頭を掻いた。
「勘違いするなよ?命令違反をしろって唆してんじゃねえんだよ。情報の扱い方を、公安で教わった通りに『工夫』しろと言ってるんだ。あいつを安全に前線から連れ戻すための時間稼ぎって考えれば、お前のその優秀な頭でも理解できるだろ」
「……はい」
「あと、あいつのあの壊れた性格を考えてみろよ。ヴィラン連合のアジトに拉致られたからって、大人しくシクシク泣きながら助けを待ってると思うか?」
ホークスは、言葉を失って黙り込んだ。
祈が薄暗いヴィランのアジトの監禁部屋で、なす術もなく怯えて助けを待っている。……そんな光景は、どうあがいても脳内で再生できなかった。
「……待ってないでしょうね。絶対に」
「だろ?」
筑紫は肩をすくめる。
「お前が心配するより先に、あいつは自分の個性の発動条件を満たすような傷病者を見つけて、当たり前みたいに周りの奴らを助けようとするぞ。下手したら、あのアジトのなかでヴィラン共と仲良くお茶でも飲んで、仲良しこよしを始めてる可能性すらある」
「いや、いくら何でも、相手は最悪の犯罪者集団ですよ? それは……」
否定しようとして、ホークスは言葉に詰まった。
彼女なら、やりかねない。相手がヒーローだろうがヴィランだろうが、目の前で傷ついている人間がいれば、彼女は個性を使うだろう。まして、相手が自分の存在を少しでも気にかけてくれるような寂しい人間がいれば、彼女は受け入れてしまう。
「だが、それは公安にとっても、お前にとっても都合が悪いだろ」
筑紫の声が、少しだけ低くなった。
「……祈さんが、ヴィランを助けることが、ですか?」
「そうだ。あいつが誰を助けようが、誰と仲良くなろうが、本来はあいつ個人の自由だ。もともとヒーローですらねぇからな。だが、公安にとっては神代祈の個性は厳重に管理し、利用すべき兵器でしかない。あいつの自由な意思なんてものは、組織の利益に反するなら力ずくで制限すべきもの――それが、今までのあいつの人生だった」
ホークスは、小さく拳を握りしめて俯いた。筑紫の言う通りだった。自分が今やろうとしている「確保」も、結局は彼女を元の檻へ連れ戻す手伝いでしかないのではないか。
「それに、お前」
筑紫が再び、ホークスの顔を覗き込む。
「あいつをそのヴィランのアジトから助け出したあと、どうするつもりだ?」
「……連れて帰ります。元の、安全な場所へ」
「どこに? 具体的に言ってみろよ」
「……」
「また実験室か? それとも、お前のところか?」
ホークスは、答えられなかった。
連れて帰る。その言葉を、自分は何の疑いもなく、彼女のための正義だと信じて口にしていた。けれど、彼女自身は――あの人は、一体どこに帰りたいのだろう。
公安の静かな病室に戻りたいのか。自分のすぐ側にいたいのか。それとも、もう誰の目も届かない、どこか遠い別の場所へ行きたいのか――オールマイトのそばにいたいのか。
「……俺」
ホークスは、かすれた声を漏らした。
「……おねえさんのこと、何一つ、分かってないんすね。自分の恐怖ばっかり押し付けて」
筑紫はしばらく黙って彼を見ていたが、やがて、ふっと呆れたように笑った。
「今さら気づいたか、大天才ヒーロー様が」
「……筑紫さん」
「祈をヴィランから助けるってのはな、あいつをただ元の場所に『連れ戻す』ことじゃねぇぞ、啓悟」
その言葉に、ホークスは弾かれたように顔を上げた。
筑紫は、いつもの気怠げな調子を崩さないまま、けれど、そのガラス玉の瞳の奥にある絶対的な芯で、真っ直ぐに彼を見つめていた。
「助け出したあと、あいつ自身がこれからどうしたいのか。それを、今度はちゃんとお前が聞いてやれ」
「……」
「公安に戻りたくねぇなら、戻らなくていい方法を一緒に考えろ。お前のところに行きたいってあいつが言うなら、意地でもお前が公安から隠し通して囲えばいい。どっか誰も知らない別の国で静かに暮らしたいって言うなら、そのための手配をしてやれ。オールマイトのとこは…なんか腹立つな」
「……筑紫さん」
「少なくとも、あいつが自らの意志で、自らの人生を選べるようにしてやれ。それが、あの夜に首輪を外したお前たちの、本当の責任だろ」
ホークスは、痛みを堪えるようにきつく唇を噛んだ。
胸の奥が、締め付けられるように痛い。
彼女を助けたい。その気持ちに嘘はなかった。けれど、自分はその先のことまで、あの人の尊厳のことまで、本当に考えて動いていたのだろうか。
もし、公安の命令を拒んだら。もし、自分の差し伸べた手を「大嫌い」と言われたことを理由に拒絶したら。もし、あの人が自分ではない、別の誰かを選んだら――それでも、自分はあの人を真っ直ぐに助けられるだろうか。
「……俺、また間違えたんですかね。あの人に、酷い言葉を投げて」
筑紫は少しだけ目を細め、ホークスの硬直した肩を、大きな手のひらで軽く叩いた。
「さあな。けど、まだ間に合うだろ」
「……」
「今度は、自分の気持ちを当たり散らすんじゃなくて、ちゃんとあいつの言葉を聞いてやれよ。お前はもう、押し入れの隅で耳を塞いでるガキじゃねえんだからな」
ホークスは静かに目を伏せ、しばらくの沈黙のあと、小さく、けれど確かに頷いた。
「……はい」
筑紫は満足そうに口元を歪めた。
「よし。じゃあ、まずは休めよ。ひでー顔してんぞ」
「……筑紫さんも、協力してくれるんですか?」
何を今さら、と言わんばかりの呆れた顔が返ってきた。
「当たり前だろ。お前一人じゃ、また空回って自滅するのが目に見えてるからな。逆に敵に利用されそうだし」
そのぶっきらぼうな言葉に、ホークスは、ようやく少しだけ張り詰めていた表情を和らげて笑った。
――しかし、移動の車中、ホークスはふと運転席の筑紫の横顔を見て、一つの疑問を口にした。
「……で、筑紫さんは、なんでそんなに最初から落ち着いてるんですか」
「ん? 何がだよ」
「いや、何がじゃなくて。おねえさん、あの凶悪なヴィラン連合に誘拐されてるんですよ?しかもクローンまでいるし、普通もうちょっと緊迫感を持つというか、心配しません?」
筑紫は、心底きょとんとした顔をして、煙草の箱を弄んだ。
「いや、別に心配してねぇけど」
「……別に?」
「だって、あそこにはヒミコがいるだろ」
「…………は?」
ホークスの思考が、完全に停止した。
「……ヒミコ? 誰ですか、それ」
「おう。トガヒミコ。俺の可愛い弟子。んで、お前にとっては、一応裏の『妹弟子』ってことになるなぁ」
「……筑紫さんの? ……俺の、妹弟子?」
あまりにも当然のように淡々と言い放たれて、ホークスは筑紫の横顔を凝視したまま、しばらく言葉を失った。
「……待ってください。トガヒミコって、あの、今世間を騒がせてるヴィラン連合の、トガヒミコですよね?」
「他に誰がいるんだよ。お前、同姓同名の知り合いでもいんのか?」
「いや、いないですけど……! 何なんすかそれ、聞いてないですよ!」
筑紫は窓の外を眺めながら、気怠げに肩をすくめる。
「ヒミコが一緒にアジトにいるなら、祈もそうそう酷い目には遭わねぇだろ。あいつらのなかじゃ、ヒミコは比較的まともな方だしな」
「……どういう理屈ですか、それ。ヴィランですよ?」
「ヒミコは、祈みてーな『自分を無条件で全肯定してくれる奴』、大好物だからな。今頃、お前よりよっぽど懐いて、おねえさんおねえさんって引っ付いてるんじゃねぇの。何の問題もねぇよ」
「…………」
ホークスは、こめかみのあたりを強く指先で押さえた。
おねえさんが、あのトガヒミコにアジトで熱烈に懐かれている。……その光景自体は、祈の持つあの異常な包容力を考えれば、何となく容易に想像できてしまうのが余計に頭が痛かった。
しかし、問題の本質はそこではない。
「……筑紫さん」
「ん?」
「俺、今、公安の命令で、ヴィラン連合に潜入任務を二重スパイとしてやってる最中なんですけど」
「ん、知ってる知ってる。大変だなぁ、人気ヒーローは」
「その組織の中に、俺の全く知らない『身内の師弟関係』がすでに構築されてるの、情報網としておかしくないですか? 俺の潜入の立場は一体どうなるんですか」
「はっはぁ、お前、世界最速の男のわりには裏の情報収集が足りねぇなぁ、啓悟」
「いや、公安の極秘資料にも、トガヒミコの背後に筑紫さんがいるなんてデータ、載ってなかったですし……!」
「あるわけねーだろ。俺、今公式には行方不明の元職員扱いだし。わざわざ現役のお前に『女の子を一人拾って、俺の思想を仕込んでヴィランの連中に紛れ込ませといたぜ』なんて連絡するわけねぇだろ」
「女子高生ですよ…?」
「そこは目ぇつむっとけ」
筑紫は楽しそうに、けらけらと笑った。
「ヴィランとして潜入しちゃいるが、ただの素人を傷つけたりはしねーよ。そういう風に躾けといたしな」
「女子高生…躾…ってあんた」
「まあ、安心しろ。祈の身の回りの世話と、あいつらの暴走のブレーキはヒミコが適当にやってくれるだろ。お前はあいつの心配ばっかりしてねえで、自分の二重スパイの仕事をきっちりこなせ」
そう平然と言われて、ホークスは窓に頭をぶつけたい衝動を堪えながら、深々と、今日一番の大きなため息をついた。
おねえさんの安否をあれほど必死に心配して、命を懸ける覚悟まで決めて動き出したというのに、どうしてこの人と合流した途端、自分の知らない斜め上の事実ばかりが増えていくのだろう―――
「……今度会ったら、そのヒミコって子も含めて、全部ちゃんとおねえさんに説明してもらいますからね」
「好きにしろ。あいつ、怒らねぇから面白みはねぇけどな」
ホークスは、あっけらかんと言い放つ師匠の姿に、少しだけ泣きたくなったのだった。