夕方の商店街は、夕飯の買い物をする人々で賑わっていた。
夕焼けの茜色がアーケードの隙間から斜めに差し込み、惣菜屋の店先から漂う香ばしい匂いが、せわしなく行き交う人々の放つ喧騒のなかに溶けていく。
祈は買い物かごを片手に持ちながら、隣を歩く少年の姿をちらりと見下ろした。
啓悟の両手には、野菜や調味料の入った重い買い物袋がしっかりと握られている。本人は何でもないことのように平気な顔を装っていたけれど、そのまだ小さな身体と細い腕には、少々大きすぎる荷物であることは明白だった。
「啓悟くん、重くありませんか? 半分、私に貸してくださいね」
「全然! これくらい、余裕ばい」
啓悟は、差し伸べられた祈の手からわざとらしく袋を遠ざけるようにして、少し得意げに胸を張ってみせた。公安の訓練生として毎日過酷なメニューをこなしているのだという、彼なりのささやかなプライドだった。
「そうですか。ありがとうございます。本当に助かります」
祈が穏やかに微笑み、空いた方の手で彼の金色の髪をそっと撫でる。すると、啓悟は一瞬だけ丸い目をさらに大きく見開いた。
「……子ども扱いしとらん?」
「ふふ。お手伝いをしてくださったのですから、当然のことをして褒めているんですよ」
「そっか」
ぶっきらぼうにそう言いながらも、啓悟の口元は隠しきれずに緩んでいた。
他人に子ども扱いされるのは、本来なら嫌いだった。早く一人前のヒーローになれと公安の大人たちに急かされているからこそ、自分が未熟だと指摘されることには人一倍敏感だったのだ。けれど、祈にそうやって頭を撫でて褒めてもらえる時間だけは、不思議と素直に嬉しかった。
「では、今日のご飯は少しだけ特別にしましょうか」
「特別?」
「はい。今日は啓悟くんの好きな唐揚げですから、お手伝いのご褒美に、お皿の分をひとつ多めにしましょうね」
「えっ、ほんと!?」
ぱっと、少年の顔が分かりやすく輝いた。
「もちろんです。たくさんお手伝いをしてくれましたからね」
「じゃあ、俺、もっと荷物持てるばい! そっちの軽い方も貸して!」
「まあ。ふふ、無理はなさらないでくださいね」
祈がもう一度、よしよしと慈しむように彼の頭を撫でる。
啓悟は今度こそ本当に照れくさそうにぷいと顔を逸らしたが、両手の買い物袋を握りしめる指先は、さっきよりもずっと誇らしげで、力強かった。
「……おねえさん」
「はい?」
「俺、唐揚げすっごく好きばい」
「ええ、知っていますよ」
「でも、おねえさんの作るやつが世界で一番好き」
「それはとても嬉しいですね。作り甲斐があります」
何気ない会話だった。
夕飯の献立と、買い物袋のずっしりとした重さと、頭を撫度でてくれる彼女の手のひらの温もり。
公安で息を潜めていた啓悟にとっては、そんな他愛のない何でもない時間こそが、磨り減っていく心を繋ぎ止めるための、大切な宝物そのものだった。
買い物を終え、オレンジ色に染まる帰り道を二人は並んで歩く。
啓悟は祈の歩調に合わせてゆっくりと歩きながら、ふと思いついたように顔を上げた。
「ねえ、おねえさん」
「はい?」
「おねえさんの、好きなものって何?」
「好きなもの、ですか?」
祈は少し考えるように、長い睫毛を伏せて視線を斜め上へと向けた。
「うーん、そうですねぇ」
啓悟は、彼女の衣服の裾を視線で捉えながら、じっとその返事を待っていた。
「私は、啓悟くんが好きですよ」
「……え?」
あまりにも直球で思いがけない答えに、啓悟の足が文字通りピタリと止まった。
「えっと、それって……」
「ふふ。啓悟くんと一緒にこうして過ごす時間は、とても好きです」
祈はいつもと変わらない、穏やかな笑顔で淡々と答える。
「じゃあ、そういうのじゃなくて、食べ物とかは?」
「食べ物ですか? そうですねぇ……甘いものも好きですし、温かいお茶も好きですよ」
「なんや……俺かと思った」
少しだけ残念そうに、啓悟が声を落として唇を尖らせた。
祈はそんな少年の様子を見下ろして、くすりと声を立てて笑った。
「啓悟くんも、甘いものも、どちらも同じくらい好きですよ」
「……そっか」
二人の間で買い物袋が小さく揺れる。
「俺も、おねえさんが好きばい」
「ありがとうございます」
「一番好き」
「まあ。では、今日のお皿の唐揚げを、もうひとつ増やさなければいけませんね」
「やった!」
嬉しそうに声を弾ませて笑う啓悟。
好きなものを尋ねられて、何のためらいもなく自分の名前を最初に口にしてもらえる。そんな当たり前のような日常の肯定が、啓悟にはまだ少しだけ、くすぐったくて、ひどく誇らしかった。
その日の夜、教会の食卓には、揚げたての大きな唐揚げが山盛りになって並んでいた。
醤油と生姜の香ばしい匂いが、湯気とともに部屋いっぱいに広がっていく。
「いただきます!」
啓悟は元気よく手を合わせると、さっそく自分の皿へと箸を伸ばした。
その様子を向かい側の席からじっと見ていた筑紫が、ふと眉根を寄せて箸を止めた。
「……おい。啓悟のだけ、あからさまに多くねぇか?」
大皿から取り分けられたそれぞれの皿。確かに、啓悟の前に置かれた皿にだけは、他の二人のものよりも二つ、多く唐揚げが盛られていた。
祈はお茶を静かに啜りながら、いつも通りの声で答えた。
「今日はお買い物の手伝いをとても頑張ってくれたので、そのご褒美です」
「お手伝い?」
「はい。一緒にお買い物に行ってくださったんですよ。重い荷物も文句一つ言わずに持ってくださって、本当に助かりました」
「へえ。啓悟がねぇ」
筑紫が面白そうに、口の周りを油で汚している啓悟を細い目で見つめる。
「なんや、筑紫さん。文句でもあると?」
「いやいや。偉いじゃねぇかと思ってさ」
「やろ!」
啓悟は、咀嚼していたものを飲み込むと、得意げに胸を張った。
「おねえさんが、ちゃんと褒めてくれたけんね!」
「そうかそうか。そりゃよかったな。ご褒美が増えて万々歳じゃねぇか」
筑紫は笑いながら、自分の分の唐揚げに箸を伸ばす。その横で、啓悟はさらに嬉しそうにもう一つを口へと放り込んだ。
「本当においしい!」
「よかったです。たくさん食べ分、明日からの訓練も頑張ってくださいね」
「うん!」
祈が微笑む。筑紫はそんな二人の温和なやり取りを眺めて、少しばかり呆れたように息を吐き出した。
「……相変わらず甘やかされてんなぁ、お前は」
「いいやろ! 筑紫さんには関係なか!」
「はいはい」
祈は、二人のいつも通りの言い合いを聞きながら、もう一度お茶を口に運んだ。
啓悟の皿には、まだいくつかの唐揚げが残っている。それを、彼は一番大きくて美味しそうなものを大事そうに最後まで取っておくようにして、ゆっくりと味わいながら食べていた。今日のご褒美が、ずいぶんと気に入ったらしい。
外の世界では、どれだけ張り詰め、戦うことだけを求められる少年であっても。
この教会の食卓の上だけは、彼はただの一人の、大好きな人の前で美味しいご飯を食べて笑うだけの、普通の子供でいることが許されていた。