公安の施設には、独特の匂いがある。
無機質な白に染まった廊下を歩くたび、鼻腔をかすめるのは消毒液と薬品の冷たい香り。そして、どこか感覚を麻痺させるような、澱んだ鉄臭い匂いだった。
レディ・ナガンはその日も、壁を這う無機質な配管を視線でなぞりながら歩を進めていた。
引き受けたばかりの、手を血に染めるような暗殺任務の報告を終え、次の非情な指示を待つ。その重苦しい道中、普段は立ち入ることのない最深部――実験棟の一角で、彼女は不意に奇妙な光景を目にして足を止めた。
視界を遮る、分厚い透明なアクリル製の隔壁。
その向こう側にある白い部屋のなかに、一人の女がいた。
月光を溶かし込んだような白銀の髪に、底の知れない深い青色の瞳。緑色の患者衣の女は、無機質なベッドの上にぽつんと腰掛けている。外見からは年齢を判別することができなかった。ただ、女の細い腕には何本もの点滴の管が繋がれ、華奢な身体のあちこちには、脈動を監視するための無骨な医療器具が取り付けられていた。
「……何、あれ」
思わず漏れたナガンの呟きに、隣を通りかかった担当職員が、眉一つ動かさずに淡々と答えた。
「神代祈です。公安委員会の厳重な管理下にある、特殊個性保持者ですよ」
「特殊個性?」
「ええ。極めて有用な蘇生個性です。現在は、その限界値と応用システムを確立するため、様々な等価交換の実験を行っています」
有用、実験。
その冷徹な響きに、ナガンは眉間に不快そうな皺を寄せた。目の前の人間を、自らの都合の良い歯車や「道具」としてしか見ていない連中が、好んで使う忌々しい言葉だ。
「本人は納得しているの? あんな扱い」
「国家にとって必要な協力ですから、彼女も理解していますよ」
職員はそれ以上答えることを拒むように、歩き去っていった。
ナガンが隔壁の向こうに視線を戻すと、驚いたことに、部屋のなかの少女はこちらをじっと見つめていた。
そしてナガンと目が合った瞬間に微笑んだ。
まるで、親しい客人を迎えるかのように。
◇
それから何度か、ナガンは任務の合間にその銀髪の少女を見かけるようになった。
実験のインターバルなのか、白く長い廊下のベンチにぽつんと座っていることもあった。
ある日、いつも周囲を固めている目つきの鋭い護衛たちが珍しく離れ、一人きりでベンチに佇んでいた少女の前に、ナガンは吸い寄せられるようにして歩み寄り、声をかけた。
「ねえ、あんた」
「はい?」
顔を上げた少女は、ナガンの返り血の匂いが染み付いたコスチュームに怯える風もなく、ただ穏やかに瞬きをした。
「神代祈、だったわよね」
「はい。神代祈と申します」
立ち上がり丁寧に頭を下げる。その血の通わない美しさと丁寧な仕草が、この暗部特有の泥臭い空間のなかでは、妙に場違いで歪に映った。
「聞いたわよ。随分と強力な個性を持っているんだって?」
「どうでしょう。他の方を無理やりにでも生かすための力ですので、私自身は、あまり立派なものだとは思っていないのですが」
「……なんでそんなに強い個性を持ちながら、ここから逃げ出そうとしないのよ。あんたほどの力があれば、出し抜くことくらいできるでしょうに」
祈は、少しだけ考えるように長い睫毛を伏せ、自らの白い手元を見つめた。
「私は、ここで必要なことをやらなければならないので」
「必要なこと?」
「はい」
「ここで都合よく大人たちのおもちゃになって、実証実験を受けることがあんたの必要なことだって言うの?」
「それも、含まれます」
ナガンは、激しい苛立ちとともに眉間に深い皺を寄せた。
「馬鹿じゃないの。あんた、自分がどういう扱いを受けてるか本当に分かってる? ただの使い捨ての蘇生キットよ」
「もちろんです。十分に理解しておりますよ」
「だったら――」
「あなたは、どうしてここにいるのですか?」
静かに言葉を遮られ、ナガンは一瞬、次の台詞を失って黙り込んだ。
「……私は、仕事よ。果たすべき責任があるから、ここにいるの」
「そうですか」
祈は、それ以上彼女の仕事を追及しなかった。その無遠慮ではない沈黙が、かえってナガンの張り詰めた心の琴線に触れて、癪に障った。
「公安のやり方に、疑問や怒りはないの?」
「ありますよ」
あまりにもあっさりとした返答だった。
「……は? あるの?」
「疑問もありますし、納得できない理不尽なこともたくさんあります」
「だったら、どうしてそんなに平気な顔をして従うのよ」
祈は困ったように、けれどどこか慈しむように小さく笑った。
「……そうですね。私は……あなたが少し、頑張りすぎているのではないかと思うのです」
「質問に答えてないわよ、あんた」
「なので、あなたはもう少し、お休みになってもいいと思いますよ」
ナガンは完全に言葉を失った。
何を言っているのだろう、この少女は。
自分の置かれた凄惨な状況も分かっている。公安のやり方の異常性にも疑問を持っている。それなのに、自分の傷や実験のことはすべて棚に上げて、暗殺者である他人の心配を平然と口にしている。
「……あんた、本当に変な子ね」
「ふふ。よく言われます」
祈は、楽しそうに小さく笑うのだった。
◇
「ねえ、私についてこない?」
数週間後、再び彼女と二人きりになった際、その言葉がナガンの口から飛び出したのは、ほとんど自制のきかない衝動だった。
「すべてを捨てて、私と一緒にここから逃げよう。私が連れ出してあげる」
祈は一瞬だけ丸い目を驚いたように見開いたが、すぐに柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます。そのお気持ちだけで、十分に救われますよ」
「……何よ、その他人事みたいな返事は。行くの、行かないの」
「はい、私はここに残ります」
「…どうしてよ」
「私には、ここに残ってでも、守りたいものがありますから」
その歪なほど真っ直ぐな答えに、ナガンは鋭い目をさらに細めた。
守りたいもの。こんな無機質な場所に閉じ込められている、自由を持たない女に、そんなものが存在するのか。
「ここに残って守れるものなんて、どこにあるっていうのよ」
「ありますよ」
祈は、静かに答えた。その青い瞳の奥に、かつてない強固な意思が宿る。
「私の帰りを、ずっと待ってくれている大切な人がいるのです」
それ以上は、誰の名前も語らなかった。けれど、そのときの女の横顔を、ナガンは生涯忘れることができなかった。
「……本当に、救えない馬鹿ね」
「ふふ。そうかもしれませんね」
「だったら、あんたの大切なその人も一緒に巻き込んで、全員で逃げればいいじゃない」
「それは、できません。その子の未来まで、私の都合で壊すわけにはいきませんから」
祈は首を横に振った。そして、一歩近づく。
「ナガンさん」
「何よ」
「私は、あなたこそここを出た方がいいと思います。この場所はあなたが心を壊してまで、い続けるべき場所ではありません」
「……私が? 冗談言わないで。組織を抜けるって言ったら、私はその瞬間に処理されて殺されるわよ」
「そうですね。きっと、公安の大人たちはそうするでしょうね」
あまりにも穏やかで事実を事実として受け入れる返答に、ナガンは苛立ちを隠せなかった。
「じゃあ、どうしろっていうのよ。死ねって言いたいの?」
祈は少しだけ視線を走らせ、周囲に誰もいないことを確認した。それから、緑色の患者衣の袖口のなかにそっと手を入れ、一つの小さな物体を取り出した。
赤い、何の変哲もない小さな医療用カプセルだった。
「それでは、これを持っていってください」
「何、これ。薬?」
「いいえ。私の個性の本質を、無理やり凝縮して閉じ込めたものです」
「……は?」
「まだ開発途中ですが、一回きりの使い捨てです。服用して頂ければ、もしもの最悪のとき、あなたを助けてくれると思います」
「どう助けるのよ、こんな小さなものが」
祈は少し考えてから、答えた。
「あなたが死んでも、一度だけ、生き返らせてくれるでしょう」
ナガンは、手のひらに乗せられた小さなカプセルをしばらく見つめていた。女の目は、冗談を言っているようには到底見えなかった。
「……あんたね。自分の個性を削って作った代物を、他人に簡単に渡していいと思ってるの?」
「簡単ではありませんよ。相応の負担はありましたから」
祈は小さく笑った。
「でも。あなたには、自由な空の下で生きていてほしいので」
ナガンは、カプセルをきつく握りしめた。あまりにも小さく、軽い。こんなプラスチックの欠片一つのなかに、自分の命を預けろというのか。
「これを使ったら、あんたに何か不利益なペナルティがあるの?」
「いいえ。私自身に大きな影響はありませんから、心配しないでください」
それが本当なのか、ナガンには分からなかった。ただ、女の青い瞳は、嘘をついているようには見えなかった。
「……神代祈」
「はい」
「絶対に、私の目の届かないところで勝手に死ぬんじゃないわよ」
祈は少し驚いたあと、どこまでも柔らかく微笑んだ。
「善処します」
「そういう曖昧な返事が、一番信用できないのよ」
それから、数日後のこと。
ナガンは、公安委員会の前会長と、薄暗い執務室で真っ正面から対峙していた。
目の前にいる男は、彼女がこれまで組織のために重ねてきたすべての暗部を知っている。誰を殺し、何を隠蔽し、どれほどの無辜の犠牲を払って偽りの平和を維持してきたのか。すべてを知ったうえで、男はなおも平然とした顔で、彼女に次の殺人の命令を下そうとしていた。
『君はもう、この歯車から辞められる立場ではないのだよ』
その言葉を耳にした瞬間、ナガンのなかで、張り詰めていた何かが決定的に切れた。
凄まじい銃声が室内に響き渡った。
直後、彼女の身体に強烈な衝撃が走る。反撃の弾丸。視界が、自らの身体から溢れ出た鮮血によって瞬く間に真っ赤に染まっていく。
冷たい床に倒れ込み、急速に薄れゆく意識のなかで、彼女は震える指先を自身の胸元へと伸ばした。
あの、小さな赤いカプセル。
祈が、自らの命を削って渡してくれた、最後の命の預け先。
(……あんた、本当にとんでもないものを渡してくれたわね)
ナガンは、口内に広がる鉄の味とともに、それを奥歯で噛み砕き、ごくりと飲み込んだ。
意識が遠のき、世界が完全に暗転していく。
最後に脳裏に思い浮かんだのは、白い実験室のなかで優しく微笑んでいた、白銀の髪の少女の顔だった。
どれほどの時間が経過したのかは分からなかった。
ナガンは、ひどく冷たいコンクリートの床の上で、突如として目を覚ました。
肺が爆発的に空気を求めて大きく上下に動く。
「っ、げほ……、はっ……、ァ……!」
激しく咳き込みながら、どうにか身体を起こす。
前会長の護衛から確実に致命傷の銃弾を受けたはずの胸元や腹部には、驚くべきことに、傷跡一つ残っていなかった。衣服には生々しい大量の血痕がこびり付き、床にも、広大な乾きかけた血の海が広がっている。それなのに、自分は今、確かに息をしている。
「……本当に、生き返ったのね、私」
胸元にそっと手を当てる。手のひらを通じて、心臓が間違いなくトクトクと力強い拍動を刻んでいるのが分かった。
神代祈の遺した言葉は本物だった。
ナガンはしばらくの間、血の海のなかで呆然と座り込んでいた。やがて、ゆっくりと、しかし確かな足取りで立ち上がる。
もう、この場所に自分の居場所はない。公安委員会は、前会長を殺害した自分を、公式には「死んだもの」として速やかに処理するだろう。それでよかった。むしろ、好都合だった。
◇
「……お前、死んだんじゃなかったのかよ」
公安の追手を撒き、久しぶりに訪れた裏社会の隠れ家のなかで。
筑紫は、咥えていた煙草を灰皿に落としかけたまま、完全に表情を固まらせていた。
「公式には、そういうことになってるわね」
「何しに来た、死に損ないが」
「助けてほしいのよ」
「……相変わらず面倒くせぇ女だな、お前は」
筑紫はため息をつき、煙草を灰皿の底へときつく押し付けた。ナガンは煤けた壁に背中をもたれ、疲弊しきった身体から息を吐き出す。
「会長と相討ちになったの。私の死体が消えたことに気がつかれたら、もう表の世界に戻る場所なんてどこにもない」
「そりゃそうだろうな。トップヒーローが前会長を撃ち殺したんだ、国家の敵だよ」
「だから、私を匿ってくれない?」
筑紫はしばらく沈黙し、ガラス玉のような瞳でじっとナガンを見つめていた。
それから、地を這うような低い声で尋ねた。
「神代祈はどうした」
その名前を耳にした瞬間、ナガンの端正な顔が、明確な苦悶と悔恨に歪んだ。
「……あの子は、まだあそこにいるわ」
「そうか」
「私にあのカプセルを渡して、逃がしてくれたの。自分は残るって言ってね。自分の個性を使って作った、私の命を繋ぐためのものを、ただ私のためだけに遺してくれたのよ」
「……そうかよ。あいつらしいな」
ナガンは窓の外、遠い公安の建物の方向を見つめ、静かに、けれど強く言葉を紡いだ。
「ねえ、筑紫」
「何だ」
「あの子を、あそこから出してあげて」
「……」
「私の命を救ってくれた、たった一人の優しい子なの。今度は私が、あの子を助け出したい」
筑紫は、ポケットから新しい煙草を取り出しかけて――そのまま手を止めて、それを中に戻した。
「……言われなくても」
短い返事だった。
「ただし、今すぐ力ずくで動くのは無理だ。公安の全戦力を相手にすることになる。動くなら、それ相応の完璧な準備と、裏のルートが必要になる」
「ええ。分かっているわ」
「それまで大人しくしてろ。死んだ人間が、表で余計な騒ぎを起こすなよ」
「ふふ。分かったわ。潜伏はお手の物よ」
ナガンは窓の外、夜の帳が降りる街を見つめた。
彼女は今も、変わらない微笑みを浮かべているのだろうか。自分がナガンに渡したものの価値を、どれほど理解しているのだろうか。
かつて自分がもらった「小さな命」の重みを、今度は自らの銃身に込めるようにして、彼女は誓う。
「神代祈……」
小さく名前を呼ぶ。
「今度は、私があなたを迎えに行くから」
その約束だけは決して忘れないように。彼女は静かに、夜の底へと身を隠すのだった。