最初の報告は、ひどく簡潔なものだった。
『神代祈が、福岡で襲撃を受けました』
夜の雄英高校、教員宿舎の一室。八木俊典は、通信端末の向こうから聞こえる公安職員の声を聞きながら、太い眉を深く寄せた。
「……襲撃?」
『はい。博多駅構内の土産物店にて、何者かに不意を突かれ、現在、行方が分からなくなっています』
その瞬間、俊典の思考が完全に停止した。
彼女とは、昨晩電話で話をしている。今日中には帰ると言っていたはずだ。
「待ってくれ。行方が分からないというのは、一体どういうことだ。具体的に説明してくれないか」
『……ヴィラン連合に誘拐された可能性が極めて高い、と』
「可能性?」
俊典は、椅子から静かに立ち上がった。
「監視カメラは?現場の映像は確認できているのか」
『はい』
「護衛の職員はどうした。張り付いていたはずだろう」
『配置されていましたが、襲撃者の移動速度が想定を超えており、接近を阻止できず――』
「彼女は、無事なのか」
声は、低く、鋭さを持っていた。電話の向こうが冷たい沈黙に陥る。
俊典は一度、深く目を閉じた。
(……落ち着け。落ち着くんだ、私)
まだ、確実なことは何も分かっていない。生きているかもしれない。大きな怪我はしていないかもしれない。敵に身柄を捕まっただけで、まだ危害は加えられていないかもしれない。そう自分に言い聞かせ、最悪の想像を振り払おうとした。
だが、通信相手の職員が、追い打ちをかけるように次の事実を口にした。
『襲撃者は、神代祈と全く同じ容姿をした少女だったと現地から報告されています』
俊典の呼吸が、完全に止まった。
「……同じ?」
『はい。白銀の髪、青い瞳。十五歳程度に見える、彼女の形をした少女です』
「……クローンか」
その言葉が、ひどく重く、冷たい響きを持って部屋に響いた。
俊典の脳裏には、祈の過酷な過去の記憶が蘇っていた。非人道的な実験。彼女が自らの肉体について他人のことのように語ってきた、凄惨な日々について。
「……まさか。まだ、あんなものが残っていたというのか……」
『八木さん?』
「……いや。何でもない」
俊典は、深く重い息を吐き出した。
「すぐに向かう。博多の現地ではなく、東京の本部に映像があるな」
『お待ちください。現在、公安が一元的に対応を――』
「待てない」
職員の制止を待たず、一方的に通話を切った。
公安委員会の特定管理本部に到着した俊典を迎えたのは、肌を刺すようなひどく重い空気だった。
「八木さん」
案内役の職員が小さく頭を下げる。
「こちらです」
案内された暗暗とした部屋には、複数の幹部や職員たちが、険しい顔でモニターを囲んでいた。中央の巨大な液晶モニターに映し出されていたのは、駅構内にある土産物店の映像だった。
見慣れた、汚れのない白いヴェール。黒い修道服。
その華奢な姿が画面に映し出された瞬間、俊典の表情が、ほんの少しだけ柔らかく緩んだ。
(――祈くんだ)
画面の中の彼女は、穏やかな顔で、棚に並んだお菓子の箱をひとつひとつ眺めていた。
俊典は、それを見つめながら思わず小さく笑いそうになった。
「……まったく」
彼女は、一体誰にお土産を買うつもりだったのだろう。雄英の先生方だろうか。クラスの生徒たちだろうか。あるいは、また誰かに渡すために、余分に買っていたのかもしれない。
どこまでも自分のことは後回しで、他人の喜ぶ顔ばかりを優先する。あまりにも、彼女らしい、愛おしい行動だった。
だからこそ。
次に切り替わった監視カメラの映像を見た瞬間、俊典の表情から、一切の生気が完全に消え失せた。
『――ねえ』
スピーカーから流れる平坦な声に、画面の中の祈がゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは。
祈と、全く同じ顔をした、黒いワンピースの少女だった。
「……っ」
俊典の大きな手のひらが、ミシミシと音を立てて木製の机の端を掴んだ。
画面の中で、少女が動く。祈がわずかな動きで避ける。商品棚が激しく揺れ、周囲の一般客たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。ショーウインドウのガラスが割れる。
配置されていたはずの護衛も、その圧倒的な速度に接近すら阻まれているのが分かる。
そして、祈が周囲へ向けて鋭く叫んだ。
『皆さん、離れてください!』
俊典は、何も言わなかった。ただ、奥歯を強く噛み締める。
画面の中の祈は、戦いの最中であっても、常に周囲の一般市民へ意識を割いていた。逃げ遅れた店員、立ち尽くした子供、恐怖に怯える人々。彼女は、目の前の相手を倒すことよりも、そちらを無条件で優先していた。
「……祈」
低く、掠れた声で名前を呼ぶ。
クローンの猛烈な攻撃が続く。祈がそれを受け流す。けれど、その動きは明らかにいつもより鈍く、精彩を欠いていた。
「……」
俊典は、その理由を知っていた。
昨夜、深夜に彼女からかかってきた電話。彼女の声はいつも通り穏やかだったが、どこか落ち込んでいた。何があったのかは教えてくれなかった。
けれど、そんな状態であっても、彼女は目の前の無関係な誰かを守ろうとして、自らの動きを制限している。
「……やめろ」
無機質な映像に向けて、思わず呟きが漏れた。
当然、画面の中のクローン少女は止まらない。祈が壁際へと追い詰められる。少女の鋭い膝蹴りが、祈の腹部へと正確に突き刺さった。祈の身体が、くの字に折れる。
「……っ!」
俊典の巨躯が、わずかに強張る。
その瞬間、画面の中で、顎を打ち上げられかけた祈が、静かに顔を上げた。
『……あなた、強いですね』
『冗談でしょ? あなたが弱いだけ』
喧騒の中、二人の声は鮮明に届いた。
俊典は、強固な拳をきつく握りしめた。その指の骨が軋む。
違う。
違うんだ、それは絶対に違う。
祈は、弱いのではない。彼女は、相手を傷つけるという選択肢を、最初から持とうとしないだけだ。誰かを巻き込まないために。誰かの命を守るために。自分が傷つくことを、いつだって平気な顔をして選んでしまう。その本質が、彼女の動きを縛っているのだ。
画面の中で、後頭部に衝撃を受けた祈の身体が、床へと完全に崩れ落ちた。
「……祈!」
俊典の声が、特定管理室のなかに重く響き渡った。
少女が気絶した彼女の身体をひょいと抱え上げる。護衛の職員たちがようやく武器を手に駆けつけるが、少女は振り返りもせず、ただ一言、冷淡に言い放った。
『来ないで』
その一言で、護衛たちの足が完全に止まった。そして、祈の身柄はカメラの死角へと連れ去られ、映像がそこで途切れた。
あとに残されたのは、ザーという砂嵐のような無機質なノイズと、室内の重苦しい静寂だけだった。俊典は、モニターを見つめたまま、微動だにせず立ち尽くしていた。
「……どうしてだ」
誰に向けた言葉なのか、もう分からなかった。俊典の喉の奥から、地を這うような低い声が零れる。
幹部の一人が、重苦しく口を開いた。
「八木さん。エンデヴァーの件でも人が足りておりません。今回の襲撃については、現在、公安のネットワークを動員して、詳細な調査を進めていますが――」
「どうして、彼女をその場で守れなかったんだ」
俊典が、静かに振り返った。その鋭い視線に、幹部は思わず息を呑んだ。
「護衛がいたんだろう」
「はい。ですが――」
「監視も、厳重にしていたはずだ」
「……はい」
「それなのに、彼女は連れ去られた。君たちは彼女を知っているはずだ。彼女がどれほど危険な個性を持っているかも、どれほど狙われる可能性があるかも」
「襲撃者の能力が想定を超えており――」
「彼女だって、想定を超える存在だったはずだ」
俊典の声は低かったが、室内の職員の誰よりも重く響いた。
「彼女は、誰かに喜んでもらおうと思って、あんな場所に立っていたんだ。もし車内にいる最中に襲撃にあっていたら、もっと被害は大きかったはずだ」
その剥き出しの言葉に、室内の職員は誰も返答することができなかった。
俊典は、片手で自らの顔を強く覆った。
……違う。今、ここで公安の職員らを責め立てている場合ではない。一刻も早く、彼女を見つけ出さなければならないのだ。
生きているのか。怪我はしていないか。今、あの薄暗いどこかで、彼女は。
あのクローンの少女は、祈と全く同じ顔をしていた。全く同じ身体の構造を持っていた。ならば、あいつらは、どれほど彼女の個性を理解しているのだろう。どれほど彼女を傷つける方法を知っているのだろう。俊典は、ゆっくりと顔を上げた。
「……すまない、捜索状況を教えてくれ」
*
「現在、犯人の足取りの追跡を進めています」
公安幹部の説明は、事務的で淡々としたものだった。
「駅構内のすべての映像、周辺の交通情報、および中央の監視網を総動員して捜索を強化しています。ですが、襲撃者は非常に高い戦闘能力を持っており、現場の護衛職員も一時的に行動を制限されたため、足取りが途絶えており――」
「つまり、何も分かっていないんだな」
俊典が、言葉を遮った。
「彼女の生存は?」
「確認できていません」
その事実を聞いた瞬間、俊典の顔が、痛みを堪えるように歪んだ。
「……確認できていない?」
「はい」
「それは、死亡した可能性もあるということか」
「現時点では、あらゆる可能性を考慮して動いています」
俊典は、深く、長く息を吸い込んだ。
「……君たちは」
声が低くなる。
「神代祈という人間が、どれほど大切な存在か、分かっているのか」
幹部が、眉を寄せた。
「八木さん。神代祈は、公安委員会の重要な管理対象です。彼女の持つ個性は国家にとって極めて重要なものであり、今回の事件についても、我々が責任を持って――」
「違う」
俊典が、静かに言った。
「君たちは、彼女をただ『管理』しているだけだ」
その一言に、幹部の表情が変わった。
「……何ですって?」
「彼女の個性が重要なのは分かっている。君たちが何を恐れているかも、理解しているつもりだ。だがな、彼女は物ではない。彼女は、一人の人間だ。彼女の首輪を外した時のことを、忘れたわけではないだろう?」
その声には、怒りと悲しみが混ざり合っていた。
「彼女がどれほど苦しみ、自分を犠牲にしてきたか。君たちだって知っているだろう」
幹部は、答えなかった。
「私は、彼女を助けに行きたい。ヒーローとしてではない。彼女を保護する立場でもない。ただ、彼女を大切に思う人間として。君たちが彼女を守れなかったのなら、私に協力させてくれ」
「……申し訳ありませんが、それは認められません」
俊典は一瞬、言葉を失った。
「……何だって?」
「オールマイト、あなたは既に引退しています。ですので、今回の件は公安が管理します。私たちが協力を要請しない限り、独自の捜索や、現場への介入は控えていただきたい。捜査の妨げとなる可能性があります」
「彼女が敵に捕らえられているかもしれないと分かっていて、私に待てと言うのか」
「八木さん。感情的にならず、冷静な判断を――」
「感情的?」
俊典が、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、もう元ヒーローとしての笑みはどこにも残っていなかった。
「……そうか。君たちは、私が感情的になっていると思うのか」
部屋の誰も、答えを返すことができなかった。
彼女が拘束されている期間、この男がひたすら「神代祈に会わせろ」と公安に要求していたことを思い出した面々は、表情筋を引きつらせた。
俊典は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。全盛期ほどではないにしろ、その逞しい背中が、室内の光を遮るように大きく広がる。
「……分かった」
それだけだった。怒鳴ることも、机を叩いて抗議することも、彼はもうしなかった。ただ、深く頭を下げる。
「捜索を続けてくれ」
そして、顔を上げた。
「彼女を見つけるまで、私は諦めない」
公安本部を出ると、俊典は祈の自宅に向かった。もちろん誰もいない。
先日、彼女を見送った時と、何一つ変わらない静かな佇まい。明かりのついていない無人の部屋を、彼は道路の脇の暗闇から、ひっそりとただ見つめていた。窓ガラスに反射する月光だけが、冷たく冷え切っている。
「……祈くん」
返事は、当然のように返ってこない。
「……君は、いつも誰かのために……」
言葉が、喉の奥にきつく詰まった。
昨夜の電話で、彼女は何にそこまで傷ついていたのだろう。自分には頼れないことだったのだろうか。いつも穏やかに微笑み、他人のためにばかり自分を投げ出して、そうして一人で、あんなに寂しそうな声を残して消えてしまった。
しばらくの間、彼はただ外から静まり返った家を見つめ続けていた。
やがて、絞り出すような掠れた声が零れ落ちた。
「……お願いだから、帰ってきてくれ」
彼女が帰ってきたら。
彼女が自分を犠牲にすることを、当然のように受け入れたりしない。彼女が苦しんでいることに、気づかないふりなんて、二度としない。
そして、翌朝。
俊典は再び公安本部へと向かうため、鋭い目をして教員宿舎の扉を開けた。
今度は、無駄な抗議をするためではない。
祈が帰ってくるその瞬間まで、元・平和の象徴の歩みが止まることは決してない。
しつこい男、オールマイト。