アジトの薄暗い廊下を歩いていたトガヒミコは、ふと思い出したようにその足を止めた。
「……あ、そういえば」
少し前のことだった。
隠れ家で、筑紫が煙草を指に挟みながら、何でもない日常の挨拶と同じトーンで呟いていた言葉。
『祈のことだがな』
『祈おねえさん?』
『あいつ、そのうち別室に収監されるだろ。見かけたら、お前が適当に世話してやれ』
『お世話?』
『食事の用意とか、生活に必要なもんの調達とかだ。まあ、あいつの構造上、放っておいても自分で何とかするだろうがな。一応、頭の片隅にでも置いておけ』
トガは、そのとき不思議そうに首を傾げたものだった。
『祈おねえさんって、そんなに手のかかる、お世話が必要な人なんですか?』
『逆だ、逆。必要なもんを自分で完全に『殺せる』から、足りなくても何も言わねぇんだよ。だから放っておくと本当にそのまま消えちまう』
その言葉の真意を、トガは当時、感覚としてはあまり理解していなかった。
けれど、クローンの灯が祈をこのアジトへ連れ去ってきて以来、彼女の部屋を毎日訪ねるようになってから、筑紫の言っていた歪な意味が少しずつ分かってきた。
――とにかく、神代祈という人は、何も欲しがらない。
質素な食事を持っていけば言って受け取る。けれど、食べなくても平気だと言ってトガへ渡すことのほうが多い。
少しは眠るように勧めれば、必要な分の休息は脳内で処理できるから問題ないと答える。
退屈ではないかと聞けば、古い本を読んでいるから大丈夫だと微笑む。
何か欲しいものはないかと尋ねても、今のところは十分に満ちています、と穏やかに返すばかり。
世話をしろと言われたのに、世話をする隙がどこにもない。
「……変な人」
トガは小さく呟いた。
それでも、大好きな筑紫師匠に頼まれた任務であることは覚えている。だからというわけではないが、彼女は冷めかけた水を片手に、祈の監禁部屋へと向かった。
「祈おねえさーん!」
木製の重い扉を小さく叩くと、すぐに内側から穏やかな返事があった。
「はい、どうぞ」
錠が開き、トガは軽い足取りで部屋の中へと入る。
「こんにちは!」
「こんにちは。今日も良いお天気ですか?」
祈は、無機質なパイプベッドの上に静かに腰掛けていた。
黒い修道服に、汚れのない白いヴェール。膝の上には、どこからか拾ってきた古い文庫本が広げられている。監禁されているという異常な状況を除けば、彼女はいつも通りに佇んでいた。
「今日は何してたんですか?」
「本を読んでいましたよ」
「また本! もう、祈おねえさんって毎日そればっかりじゃないですか!」
トガはベッドの端に座り、不満そうに頬を膨らませた。
「そうですね。ここにはあまり、時間を潰すための娯楽がありませんから」
「退屈じゃないんですか?」
「多少は」
「多少!?」
トガは思わず声を上げた。
「私だったら、一日で発狂して暴れてますよ! ずーっとこんな窓もない狭い部屋に閉じ込められてるんですよ!?」
「あなたは、じっとしているのが苦手なのですね」
「苦手です!」
「ふふ」
祈は穏やかに目を細めて笑った。
トガはその微笑みを見つめながら、胸の奥に少しだけ、割り切れない不思議な感覚を覚えた。この人は、自分がヴィランに誘拐され、自由を奪われているという現実を本当に分かっているのだろうか。
いや、分かっている。分かっているのに、どうして他人の部屋に遊びに来たかのような気持ちでいられるのか。
「……祈おねえさん」
「はい?」
「何か、本当に欲しいもの、ないですか?」
「今のところは何もありませんよ。これで十分に満ちています」
「本当に? 嘘じゃないですか?」
「ええ。嘘ではありませんよ」
「食べ物とか! もっと可愛いお洋服とか! お部屋で遊ぶゲームとか!」
「ありがとうございます。お気持ちだけで十分ですよ」
トガは、じっと祈の青い瞳を見つめた。そして、周囲を気にするように少しだけ声を潜め、彼女の耳元で囁くように言った。
「……あのね。これ、内緒なんですけど、筑紫師匠に『あいつの世話をしてやれ』って直々に言われたんです」
「あら」
祈は少し意外そうに、白いヴェールの下で目を瞬かせた。
「筑紫様が、そんなことを?」
「はい。何でも自分でできちゃうから、何かあったら私が面倒見てあげろって。でも、祈おねえさんって、全然困ってないじゃないですか! これじゃ任務失敗です!」
「ふふ。困っていないわけではありませんよ」
その返答に、トガはパッと目を輝かせた。
「えっ! 何か困ってることがあるんですか!?」
「そうですね……」
祈は少しだけ視線を上に向け、真剣に考えるような間を置いた。
「皆さんが、私のことをあまり心配してくださらないこと、でしょうか」
トガは、ぽかんと大きく口を開けた。
「……え?」
「冗談です」
祈は悪戯っぽく微笑んだ。トガはしばらくその顔を見つめ、それから、ぷっと我慢できずに吹き出した。
「祈さん、そんなふうに冗談を言うんですね!」
「たまには、あなたを驚かせたくて」
「もっと言ってください!」
「それは少し、難しいですね」
トガは笑いながら、ベッドの上で祈の細い腕に寄り添った。
結局、今日も具体的にお世話することは何も見つけられなかった。けれど、彼女の退屈を少しだけ紛らわせるための、部屋に長居する理由としては、それで十分だった。
◇
数日後の夕方。
「祈ちゃん、これ!」
部屋の扉が慌ただしく開くなり、トゥワイスが一本の茶色い紙袋を突き出すようにして差し出してきた。
「こんにちは、トゥワイス様」
「おう! これ、食べるか? いや、食べなくてもいいって言ってたけど! 絶対に食べた方がいいぞ、美味いから!」
「ありがとうございます。一体何でしょう?」
「菓子だ! 俺が外の売店で買ってきた!」
紙袋の中には、個包装されたクッキーやチョコレートがいくつか入っていた。現在の連合の深刻な資金難のなかで、彼が自分の分の取り分や小銭をどうにか工面して買ってきたものであることは、言われずとも分かった。
祈はそれを受け取り、本当に嬉しそうに目を細めた。
「ありがとうございます。わざわざ、私のために買ってきてくださったのですね」
「いや、別に! ただのついでだ! たまたま目の前にあったからな!」
「そうなんですね」
「……まあ、ついでっていうか……」
トゥワイスは、仮面の頭をガシガシと掻いた。
「いや、ほら。祈ちゃん、いつも何も食わねえだろ? アジトのなかで、飯食ってるところをあんまり見ねえからさ」
「そうですね。必要があれば食べていますよ」
「必要があればって……」
言葉に詰まった。それは、食べなくても生きていられる、味覚の感覚を自ら殺しているという意味なのだろう。
でも。
「……やっぱり、人間、食った方がいいんじゃねえの?」
「そうでしょうか」
「そうだよ! いや、そうじゃなくてもいいけど! その方が絶対に美味しいだろ!」
祈は、紙袋の中から一つ、小さなクッキーを取り出した。包みを開ける。
「では、いただきますね」
ぱき、と乾いた小さな音が静かな部屋に響く。
祈がクッキーを口に運んでゆっくりと咀嚼する様子を、トゥワイスは仮面の奥で、妙に真剣な顔で見つめ続けていた。
「……どうだ?」
「美味しいですよ。とても優しい味がします」
「そっか! よかった!」
その至極平凡な返事に、トゥワイスはなぜか、自らの胸の奥がほっと軽くなるのを感じた。
トゥワイスがこうして祈の部屋を頻繁に訪れるようになったのは、かつて、自分が分倍河原仁だった頃に彼女に命を確実に救われたからだった。あの夜、自分は死ぬかもしれない状況で、精神も限界だった。
けれど、祈は何の躊躇もなく、代償も見返りも一切求めずに、彼をただの一人の人間として救った。
その事実が、ずっと彼の心のどこかに引っかかったまま残っている。
恩返しがしたい。何か、彼女のためにしてやりたい。
でも、人質である彼女に対して、自分に一体何ができるというのだろう。
「……祈ちゃん」
「はい?」
「何か、本当に困ってることとかねえか?」
祈は、少しだけ首を傾げた。
「そうですね……」
「何でも言ってくれ! 俺にできることなら、命懸けで何でもするぞ! いや、俺じゃなくて俺が!」
「では、ひとつだけ、お願いしてもよろしいでしょうか」
「おう! 何だ!」
祈は、ローテーブルの上に置いてあった一冊の本を指差した。
「こちらの本、すべて読み終わってしまいましたので。もし可能でしたら、別の読み物を何か持ってきていただけませんか?」
「……本?」
「はい。文字の書いてあるものでしたら、何でも構いませんよ」
トゥワイスは、仮面の奥で拍子抜けしたように目を瞬かせた。
もっと大変なこと、例えばこのアジトから逃がしてほしいとか、公安に連絡を取ってほしいとか、そういう無理難題を頼まれるとばかり思っていたからだ。それなのに。
「……それだけか?」
「それだけです」
「いや、もっとあるだろ! ほら、欲しいもんとか! ここから出たいとかさ!」
「ありがとうございます。でも、今はそれくらいで十分に満ちていますよ」
トゥワイスは、少しだけ肩を落とした。
「……そっか。本、か」
祈はその少年のように落胆した様子を見て、ふと気づいたように顔を上げた。
「トゥワイス様」
「ん?」
「もしかして、私に何かしてくださろうとしているのですか? 最近、よくこうして差し入れを持ってきてくださいますから」
トゥワイスは、言葉を失って黙り込んだ。
祈は、穏やかに微笑む。
「ありがとうございます。とても嬉しいですよ、そのお気持ちが」
「……いや、俺は別に、そんな大層なことじゃ……」
言葉が、上手く出てこなかった。
恩返しがしたいのだと、あの夜の感謝をここで口にしてしまえば、祈はきっと気にしなくていいと微笑むだろう。それが分かっているからこそ、余計に気恥ずかしくて言えなかった。
「……俺、別に、何もしてねぇよ」
「はい」
「いや、何でもねえ! とにかく本だな! 持ってくる! 今すぐいっぱい持ってきてやるからな!」
「ありがとうございます。楽しみにしていますね」
バタン、と勢いよく扉が閉まる。
祈はしばらく、その主のいなくなった扉を眺めていた。それから、紙袋の中に残っていたクッキーをもう一つ、そっと取り出す。
「……皆さん、本当に優しい方ですね」
誰に聞かせるでもなく、静かな室内にそう呟いた。
翌日。
祈の部屋の前には、妙に大きな段ボールの紙袋が、ドンと無造作に置かれていた。
中を覗き込むと、そこには数冊の雑多な本が詰め込まれていた。大人の読むような難しい小説、写真の多い図鑑、実用的な料理本、そして――なぜか、幼児向けの色彩豊かな絵本までが混ざり合っている。
「……これは」
祈は、思わず少し困ったように微笑んだ。そのすぐ隣には、誇らしげに鼻を鳴らすトゥワイスが立っている。
「どうだ! ありったけ持ってきたぞ!」
「ありがとうございます。こんなにたくさん……。でも、この絵本は?」
「いや、それはその……たまたまだ! いや、まだまだ足りねえだろ! もう十分だろ!?」
「ふふ。いいえ、十分すぎますよ」
祈は声を上げて笑った。
「大切に、一文字ずつ読ませていただきますね」
トゥワイスはその曇りのない笑顔を見て、満足そうに何度も頷いた。
彼女を自由にしてあげられたわけではない。彼女を縛るすべての苦しみや檻を取り除いてあげられたわけでもない。
それでも。
自分が買ってきたクッキーを美味しいと言って食べてくれて、自分が集めてきた本を嬉しそうに受け取ってくれた。そのささやかな事実だけで、命を救われたことへの恩を、ほんの少しだけ返せたような気がした。