バカが知らん島に飛ばされたらヒナに遭遇した件 作:UMC OGASOU
冷たく湿った土の感覚が、頬を通じてじわじわと意識を覚醒させていった。
(……何、これ……?)
深く沈み込んでいた意識の底から引き上げられるように、空崎ヒナはゆっくりと瞼を開けた。
視界に飛び込んできたのは、見慣れたゲヘナ学園の風紀委員会執務室の天井でも、幾重にも積み上げられた未処理の書類の山でもなかった。立ち込める濃い霧と、見たこともない黒ずんだ針葉樹の立ち並ぶ、見知らぬ森の中だった。
「ん……くっ……」
頭部に鋭い痛みが走る。まるで重い鉄の塊で後頭部を殴打されたかのような、鈍い重圧感だ。
ヒナは上身を起こし、首を振って吐き気を催すような眩暈を払いのけようとした。指先を髪に滑らせ、頭上の感触を確かめる。いつもと変わらない存在感——彼女の証であるヘイローは、確かにそこにあった。神秘の光は微弱ながらも明かりを灯し、彼女の頭上で静かに揺らしている。
「よかった……ヘイローは、動いてる……」
小さく息を吐き出す。しかし、安堵できたのはそこまでだった。
ヒナは身を起こすと、自身の服装と装備を確認した。ゲヘナの風紀委員長としての黒いコート、制服、そして傍らに転がっていた愛用の機関銃——『終幕:デストロイヤー』。手触りも重さも、間違いなく彼女が使い込んできた相棒そのものだった。
だが、置かれている環境があまりにも狂っていた。
「……ここ、どこかしら」
吐き出された言葉は、湿り気を含んだ冷たい空気の中に小さく消えていった。
静寂。あまりにも不自然な静寂だった。
ゲヘナの街角であれば、どこからか爆音や喧騒、あるいは風紀委員たちの報告の声が聞こえてくるはずだった。トリニティの静粛な庭園であっても、小鳥の囀りや風が葉を揺らす音が心地よく響いているはずだ。
しかし、この場所には生命の気配が一切感じられない。ただ、じっとりとした湿気と、潮風の混ざった嫌な臭い、そして焦げた鉄とオイルが錆びついたような、独特の不快な異臭だけが漂っていた。
ヒナは眉をひそめ、ポケットから端末を取り出した。
画面を点灯させる。バッテリーは残っているものの、アンテナの表示は完全に圏外を示していた。緊急用の回線も含め、キヴォトス全域をカバーしているはずの通信ネットワークとの接続が一切途絶している。
「……完全に遮断されているわけね。通信機が使えないとなると、現在地の特定も難しい……はぁ、めんどくさいことになったわ……」
いつものように溜め息をつく。
だが、その溜め息には普段の「膨大な事務仕事に対する辟易」とは異なる、かすかな警戒の色が混ざっていた。
ヒナの鋭い直感が、告げていた。ここはキヴォトスのどの自治区でもない。ゲヘナでも、トリニティでも、ミレニアムでも、あるいは過疎化した辺境の荒野でもない。世界そのものの法則が、どこか歪み、変質しているような異物感。
彼女は『終幕:デストロイヤー』を持ち上げ、慣れた手つきで弾倉と機関部を点検した。
弾薬は装填されている。動作にも異常はない。
重厚な鉄の感触が手に伝わり、少しだけ心が落ち着くのを感じた。どのような不測の事態であれ、この銃と自身の中に宿る神秘があれば、大抵の脅威は排除できる。風紀委員長としての誇りと自負が、彼女の体を支えていた。
「とにかく……動かないとね。このまま座っていても、状況は変わらないわ」
膝についた泥を払い、ヒナは歩き出した。
立ち込める霧は深く、数メートル先を見通すのも容易ではない。足元はぬかるんでおり、濡れた落ち葉と苔が靴底を滑らせる。
周囲を警戒しながら歩を進めること数分、彼女の靴先が何か硬い金属質の物体に当たった。
「……ん?」
視線を落とすと、草むらの中に埋もれるようにして、二本の鉄の棒が平行に伸びていた。
錆びつき、ところどころが歪んだ鉄路——線路だ。
「線路……? こんな森の中に……?」
指先で線路の表面を撫でてみる。赤錆が手に付着する。かなり古いもののようだが、完全に放置されているわけではないようだった。線路の上面には、比較的新しい摩擦の跡がかすかに残っている。何かがここを通過した証拠だ。
「人が住んでいる……あるいは、交通手段が存在するということかしら。線路を辿れば、町か何かに繋がっているかもしれない」
方針が決まり、ヒナは線路に沿って歩き始めることにした。
見知らぬ地での迷子。通信不能。理由のわからない転移。本来ならばパニックに陥ってもおかしくない状況だが、ヒナの思考はどこまでも合理的で冷静だった。
ゲヘナの常狂的な日常に比べれば、不気味な森を歩くことなど大した問題ではないはずだった。
——しかし。
歩を進めるにつれて、胸の奥に湧き上がる正体不明の「不快感」が、少しずつ増していくのをヒナは無視できなくなっていた。
身体的な疲労ではない。
ヘイローは正常に光を放っており、彼女の肉体はキヴォトスの生徒としての頑丈さを維持しているはずだった。擦り傷ひとつついていない。
だが、皮膚の表面がゾワゾワと泡立つような、全身の毛穴が収縮するような悪寒が止まらない。
空気が重い。吸い込む息が、喉の奥で粘りつくような感覚。
(……何かしら、この感じ。風紀を乱す不良たちと対峙した時の不快感とは、まるで違う……)
例えるなら、世界の「存在そのもの」が腐敗しているかのような感覚。
自分自身が存在してはいけない場所に足を踏み入れてしまったかのような、魂の底からの拒絶反応。
ヒナは無意識のうちに『終幕:デストロイヤー』のグリップを強く握りしめていた。指先が白くなるほどの力で。
「はぁ……はぁ……っ」
突然、呼吸が浅くなった。
胸が苦しい。心臓がドクドクと嫌な音を立てて脈打ち、側頭部を内側から叩くような激しい頭痛が襲いかかる。
「くっ……何……これ……急に……」
ヒナは足を止め、壁代わりに近くの太い木に手を突いた。
指先が震えている。
自分の身体が、自分自身の意思に反して警戒警報を鳴らし続けている。戦慄。恐怖。あるいは、生理的な嫌悪。
その時だった。
——グォォォォォォォォォン……
森の奥深くから、空気を直接揺らすような、重苦しい音が響いてきた。
「っ!?」
それは、聞き覚えのある「汽笛」のようでもあり、同時に巨大な肉食獣が地底から唸り声を上げたかのような、濁った不気味な音響だった。
金属が擦れ合う高音と、湿った重厚な低音が複雑に絡み合い、大気を波打たせて音波となってヒナの鼓膜を刺す。
(なにか……来る……!)
ヒナは咄嗟に身を隠すべく、線路脇の密生した茂みに身を潜めた。
息を殺し、全神経を研ぎ澄ます。
風が一瞬、止んだ。
森全体が静まり返り、鳥の羽音も、虫の鳴き声も完全に絶えた。ただ、先ほどの重苦しい汽笛の余韻だけが、霧の中に溶けていく。
ズシン。
ズシン。
地面が揺れた。
一定のリズムを刻む打撃音。それは車輪が線路を転がる音ではない。
もっと生々しく、重く、何かが地面を「踏みつけている」音だ。
ズシン、ズシン、ズシン……!
音が急激に近づいてくる。霧の向こうから、黒い巨大な影が歪に揺れながら姿を現そうとしていた。
ヒナは茂みの隙間から、その「影」を凝視した。
風紀委員長として、幾多の危機や怪異、最新兵器や暴走したロボットを見てきた彼女の経験が、その存在の正体を確かめようと働いた。
だが——それが霧を切り裂いて姿を現した瞬間。
ヒナの思考は、完全にフリーズした。
「……あ……?」
言葉にならない声が、喉の奥から漏れた。
視界に映し出されたのは、あまりにも冒涜的で、狂気と不条理を具現化したような異形の姿だった。
それは、真っ赤な塗装が剥げかけた、古びた小型の蒸気機関車だった。
煙突からは黒く濁った煙が吐き出され、ボイラー室の鉄板は錆と煤で黒ずんでいる。それだけならば、ただのレトロな車輪つきの機械だ。
しかし、その「車輪」があるべき場所には——
わさわさと蠢く、無数の黒く太い、多節の「脚」が生えていた。
蜘蛛の脚だった。
金属の車体から直接生えた、剛毛に覆われた毛深い巨大な甲殻の脚。それが十数本、不規則に接地し、ガシャリ、ガシャリと音を立てて地表を蹴り上げている。機械の車体と、生々しい節足動物の肉体が、まるで熱で溶けて癒着したかのように一体化しているのだ。
そして、何よりもヒナの正気を削り取ったのは、その機関車の「前頭部」だった。
本来ならばヘッドライトやバンパーがあるはずの車体前面に——
人間に似た、だが決定的に歪んだ「顔面」が張り付いていた。
青白く不健康に引きつった皮膚。落ち窪んだ両眼の奥には、濁った黄色の瞳が狂気に満ちて揺れている。唇の裂けた口からは、鋭く揃った白い歯が覗き、ダラダラと黄色い粘液を垂らしながら、不気味な笑みを浮かべていた。
「ヒ……ヒヒ……ガシャ……グラァァァァァッ!!」
蒸気の噴射音とともに、その「顔」が叫んだ。
機械の蒸気音と、生の肉声が重なり合った、破滅的な咆哮。
「……ッ!!!!」
その瞬間、ヒナの頭の中で何かが激しく弾けた。
(う、ぐっ……!!!)
猛烈な、暴風のような「吐き気」がヒナの胃底から込み上げてきた。
グロテスクな出血や肉の損壊があるわけではない。
だが、その存在が発する「理の崩壊」「存在の拒絶」という毒気が、空気を通じてヒナの精神に直接叩きつけられたのだ。
機械に命を吹き込んだというレベルではない。命と鉄を力任せに破砕し、悪意を持って捏ね繰り回したかのような存在。
キヴォトスの常識——神秘と秩序の世界に生きる生徒にとって、その存在は脳が認識することを拒絶するほどの「絶対の毒」だった。
「おえっ……ぐ、くっ……!」
耐えきれず、ヒナは茂みの中で口元を押さえ、膝をついた。
胃液が口中に広がり、喉を焼く。激しい嘔吐感が彼女の体を苛む。
視界が急激に赤く染まり、続いて真っ暗に明暗を繰り返す。酷い目眩だ。三半身の感覚が完全に狂い、天地の区別すらつかなくなる。
「あ……はぁ……はぁ……っ! なに……これ……なに……っ!?」
冷汗が全身から噴き出す。
指先に力が入らない。膝が笑い、身体が地面に縫い付けられたように動かない。
風紀委員長として、どんな逆境でも決して倒れなかった空崎ヒナが、ただ「それを見ただけ」で、呼吸すらままならなくなっている。
ヘイローは正常に機能している。身体のタフネスも消えていない。
だが、精神が、魂が、その異形の存在を「直視すること」を拒絶して自壊を起こしかけていた。
(撃たなきゃ……排除、しないと……っ!)
強い意志力を振り絞り、ヒナは震える手で『終幕:デストロイヤー』の銃身を掴んだ。
重い。いつもなら羽のように軽く扱えるはずの機関銃が、まるで巨大な鉛の塊のように重く感じられる。
銃口を敵に向けようとするが、腕が激しく痙攣し、照準など到底定められない。
(くそっ……身体が……言うことを……聞かない……!)
ガシャリ。ガシャリ。
チャールズと呼ばれるその巨体が、線路上を蠢きながら通り過ぎようとしていた。
幸いにも、ヒナが身を潜める茂みには気づいていないようだった。巨大な蜘蛛脚が線路の枕木を叩き割り、蒸気を吹き散らしながら、黒煙の尾を引いて去っていく。
しかし、去っていく背影を見つめることすら、ヒナには拷問だった。
車体の後ろから蠢く無数の小脚、金属と肉が擦れ合う粘着質な音、そして充満する焦げた油と腐臭の混ざった悪臭。
「うっ……オエッ……!」
ヒナはついに耐え切れず、地面に突伏して激しく嘔吐した。
胃の中にあるわずかなものを吐き出し、それでも治まらず、胃液だけを吐き続ける。
涙が目から溢れ、視界が歪む。
強者としての威厳も、風紀委員長としての威風も、そこには一切存在しなかった。
ただ地面に崩れ落ち、荒い息を吐きながら震える、一人の小さな少女の姿があるだけだった。
「はぁ……はぁ……っ……く……っ」
異形が遠ざかり、その咆哮が不気味な余韻を残して消えていっても、ヒナの衰弱は治まらなかった。
一度体内に侵入した毒気のような拒絶反応は、彼女の神経系を麻痺させ、体力を急速に奪い去っていく。
(こんな……ところで……私……は……)
手足の感覚が薄れていく。
頭上のヘイローが、不規則に明滅を繰り返す。
キヴォトスの無敵の戦士であるはずの自分が、交戦すらできず、弾丸を一発も撃ち込むことすらできずに、ただ気色悪さだけで打倒されようとしている。
その事実に対する悔しさと焦燥感が胸を刺すが、重度の目眩と吐き気が思考すらも白く塗り潰していく。
冷たい泥の上に顔を埋めたまま、ヒナはぴくりとも動けなくなった。
森は再び、死のような静寂を取り戻す。
湿った風が、彼女の黒いコートを冷たく揺らしていた。
絶望的な孤独と、解けない悪夢の恐怖。
空崎ヒナは、ただ圧倒的な狂気の前に衰弱し、薄れゆく意識の中で、助けを呼ぶことすらできずに横たわっていた。