バカが知らん島に飛ばされたらヒナに遭遇した件 作:ヒナ推しのDO S
意識が暗転しかけていた。
視界の端で明滅を繰り返していたヘイローの光が、今にも消えてしまいそうなほどに細くなっている。地面に伏せた身体は冷たく、指一本動かすことすらままならない。耳の奥では、先ほど目撃した狂気の異形——あの車輪の代わりに無数の脚を生やした機関車の咆哮が、恐ろしい残響となって鳴り響き続けていた。
(不覚、ね……)
思考の端で、ヒナは自嘲気味に呟く。
ゲヘナの風紀委員長として、どんな激戦の渦中であっても決して倒れず、冷徹に任務を遂行してきた。それが、敵の銃弾や砲撃によって傷ついたわけでもなく、ただその異様で冒涜的な存在を目にしただけで、生理的な吐き気と激しい拒絶反応に叩きのめされ、身動きが取れなくなってしまうとは。
身体そのものは、キヴォトスの生徒としての頑丈さを保っている。ヘイローだって壊れてはいない。
だが、あの存在が持つ「理の崩壊」という毒は、ヒナの精神の深層を直接侵食していた。喉の奥に焦げついた異臭と胃液の苦味が残り、激しい目眩が世界をぐにゃりと歪ませる。
——その時だった。
ザザッ……ザザザッ……。
霧の向こう、線路の先から静かな、しかし確かな金属の駆動音が近づいてきた。
先ほどの怪物が撒き散らしていた狂気的な咆哮とは違う。低く規則的な、どこか重厚で懐かしさすら覚えさせる蒸気の排出音。シュッシュッ、シュッシュッという排気音とともに、鉄と石炭の匂いが風に乗って漂ってくる。
(また……あの化け物……?)
ヒナは薄く目を開け、泥に濡れた頬を地面につけたまま、音のする方向へ視線を向けようとした。だが、頸椎の筋肉が強張って頭を持ち上げることすらできない。愛用の機関銃『終幕:デストロイヤー』は指先からこぼれ落ち、草むらの中に静かに転がっていた。
引きつる指先で銃へ手を伸ばそうとするが、力がまるで入らない。
もしあの怪物が戻ってきたのだとすれば、今の自分に抗う術はない。無防備なまま踏み潰され、その奇怪な脚の餌食になるのを待つだけだ。
だが、近づいてきた影は、先ほどの赤く歪んだ蜘蛛機関車とは明らかに異なっていた。
霧を切り裂いて姿を現したのは、武骨な鉄板で覆われた一両の装甲機関車だった。
表面には不揃いな溶接の跡と、無数の補強用リベットが打ち込まれている。あちこちに弾痕やひっかき傷が刻まれているものの、車体全体からは作り手の執念と堅牢さがひしひしと伝わってきた。そして何より、車輪の代わりに生えた足などではなく、正真正銘の厚い鉄の車輪が、重々しく線路を噛み締めて滑り込んできている。
機関車の側面上部には、白いペンキで雑に、しかし力強い文字でこう書かれていた。
『CENTURY』
機関車はヒナのすぐ側で滑り込むようにブレーキをかけ、シューッという激しい蒸気の排出音とともに停車した。
「……え……?」
霞む視界の中で、ヒナはその車体を見上げる。
すると、装甲機関車の操縦席の厚い鉄扉がバタンと勢いよく開き、上部から一人の少年が飛び降りてきた。
作業服の袖を捲り上げ、顔や手元を油と煤で黒く汚した少年。その頭上には、幾何学的な光を放つヘイローがしっかりと浮かんでいた。ミレニアムサイエンススクールの制服を着崩したその姿に、ヒナの記憶の霧が瞬時に晴れ渡る。
「……トシビ……?」
かすれた声で、彼女はその名を呼んだ。
「ヒナっ……! 無事か!?」
駆け寄ってきた少年——日新トシビは、地面に倒れ込むヒナの姿を見るや否や、目を見開いてその肩に手をかけた。
「おい、しっかりしろ! 傷はあるか!? どこをやられた!?」
「……あ……う……傷は、ない……けど……」
声を出そうとするだけで、胃の奥から吐き気が突き上げてくる。ヒナは口元を押さえ、身をよじらせた。
トシビはヒナの顔色が尋常ではない蒼白さであること、そして呼吸が激しく乱れ、瞳の焦点が定まっていないことを即座に観察した。彼女の身体に目立った外傷や出血がないことを確認すると、深く息を吐き出し、察したように頷いた。
「なるほど……あの化け物(チャールズ)を見たんだな。……無理もない。キヴォトスの常識に生きる俺たちにとって、あれは毒そのものだ。最初は誰もがそうなる」
トシビは手際よくヒナの身体を起こすと、その細い背中をしっかりと支えた。そして地面に落ちていた『終幕:デストロイヤー』を手際よく拾い上げ、肩に担ぐ。
「話は後だ。ここは奴のテリトリーの中だ。いつ嗅ぎつけて戻ってくるかわからない。乗るぞ、ヒナ!」
「あ……でも……足が……力、が……」
「つかまってろ!」
トシビはヒナの華奢な身体を迷いなく抱え上げると、機関車『センチュリー号』の乗降用ステップへ向かって素早く駆け出した。非戦闘系のエンジニアであるとはいえ、そこはキヴォトスの生徒だ。小柄なヒナを持ち上げて移動する程度の腕力は十二分にある。
ステップを駆け上がり、厚い装甲扉の内部へと飛び込む。
トシビはヒナを操縦席の奥にあるベンチへ滑り込ませると、すぐさま重量感のある鉄扉を引き寄せ、内側からボルト式のロックを何重にも固く締め直した。
ガン、ガン、ガシャン!
不快な外気が遮断され、重厚な密閉音が狭い車内に響き渡る。
「よし……! 離脱するぞ!」
トシビは速やかに操縦席へと飛び飛び、慣れた手つきで多数のレバーとバルブを操作した。
圧力ゲージの針が跳ね上がり、ボイラーの奥で石炭が激しく燃え上がる音が響く。トシビが太い紐を力強く引くと、頭上の汽笛が「コーッ!」と高らかに鳴り響いた。
ガタゴト、ガタゴト……!
重厚な駆動音とともに、センチュリー号は加速を開始した。
車体が大きく揺れ、外の不気味な景色が加速とともに後ろへと流れていく。
その直後だった。
——グォォォォォォォォン……!!
背後の森の奥から、怒りに満ちたあの不快な汽笛が再び聞こえてきた。チャールズだ。汽笛の音を聞きつけ、あるいは獲物の匂いを察知して戻ってきたのだろう。遠くで樹木がなぎ倒される凄まじい破壊音が響き、地面を通じて機関車の車体にも振動が伝わってくる。
「チッ……嗅ぎつけてきやがったか。だが、線路上ならこのセンチュリー号の独壇場だ!」
トシビは落ち着き払った動作で、操縦席の壁面に設置された怪しげなスイッチ群を操作した。
ミレニアムの工学技術で組み上げられたカスタム回路が作動し、車体後部からシュシューッという高圧ガスの噴射音が聞こえてくる。
「ヒナ、ちょっと揺れるぞ!」
トシビがレバーを一気に押し込むと、センチュリー号の排気煙突から黒煙とともに青白い火花が吹き出し、車体が弾かれたような加速を見せた。ミレニアムのアタッチメント技術と増設されたブースターギミックによる一瞬の超加速だ。
背後から迫っていたあの不気味な足音と金属擦過音が、徐々に、しかし確実に遠ざかっていく。
チャールズの咆哮が霧の彼方へと消え去り、やがて聞こえるのはセンチュリー号の規則的な「ガタゴト」という走行音だけになった。
「……ふう。これでひとまずは振り切ったな」
トシビは圧力計の数値が安定したのを確認すると、操縦桿のロックをかけ、深く息を吐き出した。
そしてすぐさまベンチの方へ振り返り、縮こまるように丸くなっているヒナのもとへ駆け寄った。
「ヒナ、大丈夫か?」
「……はぁ……っ……はぁ……っ……」
ヒナは膝を抱え、小さく震えていた。
車内は煤と温かいオイル、そして石炭の匂いに満ちている。外の気味の悪い異臭や気配からは遮断されたものの、一度脳裏に刻み込まれた恐怖と生理的嫌悪感は、容易には拭い去れなかった。
「……ト、シビ……私……あんな……」
吐き捨てるような弱音。普段の「完璧な風紀委員長」の姿からは想像もつかないほど、彼女の肩は細く震えていた。
「喋らなくていい。まずはこれを飲め」
トシビは車内の棚から清潔な金属製の水筒を取り出すと、蓋を外してヒナの口元へそっと添えた。
「ただの水だ。少し塩分と糖分を混ぜてある。口をゆすぐだけでもいい、ゆっくり飲め」
「……ん……っ……ぐ……」
ヒナは震える手で水筒を受け取り、一口喉に流し込んだ。
冷たい水が灼熱のように熱を持っていた胃と喉を潤し、口内に残っていた不快な味覚を洗い流していく。吐き気を抑えながら、慎重に二口、三口と飲み干すと、少しだけ呼吸の乱れが収まってきた。
トシビはヒナの隣に腰を下ろし、棚から取り出した乾いたタオルで、彼女の額に浮かぶ冷汗や頬についた泥を優しく拭い取った。
「すまないな、もっと早く見つけてやれればよかったんだが……あの狂った島は広いうえに、地形が不規則でね」
「……ううん……助かったわ……ありがと……」
ヒナは深く溜め息をつき、背もたれに体を預けた。ヘイローの明滅が、徐々に安定した一定の光量を取り戻していく。
「……驚いたわ。あなたも、この島に……? それに、その機関車は……何?」
少しずつ落ち着きを取り戻してきたヒナが、管やメーターが複雑に張り巡らされた車内を見回しながら尋ねた。
「ああ。俺も気がついたらこの見知らぬ島に放り出されていてね。通信も途絶、ミレニアムのデータベースにもアクセス不能……途方に暮れかけていたところで、この『センチュリー号』と出会ったんだ」
トシビは愛おしそうに操縦席の鉄板を叩いた。
「この島に住んでいた『ユージン』っていう親切なじいさんがいてね。彼が残してくれたこの装甲機関車を、俺の工学知識で改修しながら運用している。……まあ、詳しい話はもっと安全な場所に着いてからにしよう」
トシビの言葉は、平淡だがどこか力強かった。
周囲を狂気的な怪異に囲まれ、常識が通用しない異常事態の中でも、彼の瞳には諦めや絶望のの色はなかった。その冷静で揺るぎない態度が、衰弱していたヒナの心に少しずつ温かい安心感をもたらしていく。
「それにしても……ヒナともあろう者が、まさかあんなに参ってしまうとはな。ゲヘナの風紀委員長様が、格好悪いところを見せちゃったな」
トシビは少しだけ口元を緩め、からかうように言った。友人だからこそ許される、軽口だった。
ヒナは不機嫌そうに眉をひそめ、そっぽを向いた。
「……うるさいわね。……あれは、単に敵の威力がどうとかいう問題じゃないわ。……あんなの、存在自体が理不尽すぎる……っ」
思い出すだけでも、再び胃のあたりが重くなる。ヒナは不快感を振り払うように頭を振った。
「わかってるよ。責めてるわけじゃない」
トシビの表情から笑みが消え、真剣な眼差しに戻った。
「あの化け物は『チャールズ』と呼ばれている。機械と生物が不気味に融合した、この島の悪夢そのものだ。キヴォトスの生徒である俺たちの『神秘』や『ヘイロー』は機能しているし、物理的な耐久力も残っている。だが……あの姿、あの音、あの存在感が放つ『精神的な毒』は、俺たちの精神を直接削ってくるんだ」
トシビは自身の胸に手を当てた。
「俺だって、最初に見た時は吐いて動けなくなったさ。だから、お前が動けなくなったのは弱さのせいじゃない。生理的な防衛反応だ」
「……トシビも……そうだったの?」
「ああ。情けない話だがな。だから気にすることはない。少しずつ慣れていけばいい」
トシビの言葉に、ヒナの胸のつかえがほんの少しだけ軽くなった。
自分だけが無様に倒れたわけではないということ。そして、この信頼できる友人が自分と同じ恐怖を経験した上で、今こうして前を向いて戦っているということ。それが彼女にとって何よりの救いだった。
ヒナは自分の細い手を見つめた。まだかすかに震えている。
「……私、戦闘は……当分無理かもしれない。銃を構えようとしても、手が震えて……力が入らないの。風紀委員長として……こんな姿、情けないけれど……」
「問題ない」
トシビは即座に、力強く言い切った。
「戦闘なら、俺に任せておけ。直接の殴り合いや撃ち合いは苦手だが、ゲリラ戦とこのセンチュリー号の運用なら俺の専門分野だ。地形を利用した撹乱、罠の設置、そしてこの機関車の火力を活かした撤退戦なら、ミレニアムの知識をフル活用してやって見せる」
「ゲリラ戦が得意……だったわね、あなたは。……頼りにさせてもらうわ」
「ああ、任せろ。お前はただ、ここでゆっくり体を休めて、元気を取り戻すことだけを考えればいい。……ヒナが元通りになれば、あの化け物なんてお前の火力で一ひねりだろ?」
「……フフ、簡単に言ってくれるわね」
ヒナの唇に、かすかな笑みが戻った。
普段の彼女なら「そんなに甘くはないわ」と眉をひそめるところだが、今はその根拠のない信頼が心地よかった。
ガタゴト、ガタゴト……。
センチュリー号は静かに線路を走り続ける。
重厚な装甲に守られた車内は、外の過酷な世界から隔絶された小さな温もりだった。ボイラーの暖気が心地よく車内を温め、規則的な振動がヒナの緊張をほぐしていく。
「……はぁ……なんだか、急に眠気が……」
安堵感が広がると同時に、急激な疲労がヒナを襲った。精神的なショックと嘔吐による体力の消耗は、彼女が思っている以上に深刻だった。
「寝ていていいぞ。次の安全地帯にある整備駅まで、まだしばらくかかる。何かあったら俺が叩き起こす」
トシビはベンチの端にあった使い古しの毛布を取ると、ヒナの肩へそっとかけてやった。毛布からはほんのりと石炭とほこりの匂いがしたが、不思議と嫌な感じはしなかった。
「……ありがと、トシビ……。……おやすみ……」
「ああ、おやすみ。ヒナ」
ヒナは瞼を閉じ、ベンチの上に身体を横たえた。
機関車の心地よい揺れと、操縦席でテキパキと機器を操作するトシビの背中を感じながら、彼女の意識は深い眠りへと落ちていった。
不完全で、あちこちが傷だらけの装甲機関車。
しかし、異形が蠢く狂気の島において、この鉄の小箱と旧友の存在は、何物にも代えがたい絶対的な安らぎの砦だった。