バカが知らん島に飛ばされたらヒナに遭遇した件 作:UMC OGASOU
軋む鉄の音と、一定のリズムで響く車輪の振動。センチュリー号は、濃い霧に包まれたアランネア島の森をひた走っていた。
ボイラー室から伝わる熱気が、冷え切った車内を微かに温めている。ベンチに身を横たえていた空崎ヒナは、浅い眠りからゆっくりと意識を浮上させた。
瞼の裏に焼き付いた、あの赤く巨大な異形——チャールズの姿がフラッシュバックし、ビクッと肩が跳ねる。だが、目を開ければそこにあるのは、無数の計器と配管が這う見慣れない、しかしどこか安心感のある装甲機関車の内部だった。
「……起きたか、ヒナ」
操縦席で圧力計の針を睨んでいた日新トシビが、振り返らずに声をかけた。彼の顔や作業服は相変わらず油と煤に塗れているが、その背中には不思議な頼もしさがあった。
「……ええ。少し、眠っていたみたいね……」
ヒナは上体を起こし、頭を振って残った微かな目眩を振り払おうとした。ヘイローの明滅は安定しているが、身体の奥底にこびりついた冷たい吐き気は、未だに完全には消え去っていなかった。ゲヘナの風紀委員長として、数々の修羅場を潜り抜けてきた彼女にとって、この「戦う前から精神を折られる」という感覚はひどく屈辱的だった。
「気分はどうだ? 無理はするなよ。この先はかつての鉱山街の入り口に差し掛かる。線路の分岐も増えるから、少し揺れるぞ」
トシビがレバーを引き、機関車の速度を微調整する。
ヒナは傍らに置かれた愛銃『終幕:デストロイヤー』の冷たい銃身に触れた。この重みがあれば、普段ならどんな敵が来ようと負ける気はしない。だが、今の自分にこの引き金を引くことができるのか。あの冒涜的な気配を前にして、再び身体がすくんでしまわないか。そんな不安が彼女の胸に渦巻いていた。
その時だった。
——キィィィィィィン……ッ!!
突如として、鼓膜を劈くような激しいブレーキ音が車内に鳴り響いた。
トシビが咄嗟に非常ブレーキのバルブを全力で引き絞り、車輪から激しい火花と白煙が上がる。ヒナは前のめりに倒れそうになる体を、ベンチの背もたれを掴んで必死に支えた。
「っ……! トシビ、何事!?」
「くそっ、線路が……塞がれてる!」
センチュリー号が完全に停止する。トシビの声には、これまでに見せたことのない焦燥が混じっていた。
ヒナがよろめきながら操縦席の防弾ガラス越しに前方を見ると、そこには絶望的な光景が広がっていた。
濃霧に包まれた線路の先に、巨大な丸太や錆びた鉄骨、そして正体不明の廃材が山のように積まれ、完全にバリケードを形成していたのだ。自然に倒れたものではない。明らかに「意図的」に、機関車の行く手を阻むために構築された障害物だった。
「チャールズの仕業……? いや、あの巨大な化け物がこんな器用な真似を……」
「違う」
トシビは操縦席の下から重いレンチを引き抜き、ギリッと歯を食いしばった。
「……奴らだ。この島に残った、『人間』たちだよ」
その言葉と同時だった。
濃い霧の向こうから、ざわざわと無数の気配が湧き上がってきた。
最初は風の音かと思った。だが、それは違う。低く、粘りつくような、異様な「呪詛」のコーラスだった。
『……赤き神よ……大いなる車輪の主よ……』
『……我らが贄を……蒸気と血の祝福を……』
霧を割って姿を現したのは、ボロボロの衣服を身に纏った数十人の人間たちだった。
彼らの姿は異様だった。誰もが極度に痩せこけ、肌は不健康な土気色をしている。顔には、チャールズの恐ろしい顔面を模したような、歪な赤と白のペイントが施されていた。手には錆びたピッケルや鉄パイプ、そして旧式の猟銃が握られている。
「……なによ、あれは……人間……?」
ヒナは息を呑んだ。キヴォトスの不良生徒たちとは違う。彼女たちが放つような「若さゆえの反抗心」や「欲望」など微塵もない。そこにあるのは、完全に狂気に呑み込まれ、理性を失った盲目的な信仰心だけだった。
「チャールズを神と崇める狂信者(カルト)たちだ。あの化け物の恐怖に耐えきれず、精神を壊してあっち側に寝返った連中さ。……奴ら、俺のセンチュリー号を止めて、チャールズへの生贄にしようって腹だ!」
ガンッ!!
重い金属音が車内に響いた。狂信者の一人が放った投石が、装甲板に直撃したのだ。
それを合図にしたかのように、群衆が一斉に機関車へと群がってきた。
『……贄だ! 神の贄だ!』
『鉄の悪魔を引き摺り下ろせ! 偉大なる主へ捧げよ!』
狂気的な叫び声とともに、カンカン、ガンガンと無数の打撃音が車体を打ち据える。猟銃の銃弾が防弾ガラスにヒビを入れ、錆びた刃物が扉の隙間をこじ開けようと差し込まれる。
「ヒナ、離れてろ! 奴らに中に入り込まれたら終わりだ!」
トシビは操縦桿の横にある赤いカバーを跳ね上げ、その下にあるトグルスイッチを次々と弾いた。
「センチュリー号の防衛機構、起動! 高圧蒸気パージ!」
プシュゥゥゥゥゥーーッ!!
機関車の側面下部に設置された複数のノズルから、凄まじい勢いで高温の蒸気が噴射された。
車体に群がっていた狂信者たちが、熱風に焼かれて悲鳴を上げながら次々と後退していく。だが、彼らの目には恐怖の色はない。火傷を負い、皮膚を赤く腫らしながらも、再び狂ったような笑みを浮かべて機関車へと向かってくる。
『……祝福だ! 神の息吹だ……!』
「い、イカレてやがる……! 痛みすら感じないのか!」
トシビは悪態をつきながら、今度は車体前部の排障器(カウキャッチャー)に接続された電動ノコギリのスイッチを入れた。ギャリィィィン!という耳障りな駆動音が響き、バリケードを崩そうと前進を試みる。
だが、車輪は空転するばかりで、分厚い廃材の山を押し退けるには推進力が足りなかった。
「くそっ、ボイラーの圧が足りない! このままじゃ押し切れない!」
トシビが焦りの声を上げる中、狂信者の一人がついに操縦席の側面の窓に張り付いた。
鉄格子越しに、血走った眼球が車内を覗き込む。
『……見つけたぞぉ……神に抗う愚か者めぇ……!』
「ひっ……!」
トシビは咄嗟にレンチを振り上げ、鉄格子越しに狂信者の手を殴りつけた。鈍い音が響き、男が叫び声を上げて転げ落ちる。だが、すぐに別の狂信者が這い上がってくる。多勢に無勢。このままでは装甲をこじ開けられるのは時間の問題だった。
(……私が、やらなきゃ……!)
ヒナは唇を噛み締め、震える手で『終幕:デストロイヤー』を持ち上げた。
これ以上の防衛はトシビの手に余る。外部の敵を排除し、バリケードを破壊するための突破口を開くには、自分の火力が必要不可欠だ。
ヒナは銃口を窓の隙間に向け、引き金に指をかけた。
「……どきなさい。これ以上、私の友人に近づくなら——」
威嚇のために一発、空へ向けて撃とうとした。
しかし。
『——大いなる主よ! 蒸気の悪魔よ! 赤き車輪よ!!』
『——我らに救済を! 蜘蛛の脚を持つ神よ!!』
狂信者たちが口々に叫ぶ「神」の描写。
その言葉が耳に飛び込んできた瞬間、ヒナの脳裏に、あのぬちゃりとした蜘蛛の脚の駆動音と、裂けた口から漏れる不快な咆哮が、恐ろしいほどの鮮明さでフラッシュバックした。
「あっ……あぁ……っ……!」
ドクンッ、と心臓が跳ね上がり、視界がぐにゃりと歪んだ。
胃の奥から、先ほどと同じ強烈な吐き気と酸っぱい液がせり上がってくる。
(だめ……思い出すな……撃て、引き金を引け……!)
ヒナは必死に自分に命じる。しかし、身体は完全に硬直し、指先は引き金を引くどころか、銃を支える力すら失っていた。
カランッ……。
重い機関銃が床に転がり落ちる。
「ヒナ!?」
トシビが振り返り、膝から崩れ落ちたヒナの姿に目を見開いた。
ヒナは両手で顔を覆い、荒い呼吸を繰り返していた。恐怖の対象そのものが目の前にいなくとも、その存在を強烈に連想させる「狂気」に触れただけで、彼女の精神は再び拒絶反応を起こしてしまったのだ。
「……ごめ……なさい……手が、動か、ない……」
「……謝るな! お前は悪くない!」
トシビはヒナを庇うように立ち塞がると、再び計器盤に向き直った。
窓枠の隙間から、狂信者が突き入れた鉄パイプが車内の壁をかすめる。火花が散り、トシビの頬に浅い切り傷が走った。
「チィッ……! ユージンのじいさんが残してくれたこの船を、こんなイカレた連中に渡してたまるかよ!」
トシビは操縦桿から手を離し、ボイラー室の緊急用バルブへと手を伸ばした。
それは、ミレニアムの知識を応用して彼が独自に組み込んだ、本来なら絶対に使ってはならない「最終手段」だった。
「機関の安全装置(リミッター)、強制解除! 限界圧力まで蒸気を溜めろ……!」
ゴォォォォォォッ!!
ボイラーの燃焼音が、これまでにないほど激しく、狂暴な響きに変わった。
圧力計の針がレッドゾーンを突破し、警告の赤いランプが車内で激しく点滅を始める。パイプの継ぎ目からシューシューと蒸気が漏れ出し、車内は一気にサウナのような熱気に包まれた。
「ト、シビ……!? 何をする気……っ」
「バリケードごと、あいつらを吹き飛ばす! ヒナ、何かに捕まってろ!」
トシビは両手で操縦桿を握りしめ、顔を真っ赤にしながら限界まで溜め込んだ圧力を、一気に前進の推進力へと解放した。
「いっけえぇぇぇぇぇっ!!」
ガガガガガガンッ!!!
凄まじい衝撃が車体を貫いた。
限界を超えた推進力を得たセンチュリー号が、鉄の塊となってバリケードの丸太の山に激突する。
メキメキと木材がへし折れる音と、鉄骨がひしゃげる金属音が混ざり合う。車体前部の電動ノコギリが火花を散らしながら障害物を粉砕し、圧倒的な質量と力任せの突破で、ついにバリケードの中央に風穴を開けた。
「そのまま押し通る!!」
センチュリー号は障害物を跳ね除けながら、再び線路上へと躍り出た。
群がっていた狂信者たちは、その圧倒的な突進力に弾き飛ばされ、線路の脇へと次々に転がり落ちていく。彼らの狂気に満ちた叫び声も、やがて機関車の走行音と風の音に掻き消されていった。
「……突破、した……」
トシビは荒い息を吐きながら、操縦桿を元の位置に戻し、緊急バルブを閉めた。
レッドゾーンを振り切っていた圧力計の針が徐々に下がり、車内に響いていた警告音も鳴り止む。
センチュリー号は満身創痍ながらも、確かな駆動音を響かせて再び濃霧の中を進み始めていた。
「……はぁ……はぁ……」
トシビはへたり込むように操縦席の椅子に座り込み、天井を仰いだ。頬の傷から一筋の血が流れ落ち、煤で汚れた顔に赤い線を描いている。
ヒナは床に座り込んだまま、ただその背中を見つめることしかできなかった。
「……トシビ。……ごめんなさい」
絞り出すような声だった。
圧倒的な武力を誇る自分が、人間の集団——それも、訓練もされていない狂信者の群れを前にして、何もできなかった。恐怖にすくみ上がり、ただ守られるだけだった。その事実が、ヒナの誇りをズタズタに引き裂いていた。
トシビは振り返り、首から下げていた手ぬぐいで頬の血を乱暴に拭い取った。そして、いつものように軽く笑って見せた。
「だから、謝るなよ。俺の船なんだ、俺が守るのは当然だろ?」
「でも……」
「ヒナ」
トシビの声が、少しだけ真剣なトーンに変わった。
「この島は狂ってる。チャールズだけじゃない。あんなふうに、恐怖で心を壊された『人間』でさえ、俺たちに牙を剥いてくる。……俺たちにとっての敵は、化け物だけじゃないんだ」
トシビの言葉は、冷酷な現実を正確に言い当てていた。
キヴォトスの不良生徒たちは、どんなに厄介でも「生徒」であり、話し合いやルールの範疇で収まる存在だった。だが、この島の狂信者たちには言葉が通じない。彼らは恐怖という毒に侵され、人間であることを放棄した存在なのだ。
「……焦らなくていい。お前がその銃を撃てるようになるまで、俺が何度でも逃げ道を作ってやる」
「……」
「だから、今は無理に戦おうとするな。生き残ることだけを考えろ」
ヒナは黙って俯き、床に転がったままの『終幕:デストロイヤー』を見つめた。
鈍い光を放つその銃身は、今の自分にはあまりにも重く、冷たく感じられた。
(……私は、こんなところで折れるわけにはいかない……!)
恐怖による拒絶反応。それは確かに彼女の身体を縛り付けている。
だが、その瞳の奥には、トシビの不屈の背中を見て、確かな「怒り」と「覚悟」の火種が生まれ始めていた。
化け物にも、それに狂わされた人間たちにも、決して屈しはしない。
「……ええ。次は……必ず、私が」
小さく、しかし力強い声で呟いたヒナの言葉は、規則的な機関車の走行音に溶け込みながらも、トシビの耳に確かに届いていた。