バカが知らん島に飛ばされたらヒナに遭遇した件 作:UMC OGASOU
濃密な霧が、世界のすべてを白く塗り潰していく。
狂信者たちが築き上げたバリケードを強行突破した装甲機関車『センチュリー号』は、満身創痍の車体を軋ませながら、アランネア島の薄暗い森の中を走り続けていた。
車内には、限界を超えて酷使されたボイラーが発する熱気と、焦げた機械油の匂いが充満している。先ほどの激突の衝撃で車体のあちこちの装甲板が歪み、隙間からは容赦なく冷たい外気が吹き込んでいた。一定のリズムで響く車輪の駆動音だけが、彼らがまだ生き延びていることを証明する唯一の道標だった。
操縦席の傍らでベンチに腰を下ろしていた空崎ヒナは、自分の膝の上に置かれた愛銃『終幕:デストロイヤー』をじっと見つめていた。
鈍い光を放つ重厚な鉄の塊。キヴォトスにおいては、この銃を構えるだけでゲヘナのあらゆる暴徒が震え上がり、道を譲った。彼女の意志一つで、どんな強固な障害も粉砕できる絶対的な力の象徴。
しかし今、ヒナの指先は微かに震え、冷たい銃身に触れることすら躊躇われていた。
(……私は、何を恐れているの……?)
ヒナは小さく息を吐き出し、目を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのは、あの赤く巨大な機関車の姿。車輪の代わりに無数の黒い脚を蠢かせ、前面に張り付いた青白い「人間の顔」が、こちらを嘲笑うように見下ろしている光景。それを思い出すだけで、胃の奥が冷たく硬直し、心臓が不快なリズムで警鐘を鳴らす。
それは、恐怖というよりも「生理的な嫌悪」と「理の拒絶」だった。キヴォトスの神秘を宿す彼女の存在そのものが、あの異世界から現れた冒涜的な存在を全力で拒否しているのだ。
「……ヒナ、気分はどうだ。まだ吐き気はするのか?」
石炭をくべる手を止めたトシビが、心配そうな声をかけてきた。彼の顔は煤と汗で汚れ、先ほどの狂信者との戦闘で負った頬の傷には血が滲んでいる。それでも彼の瞳には、絶望に屈しない確かな光が宿っていた。
「……ええ。少しはマシになったわ。でも……まだ、あの化け物を思い出すと、身体の芯が冷たくなるの。……情けないわね、本当に」
ヒナは自嘲気味に笑い、自らの細い腕を抱きしめた。
「そんなことはない。あの『チャールズ』の異常性は、俺たちの精神を直接削ってくるんだ。お前が不調なのは、お前の心が弱いからじゃない。……今は焦らず、休んでいればいい」
トシビは優しくそう言い残し、再び計器盤へと向き直った。彼はミレニアムの知識を総動員し、圧力弁を微調整しながら、これ以上機関車に負担をかけないよう必死にやり繰りを続けている。
その背中を見るたび、ヒナの胸にチクリとした痛みが走った。
非戦闘員であるはずのトシビが、ボロボロになりながら自分を守ってくれている。風紀委員長としての矜持が、何もしない自分自身を激しく責め立てていた。
その時だった。
——プゥォォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!
突如として、背後の森の奥深くから、空気を震わせるような悍ましい汽笛の音が響き渡った。
それは単なる機械の音ではない。獲物を見つけた猛獣の咆哮と、金属が削れる悲鳴を混ぜ合わせたような、聞く者の鼓膜と精神を同時に破壊する最悪の音色だった。
「っ……!!」
ヒナの肩が大きく跳ねた。全身の毛穴が開き、先ほどまで薄れていた吐き気が一気に喉元までせり上がってくる。ヘイローの光が、不規則に明滅を始めた。
「チィッ……! 来やがったか、あの化け物!」
トシビが操縦席の窓から身を乗り出し、後方を確認する。
霧が渦を巻き、木々がなぎ倒される轟音が急速に近づいてきていた。大地を揺るがすほどの重い足音。それは紛れもなく、彼らを執拗に付け狙う狂気の蜘蛛機関車、チャールズの接近を知らせるものだった。
「トシビ……! スピードを……!」
ヒナが絞り出すような声で叫ぶ。
しかし、トシビの顔には焦燥の色が濃く浮かんでいた。
「出してる! だが、先ほどの狂信者どものバリケードを突破した時の衝撃で、前輪のシャフトが歪んじまってるんだ! これ以上圧力を上げたら、ボイラーよりも先に車輪が脱線する!」
ガコンッ、ガコンッ!
トシビの言葉を証明するように、センチュリー号の車体は不自然な振動を繰り返し、本来の最高速度の半分も出せていなかった。さらに悪いことに、前方には狂信者たちが置き去りにした細かな瓦礫や倒木が線路上に散乱しており、それらを跳ね除けながら進むため、どうしても速度が殺されてしまう。
——ズシンッ……ズシンッ……ズシンッ……!!
背後から迫る足音が、明確な質量を伴って響き始めた。
ヒナが震える手で後方の窓枠に掴まり、外を覗き込む。
濃密な霧を引き裂いて現れたのは、巨大な赤い装甲だった。通常の機関車の何倍もある巨大なボイラー。そこから生え出た、節くれだった無数の蜘蛛の脚が、シャカシャカという不快な駆動音を響かせながら線路を跨ぐようにして追いすがってくる。
そして、その前面。
人間の顔を不気味に歪ませたような巨大な顔面が、ヒナと真っ向から視線を合わせた。
濁った黄色の眼球がギョロリと動き、大きく裂けた口からは、ボイラーの熱気とともに腐臭を帯びた白い息が吐き出されている。
『……ォォォォォォォォ……!!』
「あ……ぁ……っ……」
ヒナの喉から、声にならない悲鳴が漏れた。
圧倒的な恐怖。理不尽の権化。キヴォトスの常識が一切通用しない異次元の怪物が、今まさに自分たちを喰い殺そうと牙を剥いている。膝の力が抜け、ヒナはその場にへたり込んでしまった。
「ヒナ、伏せてろ!!」
トシビは操縦桿を固定すると、操縦席の後方に設置された機銃座へと飛び込んだ。
それは彼がミレニアムの知識を活かし、廃材と旧式の重機関銃を組み合わせて作り上げた即席の固定防衛兵装だった。
トシビは銃座のハンドルを握りしめ、容赦なく迫り来るチャールズの巨大な顔面に向けて照準を合わせた。
「この野郎……! ユージンのじいさんの仇だ、食らえッ!!」
ダダダダダダダダダダダダッ!!!
車内に鼓膜を劈くような銃声が響き渡る。
トシビが放った銃弾の雨が、チャールズの赤い車体へと吸い込まれていく。
だが、巨大な怪物にはまるで効果がなかった。分厚い鉄の装甲に弾かれた銃弾は虚しく火花を散らすだけで、チャールズの歩みを止めるどころか、その怒りをさらに煽る結果にしかならなかった。
『グガァァァァァァァァッ!!』
チャールズが不快な咆哮を上げ、巨大な前脚を振り上げた。
鋭く尖った鋼鉄の脚が、センチュリー号の後部装甲をかすめる。
ガガガガギィィィィィンッ!!!
火花が散り、装甲板が紙のように引き裂かれた。凄まじい衝撃に車体が大きく傾き、ヒナは床を転がって壁に打ち付けられた。
「くそっ、装甲が厚すぎる! ミレニアムの徹甲弾でもなきゃ貫通しねえのかよ!」
トシビは悪態をつきながらも、決して引き金から指を離さなかった。弾帯が凄まじい勢いで吸い込まれ、空薬莢が床に散らばっていく。
彼は顔面ではなく、チャールズの駆動部——関節の隙間や、蜘蛛の脚の付け根を狙って必死に牽制撃ちを続けていた。泥臭く、計算し尽くされた防衛戦。しかし、圧倒的な質量の差と、センチュリー号の減速により、距離は絶望的なまでに縮まっていた。
「ボイラーの火が落ちる! くそっ、一人じゃ手が足りねえ!」
トシビは銃座から離れ、シャベルを掴んで猛然と石炭をボイラーへと放り込んだ。燃え盛る炎が彼の顔を赤く照らし出す。休む間もなく再び銃座へと戻り、迫り来る巨大な脚を撃ち払う。
機関車の操縦、ボイラーの管理、そして後方射撃。常人ならとうにパニックを起こしているであろうマルチタスクを、トシビは歯を食いしばりながら一人でこなしていた。
(トシビ……!)
ヒナは床に倒れ伏したまま、その光景を呆然と見つめていた。
自分が恐怖に震え、身動き一つ取れない間にも、彼は命を削って戦っている。己の無力さが、恐怖を上回るほどの悔しさとなってヒナの胸を締め付けた。
『ギィィィィィィッ!!』
再びチャールズの咆哮が轟いた。
今度は二本の脚が同時に振り上げられ、センチュリー号の屋根へと突き刺さる。
メシャァァッ! という嫌な音とともに、天井の鉄板がひしゃげ、外の冷たい霧が車内へと流れ込んできた。チャールズはそのままセンチュリー号に乗りかかり、その巨大な質量で強引に押し潰そうとしているのだ。
「うおぉぉぉっ!!」
トシビが機銃を上に向けて乱射するが、チャールズの分厚い腹部装甲に弾かれるばかりだ。
このままでは、機関車ごと押し潰されてスクラップにされてしまう。絶体絶命の危機。
その時、トシビが血走った目でヒナを振り返った。
「ヒナッ!! 一度でいい、一度でいいから撃ってみろ!!」
彼の声は、怒鳴り声でも、命令でもなかった。
それは、友を信じ切った、祈りのような叫びだった。
「お前ならやれる! あの化け物だって、お前の『力』の前じゃただの鉄屑だ! 頼む、ヒナ!!」
その言葉が、ヒナの鼓膜を震わせ、凍りついていた心臓に熱い血を送り込んだ。
トシビの目には、ヒナに対する微塵の疑いもなかった。ゲヘナの風紀委員長としての彼女の強さを、誰よりも理解し、誰よりも信じてくれている。
自分がここで立ち上がらなければ、トシビは死ぬ。この温かい機関車も、彼が受け継いだ老人の遺志も、すべてがこの不条理な怪物の餌食になる。
(……私は、ゲヘナ学園風紀委員長、空崎ヒナ……!)
ヒナの頭上で不安定に揺らめいていたヘイローが、突如として強烈な輝きを放ち始めた。
紫色に輝く幾何学模様が、車内の暗闇を鮮やかに照らし出す。
恐怖はまだある。吐き気も消えていない。
だが、それ以上に……友人を傷つけようとするこの理不尽な怪物に対する「怒り」が、彼女の全身の細胞を沸騰させていた。
「……勝手に、人の限界を……決めつけないで……!」
ヒナは床に転がっていた『終幕:デストロイヤー』のグリップを、両手で強く握りしめた。
ズシリと伝わる鉄の重み。それは今の彼女にとって、重荷ではなく、自分自身を繋ぎ止める確かな錨だった。
ゆっくりと、だが確かな足取りで、ヒナは立ち上がった。
小柄な体躯からは想像もつかないほどの、圧倒的なプレッシャーが車内を満たす。それは、キヴォトスにおいて数多の強敵をひれ伏させてきた、絶対的強者の覇気だった。
ヒナは後方の窓枠に足をかけ、ひしゃげた天井の隙間からこちらを見下ろしているチャールズの巨大な顔面へと、銃口を向けた。
「……私の友人に……これ以上、近づかないで!!」
ヒナは引き金を引いた。
——ドゴォォォォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!
トシビの放っていた機銃とは次元が違う。
鼓膜が破裂するかと思うほどの凄まじい轟音とともに、ヒナの神秘の力を帯びた銃弾の嵐が、マズルフラッシュの閃光となって暗闇を切り裂いた。
毎分数百発という驚異的な連射速度で放たれる大口径の徹甲弾。それは単なる物理的な破壊力ではなく、キヴォトスの生徒が持つ「概念的な破壊力」を伴っていた。
『ギ……!? ギャァァァァァァァァァァァァァッ!!!!』
チャールズの顔面に銃弾が直撃する。
これまでトシビの攻撃を涼しい顔で弾いていた分厚い装甲が、まるで飴細工のように次々とひび割れ、砕け散っていく。青白い顔面の左半分が大きく抉り取られ、黒いオイルと得体の知れない体液が空中に噴き出した。
「そのまま押し込め、ヒナ!!」
「……言われなくても……わかってるわよ!!」
ヒナは反動に耐えながら、さらに引き金を引き絞る。
紫色のヘイローが激しく回転し、彼女の瞳には一切の迷いがない。
チャールズはたまらずセンチュリー号から脚を離し、巨大な巨体をのけぞらせた。その瞬間、ヒナはチャールズの関節部——蜘蛛の脚の付け根へと銃口を振り向けた。
ダダダダダダダダダダダダッ!!!
「消えなさい……この、バケモノッ!!」
装甲の薄い関節部分に集中砲火を浴びたチャールズの右前脚が、悲鳴のような金属音を立てて根本から切断された。
巨大な脚が線路脇に転げ落ち、チャールズはバランスを崩して大きく横へよろめいた。
『グギィィィィィィィィィッ……!!』
これ以上の追撃は不可能と悟ったのか、あるいはヒナの放つ異常な火力に恐怖を覚えたのか。
チャールズは忌々しそうに一度だけ咆哮を上げると、残った脚を器用に動かしながら、瞬く間に森の深い霧の中へと後退していった。
ズシン、ズシンという足音が次第に遠ざかり、やがて森は静寂を取り戻した。
「……やった……。退いたぞ……!」
トシビが機銃座から身を乗り出し、霧の向こうを見つめながら歓喜の声を上げた。
チャールズの姿は完全に消え失せている。後続からの追撃の気配もない。
彼らはついに、あの無敵に思えた怪物に手痛い一撃を与え、自らの力で撃退することに成功したのだ。
「……ふぅ……」
ヒナはゆっくりと引き金から指を離し、『終幕:デストロイヤー』の銃身を下げた。
銃口からはまだうっすらと白煙が立ち上り、焦げた火薬の匂いが鼻を突く。
ヒナは自分の手を見つめた。
先ほどまであんなに震えていた指先は、今はピタリと止まっている。胃の奥で渦巻いていた不快な吐き気も、冷や汗も、すべてが嘘のように消え去っていた。
(……なんだ。……やれば、できるじゃない……)
あの化け物は、確かに恐ろしい。生理的嫌悪感は今でも拭い去れない。
だが、決して「無敵」ではなかった。自分の弾丸は通用したし、痛覚を与え、退かせることができたのだ。その事実が、ヒナの精神にまとわりついていた「理不尽への恐怖」という呪いを完全に打ち砕いていた。
ヘイローの輝きは穏やかなものに戻り、ヒナの顔にはいつもの冷静で、少しだけ面倒くさそうな、風紀委員長としての落ち着きが戻っていた。
「ヒナッ!!」
背後から声がしたかと思うと、突然、強い力で身体を抱き寄せられた。
「え……?」
ヒナが目を丸くする。
振り返ると、煤と油で真っ黒に汚れたトシビが、ヒナの細い身体を両腕でしっかりと抱きしめていたのだ。
彼の体からは強烈な機械油と汗の匂いがしたが、その温もりは間違いなく、必死に生き抜いた人間の熱だった。
「お前、すげえよ! 本当にすげえ! あの化け物の装甲をぶち抜くなんて! おかげで助かった、本当にありがとう!!」
トシビは興奮冷めやらぬ様子で、満面の笑みを浮かべながらヒナの背中をバシバシと叩いた。
「ちゅ、祝のハグだ!! いやー、本当によかった! お前が立ち直ってくれて!」
トシビはそう叫んだ直後、ハッと我に返った。
(……やべっ)
彼は無意識のうちに、嬉しさのあまりヒナに抱きついてしまったのだ。
相手はあのゲヘナ学園の頂点に立つ、空崎ヒナである。いくら友人とはいえ、普段の彼女であれば「気安く触らないでくれる?」と冷たい視線を向けられ、最悪の場合は機関銃の台尻でみぞおちを殴られても文句は言えない。
「あ、いや、すまん! テンション上がっちまって、つい……」
トシビが慌てて腕を離し、一歩後ろへ退こうとした。
しかし。
「……いいわよ、別に」
「……え?」
トシビは目を瞬かせた。
ヒナは彼から離れるどころか、逆に自分から少しだけ距離を詰め、トシビの汚れた作業着の胸元に、コトンと小さく額を押し当ててきたのだ。
「ヒ、ヒナ……?」
「……本当に、うるさいわね。少しだけ……静かにして」
ヒナの声は、いつもの凛としたものではなく、ひどく穏やかで、少しだけ甘えるような響きを帯びていた。
彼女は両腕をそっとトシビの背中に回し、目を閉じた。
トシビの心臓の音が聞こえる。力強く、生命力に溢れた鼓動。それが、ヒナの心に安らぎを与えていた。
(……トシビが信じてくれなかったら、私はずっと、あの恐怖に怯えたままだった)
彼が必死に機関車を走らせ、戦い、そして自分の力を信じ抜いてくれたからこそ、ヒナは再び立ち上がることができた。この温かいハグは、単なる勝利の喜び以上の、深い感謝の表現だった。
「……ありがと、トシビ。あなたのおかげで、目が覚めたわ」
ヒナが胸元で小さく呟く。
トシビの脳内は完全に真っ白になっていた。
(うそだろ……あのヒナが、俺のハグを受け入れた……どころか、抱き返してきてる……!?)
煤だらけの顔が一気に赤く染まり、トシビの両手はどうしていいかわからずに空中で硬直していた。機械の修理なら何百時間でも集中できる彼だが、この状況を処理する演算能力は持ち合わせていない。
「あ、あぁ……うん……その……よかったな」
裏返った声で何とかそれだけを絞り出すと、トシビはロボットのようにぎこちない動きで、ヒナの背中にそっと手を添え返した。
ガタゴト、ガタゴト……。
傷ついたセンチュリー号は、静寂を取り戻した森の中を、確かなリズムで進んでいく。
ヒナの精神状態は完全に安定し、もはやあの化け物に対する恐れはない。
ここから先は、狩られるだけの逃走劇ではない。反撃の狼煙は、確かに上がったのだ。