バカが知らん島に飛ばされたらヒナに遭遇した件   作:UMC OGASOU

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泣き言は置いてゆけ

岩山をくり抜いて作られた旧式の整備ドックには、気が遠くなるほどの静寂が満ちていた。

外界から完全に隔絶されたこの空洞では、アランネア島特有の湿った霧も、木々を揺らす不気味な風の音も、狂気に支配された信者たちの呪詛も届かない。天井で頼りなく明滅する数本の古い蛍光灯が、冷たいコンクリートの床と、その中央で静かに佇む装甲機関車『センチュリー号』の無骨なシルエットを薄暗く照らし出していた。

 

「……」

 

空崎ヒナは、ドックの隅に置かれたボロボロのパイプ椅子に浅く腰掛け、自分の両手を見つめていた。

手には、先ほどの修理作業でこびりついた機械油と煤の汚れがまだ微かに残っている。ゲヘナ学園の風紀委員長として、普段なら絶対に許容できないほどの不衛生な状態だ。制服はあちこちが破れ、銀色の髪も埃を被っている。しかし、ヒナはそれを不快だとは思わなかった。むしろ、その汚れは、自分がただ守られるだけの存在から脱却し、共にこの絶望的な状況に抗ったという確かな「証」のように感じられた。

 

ヒナの視線の先には、壁に背を預けたまま深く目を閉じている日新トシビの姿があった。

彼は先ほどの修理作業を終えた後、泥のように眠りに落ちていた。油まみれの作業着、頬に刻まれた生々しい切り傷、そして極度の疲労を物語る浅い呼吸。ミレニアムサイエンススクールのエンジニアである彼にとって、この数日間の過酷なサバイバルと、先ほどの異形『チャールズ』との死闘、そして限界を超えた徹夜の修理作業は、明らかに常人のキャパシティをとうに超えていた。

 

(……本当に、無茶な人ね。非戦闘員だというのに、誰よりも傷だらけになって……)

 

ヒナは小さく溜め息をついた。

キヴォトスにいた頃の彼を知っているからこそ、今の彼の姿は痛々しくもあり、同時に信じられないほど大きく、頼もしく見えた。自分が恐怖にすくみ上がり、何もできずにいた時、彼は震える手で操縦桿を握り、機銃を撃ち、自分を守り抜いてくれた。その背中がなければ、ヒナは今頃、あの巨大な蜘蛛の脚を持つ怪物の餌食になっていたはずだ。

 

(……私は、少し休んだ方がいいかしら。明日に備えて)

 

ヒナは目を閉じようとした。しかし、極度の疲労感があるにもかかわらず、脳の芯の部分が異様に冴え渡っており、全く眠気が訪れる気配がなかった。

目を閉じると、再びあのチャールズの青白い顔面や、狂信者たちの血走った目がフラッシュバックしそうになる。それを打ち消すように、ヒナは無意識のうちにトシビの寝顔へと視線を戻していた。

 

その時だった。

 

「……う……ぁ……っ……」

 

壁際で眠っていたトシビの口から、苦しげな呻き声が漏れた。

ヒナはハッと顔を上げ、彼の様子を窺った。

トシビの表情は、先ほどまでの安らかな寝顔から一変していた。眉間に深い皺が刻まれ、閉じた瞼の奥で眼球が激しく動いている。油で汚れた額には、ドックの冷気とは不釣り合いなほどの大量の冷や汗が吹き出していた。

 

「……やめろ……くるな……」

 

トシビの身体が小刻みに震え始める。彼は夢を見ているのだ。ただの夢ではない。この島で経験した、想像を絶する恐怖と絶望の記憶が、彼の脳内で最悪の悪夢となって再生されているのは明らかだった。

 

ヒナはパイプ椅子から立ち上がり、音を立てないようにトシビの側へと歩み寄った。

彼の震える肩に手を伸ばしかけ、しかし空中でその手を止める。起こすべきか、それともこのままやり過ごすべきか。迷っている間にも、トシビの呻き声は次第に切実なものへと変わっていった。

 

「……じいさん……逃げてくれ……俺の、ために……っ……」

 

トシビの口から紡がれたのは、彼をこの島で最初に救い、そして彼を生かすために自らを犠牲にした恩人、ユージンの名前だった。

狂信者たちに囲まれ、チャールズが迫り来る中、トシビを逃がすために散弾銃一つで立ち塞がった老人の姿。そのトラウマは、トシビの心にヒナが想像する以上の深い傷と罪悪感を刻み込んでいたのだ。

 

「……ごめん……俺は……戦え、ない……」

 

トシビの声が、急激に弱々しくなっていく。

悪夢の中で、彼は絶望的な状況に追い詰められているのだろう。弾薬は尽き、ボイラーの火は消え、四方八方を狂気に満ちた怪物と人間たちに囲まれている。そんな逃げ場のない闇の中で、トシビの心が、限界を迎えた肉体の疲労と同調するように、ついに限界を超えて崩れ落ちようとしていた。

 

「……もう……いいかな……」

 

トシビの唇が、微かに動いた。

ヒナは息を呑み、彼の顔に耳を近づけた。

 

「……今、楽になる。そうすれば、この苦痛からは逃れられる……」

 

それは、あまりにも悲痛で、弱々しい呟きだった。

戦うのをやめれば。センチュリー号の操縦桿から手を離し、迫り来る死を受け入れれば、この張り裂けそうな恐怖からも、極限の疲労からも、そしてユージンを死なせてしまったという重い十字架からも、すべて解放される。

極限状態に置かれた人間の心が、防衛本能として「死」や「諦め」という甘い逃避に魅入られてしまう瞬間。トシビは今、夢の中でその漆黒の深淵に足を踏み入れようとしていた。

 

「トシビ……!」

 

ヒナの胸が、鋭い痛みとともに激しく締め付けられた。

彼がこれほどまでにギリギリの精神状態で戦っていたなんて。いつも自分を励まし、気丈に振る舞ってくれていた笑顔の裏で、彼は一人、底知れぬ絶望と戦い続けていたのだ。

ヒナは思わず、彼をその闇から引き摺り出そうと、強くその肩を揺さぶろうと手を伸ばした。

 

しかし。

ヒナの手が彼に触れる直前。

 

「……っ!!」

 

トシビの目が、カッと見開かれた。

彼はまるで溺れていた水底から水面へと急浮上したかのように、大きく息を吸い込み、激しくむせた。

 

「はぁっ……! はぁっ……はぁっ……!!」

 

虚空を見つめる瞳は焦点が定まらず、恐怖と混乱に満ちていた。彼の身体は激しく震え、呼吸はひどく乱れている。彼自身の脳が提示した「諦め」という甘い誘惑と、現実の恐怖がない交ぜになり、自分が今どこにいるのかすら把握できていないようだった。

 

「トシビ! 大丈夫、ここは安全よ! 私がいるわ!」

 

ヒナが声をかけようとした、その瞬間だった。

 

——パァンッ!!!

 

ドックの静寂を切り裂くような、乾いた高い音が響き渡った。

ヒナは目を丸くして、その場に立ち尽くした。

 

トシビは、自分自身の右手で、自らの頬を全力で平手打ちしていたのだ。

容赦のない一撃。油で汚れた頬が赤く腫れ上がり、その衝撃でトシビの顔が横へと弾かれる。

 

「……っ……、甘ったれんな……!」

 

トシビはギリッと歯を食いしばり、まだ震えている己の両手を強く握りしめた。

その瞳から、先ほどの混乱と絶望の濁りが急速に消え去っていく。代わりに宿ったのは、自らの弱さを決して許さない、鋼のような強い意志の光だった。

 

彼は作業着の胸ポケットに手を入れると、大切に布で包まれた小さな物体を取り出した。

それは、古びた真鍮製の懐中時計だった。表面は黒く焦げ、ガラス面には無数のひびが入っている。それは間違いなく、あの炎の中で彼を逃がしてくれたユージン老人が身につけていた遺品だった。

 

トシビはその懐中時計を両手で包み込むように握りしめ、額に押し当てた。

 

「……じいさん。ごめん、少しだけ弱音を吐きそうになった。……でも、大丈夫だ」

 

トシビの声は、まだ少し掠れていたが、先ほどの夢の中の脆弱さは微塵も残っていなかった。

 

「……俺は、あんたに生かされたんだ。この命は、俺だけのものじゃない。こんなところで、立ち止まって楽になる権利なんて、俺にはないんだ」

 

トシビはゆっくりと顔を上げ、ドックの中央に鎮座するセンチュリー号を見つめた。

満身創痍でありながらも、先ほどの修理によって再び走る力を取り戻した鉄の獣。それはユージンが遺した希望であり、トシビが受け継いだ未来そのものだった。

 

「……でも、ユージンとの約束を果たさないといけない……センチュリーの灯を燃やせ」

 

自分自身に言い聞かせるように、トシビはその誓いの言葉を口にした。

それは、彼の心を縛る呪いではなく、暗闇を切り裂くための道標だった。彼は懐中時計を再び胸ポケットへと丁寧にしまうと、壁に手をついて、ゆっくりと、しかし力強い足取りで立ち上がった。

 

彼の足はまだ微かに震えていた。頬は赤く腫れ、疲労は少しも抜けていないはずだ。

それでも、彼は迷うことなくセンチュリー号の機関部へと歩み寄った。

 

「……トシビ、あなた……」

 

ヒナは呆然とその背中を見つめていた。

自分が声をかける前に、彼は自らの力で絶望の淵から這い上がり、再び前を向いたのだ。その精神の強靭さは、キヴォトスで圧倒的な武力を誇るヒナから見ても、畏敬の念を抱かざるを得ないものだった。

 

トシビはヒナの視線に気づくと、いつものように少しだけ口角を上げて笑ってみせた。

 

「……悪い、ヒナ。起こしちまったか。変な夢を見て、ちょっと寝ぼけてたみたいだ」

「……変な夢って。あなた、顔が赤く腫れているじゃない。それに、まだ休まないと……」

「いや、いいんだ。もう十分休んだ。それに……」

 

トシビは機関車のボイラー室のハッチを開け、横に立てかけられていたシャベルを手に取った。

 

「……止まっていたら、余計なことを考えちまう。今は、こいつの火を絶やさないことだけを考えたいんだ。……試運転も兼ねて、圧力を維持しておく必要があるしな」

 

トシビはそう言うと、ドックの隅に積まれていた石炭の山からシャベルで炭を掬い上げ、ボイラーの炉内へと勢いよく放り込み始めた。

ザクッ、ゴオォォォ……!

燃え残っていた種火が新しい石炭を喰らい、再び力強い炎を上げて燃え盛り始める。炉内から溢れ出すオレンジ色の光が、ドックの薄暗い空間を鮮やかに照らし出した。

 

熱気が顔を叩く。

トシビはシャベルを振るい、黙々と石炭をくべ続ける。

その動きは決してスマートなものではない。洗練された戦闘技術でも、スマートなエンジニアリングでもない。ただ泥臭く、不器用に、命を繋ぐための炎を燃やし続けるだけの作業。

汗が彼の額から滴り落ち、炎の光を反射して輝いている。煤と油に塗れた作業着、傷だらけの顔、そして決意に満ちた瞳。

 

ヒナは、その光景から目が離せなくなっていた。

 

(……ああ。なんて……)

 

ヒナの心臓が、トクン、と大きく鳴った。

恐怖による動悸ではない。戦闘の高揚感でもない。

胸の奥深く、今まで感じたことのない場所が、じんわりと温かくなり、そして甘い痛みを持って締め付けられるような感覚。

 

(……なんて、綺麗な横顔なの……)

 

トシビの横顔を見つめるヒナの瞳が、僅かに潤みを帯びていた。

ゲヘナの風紀委員長として、彼女は常に「強さ」を求められてきたし、彼女自身もそうありたいと願ってきた。だからこそ、彼女の周囲には彼女を恐れる者か、頼る者しかいなかった。

しかし、目の前にいるこの少年はどうだ。

彼は圧倒的な武力を持っているわけではない。恐怖に怯え、悪夢に魘され、弱音を吐きそうになる普通の人間だ。それでも、自らの頬を叩き、震える足で立ち上がり、泥に塗れながらも前に進もうとする。

その「弱さを知った上での強さ」が、ヒナの心を強烈に揺さぶっていた。

 

(私……トシビのこと……)

 

先ほど、彼が「祝のハグだ」と言って抱きしめてきた時の記憶が蘇る。

あの時の、強く生命力に溢れた心音。機械油と汗の匂い。彼の背中に回した自分の手の感触。

そのすべてが、ヒナの脳内で鮮明に再生され、彼女の頬を急速に熱くしていった。

 

(……好き、なのかしら。私……この人のことが……)

 

ヒナは自分の感情の正体に気づき、ハッと息を呑んだ。

頭上にあるヘイローが、彼女の動揺を示すように、紫色の光をふわりと明滅させる。

ヒナ・ソラサキ。ゲヘナ学園の頂点に立ち、常に冷徹に風紀を取り締まる彼女が、「恋心」というあまりにも個人的で、制御不能な感情を抱いてしまったのだ。

 

「……っ、何を考えているのよ、私は……」

 

ヒナは慌てて目を逸らし、自分の頬を両手でパシッと挟み込んだ。

顔が火のように熱い。こんな顔をトシビに見られたら、どんな顔をされるかわからない。

 

(今は戦場よ。命がかかっているのに、何を馬鹿なことを……。それに、私たちはキヴォトスに帰れるかどうかもわからない絶望的な状況にいるのよ。恋愛なんて、そんな浮かれた感情を抱いている余裕なんて……)

 

ヒナは自分自身を叱咤し、風紀委員長としての理性を取り戻そうとした。

論理的に考えれば、彼女の言う通りだ。ここは狂気と死が隣り合わせの異世界であり、彼らは常に命の危機に晒されている。生き残るための生存戦略と、戦術的な思考だけを優先すべき状況だ。

 

(そうよ。私は彼を守らなきゃいけない。友人として、戦力として。……余計な感情は、今は封印するのよ、空崎ヒナ)

 

ヒナは深呼吸を繰り返し、高鳴る心臓を必死に落ち着かせようとした。

しかし——。

 

「……よし、これで圧力は安定したな」

 

シャベルを置き、額の汗を手の甲で拭うトシビの声。

その無防備で、少しだけ誇らしげな横顔を見た瞬間。

 

(……だめね。……全然、やめられそうにないわ)

 

ヒナの理性は、あえなく白旗を上げていた。

戦場であろうと、絶望の淵であろうと、人を想う心は制御できるものではない。

ボイラーの炎に照らされた彼の背中から、どうしても目を離すことができなかった。

彼が傷つくのを見たくない。彼と共に、この地獄を抜け出したい。彼が守ろうとしているこの『センチュリー号』の灯を、自分も一緒に守り抜きたい。

 

「……どうした、ヒナ? 顔が赤いぞ。やっぱりどこか具合が……」

「なっ、何でもないわよ! 少し……ボイラーの火が熱いだけ!」

 

心配そうに覗き込んでくるトシビに対し、ヒナは少しだけ声を裏返らせながら顔を背けた。

普段の彼女なら絶対にしないような、年相応の少女らしい反応。

トシビは不思議そうに首を傾げたが、それ以上は追及してこなかった。

 

「……そっか。まぁ、確かにここは少し熱すぎるかもな。……でも、この熱が今はありがたい」

 

トシビは優しく笑い、再びセンチュリー号の装甲を撫でた。

 

「……ええ。そうね。……本当に、温かいわ」

 

ヒナもまた、パイプ椅子から立ち上がり、トシビの隣へと並んだ。

二人の間には、言葉以上の確かな絆と、今はまだ言葉にできない淡い熱が横たわっていた。

外の世界では相変わらず濃霧が渦巻き、狂気が彼らを付け狙っている。しかし、この小さなドックの中で燃え続けるボイラーの火と、ヒナの胸に灯った小さな恋心は、いかなる暗闇にも決して消されることはない。

 

センチュリーの灯は、今、二人の心の中で力強く燃え上がっていた。

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