バカが知らん島に飛ばされたらヒナに遭遇した件 作:UMC OGASOU
岩山をくり抜いて作られた秘密の整備ドック。外の世界を支配する濃密な霧と狂気から隔絶されたその空間で、センチュリー号は静かに息を吹き返そうとしていた。
ボイラーの中で燃え盛る石炭の炎が、冷え切った鉄の車体を内側から温め、脈打つような蒸気の鼓動を響かせている。
「……よし。圧力は規定値まで上昇。各バルブの蒸気漏れもなし。シャフトのバランスも、応急処置としては完璧だ」
運転席で計器盤と睨み合っていたトシビが、煤で汚れた顔に安堵の笑みを浮かべて振り返った。彼の視線の先には、壁際のベンチに腰掛け、静かに目を閉じている空崎ヒナの姿がある。
「ヒナ、出発の準備が整った。……体調はどうだ? 昨夜はあまり眠れなかったんじゃないか?」
トシビの気遣うような声に、ヒナはゆっくりと目を開けた。
紫色の瞳が、ボイラーの炎を反射して静かに揺らめく。昨夜、彼が絶望的な悪夢から自力で這い上がり、泥臭く炎を燃やし続ける姿を見てからというもの、彼女の胸の奥には、今まで感じたことのない温かくもくすぐったい感情が居座り続けていた。
しかし、彼女はゲヘナ学園の風紀委員長だ。そんな個人的な感情を、これからの命懸けの逃避行に持ち込むつもりは毛頭なかった。
「……ええ、問題ないわ。十分な休息は取れたし、頭もはっきりしている。いつでも出られるわよ、トシビ」
ヒナは立ち上がり、傍らに立てかけてあった自身の身の丈ほどもある巨大な機関銃、『終幕:デストロイヤー』を軽々と持ち上げた。鈍い金属光沢を放つその銃は、彼女の細い腕にはあまりにも不釣り合いだが、今のヒナにとっては、自分と彼を守るための最も信頼できる相棒だった。
「わかった。それじゃあ、ドックのゲートを開ける。ここから先は、またあの化け物どもが徘徊する地獄だ。……気を引き締めていこう」
トシビがレバーを引くと、ドックの入り口を塞いでいた巨大な鉄格子が、重々しい地響きを立てながらゆっくりと上昇していった。
同時に、外の世界から冷たく湿った霧が、這い寄るようにドック内へと流れ込んでくる。不気味な静寂と、得体の知れない腐臭。一瞬にして、空気が張り詰めた戦場のそれへと変わった。
「センチュリー号、発進する!」
トシビが操縦桿を押し込む。
ガコンッ、という重い連結音とともに、車輪が鉄のレールを噛んだ。シューゥゥゥッ!と高圧の蒸気が吐き出され、満身創痍の装甲機関車は再び、濃霧に覆われたアランネア島の森の中へと躍り出た。
外の世界は、相変わらずの白一色だった。
視界は数十メートル先すら曖昧で、木々のシルエットがまるで亡霊のように浮かび上がっては、後方へと流れ去っていく。レールが軋む音と、センチュリー号のエンジン音だけが、不気味なほど静まり返った森に響き渡っていた。
「……嫌な静けさね」
ヒナは機関室の窓から外を睨みつけながら、ぽつりと呟いた。
「ああ。狂信者どものバリケードも見当たらない。……嵐の前の静けさってやつかもしれないな」
トシビは操縦桿を握る手に力を込め、前方から片時も視線を外さずに答えた。彼の横顔は真剣そのもので、昨夜見せたような弱さは微塵も感じられない。
ヒナはそんな彼の横顔を視界の端に捉えながら、自身のヘイローに意識を集中させた。
彼女の頭上に浮かぶ紫色の幾何学模様のヘイローは、キヴォトスの生徒が持つ「神秘」の証であり、同時に彼女の精神状態を映し出す鏡でもある。昨日の彼女は、巨大なチャールズの理不尽な恐怖に当てられ、ヘイローの光を不規則に明滅させてしまっていた。
だが、今は違う。ヘイローは力強く、静かに、そして揺るぎない輝きを放っている。
(私はもう、怯えたりしない。……私が、この人を守るんだから)
ヒナが胸の中でそう決意を新たにした、その時だった。
——カサカサカサカサカサカサッ……!
濃霧の奥から、無数の「何か」が這い回るような、硬質で不快な音が聞こえてきた。
それは、あの巨大なチャールズが発していた地響きを伴う重い足音ではない。もっと軽く、しかし圧倒的な数を感じさせる、耳障りな摩擦音の集合体だった。
「……何、今の音」
「ヒナ、前方だ! 霧の中から何かが来る!」
トシビの鋭い声に、ヒナは窓ガラスに張り付くようにして前方を凝視した。
白い霧が渦を巻き、その奥から現れたのは——悪夢をそのまま小さくしたような異形の群れだった。
「あれは……チャールズの……子ども!?」
トシビが驚愕の声を上げる。
線路の上、そして両脇の木々から姿を現したのは、全長2メートルほどの、小型の蜘蛛型機関車だった。巨大なチャールズをそのまま縮小したような赤いボイラーの胴体に、金属の節くれだった八本の脚。
ただ一つ違うのは、前面に張り付いているのが人間の顔ではなく、のっぺりとした不気味な鉄の仮面だということだ。仮面の奥からは赤いセンサーのような光が漏れ、群れ全体が一つの生き物のように統率された動きで、猛烈なスピードでセンチュリー号へと迫り来ていた。
その数は、ざっと見ても数十体は下らない。
『キチキチキチキチッ!!』
耳障りな金属音の鳴き声を上げながら、チャールズの幼体群は一斉に跳躍した。
ガキンッ! ガガガガッ!
数体がセンチュリー号の前面装甲に張り付き、鋭い脚の先端で装甲板を削り始める。さらに後続の幼体たちが、車体の側面に次々と取り付き、這い上がろうとしていた。
「くそっ、こいつら、装甲を食い破る気か! このままじゃ機関室に侵入される!」
トシビは操縦桿を激しく揺さぶり、車体を左右に振って幼体たちを振り落とそうとするが、相手は蜘蛛のように強固なグリップ力で張り付いており、ビクともしない。
「トシビ、上部のハッチを開けて」
「ヒナ!?」
ヒナの声は、驚くほど冷静だった。
彼女はすでに『終幕:デストロイヤー』を構え、機関室の天井にある脱出用ハッチを見上げていた。
「私が上に出るわ。このままじゃ、あなたが操縦に集中できない。……面倒だけど、私が全部まとめて片付ける」
「無茶だ! 車体の上は足場が悪いし、奴らに囲まれたら……!」
「私を誰だと思っているの?」
ヒナは振り返り、トシビに向かって不敵に微笑んだ。
「ゲヘナ学園風紀委員長、空崎ヒナよ。この程度の羽虫の群れ、私の敵じゃないわ」
その瞳に宿る圧倒的な自信と、揺るぎない覚悟。
トシビは一瞬言葉を失ったが、すぐに彼女の強さを思い出し、力強く頷いた。
「……わかった。俺は絶対に、こいつのスピードを落とさない! ヒナ、足元には気をつけてくれよ!」
トシビがレバーを引き、天井のハッチが勢いよく開け放たれた。
同時に、冷たい暴風と濃霧が車内へと吹き込んでくる。ヒナは軽やかな身のこなしで機関室のコンソールを蹴り上げると、そのまま車体の屋根の上へと躍り出た。
「さあ……お掃除の時間よ」
屋根の上に降り立ったヒナの視界には、センチュリー号の周囲に群がる無数の幼体たちの姿があった。
獲物が自ら姿を現したことに気づいた幼体群は、『キキィッ!』と歓喜のような金属音を上げ、一斉にヒナへと標的を変えて屋根の上へと這い上がってくる。
前方から、側面から、そして後方から。
逃げ場のない包囲網。普通の人間であれば、その不気味な光景を見ただけで腰を抜かしていただろう。
しかし、ヒナはただ静かに息を吸い込み、目を閉じた。
(……トシビが、私のために機関車を走らせてくれている。なら、私は私の仕事を、完璧にこなすだけ……!)
カッ——!!
ヒナが目を見開いた瞬間。
彼女の頭上に浮かぶ紫色のヘイローが、まるで超新星爆発を起こしたかのように、爆発的な輝きを放った。
濃密な霧がその光によって一瞬にして吹き飛ばされ、薄暗かった森が、神々しいまでの紫色の光に照らし出される。
『……!?』
突如として放たれた圧倒的な神秘のプレッシャーに、幼体群の動きが一瞬、ピタリと止まった。
「……消えなさい」
ヒナは静かに呟くと、『終幕:デストロイヤー』の巨大な銃身を水平に構え、引き金を引いた。
——ドロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロッ!!!!
耳を劈くような凄まじい爆音とともに、機関銃の銃口からオレンジ色のマズルフラッシュが猛烈な勢いで噴き出した。
キヴォトスの神秘を帯びた大口径の徹甲弾。それは単なる物理的な破壊力を超え、触れるもの全てを粉砕する「暴力の権化」となって、幼体群へと降り注いだ。
ガガァァァァァァァンッ!!
メシャァァァァッ!!
先頭を走っていた数体の幼体が、銃弾の嵐を浴びて一瞬にして木端微塵に粉砕される。赤い装甲が飴細工のようにひしゃげ、機械の部品と黒いオイルが空中にぶち撒けられた。
ヒナの射撃は、ただの乱れ撃ちではない。
風紀委員長として数多の戦場を駆け抜けてきた彼女のエイムは、極限の状況下においても冷酷なまでに正確だった。
激しく揺れる車体の上で、彼女は強靭な体幹で反動を完全に殺し、まるで精密機械のように銃口を滑らせていく。
「トシビ! 右舷後方、少し車体を傾けて!」
屋根の上から、ヒナの通る声が響く。
「了解だ!!」
機関室のトシビが、ヒナの指示に即座に反応した。
彼は操縦桿を巧みに操り、カーブの遠心力を利用してセンチュリー号の車体を僅かに右へと傾ける。
その瞬間、右側面にへばりついて死角に隠れていた幼体群が、ヒナの射線上に完全に露出した。
「……そこね!」
ダダダダダダダダダッ!!
容赦のない弾幕が、露出した幼体たちを次々とハチの巣に変えていく。悲鳴を上げる間もなく、装甲を撃ち抜かれた幼体たちは車体から剥がれ落ち、後方の線路へと無残に転がっていった。
「次、前方! まっすぐ突っ込んで!」
「任せろ!! ボイラー出力、最大!!」
トシビが石炭を限界までくべ、蒸気圧を上げる。
センチュリー号が咆哮を上げ、加速する。
前方から線路を塞ぐように迫ってくる数十体の幼体群。ヒナはその真正面に仁王立ちになり、弾帯が尽きる勢いで機関銃を連射し続けた。
圧倒的な火力の壁。
ヒナの放つ弾丸の雨は、幼体群がセンチュリー号に触れることすら許さなかった。迫り来る端から次々と撃ち抜かれ、粉砕され、爆発していく。紫色のヘイローの光と、マズルフラッシュの閃光が交差する光景は、もはや恐怖や絶望を微塵も感じさせない、一方的で圧倒的な蹂躙劇だった。
(すごい……!)
機関室で操縦桿を握りながら、トシビは上空で繰り広げられる惨劇……いや、美しすぎる防衛戦に、戦慄すら覚えていた。
これが、キヴォトス最強の一角と呼ばれる生徒の真の力。
だが、それ以上にトシビの心を震わせたのは、彼女との「繋がり」だった。
ヒナが的確な指示を出し、トシビがセンチュリー号を操って彼女の射線を確保し、最高の環境を整える。
トシビの操縦技術と、ヒナの圧倒的な火力。
それは、言葉を交わすよりも雄弁な、完璧な連携(コンビネーション)だった。
非戦闘員のエンジニアと、最強の風紀委員長。決して交わるはずのなかった二人の能力が、この絶望の世界で一つの巨大な力となって、敵を粉砕していく。
「トシビ、ラストよ! 左側の木の上!」
「姿勢制御、合わせる! 撃ち抜け、ヒナ!!」
トシビがブレーキを絶妙に調整し、車体の揺れを一瞬だけ完全に相殺する。
ヒナの足元に、岩のような安定感が生まれた。
ヒナは銃口を左上空へと跳ね上げた。
木々の枝から、センチュリー号の屋根目掛けて跳躍してきた最後の数体。空中にいるため、回避行動は不可能。
「これで……終わりよっ!!」
——ドドドドドドドドドドドドドドッ!!!!
最後の一斉掃射。
空中で銃弾を浴びた幼体たちは、まるで空中で静止したかのように弾き飛ばされ、そのまま霧の奥深くへと墜落していった。
ガチャンッ!
撃ち尽くした機関銃から、最後の空薬莢が屋根の上に転がり落ちる。
静寂が、戻ってきた。
センチュリー号の周囲には、幼体たちの残骸が点々と散らばっているだけで、動くものは何一つ残されていなかった。
「……ふぅ」
ヒナは小さく息を吐き出し、熱を帯びた銃身を下ろした。
風が吹き抜け、彼女の髪がサラサラと揺れる。
ヘイローの強烈な輝きはゆっくりと穏やかな光へと戻り、彼女の顔には、微かな疲労と、それ以上の充実感が浮かんでいた。
ヒナがハッチから機関室へと降りてくると、トシビが興奮冷めやらぬ様子で出迎えた。
「すげえ……! 本当にすげえよ、ヒナ! あんな数の化け物を、一人で全部片付けちまうなんて!」
「……一人じゃないわ」
ヒナは機関銃を壁に立てかけると、トシビの方を真っ直ぐに見つめた。
「あなたが、私の射ちやすいように完璧に車体を動かしてくれたからよ。……トシビの操縦がなければ、あんなにスムーズにはいかなかったわ」
「お、俺の操縦……?」
トシビは目を丸くして、自分の両手を見た。
「ええ。あなたの操縦と、私の火力。……案外、いいコンビなのかもしれないわね、私たち」
ヒナはふっと、本当に嬉しそうに微笑んだ。
それは、普段の冷徹な風紀委員長の顔ではなく、一人の年相応の少女としての、心からの笑顔だった。
「……っ」
その笑顔の破壊力に、トシビは一瞬呼吸を忘れ、ドギマギと視線を泳がせた。
「そ、そうか! よかった、俺も少しは役に立てたみたいで! はははっ!」
「ふふっ。何よ、照れてるの?」
「て、照れてねえよ! ほら、前見てないと危ないからな!」
トシビは慌てて前を向き、操縦桿を握り直した。
その後ろ姿を見つめながら、ヒナはそっと自分の胸に手を当てた。
戦闘の興奮とは違う、心地よい鼓動。
この絶望に満ちた世界で、彼と背中を預け合い、共に戦い抜くこと。それが今、ヒナにとって何よりも得難い、確かな希望となっていた。
「……頼りにしているわよ、トシビ」
ヒナの静かな呟きは、機関車の力強い駆動音に溶け込み、霧の向こうへと消えていった。