ええ、はい。
あれは10歳になって2ヶ月ほど経った日のことでした。
両親を刺したんです。
まず母を刺して、それから数時間後、帰ってきた父を刺しました。
構ってもらいたかったんです。
祝ってもらいたかったんです。
必要と、されたかったんです。
どうやら私はこの十数年の間、彼らにとっては邪魔者のようでした。
大昔のブログには、産まれたばかりの私を抱き抱える楽しそうな彼らの姿がありました。
無責任で、お世辞にも賢いとは言えなかった彼らのことですから、きっと現実の子育てとはイメージよりもずっと難しく、煩わしいものだったのでしょう。
授業参観も、運動会も、面談も、入学式すら彼らが来てくれたことはありません。
七五三も、クリスマスも、正月も、誕生日すら彼らが祝ってくれたことはありません。
ええ、同居しているだけの他人だったのです。
ならば友人関係、学校に救いを求めようと、傍から見て危うい私に親は子を近付けようとはせず、教師からも腫れ物扱い、誰も私を必要とはしませんでした。
その判断を責めるつもりも、誤っていると宣うつもりもありません。
後に明確な意志の下に親を殺すのですから、むしろ正しかったのでしょう。
母が私に気付いたのは、包丁の刃が背から腹を貫いた後でした。
彼女は真面目でした。
当時32だった母はSNSのフォロワー数万人の期待に答えるために身体を絞り、健康に気を使い、メイクの勉強を怠りませんでした。
細い身体は私でも簡単に壊すことが出来ました。
最後まで、名前を呼んではくれなかったのです。
数時間後、すっかり冷たくなった愛する妻の姿と、彼女を亡き者にした犯人を見た父が真っ先に口にしたのは命乞いでした。
きっと私が包丁を握っていなくても、心配の言葉はかけてくれなかったのでしょう。
彼のモチベーションに高校時代のマドンナの存在はあっても、その間の子どもはモチベーション足り得なかった、ということです。
大慌てで逃げようとしたところで棚にぶつかった彼はその場に崩れ落ちました。
うつ伏せに倒れて意識を無くし、夫婦揃って最後まで私とは目が合いません。
今度はじっくりと狙いを定め、心臓を突き刺しました。
幸運に恵まれた彼の人生の最後はそんなものでした。
それから念のためもう何度か彼の身体を刺し、それから同じように冷たくなった母を刺し、2人の身体を並べました。
母にカーテンのレースを被せてあげました。
父の黒いジャケットを脱がせてあげました。
手を繋がせました。
唇を近づけました。
もしかしたら、奇跡的に息があったら、「ありがとう」と言ってくれるかもしれないと、そんなことを思っていたんです。
もちろん、そうはなりませんでしたが。
それから誰かが来る前に荷物をまとめて、家に残った100万円ほどの現金を持って私は家を出ました。
タクシーに乗って、遠く離れた田舎町に逃げました。
少し前、遠縁の親戚が亡くなった際、家の権利が父に回ってきたという話を聞いていたんです。
権利書に書かれた場所に向かってみると、人気のない山道に大きくも小さくもない平屋が建っていました。
遺品整理が終わってそれきりだったのでしょう、人の気配は一切なく、誰にも持っていかれなかった本だけが書斎に積まれ、それ以外はがらんどう。
都合が良かったので、私はその家で暮らし始めました。
晴れている日は庭の草刈りや散歩をしました。
雨の日は家で本を読みました。
1年ほど経って生活に慣れてきた頃、私は片道1時間ほどの公民館に行きました。
そこには小学校に入る前くらいの子供たちが預けられていました。
ここなら必要とされるかもしれないと、私は彼らの面倒を見ることにしたんです。
絵本を読み聞かせ、折り紙を教え、パズルを作ってあげました。
彼らは喜び、その親も私に感謝してくれました。
あんなに明るい声で「ありがとう」と聞いたのは初めてでした。
数年続けていると、子供たちは入れ替わりながらどんどん少なくなっていきました。
この田舎町から引っ越していったのです。
引き留める権利なんて私に存在するはずがありません。
それを教えてくれた子供たち、自ら引っ越しのことを教えてくれる子供たち、私はそれを知ることしか出来ませんでした。
連絡先も知らなければ、行方すら分かりません。
当然のように、彼らの物語に私は必要なものではなかったのです。
そして流行り病を悪くして一週間ほど寝込み、ようやく回復したある日。
子どもがいなくなった公民館を重機が潰していました。
管理人のおじいさんが亡くなったのだと、そう教えてくれました。
それがつい先日のこと。
結局、ここにも私を必要としてくれる誰かはいなかったのでした。
それでは、21時頃にお会いしましょう。