ふつつかな悪女たち ―消えた蝶と二匹の鼠―   作:京安藤しーぷ

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第一章 箒星の夜、二人が沈む

乞巧節(きっこうせつ)の夜は、雛宮の誰もが待ちわびる祭りである。とりわけ乞巧楼の高欄からは、池を望む灯籠の群れが一望できるとあって、雛女たちの多くがその場所を選んだ。

 

星々に願いを捧げる灯籠が池の水面に浮かび、笛と琴の音が渡殿の向こうまで流れてくる。玲琳は今宵ばかりは政務の顔を脇に置き、静かに池のほとりで灯籠を見つめていた。

 

薄物を重ねた、気橡の衣に、控えめな刺繍が一筋。紅もわずかにしか差していない。それでいて誰の目にも留まる清らかさを纏うのが、玲琳という人だった。

 

「玲琳様」

 

背後から声をかけてきたのは、朱慧月だった。

 

振り返った玲琳の視線が、一瞬だけ泳ぐ。慧月の装いは、雛女のものとは思えないほど華やかだった。胸元も肩も大胆に開いた蘇芳の衣に、金糸の刺繍がこれ見よがしに躍り、唇には濃い紅、目元にも影を落とすほどの化粧が施されている。雛宮という場においては、それはあまりに浮いた姿だった。

 

「今宵はまた、随分と気合の入った装いですね」

 

玲琳がそう告げると、慧月は片方の眉を吊り上げ、挑むような笑みを浮かべた。

 

「別に。ただの気まぐれよ」

 

その声にはいつもの刺々しさがあったが、どこか落ち着かない色も混じっていた。玲琳がその違和感を確かめる間もなく、渡殿の向こうでどよめきが起こる。

 

「――箒星だ!」

 

誰かが夜空を指差して叫んだ。長い尾を引く光の筋が、群青の空をゆっくりと横切っていく。人々は一斉に顔を上げ、灯籠も、笛の音も、その場の全てが夜空の一点に吸い寄せられた。

 

玲琳もまた、思わず視線を空へと向けた。

 

その隙だった。

 

――忌々しい女。消えるがいいわ。

 

胸の内でそう呟いたのは、玲琳のすぐ後ろに立っていた慧月だった。誰にも聞こえぬその一言と共に、伸ばした指先が玲琳の背に触れる。

 

背に軽い衝撃を受け、玲琳の体は欄干の外へと押し出される。振り向く暇もなかった。伸ばした手が空を切り、視界が反転する。

 

冷たい水が、全身を包んだ。

 

水面の下は思いのほか静かだった。灯籠の光が水越しに揺らめき、遠い夢のように歪んで見える。誰も気づいていない。皆が見ているのは、頭上を渡る箒星だけだ。

 

息が続かなくなる寸前、体の奥で何かが軋むような、抜け落ちるような感覚があった。それが恐怖のせいなのか、それとも別の何かのせいなのか、玲琳自身にも判然としないまま、意識が沈んでいく。

 

箒星が尾を消す頃になって、ようやく池のほとりの異変に人々が気づいた。

 

宿直の鷲官たちが慌てて池に駆けつけ、灯りを掲げて水面を照らす。浮かび上がってきたのは、一人だけだった。

 

纏っているのは、玲琳が好んで身につける、気橡の衣。しかし引き上げられたその顔も、体つきも、玲琳のものではなかった。

 

「……朱、慧月様?」

 

鷲官の一人が、戸惑いながらその名を呼ぶ。

 

意識を失ったまま横たえられたその人物の衣の裾からは、水がとめどなく滴り落ちていた。化粧はすっかり水に流れ、素顔に近い顔立ちが露わになっていたが、それでもなお、そこにあるのは間違いなく朱慧月の顔だった。ただし、その身に纏っているのは玲琳の衣という、ちぐはぐな姿で。

 

人々はその様を遠巻きに眺めながら、誰もが同じ問いを胸の内で繰り返す。

 

――では、玲琳様は。

 

欄干のそばにも、もう一つ倒れている影があった。誰も気に留めていなかったその慧月は、水に落ちるでもなく、ただその場にくずおれるように崩れ落ちていた。指先まで力なく投げ出され、まるで魂だけをどこかに引き抜かれたかのように、微動だにしない。

 

灯籠だけが、誰もいなくなった水面に、いくつも浮かんでいた。

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