ふつつかな悪女たち ―消えた蝶と二匹の鼠― 作:京安藤しーぷ
女官たちが慌てて駆け寄り、大広間は騒然となった。
皇后は、女官に支えられて、ゆっくりと身を起こした。
「……体調が優れぬ。中座の非礼を、詫びる」
掠れた声だった。そのまま退出しようとする皇后の前に、玲琳は、迷わず進み出て跪いた。
「皇后様。わたくしも、黄麒宮に連れて行ってくださいませ。看病の心得がございます」
「侍医より優れた腕前と申すのか」
「……いったい、何を考えている、朱慧月」
低い声は、
皇后は、しばし玲琳を見下ろしていた。それから、ごほりと咳き込みながら、静かに口を開いた。
「……良かろう、
「皇后様!」
傍らの藤黄の女官たちが、慌てて割って入ろうとする。皇后は、それを手で制した。
「誠意を測るための行為が、容易であってよいはずがない。……あの弓は、弦音で病魔を怯えさせ、的を射る音で祓うという。私の回復を祈って、一晩中、弓を弾けたなら、お前に害意がないことを認め、看病を許そう。……ごほ、ごほ」
慧月如きに国宝を任せるなど、という空気がその場に満ちていた。だが皇后の言葉に、誰も強くは異を唱えられなかった。
「……謹んで、お受けいたします」
かくして、徹夜の弓は、玲琳――否、皆の目には「朱慧月」として――が引き受けることとなった。
徹夜弓といっても、大仰なものではなかった。
宮の片隅、人目につかない小さな祠の前に、的が一つ据えられただけの、ささやかな場だった。松明が数本、辺りをぼんやりと照らしている。国宝の弓は、思っていたよりも、ずっと素朴な佇まいをしていた。
「なんで、わたくしまでこんな場所に。まだ足だって痛いのに」
慧月が、恨めしげにこぼす。
「慧月さま」
玲琳は、的から目を離さずに答えた。
「あなたが玲琳だったら、皇后陛下のために、一緒に祈るのは当然です。身内の危機なのですから。黄家の女として、一緒に根性を見せましょう。わたくしが寝そうになったら、起こしてください」
「いや、あなた、どう見ても寝そうにないじゃない」
「あと、もしもの時は、代わりに弾いてください」
慧月は、返す言葉を探したが、結局、何も言えなかった。弓を一目見て、げんなりした声を漏らす。
「これを、一晩かけて、幾度も射るのですか」
慧月が、弓を一目見て、げんなりした声を漏らす。
「ええ。夜通し、的に向かい続けることに意味があるのだそうです」
玲琳は、渡された弓を静かに構えた。幼い頃、病弱な体を鍛える名目で、手ほどきを受けたことがあった。弦を引く感触に、体が自然と思い出していく。
矢が、闇の中を鋭く裂いて、的の端を掠めた。
「……まあまあね」
「多少は、心得がございます」
慧月にも、型だけは教えたが、その腕前は玲琳の足元にも及ばなかった。交代はできない。慧月は、万一に備えて傍に控えているだけだった。それでも、玲琳が夜を通して弓を引き続ける間、慧月も、最後まで付き合い続けた。
夜も更けた頃、慧月が、疲れ切った声で言った。
「そもそも、この弓は、玄家管轄の水の気の強い神器でしょう。わたくしとは相性が悪いのよ」
慧月は、わざとらしく息をつく。
「鷲官長は、玄家の血筋なのだから、あの人に弾いてもらえばいいじゃない」
「それはいけません」
玲琳は、弓を引く手を止めずに答えた。
「皇后様との約束ですから。それに、徹夜の弓は、一番根性が試される行為です。皇后様は、わたくしの根性と誠意を測っておいでなのです」
「あなたのそういうところ、前から言いたかったんだけど」
慧月は、呆れ顔で言い放った。
「猪ね」
「えっ……」
足首の痛みを庇いながら、傍に控え続ける慧月の額には、いつしか玉のような汗が浮かんでいた。だが、弱音を吐くことはなかった。
夜が更けるにつれ、周囲に控える巫女や女官たちの間から、ぽつりぽつりと言葉が漏れ聞こえてくるようになった。
「ネズミが二匹そろったところで、できることなんて何もないわ」
嘲るような囁きだった。
「それにしても、玲琳様は、どこにいらっしゃるのかしら」
「……本当に、玲琳様は、お戻りになるのかしら」
「あの気高いお方が、こんなことになるなんて」
誰にも聞かれていないと思っているのだろう、ひそやかな囁きだった。玲琳は、弦を引く手を止めぬまま、その声をただ黙って聞いていた。自分自身の不在を惜しむ声を、当の本人が、すぐ傍らで聞いている。奇妙なことだと、他人事のように思った。
夜半、
「……これ、さっきのが、まだ丸々残ってるじゃない。雛女様、今度こそ食事は取るっと言ったではないですか?聞いてます?」
先に届けられていた膳は二つあった。慧月の分だけが空になり、玲琳の分は、手つかずのまま冷えて置かれている。莉莉の声には、呆れと心配が半々に滲んでいた。
玲琳は、的から目を離さなかった。放たれた矢が、中心のわずか手前に突き立つ。
「惜しい、もう少しで……あら、莉莉。次の食事は、芋にするというお話だったかしら?」
「矢より先に、会話の的中率を上げろよ」
慧月が、思わずというように、小さく噴き出した。莉莉は、じろりと慧月を睨むと、そちらに向き直った。
「あんただけ食べてるじゃない。もう一人の雛女様を、ちゃんと止めて、食事ぐらいさせなさいよ」
「止めたわよ。聞かないんだもの、この人」
慧月が、視線を逸らしたまま、ぼそりと答える。予備の弓を抱えた手つきが、心なしか強張っていた。
「痛むなら痛むって言いなさいよ。意地張ってないで」
「痛くないったら」
明らかに嘘だと分かる、硬い声だった。莉莉は小さくため息をつくと、盆を置いた。張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩む。玲琳は、その様子を横目に見ながら、静かに次の矢を番えた。
放たれた矢は、闇を裂いて、的の中心を射抜いた。
弦音が、澄んだ余韻を残して消えていく。すると、宮を満たす空気が、ほんのわずかに、軽くなったような気がした。柱を這っていた小さな蜘蛛が、ぴたりと動きを止めた。気のせいかと思うほどの、かすかな変化だった。
夜明けが近づく頃、玲琳はふと、弓を構えたまま、微かな気配に気がついた。
小さな蜘蛛が一匹、黄麒宮を這っていた気配があるはずだった。それが、いつの間にか、掻き消えている。代わりに感じたのは――もっと大きな、禍々しい何かが、宮の奥、黄麒宮の方角へと、ゆっくり這い進んでいくような、そんな気配だった。
「……今、何か」
玲琳は、隣に控えていた慧月に、そっと囁いた。
「小さな蜘蛛が、消えていくような気がしました」
その一言に、慧月の顔から、みるみる血の気が引いていった。
「――まさか」
慧月は、予備の弓を握る手を強張らせたまま、独り言のように呟いた。
「蠱毒……? いえ、そんなはずは。……でも、だとしたら、あれを使えるのは、まさか、あの方」
その言葉に玲琳もまた、言葉を失った。夜明けの薄闇の中、二人の間に重い沈黙が落ちた。
そのときだった。黄麒宮の方角から、わっと歓声が上がった。
「皇后様が、目を覚ましたぞ!」
安堵に満ちた声が、夜明けの空に響き渡る。胸には、先ほど這い進んでいった、あの禍々しい気配が、重く残ったままだった。それでも、一晩中張り詰めていた糸が、その声を聞いた途端、ふっと切れた。
「……あ」
足元が、ぐらりと揺れた。手から滑り落ちた弓が、からん、と乾いた音を立てる。
「ちょっと、あなた!」
慧月の叫び声が、遠くなっていく。倒れ込みながら、玲琳は、ぼんやりと思った。
――ああ、折角の8日間の連続気絶無し記録が……。
ーーーーーーーー
あっ 次回 蟲毒返し。 最終回予定
18日ごろに更新でき・・・るよう頑張らせます。
お楽しみに。