ふつつかな悪女たち ―消えた蝶と二匹の鼠―   作:京安藤しーぷ

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第十章 徹夜弓

 

女官たちが慌てて駆け寄り、大広間は騒然となった。黄玲琳(こうれいりん)が消えて以来の心労が、積もりに積もっていたのだろう。

 

皇后は、女官に支えられて、ゆっくりと身を起こした。

 

「……体調が優れぬ。中座の非礼を、詫びる」

 

掠れた声だった。そのまま退出しようとする皇后の前に、玲琳は、迷わず進み出て跪いた。

 

「皇后様。わたくしも、黄麒宮に連れて行ってくださいませ。看病の心得がございます」

 

「侍医より優れた腕前と申すのか」

 

「……いったい、何を考えている、朱慧月」

 

低い声は、尭明(ぎょうめい)のものだった。咎めるような目が、玲琳に向けられている。玲琳は、顔を上げなかった。

 

皇后は、しばし玲琳を見下ろしていた。それから、ごほりと咳き込みながら、静かに口を開いた。

 

「……良かろう、朱慧月(しゅけいげつ)。ただし、看病の機会ではない。破魔の弓を持て」

 

「皇后様!」

 

傍らの藤黄の女官たちが、慌てて割って入ろうとする。皇后は、それを手で制した。

 

「誠意を測るための行為が、容易であってよいはずがない。……あの弓は、弦音で病魔を怯えさせ、的を射る音で祓うという。私の回復を祈って、一晩中、弓を弾けたなら、お前に害意がないことを認め、看病を許そう。……ごほ、ごほ」

 

慧月如きに国宝を任せるなど、という空気がその場に満ちていた。だが皇后の言葉に、誰も強くは異を唱えられなかった。

 

「……謹んで、お受けいたします」

 

かくして、徹夜の弓は、玲琳――否、皆の目には「朱慧月」として――が引き受けることとなった。

 

徹夜弓といっても、大仰なものではなかった。

 

宮の片隅、人目につかない小さな祠の前に、的が一つ据えられただけの、ささやかな場だった。松明が数本、辺りをぼんやりと照らしている。国宝の弓は、思っていたよりも、ずっと素朴な佇まいをしていた。

 

「なんで、わたくしまでこんな場所に。まだ足だって痛いのに」

 

慧月が、恨めしげにこぼす。

 

「慧月さま」

 

玲琳は、的から目を離さずに答えた。

 

「あなたが玲琳だったら、皇后陛下のために、一緒に祈るのは当然です。身内の危機なのですから。黄家の女として、一緒に根性を見せましょう。わたくしが寝そうになったら、起こしてください」

 

「いや、あなた、どう見ても寝そうにないじゃない」

 

「あと、もしもの時は、代わりに弾いてください」

 

慧月は、返す言葉を探したが、結局、何も言えなかった。弓を一目見て、げんなりした声を漏らす。

 

「これを、一晩かけて、幾度も射るのですか」

 

慧月が、弓を一目見て、げんなりした声を漏らす。

 

「ええ。夜通し、的に向かい続けることに意味があるのだそうです」

 

玲琳は、渡された弓を静かに構えた。幼い頃、病弱な体を鍛える名目で、手ほどきを受けたことがあった。弦を引く感触に、体が自然と思い出していく。

 

矢が、闇の中を鋭く裂いて、的の端を掠めた。

 

「……まあまあね」

 

「多少は、心得がございます」

 

慧月にも、型だけは教えたが、その腕前は玲琳の足元にも及ばなかった。交代はできない。慧月は、万一に備えて傍に控えているだけだった。それでも、玲琳が夜を通して弓を引き続ける間、慧月も、最後まで付き合い続けた。

 

夜も更けた頃、慧月が、疲れ切った声で言った。

 

「そもそも、この弓は、玄家管轄の水の気の強い神器でしょう。わたくしとは相性が悪いのよ」

 

慧月は、わざとらしく息をつく。

 

「鷲官長は、玄家の血筋なのだから、あの人に弾いてもらえばいいじゃない」

 

「それはいけません」

 

玲琳は、弓を引く手を止めずに答えた。

 

「皇后様との約束ですから。それに、徹夜の弓は、一番根性が試される行為です。皇后様は、わたくしの根性と誠意を測っておいでなのです」

 

「あなたのそういうところ、前から言いたかったんだけど」

 

慧月は、呆れ顔で言い放った。

 

「猪ね」

 

「えっ……」

 

足首の痛みを庇いながら、傍に控え続ける慧月の額には、いつしか玉のような汗が浮かんでいた。だが、弱音を吐くことはなかった。

 

夜が更けるにつれ、周囲に控える巫女や女官たちの間から、ぽつりぽつりと言葉が漏れ聞こえてくるようになった。

 

「ネズミが二匹そろったところで、できることなんて何もないわ」

 

嘲るような囁きだった。

 

「それにしても、玲琳様は、どこにいらっしゃるのかしら」

 

「……本当に、玲琳様は、お戻りになるのかしら」

 

「あの気高いお方が、こんなことになるなんて」

 

誰にも聞かれていないと思っているのだろう、ひそやかな囁きだった。玲琳は、弦を引く手を止めぬまま、その声をただ黙って聞いていた。自分自身の不在を惜しむ声を、当の本人が、すぐ傍らで聞いている。奇妙なことだと、他人事のように思った。

 

夜半、莉莉(りーりー)が新しい揚げ芋を盆に載せて運んできた。だが、盆を置こうとした手が、ふと止まる。

 

「……これ、さっきのが、まだ丸々残ってるじゃない。雛女様、今度こそ食事は取るっと言ったではないですか?聞いてます?」

 

先に届けられていた膳は二つあった。慧月の分だけが空になり、玲琳の分は、手つかずのまま冷えて置かれている。莉莉の声には、呆れと心配が半々に滲んでいた。

 

玲琳は、的から目を離さなかった。放たれた矢が、中心のわずか手前に突き立つ。

 

「惜しい、もう少しで……あら、莉莉。次の食事は、芋にするというお話だったかしら?」

 

「矢より先に、会話の的中率を上げろよ」

 

慧月が、思わずというように、小さく噴き出した。莉莉は、じろりと慧月を睨むと、そちらに向き直った。

 

「あんただけ食べてるじゃない。もう一人の雛女様を、ちゃんと止めて、食事ぐらいさせなさいよ」

 

「止めたわよ。聞かないんだもの、この人」

 

慧月が、視線を逸らしたまま、ぼそりと答える。予備の弓を抱えた手つきが、心なしか強張っていた。

 

「痛むなら痛むって言いなさいよ。意地張ってないで」

 

「痛くないったら」

 

明らかに嘘だと分かる、硬い声だった。莉莉は小さくため息をつくと、盆を置いた。張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩む。玲琳は、その様子を横目に見ながら、静かに次の矢を番えた。

 

放たれた矢は、闇を裂いて、的の中心を射抜いた。

 

弦音が、澄んだ余韻を残して消えていく。すると、宮を満たす空気が、ほんのわずかに、軽くなったような気がした。柱を這っていた小さな蜘蛛が、ぴたりと動きを止めた。気のせいかと思うほどの、かすかな変化だった。

 

夜明けが近づく頃、玲琳はふと、弓を構えたまま、微かな気配に気がついた。

 

小さな蜘蛛が一匹、黄麒宮を這っていた気配があるはずだった。それが、いつの間にか、掻き消えている。代わりに感じたのは――もっと大きな、禍々しい何かが、宮の奥、黄麒宮の方角へと、ゆっくり這い進んでいくような、そんな気配だった。

 

「……今、何か」

 

玲琳は、隣に控えていた慧月に、そっと囁いた。

 

「小さな蜘蛛が、消えていくような気がしました」

 

その一言に、慧月の顔から、みるみる血の気が引いていった。

 

「――まさか」

 

慧月は、予備の弓を握る手を強張らせたまま、独り言のように呟いた。

 

「蠱毒……? いえ、そんなはずは。……でも、だとしたら、あれを使えるのは、まさか、あの方」

 

その言葉に玲琳もまた、言葉を失った。夜明けの薄闇の中、二人の間に重い沈黙が落ちた。

 

そのときだった。黄麒宮の方角から、わっと歓声が上がった。

 

「皇后様が、目を覚ましたぞ!」

 

安堵に満ちた声が、夜明けの空に響き渡る。胸には、先ほど這い進んでいった、あの禍々しい気配が、重く残ったままだった。それでも、一晩中張り詰めていた糸が、その声を聞いた途端、ふっと切れた。

 

「……あ」

 

足元が、ぐらりと揺れた。手から滑り落ちた弓が、からん、と乾いた音を立てる。

 

「ちょっと、あなた!」

 

慧月の叫び声が、遠くなっていく。倒れ込みながら、玲琳は、ぼんやりと思った。

 

――ああ、折角の8日間の連続気絶無し記録が……。

 






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あっ 次回 蟲毒返し。 最終回予定

18日ごろに更新でき・・・るよう頑張らせます。


お楽しみに。
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