ふつつかな悪女たち ―消えた蝶と二匹の鼠― 作:京安藤しーぷ
数日後、
見慣れた旧食糧庫の天井が、ぼんやりと視界に映っている。枕元には、ばつの悪そうな顔をした
「……
体を起こした玲琳が、静かに問う。慧月は、唇を噛んでから、ようやく口を開いた。
「生き物同士を殺し合わせて、最後に残った一匹に、恨みも呪いも全部背負わせる術よ。……朱駒宮には、
「朱貴妃様……」
「朱家の、後宮での頂点に立つお方。昔は、陛下の芙蓉と例えられた、立派な方だったそうよ。けれど、男の御子を早産なさって、皇后になれず、貴妃に留まられた方」
慧月は、そこで一度言葉を切り、続けた。
「小さな蜘蛛は消えたんじゃない。弱っただけ。弱ったから、皇后様は意識を取り戻したのよ」
それ以上は、慧月も多くを語ろうとしなかった。だが、あの夜感じた気配――小さな蜘蛛の気配が弱まり、代わりに大きな蜘蛛が黄麒宮へと這い進んでいった、あの感覚――が、何を意味するのか、二人の間では、もはや疑いようがなかった。
玲琳は、これまでの出来事を、静かに頭の中で並べ直していく。
皇后の体調が崩れ始めたのは、玲琳が消えてすぐのこと。蠱毒特有とされる、原因の知れぬ衰弱と意識の混濁。そして、黄麒宮の方角へ向かう禍々しい気配。
「――小さな蜘蛛と、大きな蜘蛛」
玲琳は、ぽつりと呟いた。
「昨夜感じたのは、二匹分の気配だったように思います。恐らく、蠱毒の壺も二つ」
「二つ……?」
「一つだけなら、消えた気配はもっと小さく、単純なものだったはず。ですがあの夜感じたものには、明らかに二つの質の違う気配が混じっていました」
慧月は、しばし黙り込んでから重い息を吐いた。
「つまり、蠱毒返しも、二度やらなきゃならないってこと」
「恐らくは」
そこへ、
玲琳が眠っている間に、皇后は、一度は持ち直したかに見えたものの、再び床に伏せっていたのだという。今度は、前よりも遥かに重い。意識が戻らぬまま、呼吸すら浅くなっていく、と。
侍医たちが匙を投げかけていると聞いて、玲琳は、確信を深めた。これは病ではない。
「このままでは、保って数日かと」
莉莉が伝えた侍医の言葉に、玲琳の顔から血の気が引いた。
「破魔の弓や正規の手続きを待っている暇は、ありません」
玲琳は、静かにそう告げた。疑いの身の慧月の言葉で、上に事を上申したところで、取り合ってもらえる見込みは薄い。ならば、今この手でできることをするしかなかった。
莉莉が伝えた侍医の言葉に、慧月の顔から血の気が引いた。
玲琳は、拳を握りしめた。蠱毒だと訴えたところで、取り合ってもらえる見込みは薄い。ならば、今この手でできることをするしかなかった。
「何か、良い手はありませんか?」
慧月は、しばらく唇を噛んでいたが、やがて絞り出すように言った。
「こ、蠱毒返ししか、ないわね」
「蠱毒返し」
「でも、それには、虫たちの共食いを勝ち残った蜘蛛よりも、強い虫が必要だわ。そんな時間なんて……」
「待ってください」
玲琳は、はっとして顔を上げた。
「前に、壺にしまった虫さんたちが」
二人は、畑の隅へ駆けた。並べて置いた二つの壺の蓋を開けると、それぞれの壺で、共食いを勝ち残った虫が一匹ずつ、蠢いていた。
「あったわ。これで、蠱毒返しができるわ」
慧月が、息を呑む。だが、すぐに顔を曇らせた。
「でも、二回も蠱毒返しができるだけの気が足りないかも」
「小さい蜘蛛さんは、弱っているのでしょう? でしたら、気を少なめにしたら、いかがでしょう」
「……そうね。弱めの蜘蛛には気を少なめに。大きい二回目の蜘蛛には気を多めに」
「蠱毒返しを、行います」
二つの壺を旧食糧庫の奥へ運び込み、玲琳と慧月は、夜陰に紛れて向かい合った。莉莉は、戸口の外の物陰で、見張りに立っている。
蠱毒返しの要領は、玲琳も完全に心得ているわけではなかった。それでも、慧月の朧げな記憶と知識を頼りに、術の道筋を一つずつ手探りで辿っていく。
一度目は、存外あっさりと終わった。小さな蜘蛛の気配を辿り、それに見合うだけの、小さな壺。術が通った瞬間、周りの空気が、ふっと軽くなったように感じられた。
「……これで、一つ」
だが、安堵する間もなかった。まだ、大きな方が残っている。
二度目の術が、佳境に差し掛かった頃だった。
「――随分と、熱心なことね」
闇の奥から、静かな声がした。
「慧月。何をしようとしているのです。」
朱色の衣を纏った、見覚えのある女人が供も連れず、ただ一人でゆっくりと姿を現す。
「朱貴妃様……」
慧月が、掠れた声で呟いた。
女人は、戸口の方へ顔を向けた。
「頭が高いですわよ。異国の娘風情が。」
その声を聞いた途端、戸口の外で、莉莉が息を呑んだ。
「
思わず漏れた声だった。見た目はまるで違う。だが、この声だけは忘れようがなかった。
女人――
立ち居振る舞いの格――あまりにも違いすぎた。
「今更正体がバレたところで、誰もここには来ない」
その言葉に、莉莉が息を呑むのが分かった。これまで自分を追い詰めてきた相手の正体が、まさかここで明かされるとは、思ってもみなかったのだろう。
「術をお止めなさい。慧月」
慧月は、答えなかった。壺に添えた手が、小さく震えている。それを見て取ると、朱雅媚は、懐から簪を一本抜いた。次の瞬間、音もなく玲琳の背後へ回り込み、その首筋に、先端を押し当てる。
「――離して!」
戸口から、莉莉が飛び込んできた。
「ここで中断すれば、その術者がどうなるか――お二人とも、よくご存知のはずよ」
朱雅媚の声には、余裕があった。玲琳を人質に取られ、莉莉も慧月も、動くに動けない。
「……なぜ、こんなことを」
慧月が、声を絞り出す。
「慧月、壺から手を離しなさい。さもないと、どうなるか分かっているわね」
朱雅媚の意識が慧月への言葉に向いた、ほんの刹那だった。玲琳は、隙ありと背後の朱雅媚の脇腹に、渾身の肘鉄を叩き込んだ。
「ぐっ……!」
簪が、からん、と床に落ちる。それと同時に足元の壺が、内側から弾けるように割れ、大きな百足がのたうちながら這い出した。虫が自由になれば、術の行方は読めなくなる。
慧月は、恐怖に顔を歪めた。
「――っ、来るな!」
足が竦んで、動けない。拘束を振りほどいた玲琳は、その勢いのまま、一歩踏み出した。迷わず、這い出した百足を足の裏で踏みつける。
鈍い感触が、足の裏に伝わった。
旧食糧庫の空気が、大きく震えた。二度目の蠱毒返しが、完遂された瞬間だった。
「……やった、の……?」
慧月が震える声で呟く。
その瞬間、朱雅媚の顔から余裕が消えた。
「いや……来ないで……!」
何かに怯えるように、朱雅媚は顔を覆い、闇雲に腕を振り回して後ずさる。見えない何かから逃れようとするように、その目は、焦点を失っていた。蠱毒返しの返しが、術の主へと、跳ね返ったのだろう。
そこへ、戸口を蹴破る音が響いた。
「――そこまでだ!」
異変を察して駆けつけた、鷲官長・
その後ろから、もう一つの足音が駆け込んできた。皇太子・
尭明は、床に膝をついていた玲琳を見るなり、迷わず駆け寄り、朱慧月の姿をしたその体を、強く抱きしめた。
「無事で、よかった」
「殿下」
玲琳は、抱きしめられたまま、静かに言った。
「朱貴妃様は、もう捕まっていますので、落ち着いてください」
その「殿下」という呼び方に、尭明は、胸を痛めたように、わずかに息を詰めた。
そのときだった。空が暗雲で満ちていく。龍気だった。
「ひっ、空に龍気が……!」
慧月が、青ざめて叫ぶ。
「早く、何か言ってあげて!」
慧月は、玲琳の言葉を封じていた術を、解いた。
「……どうしたら、俺は許してもらえる」
尭明の声は、掠れていた。
「殿下、許すも何も。わたくしは、朱慧月にございます」
「じゃあ、あっちが玲琳だとでも言うのか?」
尭明が、慧月の方を睨む。
「それに、どちらかが玲琳でなければ、辻褄が合わない」
「もういいから、言いなさい、黄玲琳」
慧月が、呆れたように、玲琳の背を押した。
「あちらは、認めているぞ」
玲琳は、ゆっくりと顔を上げた。
「では、殿下。許すための条件を申し上げます」
静かな声だった。
「一つ。もし、わたくしが胡蝶に戻れた時に、また朱慧月の姿になる機会をお許しください。二つ。朱慧月様の罪を問わないこと。三つ。朱雅媚様の罪の裁決は、伯母様である皇后陛下がお決めになること。以上でございます」
玲琳は、少し微笑んだ。
「また朱慧月の姿になったとき、もし殿下が、わたくしを黄玲琳だと認めてくださったなら、その時はまた殿下の胡蝶になってさしあげます」
「……ああ、分かった」
尭明は、深く、頷いた。
その直後、龍気は、静かに空へ溶けていった。
一方、黄麒宮では、皇后の容態が、目に見えて快方に向かっていた。意識がはっきりと戻り、粥を口にしたという報せに、宮中は安堵のどよめきに包まれた。
朱雅媚は、辰宇に取り押さえられ、皇后の裁決を待つ身となった。尭明が認めたため、後宮で今回の出来事は皇后に委ねられたのだ。本来であれば、皇帝陛下が決めるべきことだった。だが、彼女が何を思い、何のためにこれほどの企てを張り巡らせたのか――その全貌は、誰にも語られないままだった。
事件はひとまず、収束した。そして玲琳は、もう名乗ることができる。
ーーーーー
数日後、旧食糧庫。
「では、入れ替わりを解消しましょう」
玲琳が切り出すと、慧月は疑わしげに眉を寄せた。
「……入れ替わってないですよね? 私たち、見た目が変わっただけで」
「ええ見た目だけです。ですから、解けば戻るはずです」
「術を解いたら、何か変わるかもしれないじゃない。……やってみる価値は、あるわね」
「もし術が解けて、元の体に戻れたとしたら、お友達になってくださいませんか?」
玲琳が、ふと、そう言った。慧月は、目を丸くする。
「と、友達? どうして? わたくしは、あなたを害しようと……」
「わたくし、この慧月様の体で、とっても健康で、良い思いをさせてもらいました」
玲琳は、穏やかに続けた。
「それに、お友達が欲しかったんです。慧月様、わたくしとお友達になってください」
慧月は、しばらく黙り込んでいた。それから、ぷいと顔を背ける。
「……ふん。仕方ないわね。黄玲琳」
術を解除すると、そこには、朱慧月と、黄玲琳の姿があった。
「戻れましたね」
玲琳が、自分の手を見下ろして、静かに微笑む。
「二人とも、胡蝶にならなくて良かったですね」
「黄玲琳、何を不吉なことを」
殿下の胡蝶である黄玲琳が見つかり、二人いたネズミが、一匹に戻った。雛宮を取り巻く状況は、あまり変わっていない。ただ一つ、朱雅媚が、後宮を追放された。
次は、南領で豊穣祭を兼ねた外遊があるらしい。友となった慧月様との、初めての外遊だ。
鼠が二匹だろうと胡蝶が二匹だろうと、二人ならきっと乗り越えられるはず。
――豊穣祭編へ、続かない。
完
――――あとがき
ここまでご覧いただき、ありがとうございました。
AIに書いてもらった、京安藤しーぷです。
もしよろしければ、評価、感想をお待ちしております。
「二匹の胡蝶と失われしネズミ」は、さすがに作らないですね。AIにも聞いてみましたが、原作に寄りすぎてしまって、難しいとのことでした。
病弱な玲琳が二人では詰んでしまいますし、玲琳が元気になってしまっては、原作どおりになってしまいます。
2期が冬に控えていて、待ち遠しいですね。
ピッコマでは、10月末まで、原作が1日4話ずつ読み放題だそうです(最新から2巻分を除く)。書き終わったので、原作を読みます。アニメだけで書くのは、さすがに厳しかったです。
本当に、ご覧くださってありがとうございました。毎回、投稿当日に読んでくださった方。読了率80%以上の4名の方々。お気に入りに入れてくださった2名の方々。ありがとうございます。
「入れ替わりが失敗したら、面白いんじゃね?」から生まれた、この作品。皆様が楽しめたなら、よかったと思います。
時間があれば、このSSの宣伝ショート動画でも作ってみます。