ふつつかな悪女たち ―消えた蝶と二匹の鼠―   作:京安藤しーぷ

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第二章 鼠が二人、蝶はいない

目を覚ましたとき、玲琳(れいりん)の意識は妙な浮遊感の中にあった。

 

見慣れた自分の寝所ではない。天蓋の色も、寝具の香も違う。体を起こそうとして、指先の感覚にすら違和感を覚えた。長く伸ばしていたはずの爪が短い。手そのものの大きさが違う。

 

異変に気づいたのは、褥のそばに置かれた鏡台に、ふと目をやった時だった。

 

映っていたのは、朱慧月(しゅけいげつ)の顔だった。

 

「――っ」

 

声にならない悲鳴が喉の奥でせき止められる。玲琳は震える指先で自分の頬に触れた。鏡の中の慧月も、同じ動きをする。他人事のように眺めていられたのは、ほんの数瞬のことだった。

 

戸の外で、慌ただしい足音がした。飛び込んできたのは、他でもない朱慧月――もう一人の朱慧月だった。

 

「――は? 何よこれ」

 

その声も、顔も、鏡の中の自分と寸分違わない。ただし纏っている衣だけが違った。玲琳の見慣れた黄橡の衣を、乱れたまま身につけている。

 

「なんで……」

 

慧月は自分の頬に手を当て、確かめるようにもう一度なぞった。

 

「入れ替わったはずなのに。なんで、私の顔のままなの」

 

慧月の声には隠しきれない苛立ちと、それ以上の怯えが滲んでいた。玲琳もまた、この状況を説明しなければならないと悟る。落ち着け、と自分に言い聞かせながら、口を開いた。

 

「私は――(黄玲琳なんです)」

 

そこで、喉が詰まった。

 

言葉にならない。「玲琳です」と続けるはずだった一言が、まるで見えない手で押し戻されるように、喉の奥に張りついて出てこない。何度息を吸っても、同じところで止まる。

 

「……私は(何故か慧月様と入れ替わっている)」

 

かろうじて絞り出せたのは、そこまでだった。

 

慧月が眉をひそめる。

 

「私は、何よ。はっきり言いなさいよ」

 

言えない。言おうとするたび、喉が細く締まり、目の奥に痛みに似た熱がこみ上げる。玲琳は自分の身に何が起きているのか、まだ半分も理解できていなかった。それでも一つだけ、はっきりと分かることがあった。

 

――自分は、「玲琳です」と名乗ることを、許されていない。

 

その苦しげな様子を見て、慧月の表情がふっと変わった。苛立ちが引き、代わりに何かに得心したような、酷薄な笑みが口の端に浮かぶ。

 

「……ああ、そう。そういうこと」

 

「私の道術のうち、入れ替わりに関することと、自分が玲琳だってことを、言えなくする分――どうやら、ちゃんと効いているみたい」

 

独り言のように呟いて、慧月の顔をした玲琳を、値踏みするように眺め回した。失敗した、と思っていた術は、思っていたのとは違う形で、確かに効力を発揮していたらしい。

 

玲琳は喉の痛みに耐えながら、その言葉の意味を必死に飲み込もうとした。これは事故ではない。少なくとも慧月にとっては、初めから仕組まれたことだったのだ。

 

「言えないなら、それでいいのよ」

 

慧月は身を屈め、玲琳の耳元に唇を寄せる。

 

「言えないけど――バラそうとしないことね」

 

その声には、脅すというよりも、確認するような静けさがあった。慧月は身を起こすと、何事もなかったかのように、乱れた衣の裾を払う。

 

沈黙が落ちる。慧月は視線を逸らすと、卓の上に置かれていた水盆に目を落とした。波紋が収まった水面に、二つの同じ顔が並んで映り込む。

 

「うり二つ、ね」

 

慧月が呟いた声には、皮肉とも自嘲ともつかない響きがあった。

 

その時、廊の向こうから、さらに慌ただしい足音と、幾人もの気配が近づいてくる。雛宮の女官たちが、異変を聞きつけて集まってきたのだ。戸口に立った女官の一人が、部屋の中の光景に絶句する。

 

「……慧月様が、お二人?」

 

囁きは瞬く間に伝播していく。誰の目にも、そこにいるのは朱慧月が二人。ただそれだけの光景だった。

 

玲琳は、何も言えないまま、ただその視線の中に立ち尽くしていた。




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