ふつつかな悪女たち ―消えた蝶と二匹の鼠― 作:京安藤しーぷ
目を覚ましたとき、
見慣れた自分の寝所ではない。天蓋の色も、寝具の香も違う。体を起こそうとして、指先の感覚にすら違和感を覚えた。長く伸ばしていたはずの爪が短い。手そのものの大きさが違う。
異変に気づいたのは、褥のそばに置かれた鏡台に、ふと目をやった時だった。
映っていたのは、
「――っ」
声にならない悲鳴が喉の奥でせき止められる。玲琳は震える指先で自分の頬に触れた。鏡の中の慧月も、同じ動きをする。他人事のように眺めていられたのは、ほんの数瞬のことだった。
戸の外で、慌ただしい足音がした。飛び込んできたのは、他でもない朱慧月――もう一人の朱慧月だった。
「――は? 何よこれ」
その声も、顔も、鏡の中の自分と寸分違わない。ただし纏っている衣だけが違った。玲琳の見慣れた黄橡の衣を、乱れたまま身につけている。
「なんで……」
慧月は自分の頬に手を当て、確かめるようにもう一度なぞった。
「入れ替わったはずなのに。なんで、私の顔のままなの」
慧月の声には隠しきれない苛立ちと、それ以上の怯えが滲んでいた。玲琳もまた、この状況を説明しなければならないと悟る。落ち着け、と自分に言い聞かせながら、口を開いた。
「私は――(黄玲琳なんです)」
そこで、喉が詰まった。
言葉にならない。「玲琳です」と続けるはずだった一言が、まるで見えない手で押し戻されるように、喉の奥に張りついて出てこない。何度息を吸っても、同じところで止まる。
「……私は(何故か慧月様と入れ替わっている)」
かろうじて絞り出せたのは、そこまでだった。
慧月が眉をひそめる。
「私は、何よ。はっきり言いなさいよ」
言えない。言おうとするたび、喉が細く締まり、目の奥に痛みに似た熱がこみ上げる。玲琳は自分の身に何が起きているのか、まだ半分も理解できていなかった。それでも一つだけ、はっきりと分かることがあった。
――自分は、「玲琳です」と名乗ることを、許されていない。
その苦しげな様子を見て、慧月の表情がふっと変わった。苛立ちが引き、代わりに何かに得心したような、酷薄な笑みが口の端に浮かぶ。
「……ああ、そう。そういうこと」
「私の道術のうち、入れ替わりに関することと、自分が玲琳だってことを、言えなくする分――どうやら、ちゃんと効いているみたい」
独り言のように呟いて、慧月の顔をした玲琳を、値踏みするように眺め回した。失敗した、と思っていた術は、思っていたのとは違う形で、確かに効力を発揮していたらしい。
玲琳は喉の痛みに耐えながら、その言葉の意味を必死に飲み込もうとした。これは事故ではない。少なくとも慧月にとっては、初めから仕組まれたことだったのだ。
「言えないなら、それでいいのよ」
慧月は身を屈め、玲琳の耳元に唇を寄せる。
「言えないけど――バラそうとしないことね」
その声には、脅すというよりも、確認するような静けさがあった。慧月は身を起こすと、何事もなかったかのように、乱れた衣の裾を払う。
沈黙が落ちる。慧月は視線を逸らすと、卓の上に置かれていた水盆に目を落とした。波紋が収まった水面に、二つの同じ顔が並んで映り込む。
「うり二つ、ね」
慧月が呟いた声には、皮肉とも自嘲ともつかない響きがあった。
その時、廊の向こうから、さらに慌ただしい足音と、幾人もの気配が近づいてくる。雛宮の女官たちが、異変を聞きつけて集まってきたのだ。戸口に立った女官の一人が、部屋の中の光景に絶句する。
「……慧月様が、お二人?」
囁きは瞬く間に伝播していく。誰の目にも、そこにいるのは朱慧月が二人。ただそれだけの光景だった。
玲琳は、何も言えないまま、ただその視線の中に立ち尽くしていた。
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