ふつつかな悪女たち ―消えた蝶と二匹の鼠―   作:京安藤しーぷ

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第三章 名乗れぬ罪

雛宮の一室に踏み込んできたのは、詠尭明(えいぎょうめい)その人だった。

 

皇太子という身分に相応しい足取りのはずが、この時ばかりは乱れていた。従妹である玲琳を、幼い頃からことのほか可愛がってきたその人は、報せを受けるや否や、供の者を置き去りにするようにして駆けつけたのだという。

 

「玲琳はどこだ」

 

戸口に立った尭明の目が、部屋の中の光景を捉える。同じ顔をした二人の女――どちらも朱慧月にしか見えぬ姿。その眉間に、深い皺が刻まれた。

 

「……これは、どういうことだ」

 

真っ先に口を開いたのは、玲琳の衣を纏った方の慧月だった。

 

「お兄様。わたくしです、玲琳です」

 

その声には、迷いを押し殺すような硬さがあった。本来ならば、もっと滑らかに紡げるはずの嘘だった。だが顔は変わらず自分のまま、術は思い描いていたようには働かなかった。それでも退くわけにはいかない。もしここで術を用いたことが露見すれば、雛女を害した咎で首が飛ぶ。玲琳を名乗り続けることだけが、慧月に残された唯一の道だった。

 

尭明の目に、一瞬だけ縋るような光が過ぎった。しかしそれも束の間、すぐに強い拒絶へと変わる。

 

自分が愛したのは、「殿下の胡蝶」と讃えられた玲琳だ。気高く、聡明で、誰よりも清らかなあの人が。よりにもよって「雛宮のドブネズミ」と蔑まれてきたこの女に――なるはずがない。頭のどこかで冷静な部分がまだ判断を保留にしていたとしても、心はその可能性を頑として拒んでいた。

 

「戯言を」

 

尭明は低く吐き捨てると、視線をもう一人へと移した。

 

「では、そちらは何者だ」

 

問われた玲琳は、言葉に詰まった。

 

突き落とされた時の浮遊感は、確かに覚えている。しかし気づいた時には、見知らぬ天井を仰いでいた。自分の手が、自分のものではなくなっていたことも。そこから先の経緯は、玲琳自身にもまるで分からない。

 

「わたくしは……(玲琳、中身が入れ替わってしまって)」

 

そう言えたなら、どれほど楽だったろう。だがその言葉は、いつものように喉の奥で押し留められる。答えようとするたび、何を聞かれたかによって、口をついて出る言葉の形が変わった。核心には決して触れられぬまま、輪郭だけをなぞるような受け答えしかできない。

 

「気づいたら、この部屋におりました」

 

「それだけか」

 

「……それだけです」

 

歯切れの悪い返答に、尭明の苛立ちは募るばかりだった。玲琳を庇う素振りも見せず、かといって己の潔白を証すこともできない。その煮え切らなさが、かえって疑いを深めていく。

 

「玲琳を名乗る者が二人。片方はまともに口も利けぬ。……いい加減にしろ」

 

尭明は拳を握りしめた。乞巧楼(きっこうろう)で何が起きたのか、目撃した者は誰もいない。玲琳が落ちた後の水面は見ていても、その直前、誰が何をしたのかは分からずじまいだ。証拠と呼べるものは何もない。それでも今、目の前にあるのは、消えた黄玲琳と、同じ顔をした二人の朱慧月という、動かしようのない現実だった。

 

「連れて行け。両方共だ」

 

鷲官たちが躊躇う素振りを見せる。相手はどちらも雛女――しかも片方は玲琳その人かもしれないのだ。だが尭明は聞く耳を持たなかった。

 

「同じ顔をしているのだろう。ならば、同じ人だ。同じ牢に放り込んでおけ」

 

頭に血が上ったままの一言だった。理屈になっていないと、尭明自身どこかで分かっていたのかもしれない。それでも今は、この耐え難い現実から目を逸らす術が、それしか見当たらなかった。

 

引き立てられていく二人の背に、尭明はもう一度だけ目をやった。

 

その眼差しの奥にあったものが何であったか、玲琳にも、慧月にも、知る由はなかった。

 

牢へ下ろされる前、僅かな騒ぎがあった。濡れたままの黄橡の衣を纏っていた慧月が、こらえきれずに小さなくしゃみをこぼしたのだ。冷え切った体に、女官の一人が慌てて無地の衣を持ってくる。

 

「風邪を召されては敵いません。これに、お着替えを」

 

有無を言わさぬ様子で、濡れた黄橡の衣は取り上げられ、代わりに何の飾りもない、女官が普段身につけるような地味な衣があてがわれた。

 

一方、玲琳の魂を宿した方の慧月は、乞巧楼で倒れて以来、水には触れていない。着替えを勧められることもなく、いつもの華美な蘇芳の衣のまま、牢へと引き立てられていく。

 

二人が纏う衣は、もはや対照的だった。片や慧月らしい派手な衣のまま、片や誰のものとも知れぬ地味な衣。だがそれが、どちらが玲琳であるかを示す手がかりになるわけではない。ただの偶然が生んだ、ちぐはぐな取り合わせに過ぎなかった。

 

地下牢の扉が、重い音を立てて閉じる。

 

灯りの類は、何も持ち込まれていなかった。牢の外、遠く離れた見張りの詰所にだけ、小さな灯りがあるらしい。そこから漏れる光は、石造りの通路の先でとうに力を失い、この一室までは届かない。

 

冷えた石畳の上、闇に慣れた目にようやく浮かび上がってきたのは、同じ顔をした二つの人影だった。互いに距離を置いたまま、どちらも動こうとしない。

 

沈黙だけが、長く続いていた。

 

 

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