ふつつかな悪女たち ―消えた蝶と二匹の鼠― 作:京安藤しーぷ
闇に目が慣れ始めた頃、沈黙を破ったのは慧月だった。
「いいこと。さっきのことは、誰にも言わないでちょうだい」
低く、抑えた声だった。先刻の勢いは鳴りを潜め、その声には焦りに似た響きが滲んでいる。
「道術がどうとか、入れ替わりがどうとか――そんな話、万が一にも表に出てみなさい。真っ先に疑われて処されるのは、わたくしよ。でも、それだけで済むと思う? あなただって、無事では済まないでしょうね」
玲琳は答えなかった。答えられなかった、というのが正しい。喉の奥に、あの重石のような感覚がまだ残っている。だが、それを差し引いても、この状況で自分に何ができるのか、玲琳自身にもまるで見当がついていなかった。慧月の言葉が正しいのか、それとも脅しに過ぎないのか、判じる材料すら持ち合わせていない。
「分かったら、大人しくしていることね」
言うだけ言って、慧月は口をつぐんだ。玲琳もまた、言葉を返せぬまま、闇の中に視線を落とすしかなかった。
牢の扉の向こうに、灯りが揺れた。
「――冬雪です」
短く名乗った声と共に、格子の外に置かれた燭台に火が入る。ぼんやりと浮かび上がったその人影に、玲琳の胸が微かに騒いだ。長年、自分に仕えてくれた女官の顔だった。
「玲琳様をどこへやったの、朱慧月」
冬雪の声は、静かだったが、刃のように鋭かった。格子越しに、灯りに照らされた二つの顔を見比べる。その視線に、寸分の揺らぎもない。
「――一人だけ、じゃないのね」
呟くように漏れたその一言に、これが冬雪にとっても初めて目の当たりにする光景であることが知れた。
先に口を開いたのは、玲琳の魂を宿した方の慧月――華美な蘇芳の衣を纏ったままの姿だった。
「冬雪、話を――」
「黙りなさい」
冬雪の一喝が、言葉を遮る。
「あなたのような者が、気安くわたしの名を呼ぶんじゃない」
取り付く島もない拒絶だった。玲琳は、喉の奥に苦いものがこみ上げるのを感じた。名乗ることさえ許されぬまま、慧月として断じられていく。これが、これから先も続くのだと思うと、目の前が昏くなるようだった。
「私が、玲琳よ」
代わって声を上げたのは、無地の衣に着替えさせられた方の慧月だった。膝を折り、格子に縋るようにして訴える。
「信じられないでしょうけど、本当なの。冬雪、あなただって知っているでしょう――」
一拍置いて、慧月は言葉を継いだ。
「あなたは私の大切な側付き女官。それに、私を叱る時、あなたはいつも一拍、深く息を吐いてから話し始める。今だってそう」
冬雪の眉が、ぴくりと動いた。前者はともかく、後者の癖は、確かに今しがた自分がしたばかりの仕草だった。誰かに見咎められていたのだと思うと、薄気味の悪さが背筋を這う。だが、それだけだった。
「……それがどうしたの。傍で見ていれば、誰でも気づくことでしょう」
「知っているからよ。私が黄玲琳だから」
慧月は畳みかけるように続ける。だがその声の端々に、玲琳への刺々しさが完全には隠しきれていないことに、玲琳自身は気づいていた。ずっと遠くから、憎しみを込めて見つめ続けてきた者だけが持ちうる、そういう歪んだ親密さが滲んでいた。
冬雪は、それでもなお押し黙った。突き放すような一言を放った後にしては、長すぎる沈黙だった。
「……知っていることと、その人であることは、違うでしょう」
絞り出すように、冬雪はそう答えた。声の固さの奥に、微かな揺らぎが滲んでいたことを、玲琳は聞き逃さなかった。それでもなお、容易くは頷かない意志があった。
その視線が、もう一人――玲琳へと移る。
「あなたは、何か言うことは」
問われて、玲琳は言葉に詰まった。
決定的な言葉なら、確かにある。月餅を毎年一緒に食べたこと、熱を出したときは必死に看病してくれたこと、同い年の弟のこと、「姉」と呼んでもいいと告げたあの日のこと――それを一息に語れたなら、冬雪の心にも届くはずだった。
だが、それを口にすれば、暗に「私は玲琳だ」と示すことになる。慧月の脅しが、まだ耳の奥にこびりついていた。今それを語ることで慧月様が処されてしまったら、元に戻れるなくなるかもしれない。つまり自分の首を絞める結果にならないという保証は、どこにもない。それにそこまで語ってしまうと、冬雪が慧月様に何をするか分からない。
「私は……(黄玲琳です)」
「それだけ?」
冬雪の声には、失望に似た響きがあった。玲琳を騙るあの慧月の、淀みない語り口に比べれば、今の自分の受け答えは、あまりに頼りなく映っているに違いなかった。
「玲琳様なら、こんな時こそ、もっと毅然としていらっしゃるはずよ」
その一言が、深く突き刺さった。まさにその通りだった。だが、毅然と振る舞おうにも、この身に許された言葉はあまりに少ない。「私は玲琳だ」と名乗ることも、「慧月と入れ替わってしまった」と説明することも、どちらも喉の奥で堰き止められてしまう。反論らしい反論は、その二つのどちらかに必ず触れてしまうのだ。だからこそ、何を言っても輪郭をなぞるだけの、頼りない言葉しか紡げなかった。
冬雪は、二人をそれぞれもう一度見やってから、静かに燭台を持ち上げた。
「明日、殿下の御前にて申し開きの場が設けられます。それまでに、何か思い出すことがあるなら――」
言いかけて、冬雪は一度言葉を切った。それから、誰に向けるでもなく、絞り出すように呟く。
「玲琳様なら、絶対に、こんなところで諦めたりなさらない」
灯りが遠ざかっていく。再び訪れた闇の中に、玲琳は一人、その言葉を噛みしめていた。
足音が完全に聞こえなくなった頃、玲琳はふと、自分の体の異様な軽さに気がついた。
これほどの一日を過ごしたというのに、熱の気配がまるでない。額に触れてみても、いつもの籠るような熱っぽさはなかった。試しに座ったまま両腕を高く伸ばしてみる。凝りも痛みも訪れない。もう少しと、膝を折って足を伸ばしてみても、筋が攣れる気配すらなかった。
半信半疑のまま、狭い牢の中で軽く足踏みをし、続けて反復横跳びの真似事をしてみる。数十を数えたところで、ようやく息が上がるかと身構えたが、拍子抜けするほど平然としていた。手首に指を当てて数えた脈は、驚くほど落ち着いている。
――こんなにも、健やかな体があるのか。
物心ついた頃から、床に伏す日の方が多かった。少し歩けば息が切れ、季節の変わり目には決まって熱を出した。動くことよりも、動かずに済む方法を考える方が得意になっていた。それが、今はどうだろう。この身一つで、どこまでも駆けていけそうな気さえした。
その時、暗がりの奥から小さな悲鳴が上がった。
「――ひぃーーーーっ、な、なに今の!」
慧月が、両腕で自分の体を抱くようにして後ずさっている。足元の暗がりを、黒く光る小さな影がすばやく横切っていった。続けて、壁際からかさこそという音。
「あ、あぶらむし? やだ、来ないで――」
「これくらい、どうということもありませんよ」
思わず口をついて出た言葉に、玲琳自身が一番驚いた。虫の這う音にも、物陰を走るねずみの気配にも、不思議と嫌悪が湧いてこない。それどころか、闇の中でどれだけの生き物が息をしているのか、耳を澄ませてみたいような、そんな余裕さえあった。
慧月が信じられないものを見るような目でこちらを睨んでくる。玲琳はそれに構わず、静かに壁にもたれかかった。
この体には、確かに、悪くないところがある。
そう思ってしまった自分に、玲琳は少しだけ戸惑った。誰かに――それも、よりにもよって慧月に――感謝のようなものを抱くなど、あってはならないはずだった。それでも今この瞬間、自分の胸に灯った小さな明るさを、なかったことにはできそうになかった。