ふつつかな悪女たち ―消えた蝶と二匹の鼠―   作:京安藤しーぷ

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第七章 畑に実りと油と塩

旧食糧庫に残された玲琳(れいりん)は、しばしその後ろ姿を見送ってから、静かに袖をたくし上げた。

 

嘆いていても、何も変わらない。それなら、動いた方がいい。

 

「声を出して参りましょう。」

 

外に出て、まず取りかかったのは草むしりだった。伸び放題の雑草を根から引き抜いていく作業は、単調で骨が折れたが、この頑健な体には、思いのほか苦にならなかった。汗を拭う暇もなく手を動かし続けていると、庫の裏手、日当たりの良い一角に、見覚えのある葉の形をいくつか見つけた。

 

放置された麻袋の中で、芋の類が芽を出していたのだ。

 

玲琳は目を凝らし、芽吹いたものを種類ごとに選り分け始めた。傷んだものは取り除き、まだ生きているものだけを、土を耕した一角へと植え直していく。

 

そうして没頭していると、庫の前の小道に、人の気配が立った。

 

宦官の文昴(ぶんこう)と、鷲官長の辰宇(しんう)だった。まだ玲琳に気づく前、二人はのんびりと言葉を交わしながら歩いてくる。

 

「ほら、あの女官。朱慧月(しゅけいげつ)の代わりに草むしりをさせられてるんですよ。本人はきっと今頃、部屋を出たくないって喚いてますよ」

 

「ほう、ならば賭けるか」

 

「精が出るな」

 

声に振り返る前、玲琳の頭にあったのは、また見回りの者が通りかかったのだろう、という程度のことだった。女官と変わらぬ身なりで草をむしっていれば、謹慎中の雛女だと気づく者など、そうはいるまい――そう思っていた。

 

だが振り返った先に立っていたのは、鷲官長の辰宇と、供の宦官が一人だった。宦官は、玲琳の顔をまじまじと見て、わずかに目を見開いた。

 

 

「ええーーー。……朱慧月?」

 

驚きを隠しきれない声だった。まさか雛女が、自ら土に汚れて草をむしっているとは、思いもしなかったのだろう。御前で見せた厳しい面持ちとは違う、素の驚きがそこにあった。

 

「畑を作るのか?」

 

辰宇の問いに、玲琳は静かに頷いた。

 

「はい。せっかく芽吹いているものを、無駄にするのも忍びなく」

 

辰宇はしばし、玲琳の手元と、整えられかけた畑を見比べていたが、やがて小さく息をついた。

 

「……何か、要るものはあるか」

 

「よろしいのですか」

 

「謹慎中とはいえ、生きる術まで奪う道理はない」

 

短い問いだったが、その裏に含まれた気遣いを、玲琳は聞き逃さなかった。少し考えてから、玲琳は答えた。

 

「せっかくの醍醐味が……」

 

「ん?」

 

「――いえ、しいて申し上げるなら、塩を、いただけますか」

 

「塩か。食糧はあるのか」

 

「幸い、芋がいくらか。ですが、塩気がまるで足りません。涙でも炒めれば、少しは足しになるかもしれませんが」

 

軽口のつもりだった。辰宇は一瞬、虚を突かれたように黙り、それから小さく喉の奥で笑った。

 

「変わったことを言う。……手配させよう。夕刻までには届くはずだ」

 

「ありがとうございます」

 

 

踵を返しかけた辰宇が、ふと足を止めた。

 

「そういえば、もう一人はどうした?」

 

玲琳は、一瞬、返答に詰まった。謹慎の身でありながら、慧月が持ち場を離れたと知れれば、ただでは済まない。

 

「……少し、野草を探しに行ってもらっています。探せば、食べられるものもあるかもしれませんので」

 

「野草を? 食料は、そんなにもらえないのか」

 

「謹慎中ですので」

 

玲琳は、事もなげにそう答えた。辰宇は何か言いかけて、それを飲み込むように眉を寄せた。

 

「……塩のほかに、油も届けさせよう。芋があるなら、使い道もあるだろう。夕刻を待て」

 

短くそれだけ言い残すと、辰宇は文昴を伴って立ち去っていった。その背に、玲琳は深く頭を下げた。

 

 

 

それからも、玲琳は手を止めなかった。日が傾き始める頃、文昴が一人で、約束通り塩の壺と油の瓶を届けにやってきた。玲琳はそれを受け取ると、早速、掘り出したばかりの芋を洗い、皮を剥いて切り分けていく。

 

これまでの自分ならば、油ものなど胃がもたれると、一切れ口にするのも憚られただろう。だが今のこの体は、そんな心配など、どこ吹く風だった。ならば、遠慮する理由もない。

 

玲琳は迷わず、鍋にたっぷりと油を注いだ。惜しみなく、というにはいささか大胆すぎる量だったが、誰に咎められる筋合いもない。芋を次々と油の中に沈め、ぱちぱちと弾ける音を聞きながら、仕上げに塩を振るう手も、遠慮というものを知らなかった。

 

荒れ地だった一角に見違えるほど整った畑が出来上がり、竈からは香ばしい匂いが立ち上る頃になって、ようやく莉莉(りーりー)に連れ戻される形で、慧月が戻ってきた。

 

「離しなさいよ、しつこいわね……」

 

ぶつぶつと文句を垂れながら現れた慧月は、目の前の光景に、思わず足を止めた。

 

「……何よ、これ」

 

「畑と、夕餉にございます」

 

玲琳は土のついた手を払いながら、事も無げに答えた。莉莉もまた、呆気に取られたように、整然と並んだ畝と、油の匂いを漂わせる竈を見つめている。

 

玲琳は、狐色に揚がった芋を皿に山と盛り、仕上げにもう一度、たっぷりと塩を振った。湯気の立つ皿を、慧月と莉莉、双方の前に差し出す。

 

「さあ、皆さんで召し上がりましょう」

 

慧月は疑わしげにそれを睨んでいたが、空腹には勝てなかったのか、渋々といった様子で口に運んだ。一瞬、目を見開いたのを、玲琳は見逃さなかった。

 

莉莉もまた、恐る恐る芋を頬張り、そのままぱっと表情を綻ばせた。

 

「……美味しい」

 

小さな呟きだった。だが、その一言には、これまでの硬い態度からは想像もつかない、素直な響きがあった。

 

莉莉は、ちらりと玲琳――否、彼女の目にはあくまで「慧月様」である人物――を見やった。

 

側付きとして仕えてきた身だ。慧月の人となりなら、噂などより、よほどよく知っているつもりだった。癇癪持ちで、我が儘で、気に食わないことがあれば誰彼構わず当たり散らす。それが、莉莉の知る朱慧月だった。

 

だが、目の前のこの人は――本当に、昨日までの慧月様なのだろうか。

 

その夜、莉莉の胸には、小さな違和感が芽生えていた。

 

もっとも、その芽生えかけた好意は、もう一人の――逃げ出そうとしたきり、畑仕事の一つも手伝わなかった――慧月へは、欠片も向けられてはいなかった。

 

米――それは、莉莉にとって、否とは言えない重みを持つ言葉だった。旧食糧庫の主が、ろくに食うものもない哀れな身の上だと思えばこそ、多少の意地悪くらい、大した罪にも思えなかったはずだった。米のためだと思えば、割り切れたはずだった。

 

けれど、目の前で食べた芋の味を思い出すと、その理屈が、急に色褪せて見えた。

 

あの人は、廃屋同然の場所から、一日で畑と食事まで作り上げてしまった。飢えてなどいなかった。むしろ、自分よりよほど、たくましく生きていた。

 

「……わたしは、この人たちを困らせることなんて、できるのだろうか」

 

それでも今さら、雅容の申し出を断る術など、莉莉にはなかった。

 

 

ーーーーーーー

 

 

翌朝、旧食糧庫の戸を叩く音がした。開けると、莉莉が桶を抱えて立っていた。その目には、昨日までとは違う、何かを振り切ろうとするような強張りがあった。

 

「――失礼します」

 

一言そう告げると、莉莉は桶の中身を、勢いよく玲琳めがけてぶちまけた。ぬめる土の塊と共に、幾匹ものミミズが宙を舞う。

 

土にまみれた玲琳は、しばし自分の袖を見下ろしてから、静かに顔を上げた。

 

「ミミズさん、畑を耕してください。ちょうど、畝を広げたいと思っていたところです。ありがとう」

 

丁寧に礼を言われ、莉莉の勢いが目に見えて削がれる。

 

それでも莉莉は、次の箱を取り出した。中には蜘蛛と百足が、うごめきながら詰め込まれている。

 

「気持ち悪いなら、気持ち悪いと言えばいいでしょう!」

 

叫びながら、莉莉はその中身を、勢いよく玲琳の足元へぶちまけた。黒々とした虫たちが、四方八方へと這い出していく。

 

玲琳は、しゃがみ込んでその一匹を指先に乗せると、しげしげと眺めた。

 

「これはこれは、益虫がいらしたようです。畑の害虫を、代わりに退治してくださるとありがたいのですが」

 

そう言って、玲琳はそれを、そっと畝の間へと放してやった。莉莉の顔が、みるみる引き攣っていく。

 

最後に、莉莉は木桶いっぱいの汚物を持ち出した。

 

「汚物をくらえー!」

 

半ば自棄になったような叫び声とともに、それは畑の脇にぶちまけられた。玲琳は眉一つ動かさず、鍬を手に取ると、その場でさっそく土に混ぜ込み始めた。

 

「たい肥にぴったりです。ちょうど肥料が足りないと思っていました。助かります」

 

莉莉は、桶を抱えたまま、その場に立ち尽くした。もはや、何をどう投げつけたところで、この人には通用しないのだと、嫌でも思い知らされていた。

 

背後で、慧月が悲鳴じみた声を上げていた。虫が這い回る足元に、涙目で飛び跳ねている。莉莉の目には、そちらの反応の方が、よほど「普通」に見えた。

 

その夜、寝床につこうとした玲琳は、敷布の下に、何か固いものが紛れ込んでいるのに気がついた。取り出してみると、布切れで作られた粗末な人形だった。裁縫用の鋏が、その胸元に深々と突き立てられている。

 

――呪われろ。

 

そう言わんばかりの、剥き出しの悪意が伝わってくる代物だった。昼間のうちに、誰にも気づかれぬよう、こっそりと忍ばせていったものだろう。

 

玲琳は、しばしそれを検分してから、小さく頷いた。

 

「これは……針山に、ちょうどよさそうです」

 

翌朝には、その人形は縫い物の道具箱の中に収まり、実用品として第二の人生を歩み始めることになった。

 

その日の午後、莉莉は再び、人気のない建物の陰へと呼び出された。

 

「嫌がらせをされている人間が、なぜ楽しそうなの?」

 

雅容(がよう)の声には、隠しきれない苛立ちがあった。莉莉は答えられなかった。自分でも、うまく説明がつかなかった。

 

「これを使っておやりなさい」

 

差し出されたのは、鞘に収まった片手用の小刀だった。莉莉は、それを受け取ることすらできず、後ずさった。

 

「好きなものを裂くがよい。そして金清佳(きんせいか)様に差し出せるものを持ってきなさい」

 

「そんな……ですが、嫌がらせと殺傷では話が違います。曲がりなりにも雛女を傷つければ、私は処刑されてしまいます」

 

「だから何だというのです」

 

雅容の声が、初めて険を帯びた。

 

「自分の立場が分かっていないのね。簪を受け取った時から、お前の命はわたくしの手の中にあるの」

 

「わたくしは、あの簪など……!」

 

「あら、見ていたでしょう。米袋の中に、わたくしがそっと入れておくのを。黙って受け取ったのは、お前自身よ」

 

莉莉は、言葉を失った。確かに、見ていた。見ていながら、何も言わなかった。それが今、こんな形で己の首を絞めるとは、思いもしなかった。

 

「できなければ、鷲官長に突き出すだけのこと。金家の簪を盗んだ罪でね」

 

「そんな……」

 

「白練りのわたくしと、異国人で洗朱のおまえ、どちらを信じるかしらね」

 

雅容は、莉莉の生まれを――踊り子だった異国の母の血を――なぞるように、そう言い放った。

 

「餌をもらえるのは、仕事の後でしょう。ねずみさん」

 

言うだけ言うと、雅容は小刀を莉莉の手に押し付け、去っていった。

 

 

香の残り香が、風に溶けて消えていく。莉莉は、その場から動くことができなかった。掌に食い込む鞘の硬さが、これは夢ではないと告げている。

 

あの人の笑顔が、脳裏をよぎった。ミミズを浴びても、汚物をかぶっても、楽しそうに礼を言ったあの人の。

 

けれど、断る道は、もう残されていなかった。

 

莉莉は、小刀を手に持ち重い足を引きずるようにして、旧食糧庫の方角へと歩き出した。

 




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次回は10月9日頃更新予定になります。
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