ふつつかな悪女たち ―消えた蝶と二匹の鼠―   作:京安藤しーぷ

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第八章 鼠の姿で、蝶のように

 

旧食糧庫へと向かう莉莉の足取りは、定まらなかった。目に光はなく、ただ体だけが、命じられた方向へと引きずられていくようだった。玲琳(れいりん)は畑に出ており、庫の中には、本物の慧月(けいげつ)だけがいた。

 

「……何しに来たのよ」

 

戸口に現れた莉莉(りーりー)に、慧月が声をかける。だが莉莉はそれに応えず、虚ろな目のまま、部屋の隅に掛けられていた衣へと歩み寄った。慧月の蘇芳の衣だった。

 

「ちょっと、聞いてるの?」

 

莉莉は答えなかった。震える手で小刀を抜くと、その衣の袖に刃を当てる。

 

「――ちょっと!」

 

慧月が、悲鳴のような声を上げた。

 

その声が、畑にいた玲琳の耳にも届いた。土のついた手のまま、玲琳は庫へと駆け戻る。

 

戸口に飛び込んだ先で目にしたのは、小刀を握りしめ、衣を何度も切りつける莉莉の姿だった。蘇芳の衣は見るも無残に切り裂かれ、糸くずのように床へ垂れ下がっている。傍らでは、青ざめた慧月が、言葉もなく立ち竦んでいた。

 

「――莉莉!」

 

玲琳が名を呼ぶと、莉莉の肩がびくりと跳ねた。振り向きざま、虚ろな目のまま、手の中の小刀が反射のように振り抜かれる。

 

咄嗟に身を引いたが、間に合わなかった。刃が、玲琳の髪の一房を、あっさりと断ち切っていく。ほろりと、切られた髪が床に落ちた。

 

莉莉は、自分が何をしたのか分からぬように、小刀を握ったまま固まった。

 

「――何事だ!」

 

外から、鋭い声が響いた。ちょうど巡回に居合わせたらしい鷲官長・辰宇(しんう)が、地面を蹴って駆け込んでくる。目に飛び込んできたのは、刃物を握る莉莉と、髪を切られた雛女と、見るも無残に切り裂かれた衣だった。

 

辰宇は、迷わなかった。莉莉の手首を掴んで捻り上げ、小刀を叩き落とすと、そのまま床に組み伏せる。乾いた音が、床に響いた。

 

「……っ」

 

莉莉は、抵抗しなかった。頬を床に押し付けられたまま、虚ろな目で、自分の落とした小刀を見ていた。

 

「お待ちください」

 

玲琳は、押さえつけられた莉莉の傍らに、膝をついた。

 

「お騒がせいたしました。枝毛が気になっておりましたので、莉莉に切ってもらっていたのです」

 

辰宇の動きが、ぴたりと止まった。莉莉を押さえつけたまま、顔だけを玲琳に向ける。

 

「……枝毛、だと」

 

「はい。この通り」

 

玲琳は、床に落ちた髪を指し示した。

 

「では、この衣は」

 

「仕立て直すために、解いていたのです。傷みが目立っておりましたが、裏地は、まだ使えますから」

 

玲琳は、事もなげに答えた。辰宇は、切り裂かれた衣と、押さえつけた莉莉と、玲琳の顔とを、順に見比べる。納得したとは言い難い顔だった。莉莉の頬は、声もなく流れる涙で、すっかり濡れそぼっている。

 

辰宇は、静かに息をつくと、莉莉を押さえつけていた腕の力を、ゆっくりと緩めた。

 

「この状況で、その言い訳が通じるとでも」

 

低い声だった。

 

「……それに、悪女と呼ばれているおまえが、他人をかばうなど、慣れないことをするものではない」

 

「言い訳ではございません」

 

玲琳は、まっすぐに辰宇を見返した。

 

「実際に起こったことは、わたくしの枝毛が切り取られた、ということだけ。起こらなかったことを、いちいち疑っていては、体力がもったいのうございます。……わたくしの女官が濡れそぼっておりますので、御前を失礼いたします」

 

言うなり、玲琳は辰宇から視線を外し、莉莉の背にそっと手を添えた。

 

辰宇は、しばし言葉を失った。傷ついた者は、誰もいない。当の被害者が「枝毛を切っていただけ」と言い張る以上、これ以上、事を荒立てる理由もなかった。それは同時に、この一件を大事にするつもりはない、という玲琳の意思表示でもあった。

 

「今日のところは、見なかったことにする。……次は、ない」

 

短くそれだけ言い残すと、辰宇は踵を返し、庫を後にした。

 

莉莉は、解放されても、床に伏したまま、しばらく動けなかった。やがて、震える手で床に落ちた髪をそっと拾い上げる。それを握りしめたまま、玲琳の顔を見ることもできず、声もなく涙を流し続けていた。

 

玲琳が、その顔を覗き込む。

 

「もう、よろしいのですよ」

 

その一言に、莉莉の中で堰き止められていたものが、とうとう溢れ出した。声を殺して泣きじゃくる莉莉の背を、玲琳はただ黙って、そっと撫でていた。

 

やがて嗚咽が収まった頃、玲琳は床に広がる蘇芳の衣を拾い上げ、切り裂かれた表地を検分した。その下から覗く裏地は、鮮やかな銀朱だった。

 

「表は残念ですが……裏地は無事ですね」

 

莉莉が、赤く腫れた目を上げる。

 

「わたくし、莉莉に恩返しをしたかったのです。ミミズさんに、たい肥に、針山まで頂きましたから」

 

「……恩返し?」

 

「この裏地が無事でよかった。銀朱の衣を、あつらって差し上げます」

 

「ぎ、銀朱って、上級女官の着るものじゃ……?」

 

「そうです。側付きなんですから」

 

「……私は、上級女官になんて、相応しくありません」

 

莉莉は、俯いたまま、絞り出すように言った。

 

玲琳は、不思議そうに小首を傾げた。

 

「相応しくない、ということは、相応しい姿が分かっている、ということですよね」

 

「え?」

 

「つまり、そうなりたい、ということです。莉莉は、向上心がありあまっていますね」

 

「どーしてそーなる」

 

思わず素に戻って突っ込んだ莉莉に、玲琳は、にこりと笑いかけた。

 

「では、明日から鍛錬ですね」

 

莉莉は、何も言い返せなかった。涙の跡の残る顔のまま、手の中の髪と玲琳とを、呆然と見比べていた。

 

 

 

それから数日、旧食糧庫には、それまでとは違う空気が流れていた。

 

莉莉は、雅容に何も報告しなくなった。泣き止んだ後、雅容のことも、受け取ってしまった簪のことも、玲琳に打ち明けていた。

 

翌日からは、宣言通りに鍛錬も始まった。

 

謹慎と同時にこの旧食糧庫へ住まわされた莉莉は、もはや命じられた世話役ではなく、自分の意思で玲琳たちの傍にいるようになっていた。約束通り、数日のうちに銀朱の衣も仕上がった。

 

蘇芳の裏地だった銀朱の布を仕立て直し、袖口に控えめな小花の刺繍を添えたものだった。莉莉は、それを両手で受け取ったまま、袖を通すこともできずに立ち尽くしていた。

 

 

 

 

そんなある日、玲琳は舞の稽古を始めた。中元節――豊穣を祈るための舞を、雛女たちが披露する日が、間もなくやってくる。

 

「わたくしの分だけでなく、あなたの分の舞も、整えておかなくては」

 

玲琳は、そう言って慧月にも型を教え始めた。

 

「は? そもそも、皇太子殿下に謹慎を言い渡されているんだから、出なくてもいいんじゃなくって? 朱貴妃様にも、当面は大人しくしていろと言われているし。それに私、舞は……」

 

「何をおっしゃるのですか。謹慎が明けるのは、中元節の前日です。当日は、十分に出られます」

 

玲琳は、きっぱりと言った。

 

「何より、莉莉に嫌がらせを命じた雅容様と、その主と目される金清佳様と対峙するには、うってつけの催しです。女官同士では決着がつかないということは、次は雛女同士の勝負になります」

 

「それに、無地の衣しかない私が、中元節に出られるとでも?」

 

「衣は、わたくしがなんとかします。舞は、わたくしがお教えします」

 

「は? 何であんたに教わらなきゃならないのよ」

 

「何故って、わたくし、感謝しているんですよ」

 

玲琳は、莉莉に聞こえぬよう、声を落とした。

 

「この体は、本当によく動くのです。熱も出ず、息も切れず、腕を伸ばしても攣ることがありません。こんな体をいただけるなんて、思ってもみませんでした。……あなた様こそ、わたくしのほうき星様だったのですね」

 

その声には、皮肉の色は微塵もなかった。

 

「それに、あなたが玲琳として振る舞う以上、玲琳の舞ができなければ、いずれ疑われます」

 

 

慧月は、感謝の言葉をどう受け取ってよいか分からぬように眉を寄せた。理屈では分かっていても、その顔には、はっきりと不満が浮かんでいた。だが、他に道がないことも、承知していたのだろう。渋々といった様子で、慧月は稽古に加わった。

 

慧月の舞は、お世辞にも様になっているとは言えなかった。基礎からして違う。指先の運び一つ、視線の配り一つ、玲琳が幼い頃から叩き込まれてきたものとは、積み重ねの深さが違いすぎた。

 

「もう一度」

 

「またそれ? さっきので、もう十分でしょう」

 

「まだ、腰が流れています。皇后様もおっしゃってました。黄家の雛女に求められているのは根性」

 

莉莉が見守る前で、幾度となく同じ型が繰り返された。慧月は苛立ちながらも、投げ出しはしなかった。中元節での立場が、自分の命運を左右すると、痛いほど分かっていたからだ。

 

「……根性、見せてやるわよ」

 

誰に言うでもなく、慧月はそう呟くと、また同じ型を繰り返した。

 

日が沈むまで続くその稽古を、莉莉は、複雑な面持ちで見つめていた。

 

稽古の合間、玲琳の頭を悩ませていたのは、舞そのものより、当日纏う衣のことだった。慧月の前で「なんとかします」と請け合ったものの、中元節は、雛女たちが最も華やかに装う日でもある。だが、玲琳の唯一の晴れ着だった蘇芳は、先日、銀朱の衣として莉莉に差し上げてしまった。

 

中元節は、雛女たちが最も華やかに装う日でもある。だが、玲琳の唯一の晴れ着だった蘇芳は、先日、銀朱の衣として莉莉に差し上げてしまった。手元に残っているのは、慧月の無地の衣と、莉莉が銀朱を受け取って着なくなった洗朱の衣だけ。とても晴れの場に出せる代物ではなかった。

 

――どちらも、染めがいがありそうです。

 

「……仕方ありません」

 

玲琳はそう呟くと、日が暮れてからの時間を、針仕事に充てることにした。幸い、幼い頃から仕込まれた裁縫の腕は、体が変わっても失われてはいなかった。まず野に出て、色の出そうな草花を摘み集めた。紅花に似た花、藍がかった葉、黄金色に色づいた実――それらを煮出し、絞り、布に染み込ませていく。

 

 

一晩目は、染色だけで更けていった。二晩目は、乾いた布に型を取り、裁ち、縫い合わせる作業に費やされた。三晩目になって、ようやく仕上げの刺繍に取りかかれた。

 

「あんた、いつ寝てるのよ」

 

夜更けに目を覚ました慧月が、行灯の下で針を動かし続ける玲琳を見つけて、呆れたように言った。

 

「この体はとても丈夫で、存外、無理が利くんですよ」

 

事も無げにそう答える玲琳の目の下には、しかし、隠しきれない隈が浮かんでいた。

 

三晩に渡る徹夜の末、中元節の前日、二着の衣が出来上がった。玲琳の分は、洗朱を染め直し、慧月の持ち物らしい華やかさを残した仕立てに。慧月の分は、無地の衣を、玲琳自身の意匠に近く、しかし少し華やかさを抑えた仕立てに。

 

「……悪くないじゃない」

 

出来上がった衣を検分しながら、慧月がぽつりと呟いた。それは、これまでのどんな皮肉よりも、素直な感想に聞こえた。

 

 

出来上がった衣を検分しながら、慧月がぽつりと呟いた。それは、これまでのどんな皮肉よりも、素直な感想に聞こえた。

 

その夜、旧食糧庫の窓から、丸い月が覗いていた。明日は、いよいよ中元節。

 

莉莉は、膝の上に銀朱の衣を載せたまま、眠れずにいるようだった。その横顔を、玲琳は黙って見つめていた。ミミズを浴びても、汚物をかぶっても、最後に泣いたのは、この子だった。その涙の根にいるのは、白練の衣を纏った、あの人。

 

――大切な側付きの笑顔を曇らせた、あのすっとこどっこいを、必ず見つけ出さなくては。

 

中元節は、後宮中の女官と雛女が集う日だ。人の目が最も多く、最も華やぐ場所。そこでなら、身を隠す場所などない。染めた衣も、仕込んだ型も、準備は、すべて整っていた。

 

ふと見ると、慧月が、仕立て上がった衣の裾を握りしめたまま、いつになく表情を硬くしていた。

 

「……あんた、本当にできるんでしょうね」

 

「はい」

 

玲琳は、微笑んで答えた。

 

「腰が流れなければ、誰にも疑われません」

 

「そういう問題じゃ……」

 

言いかけて、慧月は口を噤んだ。軽口の底にあるものを、お互いに分かっていた。

 

「明日は、きっと忙しくなりますよ」

 

窓の外で、風が戸を鳴らした。鼠の姿をした蝶と、蝶を騙る鼠が、並んで舞台に立つ日が、いよいよ明日に迫っていた。

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