ふつつかな悪女たち ―消えた蝶と二匹の鼠― 作:京安藤しーぷ
中元節当日の朝、旧食糧庫に、悲鳴にも似た声が響いた。
「――痛っ!」
床から起き上がろうとした慧月が、右の足首を押さえてうずくまっている。夜通しの自主練習がたたったのだろう、腫れ上がったそこに触れただけで、顔が歪んだ。
「立てますか」
「……無理よ。こんな足で、舞台になんて」
「支度を。時間がありません」
玲琳は、努めて静かにそう告げた。
中元節の舞は、宮の大広間で執り行われた。中央に設けられた舞台で、雛女たちが家ごとに一人ずつ、順に舞を披露していく。幕もなければ、暗がりに紛れる隙もない、開けた場だった。今回の順番は、玄家、蘭家、金家、そして朱家、黄家と定められている。
舞い終えるたびに、上手く舞えた者には観客からその技量を讃える恩賞――宝物の類が、その場で贈られる慣わしになっていた。財に乏しい玲琳が用意できたのは、くす玉が三つだけだった。それでも、一つ一つ、心を込めて編んである。
玲琳が莉莉と共に大広間へ入った時には、席はすでに埋まっていた。
「儀に遅参して申し訳ありません。皆様ごきげんようございます」
「姫様、お席が。」
朱慧月は欠席と決めつけられているようですね。見渡しても、空いている席はない。
「
座っていた雛女の一人
「あら、
丈夫な皮膚をお持ちのようですし、床のどこかにでも座られてはいかが?」
「なっ……」
莉莉が、思わず息を呑む。だが玲琳は、少しも動じなかった。
「はー。丈夫と言われてしまいました。莉莉、座りますよ」
「え……なんで、この局面でよろこんでいるんですか?」
「丈夫な体ですって」
嬉しそうに言う玲琳に、莉莉は呆気にとられていた。
床に腰を下ろした玲琳に、貴賓席の皇太子・
「もう一人はどうした」
「あの方は、少し準備に手間取っておりまして」
「逃げてはいないのだな?」
玲琳は、ゆっくりと振り返った。その顔には、にこやかな笑みが貼りついていた。
尭明は、小さく咳払いをした。
「……ならば、先に始めるとしよう。進行は、金清佳だな」
「それでは皆様、(一人足りませんが)お揃いになりましたので豊穣を願い、中元節の儀を開始いたします」
そんな一悶着もあったが、中元節は、予定通りに進んでいく。
「(身一つで蔵に追い出された朱慧月はどうするのかしら?)」
「莉莉」
「はい」
莉莉の手から、担当の女官へと渡された。玄家の雛女が舞い終え、蘭家の雛女が舞い終える。そのたびに、莉莉は女官へ受け取ったくす玉を差し出した。
「(本来くす玉は初夏の節句に使われるべきもの、でも夏を司る朱家の雛女としては妥当ですし、何よりも緻密な刺繍が美しい。いつも気が利かないドブネズミの割には心憎い品ですわね)」
三番目は、金家だった。金清佳の舞は、見事の一言に尽きた。舞い終えた瞬間、大広間が息を呑み、貴賓席の皇太子・詠尭明が、直々に褒美を下す。
皇太子殿下の下賜の直後に、くす玉を並べるのは、不敬にあたる。ならば。
「大変美しい舞でございました。それに比べ余りに細やかなものでございますが、こちらをお納めくださいませ」
「(金清佳様はどう出るだろう)」
「豊かな心をお持ちの清佳様なら何も仰らず納めていただけるものと思っていますが」
「(何も言わずに恫喝材料の簪を受け取れということ)」
舞台の脇に立つ金清佳の顔に、はっきりと困惑が浮かんだ。
「……あなた、何を言って」
その背後で、金家の上級女官が、差し出された簪を見つめて目を細めた。
「あらまあ、身一つで蔵に追いだされた者が、どうしてこのような物をお持ちで」
「これまでのように女官たちを虐げる日々を過ごしていたのではなくて、これまでのように」
「およしなさい」
「ですが清佳様それではなぜこのような立派な物を手に入れられたのでしょう」
「しかもその女官よく見たら踊り子の娘ではないの。きっと彼女に盗ませたのよ。」
大広間が、しんと静まった。玲琳の傍らで、莉莉の肩が、びくりと強張る。
「(ひっ。またあの怖い顔)」
その顔には、にこやかな笑みが貼りついていた。蔵で虫さん達を葬ったときと、そっくり同じ笑顔だった。
「……わたくしの女官が、何と?」
「感想を申したまで。出自の怪しい者ほど、手癖が悪いと」
「そうした感想の述べ方が金家流と思われてよいということですね。清佳様。僭越ながら申し上げます。雛宮において、雛女と女官は強気絆で結ばれるべきもの。女官に何か不手際があれば、雛女から何か一言あるべきもの」
言葉遣いは丁寧なまま、一言ごとに、声の温度が下がっていく。金家としても引くに引けなくなったのか、声を荒らげ始めた。言い合いは、たちまち過熱していく。
「――お止めなさい慧月」
貴賓席から、鋭い声が飛んだ。朱家を束ねる、朱貴妃だった。
「厚顔にも儀式に参加し、儀式の進行の邪魔をして、他家にケンカを売るなど私にどれだけ恥をかかせるの。」
「ですが朱貴妃様、わたくしはお話合いをしたいだけです。」
「これ以上恥を晒す前に、あなたは舞わずに宮へお下がりなさい」
大広間の視線が、一斉に玲琳へ注がれる。玲琳は、少しだけ考えてから、にこりと微笑んだ。
「儀式の進行を妨げず、恥を晒さなければ、舞ってもよいし、話し合ってもよい、ということですね」
「……え?」
「では、わたくし、さくっと舞ってまいります。清佳様、わたくしの舞がお目汚しにならず儀式を終えることができたら、お話の続きをいたしましょう」
「でるものならね。」
玲琳はもう、舞台へと歩き出していた。莉莉には、会場に残って白練の衣を探すよう、目で合図を送って。
ーーーーーー
「朱家、朱慧月様」
金清佳の進行で、玲琳は舞台へ上がった。舞に用いる祭具の鈴が、手渡される。それを受け取った瞬間、鈴は澄んだ音を立てて、掌の中で砕け散った。
大広間が、ざわめく。玲琳は、掌に残った欠片を見下ろし、胸の内で呟いた。
――清佳様は、曲がったことがお嫌いな方。簪のことは、少し行き違いになりましたが、不慮とは不吉、よくない兆し。……これは、舞の種類を変えましょう。
玲琳――否、周囲の目には「朱慧月」として――は、鈴を捨て、旋回で奉納する舞を選んだ。病弱だった頃には、見様見真似でしか知らなかった異国の舞だったが莉莉からの助言もあり完成していた。慧月の名で、慧月として、舞台に立つ。旋回を重ねるたびに、玲琳は、この体の軽さに感謝した。熱も出ず、息も切れず、腕を伸ばしても攣らない。舞い終えた瞬間、大広間にどよめきが起こった。
「これが、あの朱慧月か……」
「それにこの動き、胡旋舞か」
驚きの声が漏れる中、玲琳は恩賞として、小さな翡翠の飾りを受け取った。
「殿下」
貴賓席から、鷲官長・辰宇の声が上がった。
「舞い降りた天女に、一番の恩賞を」
大広間の視線が、皇太子・詠尭明に集まる。尭明は、玲琳を見下ろしたまま、わずかに眉を寄せた。それから、辰宇にだけ聞こえるほどの声で、短く返す。
「いや、まだだ。玲琳の名の舞が残っている。……慧月がもう一人いたはずだが、まだ来ていないのか」
だが、次の出番――「玲琳」の名で呼ばれるべきその人が、現れない。
「玲琳様は、いずこに」
金清佳の声に、控えの間がざわめき始める。玲琳は、静かに前へ進み出た。
「わたくしが、お迎えに参ります」
そう告げると、玲琳は大広間の外へと急いだ。
ーーーーー
外に出てすぐ、壁に手をつき、足を引きずって歩いてくる慧月の姿があった。纏っているのは、玲琳が仕立てたのと近しい黄橡の意匠の衣。足を庇いながらの足取りは、とても舞台に立てる状態ではなかった。
「……どうするのよ、これ」
慧月が、絞り出すような声で言う。玲琳は、しばし辺りを見回した。人気はない。今この瞬間だけは、誰の目もなかった。
「衣を」
短くそれだけ言うと、玲琳は自らの衣に手をかけた。慧月は一瞬迷ったが、状況を悟ったのか、震える手で己の衣の帯をほどき始める。
手早く衣を替え終えると、玲琳は慧月を近くの石段に座らせた。
「ここで、足を冷やしていてください。動いてはいけませんよ。わたくしは、参ります」
「――待ちなさい、黄玲琳」
慧月が声を上げかけたが、玲琳はもう、大広間の方へと歩き出していた。
「――遅くなりました」
大広間に戻った玲琳は、今度は「玲琳」として、舞台へと上がった。先ほどとは異なる、もう一段格式高い振り付け。玲琳自身が幼少から教え込まれてきた、正式な奉納の型だった。
一つ一つの所作に、迷いはなかった。ただ、先ほどの舞とは、意図して質を変えていた。より流麗に、より格式張って。まるで、別人の舞であるかのように。
舞い終えた大広間は、静まり返っていた。やがて、堰を切ったような喝采が沸き起こる。
「――見事」
金清佳の声が、感嘆と共に響いた。恩賞として差し出されたのは、螺鈿細工の施された小箱だった。
玲琳はそれを受け取ると、静かに一礼した。広間の隅で、莉莉が、息を詰めてこちらを見つめていた。
急いで外に戻り、服をまた入れ替え戻ってくる。
玲琳はそれを受け取ると、静かに一礼した。広間の隅で、莉莉が、息を詰めてこちらを見つめていた。
玲琳は、人目を避けて大広間を抜け出し、石段へと急いだ。待っていた慧月と、再び衣を取り替える。
「……バレなかったかしら」
「莉莉は、気づいたでしょうね」
玲琳は、それだけ答えて、大広間へと引き返した。
「朱慧月」として席に戻った玲琳の袖を、莉莉が、人混みの中でそっと引いた。
「いなかった。白練の衣の人なんて、どこにも」
「……そうですか」
玲琳は、小さく頷くと、進行役の金清佳の前に進み出た。
「金清佳様。白練の雅容様を、お呼びいただけませんか」
金清佳は、眉をひそめた。
「白練に、雅容という者はおりません。……どういうことです?」
大広間が、再びざわめく。玲琳が答えようと口を開いた、その時だった。
上座で、何かが床に落ちる音がした。皇后の手から、扇が滑り落ちたのだ。
見れば、皇后は傍らの女官にもたれかかり、肩で息をしていた。遠目にも分かるほど、顔色が悪い。
「皇后様!」
女官たちが慌てて駆け寄り、大広間は騒然となった。玲琳が消えて以来の心労が、積もりに積もっていたのだろう。