昔どこかにプロット投げたのを編集したやつ
「おいおい、お前そんなの読んでんの?」
教室の隅。いつも一人でスマホをいじっているか、本を読んでいるだけの冴えないクラスメイトの机を、鳴嶋メルトは軽いノリで覗き込んだ。彼がこそこそと隠すように読んでいたのは、可愛らしい装丁が目を引く少女漫画『今日は甘口で』だった。
「えっ……あ、うん。お、面白いからね……」
突然クラスでも目立つグループにいるメルトに絡まれ、クラスメイトはビクッと肩を跳ねさせてどもった。いかにも日陰者といった様子のオドオドした態度。メルトは少しからかってやろうと、ニヤリと口角を上げる。
「こんなのがねぇ。少女漫画とか、よく読めんね」
「そ、それなら1巻、読んでみる……? 一応、すっごく有名な作品だし……」
予想外の反撃だった。怯えながらも、自分の好きな作品を馬鹿にされたくなかったのか、クラスメイトは震える手で鞄から1巻を取り出してきた。
「ははっ、マジで? まぁ、話のネタにはなるか。貸してよ」
それが、すべての間違いであり、始まりだった。
パラパラと適当にめくっていたはずの手は、数ページも進まないうちにピタリと止まった。
気がつけば、次の授業の予鈴が鳴るまで、メルトは一言も発さずに漫画の世界へ没入していた。
(……なんだこれ。面白すぎだろ)
ただの甘ったるい恋愛モノだと舐めていた。だが、登場人物たちの感情の機微がやけにリアルで、何よりヒーロー役である『カナタ』の不器用な優しさが、男の目から見ても最高にクールだった。あっという間に1巻を読み終えてしまったメルトは、小さく息を吐いて本を閉じた。
そして昼休み。
メルトは少しバツが悪そうに頬を掻きながら、再び冴えないクラスメイトの机へと歩み寄った。
「あ、あの……鳴嶋くん。やっぱり、つまらなかった、かな……?」
ビクビクと顔色を窺ってくるクラスメイトに対し、メルトは周囲の陽キャグループの目を少し気にしながら、声を潜めて尋ねた。
「……なぁ」
「ひぃっ、ご、ごめんなさい!」
「いや怒ってねぇから! その……なんだ。……これの続きって、あるか?」
恥ずかしさを誤魔化すようにそっぽを向いてボソリと呟いたメルトの言葉に、クラスメイトの動きがピタリと止まった。
次の瞬間、オドオドしていた彼の中で何かのスイッチがカチリと鳴った。
「……っ!」
前髪の奥で、陰キャ特有の淀んだ目がきらりと怪しく光ったのをメルトは見逃さなかった。クラスメイトは弾かれたように自分の鞄を開けると、中から真新しい2巻と3巻を取り出し、バンッと勢いよく机に並べた。
「布教用に、3巻までは常に持ち歩いているんだ……! よかったら、これも読んでみてよ!」
「お、おう……。準備いいな、お前……」
さっきまでの怯えはどこへやら、オタク特有の凄まじい熱量と早口で迫ってくるクラスメイトに若干引きつつも、メルトはしっかりと2巻と3巻を受け取った。
結局、借りた分をその日の放課後までにすべて読破してしまったメルトは、帰り道に近所の書店へ駆け込み、残りの巻を全巻購入。その日の夜、ベッドの上で一睡もせずに読み耽った。
男の自分でも震えるほど切なくて、やっぱりカナタが最高にカッコいい。あっという間にメルトは、立派な『今日あま』のガチファンへと変貌を遂げていた。
だからこそ、数日後にマネージャーから「次クールのネット配信ドラマ、今日あまの主演決まったから」と告げられた時の高揚感は尋常ではなかった。天性のルックスと運だけでモデルとしてチヤホヤされてきた自分に、大好きな作品の、大好きなキャラクターを演じる機会が巡ってきたのだ。
だが、現実は残酷だった。
「はい、カット! オッケーです!」
監督の軽い声が現場に響く。メルトは胸を撫で下ろし、モニターに向かって自信満々の笑みを向けた。カナタの持つ独特の空気を、完璧にトレースしたはずだ。
ふと、視界の端に関係者のパスを首から下げた女性が立っているのに気づいた。原作者の吉祥寺頼子先生だった。
メルトは慌てて背筋を伸ばし、人懐っこい一番のキメ顔を作って彼女の元へ駆け寄った。
「初めまして! 今回、カナタ役を務めさせていただきます、鳴嶋メルトです。俺、本当に『今日あま』の大ファンで……! この素晴らしい原作を演じさせていただき、本当にありがと――」
ございます、と最後まで言い切る前に。
メルトは無意識のうちに、喉の奥で言葉を詰まらせてしまった。
目の前の吉祥寺先生が、微かに顔を引きつらせていたからだ。
「あ……ええ。こちらこそ、よろしくね、鳴嶋さん。……現場でもすごく、頑張ってくれてるみたいで……ありがとう」
声のトーンは優しかった。口元には笑みすら浮かべている。
しかし、メルトは持ち前のコミュニケーション能力と、場の空気を読む陽キャとしての嗅覚で、その笑顔の裏にある感情を正確に読み取ってしまったのだ。
それは、自分の作品が実写化されることへの歓喜でも、主演俳優への期待でもなかった。
絶望を必死に理性で押さえ込もうとする、大人としての痛ましい気遣いの笑顔だった。
『演技は目も当てられないくらい下手くそだけど……この子なりに、一生懸命頑張ってくれているんだから、文句は言えないわ』
彼女が言葉に出さなかったその本音が、不自然にこわばった口角と、どこか諦観の混じった瞳から痛いほどに伝わってきた。メルトの胸の奥で、何かが軋む音がした。気のせいだ、俺の演技は完璧だったはずだ。監督もあっさりOKを出したじゃないか。必死に言い聞かせても、原作者のあの痛ましく諦めきった表情が脳裏から離れなかった。
そして迎えた、ドラマ第1話の配信日。
自宅のソファに沈み込み、メルトはタブレット端末で配信サイトを開いた。再生ボタンをタップし、画面を食い入るように見つめる。
やがて自分の登場シーンが映し出され、セリフがスピーカーから流れた瞬間――メルトは端末を握る手を震わせた。
「……なんだこれ」
画面の中にいるのは、クールで魅力的な『カナタ』ではなかった。
ただ顔が良いだけの男が、不自然な間合いで、感情の微塵もこもっていない棒読みのセリフを吐き出している。表情は無駄にキメ顔を作っているだけで、その奥には何の知性も宿っていない素人のナマコだ。
いや、ナマコの方がまだマシかもしれない。大好きな『今日あま』の世界観を、他でもない自分自身が、その大根以下の演技で無残に破壊している。
SNSの感想やコメント欄を見るまでもない。この惨状を一番正確に理解しているのは、原作のガチファンである鳴嶋メルト自身だったのだ。
「最悪だ……」
ドラマ第1話の凄惨な出来から数日後。第2話の撮影現場で、メルトは一人、必死にもがいていた。
(……挽回しなきゃ。絶対に。俺がカナタを、一番カッコいいカナタを演じるんだ……!)
休憩時間中もスマホなど見ず、ボロボロになるまで読み込んだ『今日あま』のコミックスを開き、コマの一つ一つを睨みつけるように凝視する。カナタの伏し目がちな視線、ポケットに手を入れる角度、アンニュイな声のトーン。それらを頭に叩き込み、カメラの前に立った。
「はい、カット! オッケーです!」
監督の声が響く。メルトは小さく息を吐いた。今のは上手くやれたはずだ。原作3巻のあのシーンのカナタの表情と、全く同じ角度で顔を作ったのだから。
だが、セットの裏に戻ろうとしたメルトの前に、ヒロイン役の有馬かながツカツカと歩み寄ってきた。その顔には、明らかな苛立ちが浮かんでいる。
「ちょっと、あんた」
「……なに?」
メルトが振り返ると、かなは腕を組み、容赦のない言葉をぶつけてきた。
「さっきのシーンだけど、変にカッコつけすぎ。肩に力入りすぎてて、セリフが全部上滑りしてるわよ。もっと自然にやってくれない? こっちまでやり辛いわ」
彼女なりに、もがいている主演を助けようとしたのだろう。だが、幼い頃から厳しい芸能界を生き抜き、周囲の大人たちに揉まれてきた彼女は「叩いて伸ばす」のがデフォルトであり、何より言葉選びが壊滅的に不器用だった。
第1話の『素人のナマコ』事件でプライドをへし折られ、極限まで余裕がなくなっていたメルトは、その「余計な一言」にカチンときた。
「は? カッコつけすぎってなんだよ。原作のカナタの表情や間合いってあんな感じだろ」
「あのねぇ、漫画のコマの表面だけをそのまま真似したって、生きた演技にはならないの。あんたがやってるのはただのコスプレよ。大根なんだから、せめて周りの空気くらい読みなさいよ」
「……っ!」
『大根』という単語が、メルトの胸に深く突き刺さる。自分でもわかっている事実だからこそ、余計に反発心が跳ね上がった。
「コスプレってなんだよ……! 俺だって、俺なりに真剣に読み込んでやってんだよ。カナタはあそこで、あんな風にヘラヘラ笑ったりしねぇだろ」
「だからって、あんな木偶の坊みたいに突っ立ってボソボソ喋られたら、会話のテンポが死ぬでしょうが! ここはドラマの現場なのよ!」
「……あっそ。素人の足手まといで悪かったな!」
意固地になったメルトは乱暴にそっぽを向き、手元の原作コミックスをギュッと握りしめた。
「もういい。俺は俺のやり方でやる。……俺は、一番カナタを理解してんだよ」
「ちょっと、あんたねぇ……!」
かなが何か言い返そうとしたが、メルトは耳を塞ぐように足早にその場から立ち去った。
(絶対に見返してやる。俺が完璧なカナタを演じて、文句言えないようにしてやる……!)
そう固く心に誓い、メルトはますます「原作のカナタ像」という殻に閉じこもっていった。かなからのアドバイスはすべてシャットアウトし、ただひたすらに漫画のコマをなぞるだけの、独りよがりな演技にのめり込んでいった。
しかし、空回りの熱意だけで技術が伴うほど、芝居というものは甘くなかった。
そして迎えた、ドラマ第2話の配信日。
結果から言えば、第1話の「素人のナマコ」からは脱却し、「学生演劇の主役」レベルには持ち直していた。元々のルックスの良さもあり、ただ立っているだけなら画面映えはしている。
だが、メルトの心に最も深い傷を負わせたのは、配信を一緒に見ていたモデル仲間たちの言葉だった。
『いやー、メルトのドラマヤバすぎっしょ!』
『一周回ってオモロいわ。これ絶対伝説のクソドラマになるぜ。最後まで見るわ!』
腹を抱えて笑う友人たちに、メルトは引きつった顔でヘラヘラと笑い返していた。
「だろ? どうせ低予算だし、適当でいいやって感じなんだよね〜。監督もすぐOK出すし」
大好きな『今日あま』を馬鹿にされて。自分の不甲斐なさを笑われて。それに愛想笑いで同調している自分。傷つきたくないがために、言い訳を並べて作品を盾にして逃げている。
友人たちが帰った後の静まり返った部屋で、メルトは自己嫌悪に苛まれ、ベッドに突っ伏して深く、深くうめき声を上げた。
『……俺は、一番カナタを理解してんだよ』
吐き捨てるように言い残して去っていったメルトの背中を見つめながら、有馬かなはセットの裏で深いため息をついた。
(……だから言ったじゃない。あんな素人に主演なんて無理だって)
プロデューサーの鏑木に対する愚痴が脳内で渦を巻く。顔だけの新人モデルを起用して話題作りをするのは勝手だが、現場の尻拭いをさせられるこちらの身にもなってほしい。
しかし、同時に彼女は気づいてもいた。メルトの持つ『原作のカナタ像』への強いこだわりと、それに実力が伴わずに空回りしている、不器用すぎるほどの熱意に。
そして何より、彼が陰でどれだけボロボロになるまで原作漫画を読み込んでいるかを。
(……叩いて伸ばす、なんて。私の悪い癖だわ。あれじゃ、ただの喧嘩腰じゃない)
彼なりに本気で作品と向き合おうとしているのは事実だった。それなのに、自分の不器用な言葉のせいで、彼はますます意固地になり、独りよがりな演技に逃げ込んでしまった。
第1話の配信での彼の演技は、客観的に見ても擁護できないレベルだった。このままでは、彼が大好きな『今日あま』が、正真正銘の伝説のクソドラマとして終わってしまう。
それだけは避けないと、そう素直に思っていた。
第3話、第4話の撮影日。
セットの隅で、一人うなだれるようにして原作コミックスを見つめるメルトに、かなは再び近づいていった。今度は、少し気まずそうに視線を泳がせながら。
「……あのさ」
「……また文句言いに来たのかよ。放っといてくれ」
顔も上げずに拒絶するメルト。その態度に少しムッとしながらも、かなは隣のパイプ椅子に腰を下ろした。
「……この前は、言い過ぎたわ。ごめんなさい」
「え……」
予想外の謝罪に、メルトが驚いたように顔を上げる。かなはツンとそっぽを向きながら言葉を続けた。
「あんたが本気で原作を読み込んで、カナタになろうとしてるのはわかってる。でも、やっぱりあんたの演技は間違ってる。原作のカナタはもっとクールでアンニュイだけど、あんたはそれをやろうとするな」
せっかく謝ってきたのに、またしても自分の理想とする『カナタ像』を真っ向から否定するようなアドバイス。原作ガチファンであるメルトは、ピクリと眉をひそめた。
「ふざけんな。カナタはああいう奴だろ。俺はあいつが好きなんだよ。原作通りにやらなくてどうすんだよ」
「原作通りに演じられる実力が、今のあんたにあるの!?」
「……っ!」
図星を突かれ、メルトは言葉に詰まる。自分でも薄々気づいていた事実を突きつけられ、握りしめたコミックスの端がくしゃりと潰れた。
かなは小さくため息をついた後、真剣な目で見つめ返してきた。
「私も原作は読んだわ。あんたの言う通り、本当のカナタはもっと陰がある。でもね、今の台本をよく読んでみなさいよ。……このクソ脚本家、あんたの演技のしやすさを優先して、カナタの性格を勝手に『ただのチャラいイケメン』に寄せて改変してんのよ」
「え……」
想定外の事実に、メルトは呆然とかなの顔を見つめ返した。
「だから、読むべきは原作じゃなくて脚本。この現場で、この脚本を演じるなら、無理に『カナタ』になろうとしなくていい。この『今日あま』の世界に、素の鳴嶋メルトの性格のカナタがそのまま居ると思ってセリフを言いなさい」
目から鱗が落ちるような感覚だった。
カメラが回り、メルトはかなのアドバイス通り、変にカッコつけるのをやめた。自分が普段、友達と話す時のテンション。女の子をからかう時の間合い。それをそのままカメラの前で出力した。
「はい、カット! オッケー!」
監督の明るい声が響く。周囲のスタッフからも「おっ、今日いいね」という空気が流れた。
それでも、メルト自身は全く納得がいっていなかった。
「……今のでいいのかよ。全然、原作のカナタじゃなかったぞ」
不満げに呟くメルトに、かなはどこか遠くを見るような、昔を懐かしむような切ない瞳をして言った。
「監督がOKを出した。……この仕事は、それが全てなのよ」
その横顔に宿る、年齢に見合わない諦念とプロ意識。メルトは何も言い返せなかった。
それからの撮影で、メルトはかなのアドバイスに従い、ひたすらに「自分自身」を引き出す演技を心がけた。
台本にある、原作から改悪されたチャラいセリフも、メルト自身が普段の生活で言いそうなニュアンスに落とし込んで発声する。肩の力が抜け、ガチガチだった動きが自然になると、ヒロインであるかなとの会話のテンポも、嘘のようにスムーズに回るようになった。
「はい、カット! オッケー!」
監督の能天気な声がセットに響く。メルトは小さく息を吐いた。
原作のカナタとは違う。妥協しているという葛藤は消えない。だが、少なくとも第1話の「素人のナマコ」よりは、ずっとマシな、血の通った芝居ができている自覚はあった。
セットの転換待ちの時間。パイプ椅子で台本をめくっていたメルトに、隣に座っていたかなが、ふと呆れたような、けれど少しだけ柔らかい声で言った。
「なんだ。変にカッコつけてない方が、よっぽどいいじゃない」
それは、ドラマのヒロインとしてのセリフのようでもあり、有馬かな自身の素直な評価のようでもあった。
以前のメルトなら「うるせえ」と反発していただろう。だが、彼女が自分のために嫌われ役を買って出てまでアドバイスをくれ、このドラマを少しでも良くしようと奔走してくれていることが、今のメルトには痛いほどわかっていた。
「……からかうなよ」
ふいに出た言葉は、原作1巻でヒロインがカナタにからかわれた際に言った、メルトのお気に入りのセリフだった。立場が逆転していることに気づき、メルトは少しだけ自嘲気味に鼻を鳴らす。
(なんだよ。口は悪いし生意気だけど……案外、いい奴じゃん)
そこにあるのは、自分を気遣って導いてくれた不器用な共演者への、純粋な感謝だった。
恋愛感情というよりは、同じ過酷な現場を乗り切る戦友に対するような、確かな信頼の芽生え。メルトは台本を閉じると、ほんの少しだけ顔つきを変え、次のシーンの立ち位置へと向かった。
◆
そして数日後。ドラマ第3話および第4話の配信日。
自宅のベッドの上。メルトは冷や汗をにじませながら、震える手でタブレットの画面を更新した。第1話のトラウマが蘇り、再生ボタンを押すのすら躊躇われる。
恐る恐る動画を再生し、自分の登場シーンを見守る。
(……あ)
第1話のような、見ていられないほど硬直した棒読みではない。変に「クールなカナタ」を気取って気負うのをやめ、現場の空気に身を委ねた自分の演技は、チャラくて軽薄ではあるものの、一つの「人間」として画面上で自然に息をしていた。
よし、と心の中で小さく息をつき、メルトはそのままSNSのリアルタイム検索を開いた。
検索窓に『今日あま』『ドラマ』と打ち込み、タイムラインをスクロールする。案の定、厳しい意見やツッコミの言葉が並んでいた。
『今日あまドラマ、やっぱり作画崩壊してて草』
『カナタ役の奴、なんか前回と性格違くね? キャラブレブレじゃねえか』
『さすが低予算クソドラマ。原作レイプって言われても仕方ない出来だな』
胸がチクリと痛む。だが、それは予想通りの反応だった。メルトが歯を噛み締めてさらにスクロールを続けると、その中に、少しずつだが別の色の意見が混じり始めていることに気づいた。
『待って、今回のカナタ役、前半より演技マシになってない?』
『なんか変にキメてないこっちの方が生っぽくて、逆に嫌いじゃないかも』
『クソドラマ枠で見始めたけど、主人公のチャラい演技、意外と板についてきたな……ストーリーは元々面白いしな』
「……っ」
「キャラブレしている」「低予算のクソドラマ」という評価は変わらない。けれど、その底の方で、メルトの泥臭い変化や、作品を成立させようと足掻いた軌跡を確実に拾ってくれている視聴者がいた。
決して手放しの絶賛ではない。しかし、第1話の配信日に味わった、あの「自分の手で大好きな作品を泥沼に沈めた」という救いのない絶望とは明確に違っていた。
メルトはタブレットの画面をそっと伏せ、天井を見上げた。
悔しさがゼロかと言えば嘘になる。それでも、ほんのわずかに前へ進めた手応えが、熱を持ったまま胸の奥に残っていた。
―――
薄暗いカラオケボックスの中、有馬かなはマイクをテーブルに置き、烏龍茶のグラスを弄りながらポツリとこぼした。
「……私ね、この作品を、観れる作品にするわ」
星野アクアは、手元のモニターから視線を上げ、正面に座るかつての天才子役を見つめた。
彼女は幼少期の挫折を経て、いつしか周囲の大根役者に合わせて自分の演技の質を落とし、作品全体のバランスを保つ「適応型の役者」になっていたはずだ。だが、今の彼女の瞳には、諦めや妥協ではない強い光が宿っている。
「このドラマのキャスティングは最悪よ。でもね……何とかしようと、必死に頑張っている人がいるの」
かなの脳裏に誰が浮かんでいるのか、アクアには容易に想像がついた。
主演の鳴嶋メルト。顔だけの素人モデル。鏑木プロデューサーのDNA鑑定という目的のためにこの仕事を引き受けたアクアにとって、主演の技量など本来どうでもいいことだ。だが、有馬かなにそこまで言わせる「何か」が、今の現場にはあるらしい。
「そいつの泥臭い努力を無駄にはしたくないのよ。だからアクア、あんたにも本気で手伝ってもらうわ」
「……言われなくても、仕事はこなすさ」
アクアは淡々と相槌を打ちながら、その『頑張っている素人』のお手並みを少しだけ見てやろうと、静かに思考を巡らせた。
◆
数日後。ドラマ最終話の撮影現場。
薄暗いスタジオの片隅で、パイプ椅子に腰掛けて台本を睨みつけている青年がいた。鳴嶋メルト。彼が今回の主演であり、かなが口にしていた人物だ。
「メルト君。今日、悪役のストーカーをやってくれる星野アクア君よ」
かなが普段通りの明るい声で紹介する。アクアは無難で人当たりの良い笑みを張り付け、軽く頭を下げた。
「初めまして、星野アクアです。現場経験は浅いですが、よろしくお願いします」
だが、返答はなかった。
メルトは顔を上げると、アクアを一瞥し、露骨に眉間を寄せて鋭く敵意に満ちた視線を向けた。そして、そのまま無言でそっぽを向いてしまったのだ。あからさまな無視。
「ちょっ……あんたねぇ! 人がせっかく紹介してんのにその態度は何よ!」
空気が凍りつき、慌てたかながフォローに入ろうと噛みつく。しかし、アクアはスッと手を出してそれを制した。
「構わない。有馬は口を出さないでくれ」
アクアの目は、怒るどころか一切の感情を排したように冷たく凪いでいた。彼の鋭い観察眼は、メルトのその不自然な態度の理由を即座に見抜いていた。
(なるほど。役作りの一環……いわゆるメソッド演技の真似事か)
メルトの肩には異常なほど力が入り、呼吸は浅い。彼は最終話の最大の敵である『ストーカー役』のアクアに対し、意図的に私怨のような負の感情を向け、本番での敵意を作り出そうとしているのだ。
だが、所詮は素人の付け焼き刃。役柄に対する怒りに囚われすぎた結果、逆に感情表現の幅が極端に縮こまり、ただガチガチに萎縮しているだけになっている。
(やり方は完全に間違っているが……真剣なのは伝わってくる)
自分の殻に閉じこもり、空回りしながらも、なんとかこのシーンを成立させようと足掻いている。かなが「必死に頑張っている」と評した意味が、アクアにもはっきりと理解できた。
「……じゃあ、準備があるから」
アクアは表情を変えないまま、それだけ言い残してメルトに背を向けた。
「あっ、ちょっとアクア……! ごめんなさいねメルト、後でガツンと言っておくから!」
かながメルトに慌てて言い訳を残し、足早に歩き出したアクアの背中を小走りで追いかけてくる。
セットの裏手まで進み、メルトの視界から完全に外れた通路の角で、アクアはスッと足を止めた。
「ちょっと! あんた怒ってないでしょうね!? あいつ本当に不器用だから、ああいうやり方しかできなくて……」
「気にしてない」
隣でハラハラと弁明を続けるかなへ視線を落とし、アクアは平然とした顔のまま告げた。
「何とかしようと必死に頑張っている人間に、俺は悪感情を持たない」
その淡々とした、しかし嘘偽りのない言葉に、かなは少しだけ驚いたように目を丸くした。
アクアはそれ以上何も語らず、ただ静かに、これから始まる本番で『素人の彼からどうやって本気の感情を引き出すか』へと、自身の内なる思考を切り替えていった。
――
「本番、よーい……アクション!」
土砂降りの雨を再現したセットの中、監督の鋭い声が響き渡った。
最終話のクライマックス。ヒロインの前に突如として現れたストーカーと、それを庇うカナタの対峙シーン。
カメラが回り始めた瞬間、星野アクアから放たれる空気が一変した。
不気味で、底知れず、純粋な狂気を孕んだ眼差し。ただそこに立っているだけで、冷たい雨よりもさらに冷酷なプレッシャーが肌を刺す。
(……っ、なんだこいつ、演技の圧が……!)
かなを背後で庇うように立つメルトは、その異様なオーラに完全に呑まれかけていた。
本番前に自ら作り上げてきた、アクアに対する『私怨』や『敵意』。そんな薄っぺらなメソッド演技もどきの感情など、本物の役者が放つ狂気の前では、風前の灯火のように頼りない。
肩に力が入りすぎ、セリフが上擦りそうになる。用意してきたはずの『カナタ』の表情が崩れ落ち、ただ怯えるだけの素人に戻りかけていた。
そんなメルトの限界を見計らったかのように、アクアはゆっくりと距離を詰め、台本にはない、底意地の悪い嘲笑を浮かべて耳元で囁いた。
「お前も有馬も……こんなクソドラマによく頑張るよな」
その瞬間、メルトの脳内で何かがブチッと千切れる音がした。
大好きな『今日あま』。原作を台無しにしてしまった自分への怒り。それでも必死に作品を良くしようと、泥水をすするような思いで奔走してくれたかなの努力。
それを、ポッと出の悪役が鼻で笑ったのだ。
役作りも、演技プランも、すべてが吹き飛んだ。
「ふざけんな……!!」
そこからのメルトの演技は、もはや演技ではなかった。
ただの鳴嶋メルトとしての、本気の怒り。本気の焦り。原作への強烈な愛と、戦友である有馬かなを愚弄されたことへの反発。
カメラの存在すら忘れ、獣のようにアクアに掴みかかる。その必死な形相は、皮肉にも原作漫画で描かれていたカナタの『なりふり構わない、泥臭くて熱い姿』そのものだった。
「はい、カット! オッケー!!」
監督の震えるような、興奮を帯びた声がセットに響き渡る。
現場の空気が一気に弛緩し、メルトは肩で息をしながら我に返った。そして、ハッとして自分の手元を見る。
もみ合いの最中、感情が爆発しすぎたせいで、勢い余った自分の拳がアクアの頬を軽く掠めてしまっていたのだ。
「あ、やべ……。ごめん、今当たっ――」
慌てて素に直り、謝罪しようと身を乗り出したメルト。
しかし、その言葉を遮断するように、アクアは氷のような目でメルトを見下ろした。
「チッ」
あからさまな舌打ち。
そして、アクアはメルトの謝罪を完全に無視し、痛む頬を気にするそぶりすら見せずに、踵を返してセットの奥へと消えていった。
「……っ、なんだよあいつ!」
残されたメルトは拳を握りしめ、顔を真っ赤にして憤慨した。
いくらなんでも態度が悪すぎる。演技中の事故とはいえ、こっちはちゃんと謝ろうとしたのに。腹の底で煮えくり返るような苛立ちが治まらず、その日の撮影がすべて終了するまで、メルトはアクアに対してずっと強い悪感情を抱き続けていた。
◆
「はい、本日の撮影はすべて終了です! 皆様、本当にお疲れ様でした!」
スタッフの拍手が響き、長かった『今日あま』の全撮影スケジュールが無事にクランクアップを迎えた。
安堵と達成感が現場を包む中、メルトは一人、セットの隅でパイプ椅子に深く腰掛け、ドッと押し寄せてきた疲労に息をついていた。
そこに、私服に着替えたかなが、温かい缶コーヒーを二つ持って歩み寄ってくる。
「お疲れ。……あんた、今日すっごく良かったわよ」
「別に……。それよりあのアクアって奴、マジでムカつくんだけど。さっきも謝ろうとしたのに無視して舌打ちとか、性格悪すぎだろ」
労いの言葉もそこそこに、メルトは未だに燻っている不満を吐き出した。
しかし、かなは同調するどころかクスッと意地悪に笑い、コーヒーのプルタブを開けながら言った。
「あんた、本当に馬鹿ね」
「はあ?」
「怒らないであげて。あいつ、わざとやってたのよ」
不満げに顔をしかめるメルトに、かなは少しだけ誇らしげな、けれど呆れたような声で種明かしをした。
「あんたが本番前、『怒り』の感情作りに集中してるのを、あいつは一目で見抜いてたの。だから、あんたのその感情の糸が、本番が終わって完全にカットがかかるまで絶対に切れないように……ずっと、嫌な奴を演じてくれてたのよ」
「え……?」
「あんたの感情を引き出すために、カメラが回ってないところでもヒールに徹したの。自分が嫌われてでもね。……本当に、嫌な奴よね」
そう言って肩をすくめるかなの言葉に、メルトは目を見開いた。
自分が必死に作ろうとしていた薄っぺらな『演技もどき』。それを一瞬で見抜き、的確な暴言で自分の120%の感情を引きずり出し、あまつさえ撮影が終わる最後の瞬間まで、その熱を冷まさせないように計算し尽くしていたというのか。
(あれが……本物の、役者……)
握りしめていた拳の力が、ゆっくりと抜けていく。
一日中抱えていた怒りや苛立ちはとうに消え失せ、代わりに得体の知れない敗北感と、強烈な憧憬が、メルトの胸の奥に深く、深く突き刺さっていた。
――
ドラマの全撮影が終了し、数日後に都内のホテルで開催された打ち上げパーティー。
華やかなシャンデリアが照らす宴会場には立食形式のビュッフェが並び、グラスがぶつかる音やスタッフたちの明るい談笑が響き渡っていた。少し居心地の悪さを感じながら、鳴嶋メルトは壁際でジンジャーエールのグラスを傾けていた。
ふと、視界の端に見慣れた金髪が近づいてくるのが見えた。星野アクアだった。
「……この前は、申し訳――」
「あーっ! ストップストップ!」
無表情のまま律儀に頭を下げようとしたアクアを、メルトは慌てて手で制した。
かなから事情をすべて聞いていたメルトにとって、今更彼から謝罪など受けたくなかった。あの挑発がなければ、自分は最後までただの『素人のナマコ』で終わっていたのだから。
「有馬から聞いたよ。俺の演技引き出すために、わざと嫌な奴演じてたんだろ? ……その、なんだ。おかげで良い画が撮れた。ありがとな」
照れ隠しのようにそっぽを向いて言ったメルトに対し、アクアは少しだけ目を丸くした後、ふっと口元を緩めた。
「周りの目もある。一応、現場で揉めたなんて噂が立たないように、円満アピールってことで握手しとくか」
アクアが悪戯っぽく右手を差し出してくる。
「……お前、ほんと性格悪いな」
文句を言いながらも、メルトはその手を力強く握り返した。
バシッ、と男同士の小気味いい音が鳴る。それを合図にしたかのように、二人の間にあった見えない壁がスッと消え去った。
「やっぱ感情表現は、感情ノってなんぼだよな」
「そうだな。今回やってみたけど、滅茶苦茶楽しかったわ」
互いの健闘を称え合うように笑い合った後、そこからはごく自然な流れだった。
「お前、あんな嫌なストーカー演じきれるってことは、ちゃんと原作読んでたのか?」
「まあ、仕事だからな。一通りは目を通した」
「マジか! ちなみに、どこが一番好き? 俺はやっぱり3巻の、カナタが雨の中で傘を差し出すシーンなんだけど」
「俺は4巻だな。あそこのヒロインの心理描写は、構成としてよくできてる」
「おっ、わかってんじゃん! あそこの見開き、マジで最高だよな!」
一度役者の仮面を外したアクアは、思ったよりもずっと話しやすく、何より『今日あま』に対する解像度が高かった。
気づけばホテルの喧騒の中で、二人はいち原作ファンとして熱く語り合い、同年代の普通の友人同士のような親密な空気で笑い合っていた。
「鳴嶋さん、星野さん」
ふいに背後から響いた落ち着いた声に、メルトの心臓が大きく跳ね上がった。
振り返ると、そこにはドレスアップした原作者、吉祥寺頼子先生がグラスを片手に微笑んで立っていた。
「撮影、本当にお疲れ様でした」
労いの言葉をかけられ、メルトは全身を硬直させた。
第1話の現場で見せた、彼女のあの『絶望を隠すための気遣いの笑顔』がフラッシュバックする。結局、自分は最後まで原作の完璧な『カナタ』を演じきることはできなかった。かなやアクア、周りの人間に助けられて、なんとか形にしただけだ。
気の利いた言葉も出ず、かといって何も言わないわけにはいかない。メルトはギュッと拳を握りしめ、絞り出すように口を開いた。
「先生……俺、その……っ」
「……」
「俺がもっと上手くやれてたら……もっと、カナタの魅力をちゃんと引き出せてたらって、ずっと、だから、申――」
「謝らないでください」
深々と頭を下げようとしたメルトの言葉を、吉祥寺先生の穏やかな声が遮った。
恐る恐る顔を上げると、彼女はふんわりと、心の底からの柔らかい笑みを浮かべていた。あの日のような、引きつった諦めの笑顔ではない。
「原作のカナタとは、少し違ったかもしれない。……でもね、それでもあなたたちのおかげで、この『今日あま』は、私が好きだって言える作品になったわ」
吉祥寺先生は、メルトの目を真っ直ぐに見つめて言った。
「それはね、メルト君。あなたがこのお話を心からリスペクトして、逃げずに最後まで演じきってくれたからです。……私の作品を大切にしてくれて、本当にありがとう」
嘘偽りのない、原作者からの真っ直ぐな肯定と感謝の言葉。
頭が真っ白になるメルトの肩を、隣にいたアクアがポンと軽く叩いた。
「俺もそう思う」
「アクア……」
「原作のカナタも、もちろんクールでカッコいいけどさ」
アクアはメルトの顔を見据え、誤魔化しのない、素直な言葉をはっきりと告げた。
「このドラマの『今日あま』のカナタも――お前も、すごくカッコよかったぞ」
「……っ」
その言葉が胸の奥にストンと落ちた瞬間、メルトの視界がふわりと滲んだ。
「……ばーか。男からカッコいいなんて言われても、全然嬉しくねぇよ」
照れ隠しで茶化すように口走ったものの、声は情けないほど震えていた。
人生で初めて、見栄もプライドも捨てて、血を吐くような思いで本気でぶつかった出来事。それを、自分が心から愛する作品の生みの親と、その実力を認めた同年代の男子から純粋に評価されたのだ。
堪えきれずに、だらしなく口元が緩んでしまう。有馬かなに褒められた時よりも、ずっと、ずっと嬉しかった。
溢れそうになる涙をごまかすように、メルトは「炭酸キツ……」と誰に言い訳するでもなく呟きながら、手元のジンジャーエールを一気に飲み干した。
――
宴会場の少し離れたテーブル。
プロデューサーの鏑木勝也は、グラスワインを揺らしながら、遠くで談笑するメルトたちの姿を面白そうに眺めていた。やがて自分の元へ歩み寄ってきたアクアに、鏑木はニヤリと笑いかける。
「いやぁ、君の立ち回りは見事だったよ、星野アクア君。最終話で鳴嶋君の感情を見事に引き出してみせた。あのシーンだけは、間違いなく一級品だ」
「どうも」
短い返事と共に隣に並んだアクアに対し、鏑木は探るような視線を向けた。
「それに……さっきの彼との和やかなやり取り。あれは、メルト君へのフォローだろ? 君たちみたいな若い子のそういう立ち回りや演技での才を堀起こせただけ、今回は成功と言えるかな?」
現場で不和を起こしかけたメルトへのフォロー。そして、今後の関係性を円滑にするために自ら歩み寄って交わした、あの和解の握手。さきほどの友好的なやり取りすらも、アクアが意図的に計算して行った『打算』であると、海千山千のプロデューサーはとうに見抜いていたのだ。
暗にそれらを指摘してくる鏑木の視線に対し、アクアは馬鹿正直に肯定も否定もせず、ただ静かに肩をすくめてみせた。仮に事実がそうであったとしても、ここでペラペラと自分の手の内を明かす義理はない。
そんなアクアの反応を見て、鏑木はますます愉快そうに目を細めた。
「君は役者としても、裏方としても優秀みたいだね。鳴嶋君もこの経験をバネにしてこれから確実に伸びそうだ。キャスティングした甲斐があったよ」
「……」
上機嫌な鏑木の言葉を聞き流しながら、アクアは内心で冷ややかに計算式を弾き出していた。
(鳴嶋メルト。素直で、不器用で、単細胞な馬鹿。……だが、鏑木の言う通り、あいつが今回の経験を機に化けていく可能性のある人間であるのなら、『友人関係』を築いておくのは悪くない)
アクアの目的はただ一つ、自分とルビーの父親を見つけ出し、復讐を果たすこと。
芸能界の深い部分に潜むターゲットに近づくためには、情報網はいくらあってもいい。メルトのような真っ直ぐで裏表のないタイプは、他者から警戒されにくく、情報を集めるための手駒として都合よく使えるはずだ。
(すべては打算だ)
あんな熱い芝居に付き合ってやったのも、わざわざ歩み寄って和解の握手を交わしたのも。彼への純粋な評価も、親密な空気も。
結局のところ、すべては自分の目的を達成するための手段でしかない。アクアはそう冷たく自分自身に言い聞かせると、感情の読めない暗い瞳を伏せ、グラスの烏龍茶に口をつけた。
――
ある日の休日。星野家のリビング。
玄関に向かい、外へ出る装いをしていたアクアへ、ソファでくつろいでいたルビーが視線を向けた。
「ちょっと出かけてくる」
「あれ、どこか行くの? 私もいっしょに行く!」
面白そうなことには首を突っ込むルビーが、抱えていたクッションを放り投げてバタバタと駆け寄ってくる。しかし、アクアは玄関のドアノブに手をかけたまま、振り返りもせずに冷たく言い放った。
「他に男のツレが居るから来るな」
「えっ」
ピタリと足を止めたルビーは、目を丸くしてアクアの背中をまじまじと見つめた。
「……えっ、お兄ちゃん友達できたの!?」
「……別に。ただ情報収集の一環として、たまに行くくらいだ。友達じゃない」
アクアは面倒くさそうに、一切の感情を交えずに淡々と返す。
「ふーん? 情報収集ねえ……。ちなみに、そのツレとは何して遊ぶわけ?」
「だから遊んでいないと言っているだろう。この前は飯を食いながら互いの演技について意見交換をしたし、今日はおすすめされた漫画の貸し借りと、ついでにカラオケに行く予定に――」
「……それって友だちじゃん」
ルビーの容赦のない、そして的確すぎるツッコミが玄関に響き渡った。
「……」
言い返す言葉が見つからず、アクアは図星を突かれたような苦々しい表情を浮かべて押し黙る。その反応が何よりの答えだと悟ったのか、ルビーは「あははっ、お兄ちゃんウケる!」と楽しそうに腹を抱えて笑い転げていた。
「……うるさい。行ってくる」
逃げるように玄関のドアを開け、アクアはそそくさと家を後にした。
初夏の風が頬を撫でる。
待ち合わせの駅へと向かう道を歩きながら、アクアは小さく息を吐いた。
(……友人関係も、すべては打算だ。ターゲットに近づくための、ただの手駒にすぎない)
いつものように、自分自身にそう言い聞かせる。自分の人生は復讐のためだけにあるのだと、冷たい刃のような思考を研ぎ澄まそうとする。
しかし、その強固で冷たい決意は、今日だけはどういうわけか、ほんの少しだけ緩んでしまっていた。
「……打算、ね」
自分でも言い訳じみていると自覚しているのだろう。
誰の目もない住宅街の路地。復讐という呪縛に囚われた少年の口元からは、彼自身も気づかないほどの、年相応で穏やかな笑みが微かに漏れていた。