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なろう、カクヨムマルチ
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エレノアは姉のセシリアが妬ましくて仕方がなかった。
クロイツァー家の長女として生まれた姉セシリアが夜空を溶かしたような紫紺の瞳と陶器の肌を授かる神童だったからだ。更に言えば、その知性さえもが見た目に負けぬ輝きを放っていたからだ。
年に見合わぬその聡明さは時にひどく斬新な考えを呈することもあり、まるでどこか異世界の人間がその精神の年輪を保持しつつ、生まれ変わってきたかのようにも思える。
エレノアはと言えば、まあ確かに美しいと言えるだろう。それなりに利発ともいえるだろう。しかし、それだけである。エレノアは、自身の持つ淑女に求められる一切の要素がセシリアに比肩しうるものではないと理解していた。そしてエレノアのみならず、両親もそう見做していた。
両親はセシリアを王家にすら送り込める至宝と呼び、惜しみなく銀貨を注ぎ込んで育て上げた。次女であるエレノアに与えられるものといえば姉のお下がりのドレスと誰の目にも留まらない端役の席ばかりであった。
しかしエレノアはそのままでい続ける事を是とする殊勝な性格ではなかった。彼女はとにかく貪欲なのだ。あれも欲しければこれでも欲しい、満たされたい、満たされたい──そんな
セシリアがどれほどにエレノアに優しくしてくれようとも、胸の奥に轟轟と燃ゆる黒い炎は決して弱まる事がなく、よくされればされるほどに姉への敵意がいや増していくのだ。
ゆえに、いつか姉セシリアの、あの完璧な鼻をへし折ってやろうと内心で陰湿な策謀を練り上げる日々を送っていた。姉の何もかもを奪ってやる──それがエレノアの目標であったのだ。
その腐臭漂う歯車が狂い始めたのは、セシリアが十五の春を迎えて社交界へのお披露目を済ませた直後である。
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最初の相手は広大な穀倉地帯を抱えるヴェルナー侯爵家の嫡男ユリアンであった。金髪碧眼の容姿端麗な青年で、将来の宰相候補と目される非の打ち所のない優良物件である。
エレノアは姉への嫉妬をより強めた。いっそ、憎悪と言ってもいいかもしれない。それほど姉が憎い。自分にも恐らく相応の貴公子が宛がわれるであろうが、まずユリアンほどの器量はないだろう。姉が優、自分は劣──そんな風に格付けされたような気がして、エレノアはセシリアを縊り殺したくて仕方がなかった。
だから、庭園の東屋で設けられた二人の顔合わせを、エレノアは生垣の隙間から息を殺して観察することにしたのだ。
姉の些細な失言や不作法を拾い集め、母に密告してやろうと思ったのである。ところが漏れ聞こえてきたのは、エレノアの浅ましい計算を遥か彼方へ消し飛ばす奇怪な演説であった。
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「式をあげてからも数ヶ月は、決して肉体に触れることなく手繋ぎの散歩を重ねて性格の相性を見極めるのが、淑女に対する最低限のマナーだとわたくしは考えるのです」
セシリアは陶器の指先で扇子を優雅に畳み、涼やかな美貌に神聖な確信を宿らせて言い放った。
「すぐに寝室を意識するような殿方は、要するに下劣な肉体目的に過ぎません。二ヶ月も手繋ぎだけで楽しめない男など、最初から誠意の欠片もない獣と同じです」
ユリアン侯爵令息は手にした白磁の茶杯を空中にとどめたまま固まった。
名門貴族の嫡男にとって政略結婚とは領地の利権を固め健全な後継ぎを確保するための冷徹な血の契約である。初夜の儀礼と受胎の義務を果たすことこそが契約の根幹であり、そこに個人の甘い感傷が挟まる余地など微塵もない。それを面と向かって「手繋ぎ散歩による試験」と定義され、あまつさえ「肉体目的の獣」と断じられたのである。
「……クロイツァー伯爵令嬢。貴女は我がヴェルナー家を侮辱するためにこの場を設けたのか」
青年の声色ときたら、低く濁っており、これはもうどう言いつくろったとしても敵対者に対する威圧以外の何物でもない。そんなユリアンに対して、セシリアは慈愛に満ちた微笑みすら返した。
「侮辱ではありませんわ。男性がすぐ性行為を求めたがるから、世の女性たちが性嫌悪に陥るのです。わたくしが貴方の魂を正しい愛の道へ導いてあげます」
当たり前の話だが、縁談は翌朝の日の出を待たずに破談となった。
父のルドルフは執務室の机を拳で殴りつけ、母のマグダレーナは気付け薬の瓶を握りしめたまま失神した。しかし当のセシリアは嵐のような怒号のなか、殉教者のような毅然とした立ち姿を崩さなかった。
「お父様もお母様も、男性優位の野蛮な因習に毒されています。愛のない性行為の強要など魂への暴力に他なりません。女性が安易に身体を開くから殿方がつけあがるのです。貴族の婚姻規範そのものをわたくしが変革してみせます」
姉が両親とどういう話をするのか甚く興味があったエレノアは、執務室の扉に耳をぴったりとくっつけて盗み聞きしていたのだが、姉の言を聞いて立ち尽くすばかりであった。
この時、エレノアは自身の胸の裡を焼くあ
──お姉さまは、狂っている。
ぞわり、ぞわりとした悪寒が蟻走感となってエレノアの精神の皮膚を苛んでいく。
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二度目の縁談は、北西の山脈地帯に豊かな鉄鉱山を保有する武骨な騎士爵ギルバート卿であった。
前回の醜聞をもみ消すため父ルドルフが格下の家格に頭を下げて取り付けた縁談である。とはいえ、適当に決めたわけではない。ギルバート卿は無口だが誠実で領民からの信望も厚い実直な武人であった。
エレノアとしては好みでこそないがしかし、客観的に見ればこういった相手を夫にもって、世間に恥じるものは何一つなく、むしろ誉れでさえあるだろうという評価である。
しかし──
顔合わせの席でギルバート卿がセシリアの右手をとり、その甲へ唇を寄せようとした瞬間、乾いた破裂音がサロンに響き渡った。セシリアが扇の親骨で、屈強な騎士の鼻先を容赦なく叩き落としたのである。
「不躾な接触はおやめください! わたくしたちは初めて逢った者同士なのです。もっとお互いを知り、尊敬の念を以て接する事ができるようになってからなさってくださいませ」
ギルバート卿は赤く腫れた鼻頭を押さえ、侮蔑の眼差しをセシリアへと向けて言った。
「我が家には子孫を残す義務を弁えた正常な令嬢が必要なのだ。石女どころか頭の腐った狂人を押し付けられる筋合いはないわ!」
ギルバート卿は挨拶すら省略して館を出て行ってしまった。
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社交界を駆け巡る噂の伝播速度は冬の山火事よりも速かった。長女セシリアは見目麗しい姿をしただけの狂女であり、閨の義務を果たせない不良債権という烙印が、瞬く間に貴族名鑑の裏表紙に刻み込まれる。
両親の眼差しからセシリアへの誇りと愛情が抜け落ち、得体の知れぬものを見る恐怖と冷え切った嫌悪が沈殿していった。
セシリアもまた周囲の自身を見る目の変化に気づいたようで、彼女なりに悩む所を見せたりして、しかし自分の何がおかしいのか、狂っているのかが分からないようで、それがまた彼女の苦悩を深めている様でもあった。
エレノアはそんな姉を見て──自身の胸の裡を長年焼いていた凶熱が完全に消えてなくなった事を感得した。代わりに湧いてきたのは憐憫である。考えてもみよ、確かに自分は姉を憎んでいたがしかし、姉はどうだったのか。何かにつけ、良くしてくれたではないか。幼いころ、転んで泣いた自分を見た姉はすぐに使用人を呼んで、待っている間は抱きしめ、頭を撫でさすってくれたではないか。
そんな姉が狂ってしまったのだ。
正気に戻ってくれればいいが、もしこの先ずっと
そういった心境に至って、生まれて初めてエレノアは哀れな姉の為に何かできることはないかと模索し始めた。
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そんなある日の夕刻、エレノアの部屋の扉がノックされる。
運び込まれてきたのは、かつて喉から手が出るほど欲しかった豪奢な絹のドレスとサファイアの髪飾りであった。現れた父の顔は幽鬼のようにやつれ、その双眸には狂気に似た切迫感が張り付いている。
「エレノア、お前が我が家を救うのだ。姉の悪評を洗い流すため、より良い縁を結ぶために自分を磨き上げよ。当家はセシリアのせいで他貴族家から白眼視されつつある。今はまだ家が傾くだとか、そういう事はないにしても余り余裕はない。これは由々しきことぞ」
貴族社会における婚姻とは領地の水利や通商、有事の軍役を支え合う相互安全保障条約そのものである。血統の交雑を通じて利権を担保し合う階層において、「跡継ぎを産む義務を果たせぬ娘を押し付けようとした」という悪評は致命的な信用の失墜を意味していた。
一度でも他家から白眼視されれば、共同の治水事業からも交易の特権からも締め出されていく。婚姻による同盟を結べなくなった家門は、孤立の末に隣領の貴族たちから領地を蚕食され一代で立ち枯れる運命を辿るのだ。
ゆえに父の切迫感は決して杞憂から発されるものではなく、家の危機を正確に把握しているがゆえの、実に真っ当な防衛本能であった。
望んでいたはずの寵愛と美しい装飾品が、悪夢のような手触りで両腕へ押しつけられる──この感ときたら!
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その夜、エレノアは屋敷の離れにあるセシリアの部屋を訪れた。
みれば、机に向かって羽ペンを走らせているようだ。
「あら、エレノア。まだ寝ていなかったのね。どうしたの?」
「ちょっと……話したい事があるの。何を書いているの? ……うわ」
紙には『新時代における男女交際規範と精神的優位性』などという奇怪な表題が躍っているではないか。エレノアは内心で、姉のキチガイ度を三段階ほど上方修正した。
「お姉様、本気でそんなことを信じているの?」
耐えかねてエレノアの口から漏れ出た声は、毒気を抜かれた懇願に近かった。
「いい? おバカなお姉さまにはっきりと教えてあげるわ! 貴族の女なんて領地の利権を繋ぐための家畜よ! 初夜で血を流して跡継ぎを産むからこそ、私たちは絹を着て美味しいごはんを食べせてもらっているの! お姉さま、考えを改めなければご自分がどうなるのかわかっていて!? お父様やお母様は確かに私たちの親だけれど、それ以上に、あの人達は貴族なのよ? 貴族っていうのは家を守るのが仕事なの! 家を守るためならなんでもするのが貴族なの! お姉さま、今からでも遅くない──いえ、遅いかもしれないけれど、変な考えは捨てて、お父様に謝って! じゃないと──」
セシリアはペンを置き、哀れな迷い子を見るような慈愛の眼差しで妹を見つめ返した。
「可哀想なエレノア。貴女はそうやって野蛮な男性に尊厳を売り払い、自らを肉の塊に貶めて生きていくのね。愛のない交わりを拒絶することこそが、知性ある人間の誇りなのに」
ぶるり、とエレノアの背筋が震える。恐ろしかった。全く理解できない事をつらつら宣う姉が不気味で恐ろしくて、今すぐにでも逃げ出してしまいたかった。しかし、ここで逃げればどうなるのか。両親は既に姉を見切っていると言って良いだろう。末路はきっと、碌なものじゃない。エレノアはぐっと腹に力をこめ、強くセシリアを見つめ返す。
「違うわよ、お姉様。お姉様は間違っているわ! いま、お姉様がどれだけよくない状況にあるか──」
エレノアの、もはや叫びにも似た訴えをセシリアは途中で遮って言う。
「いいえ。間違っているのはそういう考え方なのよ。女と男は等価値なの。この世界の誰にだって、相手が嫌がる事を押し付ける権利なんてないのよ。だから──いえ、これも押し付けになってしまうのかしらね……。でもエレノア、わたくしとあなたは考え方が違うけれど、わたくしとお父様やお母様とは考え方が違うけれど、わたくしがみんなを心から愛している事だけは分かって頂戴」
そんな事を言う姉の頬を、エレノアはどれだけ張り飛ばしてやりたかったことか。愛しているというのなら、少しくらいこちらの気持ちを汲んでくれてもいいだろうという想いで、我知らずに歯を食いしばる。そもそも家族に対して考えを押し付ける事を是としないのであれば、なぜそれを政略結婚に適用できないのか。まるで貴族と貴族の、
だが──
セシリアは決してエレノアに手を出したりはしなかった。怒鳴ったりもしなかった。幼いころからあれがほしいこれがほしいといって、セシリアを困らせ、私物を半ば強盗のように奪ってきたというのに、セシリアは決してエレノアに負の感情を向けてこなかった。エレノアはセシリアがことあるごとにうかべていた、あの困ったような笑みが嫌いではなかった。「もう、仕方ない子ね」とそこまで年齢も離れていないのに随分と高みから見下ろしてくるような、愛のこもった眼差しが嫌いではなかった。
だからそんな姉の頬を張り飛ばして言う事を聞かせるなどという乱暴な手は速やかに却下した。そもそも、頬を張られたくらいでこの狂人が言う事をきいてくれるものかという想いもある。
しかし時間がない。
他者の表情、感情を窺うように過ごしてきたエレノアの感覚は、このままではまずい、とにかくまずい、もう時間がない、手を打つなら急げ、さもないと──という脅迫めいた警鐘をガンガン鳴らしていた。
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処分が決定するまでは一週間と要しなかった。
これ以上長女を家に留め置けば次女の縁談にまで狂気の影が差し、家そのものが社交界から抹殺されかねない。父ルドルフが下した決断は極めて合理的だ。
『長女セシリア、心身の失調により北の聖マルタ修道院へ隠遁』
表向きは祈りと療養のための送致だ。しかし貴族社会の裏側を知る者にとって意味は明白であった。
北の聖マルタ修道院は、貴族家にとって処理に困った不良令嬢や令息を隔離する公然たる廃棄場である。数年も経てば流行り病で死亡したと書類が作成され、生きたまま裏の奴隷商人に売り払われて人買いの船へ積み込まれる。二度と日の当たる世界へ戻ることのない合法的な処刑場だ。
エレノアとしてはどうにかしてやりたい。
しかし「お姉様を助けてあげて」などと情に縋ったところで、父ルドルフが首を縦に振るはずもない。泣き落としなど鼻で笑われて一蹴されるのが落ちである。ならば、とエレノアは自室の鏡の前で居住まいを正し、両親の前で作るべき表情を
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執務室の重厚な扉を叩き、エレノアは両親の前へと進み出た。
父ルドルフは疲れ果てた顔で書類に視線を落としており、母マグダレーナは眉間に深い皺を刻んで紅茶に口をつけていた。二人とも長女の処分を終えて一息ついたつもりでいたのだろう。エレノアは淑女の完璧なカーテシーを披露し、澄ました声音で口を開いた。
「お父様、お母様。セシリアお姉様の送致先について、少しばかりお耳に入れたき儀がございますの」
「セシリアの件ならすでに決まった。北の修道院へ送る。お前が口を挟むことではない」
ルドルフの冷淡な声に、エレノアは怯むことなく微笑みを返した。
「北の聖マルタ修道院へ送る処置そのものは極めて妥当でございますわ。あの壊れたお姉様に相応しい報いであり、我が家の恥を清算するには最も手っ取り早い手段ですもの」
まずは両親の決定を肯定し、冷酷な次女の仮面を被ってみせる。これにより、
「ですが、それはあまりにも勿体なく、我が家にとって潜在的な大損失を招く悪手ではございませんこと?」
母マグダレーナが怪訝そうに眉を跳ね上げた。
「損失ですって? あの恥さらしを家に置いておくことこそが最大の損失よ」
「お母様、北の修道院の真の実態など社交界の貴族であれば誰もが先刻ご承知ですわ。表向きは隠遁と繕ったところで、裏では『クロイツァー家は頭を患った愛娘を弁明の機会も与えず人買いへ売り払った冷酷無残な家門』と囁かれることになります。少なくとも、私がクロイツァーを目の敵にする──例えばハルケンブルク子爵家の者とかであれば、それを材料にしますわ。当家を貶めるための」
エレノアは扇を胸元で弄びながら、言を継ぐ。
「さらに申し上げれば、先代国王の弟君であらせられるユーグ大公閣下をご存知でしょう。あのお方は王族らしからぬ庶民めいた慈悲を重んじ、身内の情を尊ばれると聞き及びます。もし大公閣下や閣下に近き高位貴族の耳にでも『クロイツァー伯爵は血を分けた長女を実質的な死地へ放逐した』などと届いてごらんなさいませ」
ルドルフの手がぴたりと止まった。
貴族にとって最も恐ろしいのは王族からの見えない不興である。法に触れずとも品性劣悪の烙印を押されれば家門の命脈は容易く断たれる。エレノアの指摘は、まさにその急所を正確に抉り抜いていた。
「……では、お前はどうしろと言うのだ」
父の瞳に僅かな動揺が走ったのを、エレノアは見逃さなかった。
「西の聖アンナ修道院へ送るべきでございます」
西の修道院──その名を聞いた両親の顔に、明らかな困惑の色が広がった。
西の聖アンナ修道院は死罪に値せぬ不祥事を起こした貴族の子弟が送り込まれる矯正施設である。囚人同然の過酷な労働と鉄の規律を課され、貴族の責務と現実を骨の髄まで叩き込まれる過酷な現場であった。だが北のような人身売買の闇ルートは存在しない。精神を叩き直された令嬢が「完治」の診断書を携えて社交界へ復帰することすらある場所だ。
「西へ送れば、我が家は『娘の狂気を嘆きつつも信仰による更生を信じて見守る慈悲深くも厳格な名家』という美名を勝ち取れますわ。世間の同情はすべて我が家の味方になります」
エレノアは一歩踏み出し、甘やかな打算の果実を父親の鼻先へぶら下げた。
「加えて、セシリアお姉様のそもそもの器量を思い出してくださいまし。お姉様が壊れているのは男への潔癖と閨の義務に対する認識という一点のみ。もし西の苛烈な荒療治によってその一点が完治したなら、我が家には王太子妃すら狙える極上の手駒が戻ってくることになります」
「完治、だと……? あの頑迷な狂人がか」
「可能性の話でございますわ。仮に完治せずとも一生西の石牢で祈らせておけば我が家の手は一切汚れません。感情任せに北へ捨てるより、西を盾にして我が家の格を保ち、極上の駒を拾い上げる可能性を持ち続けておく方が遥かに利口な選択だとは思いませんこと?」
父ルドルフは暫くエレノアを凝視していた。眼前の娘への値踏みが行われているのだ。家族の情を排した、貴族としての冷然かつ厳然たる損得計算が行われているのだ。その結果は──。
「……よかろう。北への手配は白紙に戻す」
重々しく口を開いたルドルフの声に、エレノアは心の中で小さく拳を握りしめた。
「セシリアは明朝、西の聖アンナ修道院へ送る。エレノア、お前がこれほど先を見通せる娘であったとはな。見直したぞ」
「恐れ入ります、お父様」
エレノアは淑女の微笑みを浮かべ、優雅に頭を下げた。
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執務室の扉を閉め、エレノアは早足で自室へと戻り、寝台へと倒れ込んだ。思い通りに事は成り、達成感もそれなりにあるが、そもそもなぜ自分がこんなことをしなければならないのかというクサクサとした自嘲感がある。
「……馬鹿なお姉様。どうして私がこんな苦労をしなきゃいけないのよ」
毒づきながらも、エレノアの唇にはわずかに笑みが浮かんでいる。
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数日後、裏門には黒塗りの馬車が停まっていた。
先だって送られてきた灰色の修道服に身を包んだセシリアは、これから地獄の矯正生活が待っているとも知らず、相変わらずな様子だ。ただ、気負っている風には見えない。見送りに来たエレノアは、使用人も両親もその場にいないことに「でしょうね」という呆れたような笑みを浮かべた。責める気には全くなれない。
「見送りに来てくれたのね、エレノア。嬉しいわ」
「……お姉様。はぁ……まあ、もういいわ。元気でね」
「ええ、あなたも。手紙を書くわね」
別れの挨拶もほどほどに、馬車の扉が閉まり、鈍い車輪の音が敷石を鳴らしながら遠ざかっていく。エレノアは腕を組み、小さくなっていく馬車を冷ややかな眼差しで見送った。
「頭のおかしい姉を持つと大変ね。でもあんなのでも、姉は姉だわ」
そう吐き捨てたエレノアは踵を返し、屋敷へと戻って行った。
(了)