D.Gray-man ― DEALT HAND ― 作:からし明太子
――よりによって、D.Gray-man
死んだ。
……たぶん。
少なくとも、俺という人間の人生が、そこで一度終わったことだけは間違いない。
最後に何を見ていたのかは覚えていない。誰かが俺の名前を呼んでいたような気もするし、何も聞こえていなかったような気もする。痛かったのか、それとも苦しむ暇すらなかったのか。その辺りの記憶は、まるで霧の向こう側に置いてきたように曖昧だった。
だから次に意識が戻った時、俺はてっきり病院にでもいるのだと思った。
けれど、ぼやけた視界いっぱいに映ったのは、見覚えのない女の顔だった。
「――……」
女は泣いていた。
いや、違う。涙を流しながら、笑っていた。
口を動かして何かを言っているのだが、言葉として聞き取れない。耳がおかしいのかと思い、自分から声を出そうと口を開いた。
「ぁ……ぅ」
返ってきたのは、意味のある言葉ですらなかった。
妙な声だった。
驚いて手を伸ばそうとしたところで、さらにおかしなことに気づいた。
手が、小さい。
少し小さいどころではない。指も腕も、まるで自分のものとは思えないほど小さかった。
そこでようやく理解した。
――ああ。
俺、赤ん坊になってる。
◇
転生。
そんなものを、前世で本気で信じていたわけではない。
もちろん言葉自体は知っている。漫画も小説も読んでいたし、いわゆる異世界転生ものだって何作品も見たことがある。
事故で死んだ主人公の前に神様が現れて、
『不幸な事故でしたので、お詫びに好きな能力を一つ授けましょう』
などと言われる話も、珍しくはなかった。
だから、自分が本当に赤ん坊として生まれ変わったらしいと理解した時、俺もほんの少しだけ期待した。
本当に、ほんの少しだけだ。
剣と魔法がある世界かもしれない。
冒険者になって、気ままに旅をする人生かもしれない。
魔法学院に通うようなことになるかもしれないし、そうでなくても、前世より少し平穏な世界で二度目の人生をやり直せるかもしれない。
別に最強になりたいわけじゃない。
王族になりたいわけでも、大金持ちになりたいわけでもなかった。
ただ、前より少し穏やかに生きられるのなら、それで十分だと思っていた。
――今思えば、随分と甘い期待だった。
その幻想は、俺が七歳になる少し前、一つの単語によって綺麗に粉砕された。
「AKUMAが出たそうよ」
市場でそんな声が聞こえた。
その瞬間、歩いていた足が止まった。
パン屋の前だったと思う。買い物に来ていたらしい二人の女が、周囲を気にするように声を潜めて話していた。
「また?」
「ええ。今度は隣町ですって。黒い服を着た人たちが来たらしいわ」
「黒い服?」
「ほら、教会の人が話してたでしょう? エクソシストとかいう――」
身体から一気に血の気が引いた。
子供の身体というのは思った以上に正直で、膝から力が抜けそうになる。
AKUMA。
エクソシスト。
いや、まだだ。
たまたま同じ名前を使っている別の世界という可能性だって、ほんの僅かなら――。
「黒の教団ってところの人たちらしいわよ」
なくなった。
綺麗さっぱり、なくなった。
その日の夕食で何を食べたのか、俺はほとんど覚えていない。
◇
よりによって。
本当に、よりによってだ。
どうしてD.Gray-manなんだ。
いや、好きだった。
前世で読んでいた作品の中でも好きな部類だったし、独特の世界観も、登場人物たちも好きだった。
だからといって、その世界に住みたいかと聞かれれば話は別だ。
冗談じゃない。
AKUMAには殺される。
ノアにも殺される。
黒の教団に入ってエクソシストになったところで、生存率が高くなるとはとても思えない。
一般人として生きていたって、運が悪ければ事件へ巻き込まれる。
それだけではない。
大切な人間を失い、悲しみに耐えられなくなったところへ千年伯爵が現れれば、死んだ人間の魂までAKUMAとして利用される。
生きていても地獄。
死んでも場合によっては地獄。
改めて考えると、とんでもない世界である。
しかも物語が進めば進むほど、単純に「黒の教団が正義で千年伯爵が悪」と片づけられる話でもなくなっていく。
イノセンスとは何なのか。
ノアとは何なのか。
千年伯爵とは何なのか。
そもそも、この戦争そのものが何なのか。
前世で最後まで読んでいた俺ですら、分からないことはいくらでもあった。
そんな世界へ、なぜよりにもよって転生してしまったのか。
子供部屋のベッドに仰向けになった俺は、七歳児らしからぬ深刻さで、自分が生き残る方法を真剣に考えた。
そして出した結論は、単純明快だった。
関わらない。
それが一番だ。
黒の教団には近づかない。
イノセンスにも近づかない。
ノアなどもってのほかで、千年伯爵など死んでも会いたくない。
そして何より――アレン・ウォーカーには絶対近づかない。
物語の主人公というものは、得てして事件の中心にいる。
アレンの場合はもっと酷い。
本人が事件へ向かっていくというより、事件の方から殺意満々で押し寄せてくる。
ならば答えは決まっている。
アレン・ウォーカーには、原作通り世界を救うために頑張ってもらおう。
俺は遠く離れた安全な場所で、
「頑張れ主人公」
と祈っていればいい。
それが最も安全で、最も確実な生存方法だ。
我ながら完璧な計画だと思った。
――当時の俺は、本気でそう思っていた。
◇
人生というのは、どうしてこうも計画通りにいかないのだろう。
十二歳の時、俺は初めてAKUMAをこの目で見た。
人間の皮を被っていたから、最初は分からなかった。
旅人風の服を着た、ごく普通の男だった。愛想よく笑いながら、道端で泣いていた小さな子供へ声を掛けている。
どこにでもある光景に見えた。
けれど、男が子供へ手を伸ばした瞬間、俺は見てしまった。
ずれた袖口の奥。
ほんの一瞬だけ覗いた、人間の皮膚とは明らかに違う黒い金属。
そして、銃口。
思考が止まった。
――AKUMA。
そう認識した瞬間には、もう身体が動いていた。
「逃げろ!」
俺は子供へ飛びつき、横へ突き飛ばした。
直後、耳を叩くような轟音が響き、さっきまで子供がいた場所の石畳が吹き飛んだ。
「――っ!」
爆風に煽られ、俺の身体も地面を転がった。
肩と背中を強く打ちつけ、肺から空気が抜ける。耳鳴りが酷く、舞い上がった煙と埃で目もまともに開けられない。
前世では、AKUMAが放つ弾丸だって漫画の中の絵でしかなかった。
実際に自分へ向けられて初めて分かった。
怖い。
洒落にならないほど、怖い。
立ち上がろうとしても脚が震える。
身体の奥が、逃げろと叫んでいる。
さっきの子供は少し離れた場所へ転び、泣いていた。
AKUMAがゆっくりこちらを向く。
『――邪魔スルナ』
普通の人間だったはずの顔が不気味に歪み、皮膚が内側から引き裂かれていく。
その下から現れたのは、記憶の中にあるものと同じ、異形の機械だった。
俺は反射的に後ずさった。
無理だ。
こんなものに勝てるはずがない。
俺は十二歳の子供で、エクソシストでもなければ、特別な戦闘訓練を受けた人間でもない。
まして主人公でもない。
ここで命を懸ける義理なんてない。
逃げろ。
頭では、何度もそう言っている。
けれど、その時。
「おにいちゃん……」
背後から、震える声が聞こえた。
振り返れば、さっき助けた子供が涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、俺の服を掴んでいた。
――最悪だ。
心の底からそう思った。
俺は昔から、こういうところが駄目だった。
自分一人なら逃げられる。
けれど、一度助けてしまった相手を置いて逃げることが、どうしてもできない。
「……俺の後ろにいろ」
自分でも情けなくなるほど声が震えていた。
『死ネ』
「嫌だよ」
思ったより早く言葉が出た。
「俺だって死にたくない」
AKUMAの砲口がこちらを向く。
次を撃たれれば、本当に死ぬ。
俺は必死に周囲を見回した。
武器になるもの。
棒でも石でも何でもいい。
せめて一発、相手の動きを止められるものが欲しかった。
そして、道端に並んでいた古道具屋の露店へ目が止まった。
さっきの爆発で商品が散乱し、木箱が一つひっくり返っている。
その中から、古びた一組のトランプが飛び出していた。
「……は?」
正確には、トランプそのものより、それが収められていた銀色のカードケースが目に入った。
周囲が煙に包まれているのに、それだけが妙にはっきりと見えた。
まるで最初から、俺に見つけられることを待っていたように。
嫌な予感がした。
けれど、迷っている時間はない。
俺はカードケースへ手を伸ばした。
そして触れた瞬間。
ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
「っ――!」
銀色のカードケースから光が溢れた。
散らばっていた五十四枚のカードが、風もないのに一斉に宙へ浮かび上がる。
『イノ――センス……!?』
AKUMAが驚愕の声を上げた。
けれど、その時の俺には、そちらを気にしている余裕などなかった。
「嘘だろ……」
見れば、一枚のカードが俺の指の間へ収まっていた。
スペードのA。
古びていたはずの紙札が、今は銀色の光を帯びている。
同時に、頭の中へ何かが流れ込んできた。
説明を受けたわけではない。
文字が浮かんだわけでもない。
なのに、分かった。
このカードをどう使えばいいのか。
何をすれば、目の前のAKUMAへ届くのか。
俺はしばらくカードを見つめ、それから乾いた笑いを漏らした。
「……冗談じゃない」
もちろん、嬉しかったわけではない。
むしろ、笑うしかなかった。
「関わらないって決めた人間に、イノセンスが来るか普通……!」
次の砲撃が放たれる直前、俺はスペードのAを投げた。
銀色の軌跡が空気を切り裂く。
一瞬遅れて、AKUMAの右腕が斜めに切断された。
『ギャアアアアアアア――!!』
絶叫が街中へ響いた。
けれど、その時ばかりは俺の方が叫びたかった。
◇
その日を境に、俺の人生は予定していた方向から盛大に外れていった。
イノセンス。
エクソシスト。
黒の教団。
そして――。
「面白ぇ武器持ってるじゃねぇか」
赤い髪。
眼鏡。
どう見てもまともな人生を送っている人間には見えない男。
そいつを見た瞬間、俺は思わず顔を引きつらせた。
知っている。
知りすぎるほど知っている。
こんな特徴的な男を見間違えるはずがない。
クロス・マリアン。
「……マジかよ」
「あ?」
「いえ。独り言です」
俺が絶対に関わりたくない人物ランキングを作っていたなら、間違いなく上位に入っていただろう人物だった。
そして、そんな男に俺は拾われた。
◇
そこから先の話は長い。
長すぎて、今ここで説明しようとすれば一晩あっても足りない。
だから今は、いくつかの記憶だけを並べておく。
クロスの大きな背中。
借金取りに追われ、二人で夜の街を全力疾走したこと。
名前も覚えていない町。
何度も見たAKUMA。
落ちなかった血の臭い。
安宿へ戻れば、決まって酒臭かった部屋。
擦り切れるほどカードを投げ続けた自分の指。
そして、自分とは正反対なくらい明るく笑っていた少年。
――俺の親友。
『また一人で考え込んでる』
『ほっとけ』
『嫌だね』
銀色に輝く両眼。
そのうち右の眼だけが、今も俺の記憶の中では赤く染まっている。
次に思い出すのは、白髪の少年だ。
ある日、クロスが連れてきた。
身体は小さく、酷く痩せていた。
食事を出してもほとんど手をつけず、声を掛けてもまともな返事をしない。
ただ、その左腕だけが不自然なほど異質だった。
俺は何日も、何も言わず食事だけを置いた。
食べろとも言わなかったし、元気を出せとも言わなかった。
そういう言葉が届く状態ではないことくらい、見れば分かった。
何日目だったか。
置いていこうとした俺の背中へ、初めて小さな声が届いた。
『……ありがとうございます』
振り返れば、白髪の少年がこちらを見ていた。
――アレン。
その時の俺はまだ知らなかった。
絶対に近づかないと決めていた原作の主人公を、数年後には弟同然に思うようになることを。
他にもある。
例えば、やけに楽しそうな少女の声。
『ジーク~♡』
『……帰れ』
『ひどーい!』
ロード・キャメロット。
なぜか俺を見つけると、やたらと嬉しそうに絡んでくるノア。
前世の俺へ教えられるなら、ぜひ言ってやりたい。
お前が「絶対関わるな」と考えているロード・キャメロットは、将来向こうから寄ってくるぞ、と。
まあ、信じないだろう。
俺だって今でも信じたくない。
そして、もう一つ。
丸い巨体。
特徴的な笑顔。
傘。
『イカサマですネェェェ!!』
『証拠は?』
『絶対やりましたヨ!!』
『だから証拠は?』
『ぐぬぬぬぬ……!!』
……これは忘れよう。
黒の教団内では「ジークハルト・ヴァイスは千年伯爵とポーカーをして金を巻き上げた」という頭のおかしい噂まで流れているらしいが、あの夜の真相を知っているのは、あの卓を囲んでいた連中だけで十分だ。
◇
そんなこんなで、俺は今日まで生き延びた。
望んでもいなかったエクソシストになり、クロス・マリアンの弟子となり、絶対に関わらないと誓ったアレン・ウォーカーの兄弟子になった。
ノアには顔を覚えられ、千年伯爵には聖戦とはまったく関係のない理由でも恨まれている。
そして現在。
◇
「…………」
俺は足を止めて、目の前にそびえる崖を見上げた。
その上には、巨大な黒い建造物がある。
黒の教団本部。
曇った空を背景に、今日も相変わらず不吉なほど堂々と建っていた。
長旅で少し埃を被った外套の襟を直し、肩に掛けた荷物を持ち直す。
腰には銀色のカードケース。
右目には、三点で固定された黒い眼帯。
ここまで来たのだから、あとは中へ入るだけだ。
それなのに。
「……帰りたくねぇな」
思わず、本音が漏れた。
数ヶ月ぶりの帰還だった。
別に黒の教団そのものが嫌いというわけではない。
いや、組織としては正直かなり胡散臭いと思っている。
前世で得た原作知識。
それから、クロス・マリアンの弟子として長い時間を共に行動してきた経験。
その両方を合わせて考えれば、この聖戦が単純に、
「神の使徒であるエクソシストと、悪の千年伯爵との戦争」
などという分かりやすい話ではないことくらい、嫌でも分かる。
クロス自身も、何度かそれを匂わせていた。
もっとも、あの男は肝心なところになると何も教えてくれないのだが。
それでも、黒の教団には俺にとって大切な人間がいる。
任務から戻れば顔を見たいと思う人間がいて、何ヶ月も戻らなければ文句を言う人間もいる。
だから俺は、クロスほど本部を放置したりはしない。
数ヶ月に一度は戻る。
任務報告書を提出し、装備の点検を受け、必要なら次の任務についてコムイと話す。
そして大抵はリナリーに、
『手紙くらい書いて』
と怒られ、神田には、
『まだ生きてたのか』
などと言われる。
腹は立つ。
でも、それを嫌だと思ったことはない。
その程度には、ここは俺にとって帰る場所になっていた。
「……少なくとも、俺はちゃんと報告書を出してるしな」
クロスと同類扱いされないために、誰もいない場所でわざわざそう呟いた。
あの人は、本当に帰らなさすぎる。
俺は小さく息を吐き、そのまま本部へ向かって歩き始めた。
ところが数歩進んだところで、ふと妙な胸騒ぎがした。
経験上、こういう時の嫌な予感はあまり外れない。
「…………」
思わず足を止める。
確か、時系列的にはそろそろだったはずだ。
白髪。
異形の左腕。
異常な大食い。
クロスの借金。
そして、世界でも上位に入るくらい面倒な運命を背負わされた、俺の弟弟子。
「……まさかな」
口に出してみたものの、すぐに自分で否定する。
いや。
来る。
原作の流れがまだ大きく変わっていないのなら、間違いなくもうすぐ来る。
アレン・ウォーカーが。
この黒の教団本部へ。
つまり。
俺が前世で読んでいた『D.Gray-man』の物語が、いよいよ始まる。
「…………はぁ」
自然と、深いため息が出た。
十年以上前。
まだ子供だった頃の俺は思っていた。
原作の出来事は主人公に任せて、自分は安全な場所で平穏に暮らせばいい。
それが一番賢い生き方だと。
それが今ではどうだ。
主人公は俺の弟弟子。
その主人公の師匠は、俺の師匠でもある。
黒の教団は、気づけば帰る場所になった。
ノアのロード・キャメロットには妙に懐かれ。
千年伯爵からは、未だに金を返せと追われている。
どこをどう間違えれば、ここまで当初の計画から離れられるのだろう。
「……ろくな手札じゃないな」
苦笑しながら、腰のカードケースへ軽く触れる。
考えてみれば、昔からそうだった。
生まれる場所も。
どんな人間と出会うかも。
誰を好きになるかも。
何を失うことになるのかも。
人生では、自分で選べないものの方が多い。
少なくとも、俺はそうだった。
だったら。
仕方がない。
俺は再び歩き出した。
黒の教団へ。
もうすぐやって来る弟弟子と、これから始まる面倒極まりない物語の方へ。
――配られた手札で、勝つしかない。
結局それが、俺が前世から今までの人生で覚えた、数少ない生き方なのだから。