D.Gray-man ― DEALT HAND ― 作:からし明太子
黒の教団本部という建物は、何度見ても人を歓迎する外観ではない。
切り立った崖の上に建つ巨大な黒い城塞は、曇天の下では輪郭まで空へ溶け込んで見える。初めてここを訪れる人間なら、そのまま踵を返しても不思議ではないだろう。
もっとも、俺にとっては今さらだった。
「……帰ってきたか」
肩に掛けた鞄を持ち直しながら、俺は最後の坂を登った。
長旅で黒い外套には細かな砂埃が付着している。腰の銀色のカードケースも、磨いていないせいで少しくすんでいた。
右目を覆う三点留めの眼帯だけは、旅に出た時と変わらない。
門を潜ろうとしたところで、こちらに気づいた団員の一人が目を丸くした。
「ヴァイス?」
「おう」
「……生きてたのか」
「久しぶりに帰ってきた人間への第一声がそれか?」
俺が眉を寄せると、相手は悪びれもせず笑った。
「だって三ヶ月以上見なかっただろ」
「三ヶ月だ。三年じゃない」
「クロス元帥の弟子だと、三ヶ月でもそのうち誤差になるんじゃないかと思って」
「師匠と一緒にするな」
そこだけは訂正しておかなければならない。
俺はちゃんと報告書を出す。
任務が長引けば連絡もする。
多少戻る頻度が少ないだけで、行方不明になるクロス・マリアンと同列に扱われるのは甚だ心外だった。
「というか、俺が戻る予定は届いてただろ」
「届いてたけど、予定通り帰ってくるとは思ってなかった」
「お前ら俺を何だと思ってるんだよ……」
軽く手を振ってその場を離れる。
聞く必要はなかった。
どうせろくな答えは返ってこない。
数ヶ月ぶりに歩く本部内部には、奇妙なくらい変化がなかった。
石造りの廊下。
慌ただしく行き交う団員。
運ばれていく資料の束。
遠くから聞こえてくる科学班の騒ぎ。
任務でどれだけ遠くへ行っていても、ここだけはいつも同じように動いている。
だからこそ、戻ってきたという実感があるのかもしれない。
「とりあえず報告書か……」
長旅の後に最初にやることが書類仕事だというのは、どうにも気分が乗らない。
部屋へ戻って寝たい。
風呂にも入りたい。
温かい飯も食いたい。
だが、先延ばしにすると後でコムイに追い回される。
何より師匠のように、
『任務は終わった。報告はそのうちな』
で何ヶ月も逃亡するような人間にはなりたくなかった。
そう考えながら管理室へ向かおうと角を曲がったところで――。
「ジーク?」
聞き慣れた声がした。
反射的に立ち止まる。
廊下の向こうから、黒い団服を着た少女がこちらを見ていた。
長い黒髪。
大きな瞳。
両手には何冊かの資料。
リナリー・リー。
「……ただいま」
何となくそう言うと、リナリーは数秒こちらを見つめた。
そして笑った。
「おかえりなさい」
その一言だけで、少し肩の力が抜ける。
やっぱりここは帰る場所になってしまったらしい。
もっとも。
「三ヶ月と十二日」
「……何が?」
嫌な予感がした。
リナリーの笑顔は変わっていない。
「最後にジークから手紙が来てから」
「…………」
「三ヶ月と十二日」
「二回言わなくても聞こえてる」
「本部への任務報告は来てたのに」
「必要な報告だからな」
「私への手紙は必要じゃない?」
困った。
これは答えを間違えると長い。
「そういう意味じゃなくてだな」
「じゃあ、どういう意味?」
「その……」
戦場なら、敵の動きを読むのは得意な方だ。
カードを五枚引いて、限られた手札から最善手を組み立てることにも慣れている。
だが、この状況で正解のカードは一枚も見当たらなかった。
「……悪かった」
結局、素直に頭を下げた。
リナリーが少しだけ頬を緩める。
「分かればいいの」
「次から書く」
「前もそう言ったよ?」
「今度こそ」
「本当?」
「努力はする」
「そこは『書く』って言って」
「……書きます」
俺が言い直すと、リナリーは満足そうに頷いた。
以前から思っていたが、この少女は俺の扱いをよく分かっている。
「怪我は?」
「ない」
「本当に?」
「大きいのはない」
「じゃあ小さいのはあるんじゃない」
「言葉尻を拾うなよ」
リナリーは俺の腕や顔を確認するように視線を動かす。
その視線が右目の眼帯へ向きそうになったので、俺は何気なく顔を逸らした。
「右目は使ってない」
聞かれる前に答えた。
リナリーの動きが止まる。
「……本当に?」
「今回はな」
「ならいいけど」
声から少し力が抜けた。
右目。
それについて彼女は全部を知っているわけではない。
それでも、使えば俺がどうなるかは何度か目にしている。
だから毎回確認される。
「それより、その資料どこまで持っていくんだ?」
「科学班よ」
「貸せ」
「ジークは帰ってきたばかりでしょう?」
「これくらい持てる」
資料の半分を取る。
「報告書は?」
「その後」
「また後回しにする」
「ちゃんと今日中に出す」
リナリーが疑わしそうに俺を見る。
「本当だって」
「じゃあ覚えておくね」
「監視役か?」
「必要でしょ?」
「否定できないのが悲しいな」
二人で廊下を歩き始めた。
◇
科学班は、今日も通常運転だった。
「だからそれをそこに置くなって言っただろ!」
「こっちに置く場所ないんですよ!」
「だったら片付けろ!」
「片付ける場所がないんです!」
リーバー・ウェンハムの怒鳴り声が聞こえてくる。
戻ってきたな、と妙な安心感を覚えるのはどうかと思う。
リナリーが先に中へ入った。
「リーバー班長、資料持ってきました」
「ああ、ありがとう、リナリー」
リーバーが振り返り、俺を見て一瞬固まる。
「……ヴァイス?」
「俺を見るたびその反応するのやめない?」
「いや、今回は長かっただろ」
「たった三ヶ月だぞ」
「クロス元帥基準で考えるな」
「俺もそう言ったんだけどな」
さっきと同じことを言われている。
「任務は?」
「片付いた。イノセンス回収一件、AKUMA六体。ファインダーの負傷者二名、死者なし」
リーバーの表情が少し真面目になる。
「そうか。よかった」
「ああ」
死者なし。
その四文字だけは、何度任務を終えても軽くならない。
俺が倒したAKUMAの数より、そちらの方が重要だった。
犠牲者をゼロにできるなら、その方がいい。
当たり前の話だ。
だが、この仕事を続けていると、その当たり前が一番難しいことだと嫌でも理解させられる。
「それと回収したイノセンスは保管班に渡してある。報告書は後でコムイ室長に直接持っていく」
「珍しいな。自分から書くなんて」
「お前らの中で俺の評価どうなってる?」
「クロス元帥の弟子」
「それだけで色々損してない?」
「かなり」
「即答かよ」
そこへ奥からジョニーが顔を出した。
「あれ、ジークさん!?」
「久しぶり」
「いつ帰ってきたんです?」
「今」
「またお土産あります?」
「俺を旅商人か何かだと思ってないか?」
「前回珍しいお菓子買ってきてくれたじゃないですか」
「あれは余った金で適当に買っただけだ」
「今回は?」
「ない」
「ええー」
「任務に行ってるんだからな、俺」
不満げなジョニーを横目に、資料を机へ置いた。
こういうくだらないやり取りをしていると、本当に数ヶ月離れていたのか分からなくなる。
それが少し心地よかった。
「そうだ、ジーク」
リーバーが何か思い出したように言った。
「室長がお前を探してたぞ」
「嫌な予感しかしない」
「帰ったらすぐ来いって」
「俺、今帰ったばっかりなんだけど」
「だからだろ」
「明日じゃ駄目?」
「俺に聞くな」
リナリーが横で笑っている。
「ほら、報告書」
「分かったよ」
俺は小さくため息をついた。
◇
コムイ・リーの執務室の扉を開けると、俺はすぐに後悔した。
机の上。
書類。
書類。
書類。
その向こうから、コムイが満面の笑顔を向けてくる。
「おかえり、ジーク君!」
「……ただいま」
部屋へ入る。
「とりあえず報告書」
「早い!」
「早いって何だよ」
「クロス元帥の弟子とは思えない!」
「今日それ何回目だと思ってる?」
書類を机に置く。
コムイはぱらぱらと確認した。
「イノセンス一件回収、か。よく見つけたね」
「現地の教会で噂になってた。少し調べれば分かった」
「AKUMAは?」
「六体。全部処理済み」
「うん。ファインダーの損害も最小限。さすがだね」
「別に」
褒められるためにやっているわけではない。
それでも死者なしという結果を認められるのは、悪い気はしなかった。
コムイが書類を置く。
「身体の方は?」
「問題ない」
「右目は?」
「使ってない」
「それならよかった」
ここでも聞かれる。
少しだけ鬱陶しいと思うのに、誰も気にしなくなったらそれはそれで寂しいのだろう。
人間というのは面倒だ。
「ところで」
コムイの声色が変わった。
嫌な予感がした。
「何だ」
「これ」
机の横から一束の紙を取り出した。
見覚えがある。
というか、見覚えがありすぎる。
俺は反射的に一歩下がった。
「待て」
「まだ何も言ってないよ?」
「その紙を俺に近づけるな」
「クロス元帥宛ての請求書なんだけど」
「知らない」
「一部に君の名前も――」
「知らない」
「でも署名欄に」
「知らないって言ってるだろ」
クロス。
あの人は、自分で作った借金を平然と弟子へ回そうとする悪癖がある。
昔は何度か引っかかった。
今は違う。
「俺は一銭も払わないからな」
「でも、クロス元帥本人がいないし」
「本人が帰ってくるまで待たせろ」
「債権者が怒ってるよ?」
「俺も怒ってる」
「どうするの?」
「師匠の居場所教えてやれば?」
「分からないから困ってるんだよ」
「じゃあ俺にも分からない」
完璧な理屈だ。
コムイは困ったように笑う。
「クロス元帥、本当にどこにいるんだろうね」
そこで一瞬、空気が変わった。
「……さあな」
今度は軽口ではなく本音だった。
クロスがどこにいるか、俺にも正確には分からない。
そもそも、あの人は昔から自分の行動を全部教えるような師匠ではない。
時々、ふらりといなくなる。
戻ってきたと思えば、聞いたこともない土地の情報や、中央庁でも把握していない話を持ち帰る。
俺が弟子になってからずっとそうだった。
前世の知識を持つ俺ですら、クロスがどこまで何を知っているのかは分からない。
ただ一つ。
あの男も、この聖戦を表向きの話そのままには信じていない。
それだけは確かだった。
「足取りは?」
「いくつか報告はあるけど、全部古い。君が今回回った地域には?」
「なかった」
「そう」
コムイが珍しく真面目な顔になる。
「何かあったのかな」
「師匠に限って簡単にくたばるとは思えないけどな」
「信頼してるんだね」
「しぶとさだけは」
「素直じゃないなあ」
「ほっとけ」
話を切ろうとした時だった。
コムイが、
「あ、そうだ」
と何気ない調子で言った。
「数日中に、新しいエクソシストが来る予定なんだ」
「へえ」
特に珍しい話ではない。
適合者が発見されれば、本部へ送られてくる。
「まだ正式入団前なんだけど、元帥から推薦状が届いていてね」
俺は何となく書類を見た。
「どの元帥?」
「クロス元帥」
手が止まった。
「……師匠?」
「うん」
コムイはそれに気づかず、書類を一枚引き抜く。
「名前は――」
待て。
頭の中で何かが繋がった。
クロス。
推薦。
新しいエクソシスト。
この時期。
まさか。
「アレン・ウォーカー君」
やっぱりか。
俺は額へ手を当てた。
「ジーク君?」
「……いや」
「知ってる?」
知っている。
そんな言葉で済む相手じゃない。
「弟弟子だ」
コムイが目を丸くした。
「そうなの!?」
「師匠から聞いてないのか?」
「推薦状にそこまで書いてないよ」
「相変わらず説明不足だな、あの人……」
思わず頭が痛くなる。
アレン。
あの小さかった子供が、もう教団へ来る年齢になった。
クロスの元に来たばかりの頃は、まともに食事すら取らなかった。
最初は何を言っても反応が薄くて、それでも少しずつ喋るようになった。
旅をするようになってからは、俺のカードを興味深そうに見ていた。
ポーカーを教えた。
最初は下手だった。
途中から洒落にならない速度で上達した。
最後には俺以外の相手から平然と金を巻き上げるようになった。
――そこは少し反省している。
「いつ来る?」
「予定では数日以内」
「そうか」
思ったより声は普通に出た。
コムイが首を傾げる。
「嬉しくないの?」
「嬉しいよ」
それは本当だった。
久しぶりにアレンの顔を見られる。
ちゃんと飯を食っているか確認したいし、クロスに無茶をさせられていないかも聞きたい。
それでも、胸の奥には別の感情があった。
重い何か。
知っているからこそ生まれる、嫌な感覚。
「……嬉しいけど」
「けど?」
「いや。何でもない」
これ以上は言えない。
俺だけが知っている。
アレン・ウォーカーが黒の教団へやって来るということが、何を意味するのか。
巻き戻しの街。
孤城。
咎落ち。
ノアの方舟。
14番目。
その先に待つもの。
もちろん、すべてを正確に覚えているわけではない。
それでも大筋は知っている。
俺が七歳の頃から避けようとしていた物語が、とうとう目の前まで来たということだ。
「ジーク君?」
コムイの声で我に返った。
「悪い。少し疲れてる」
「今日は休んだ方がいいよ」
「そうする」
「リナリーも心配するしね」
「……もう怒られた」
「やっぱり?」
コムイが笑う。
俺も少しだけ口元を緩め、その場を離れた。
◇
食堂へ行くと、ちょうど夕食時だった。
数ヶ月ぶりの温かい食事。
それだけでもありがたい。
料理を受け取り、端の席へ向かおうとしたところで、
「ジーク」
声を掛けられた。
リナリーが向かいの席を指す。
「ここ」
「他にも席あるだろ」
「ここがいいの」
「……はいはい」
逆らっても無駄だ。
向かいへ座る。
しばらく食事をしていると、横から低い声が飛んできた。
「まだ生きてたのか」
顔を上げる。
長い黒髪。
不機嫌そうな顔。
神田ユウ。
「ただいま、ユウ」
「その呼び方やめろ」
「久しぶりなのに冷たいな」
「気色悪ぃ」
「お前、数ヶ月会ってなかった相手にもう少し何かないの?」
「ない」
相変わらずだった。
妙に安心する。
「任務帰りか?」
俺が聞く。
「ああ」
「怪我は?」
「ねぇ」
「そうか」
それだけ。
神田もそれ以上は何も言わない。
こういう距離で十分だった。
神田が去った後、リナリーがくすくす笑う。
「二人って仲良いよね」
「今のどこを見たらそうなる?」
「ジーク、神田にちゃんと『怪我は?』って聞いたじゃない」
「普通だろ」
「神田も答えてた」
「質問されたからだろ」
「はいはい」
「何だよその顔」
リナリーは楽しそうに笑いながら食事を続けた。
俺もパンをちぎる。
温かいスープ。
人の声。
見慣れた顔。
数ヶ月離れていた本部の日常。
そこへ数日後、アレンが加わる。
そう考えると、少しだけ嬉しくなった。
同時に。
胸の奥で、別の俺が冷静に囁く。
ここからだ。
物語が始まる。
俺は前世からその先を知っている。
けれど――。
スプーンを止め、ぼんやりとスープの表面を見る。
昔の俺なら、こう考えただろう。
原作通りなら大丈夫。
アレンは主人公だ。
そう簡単には死なない。
全部、漫画で読んだ通りに進む。
けれど今は、そんなふうには思えなかった。
アレンはもう、紙の上の主人公ではない。
クロスのところへ来たばかりの頃、何も食べられなかった子供だ。
初めてポーカーで俺に勝った時、珍しく得意そうに笑っていた弟弟子だ。
俺が知っている世界の「アレン・ウォーカー」と。
俺が知っている一人の人間としての「アレン」が。
いつの間にか、完全に別のものになっていた。
「ジーク?」
リナリーがこちらを見る。
「どうしたの?」
「……いや」
スプーンを動かす。
「弟弟子が来るらしい」
「弟弟子?」
「ああ。クロス師匠の」
リナリーの顔が明るくなる。
「じゃあ、ジークの知り合い?」
「昔からな」
「どんな人?」
少し考える。
「よく食う」
「それだけ?」
「礼儀正しい」
「他には?」
「妙なところで頑固」
「ジークに言われたくないと思う」
「まだ会ってないのにあいつの味方するの?」
リナリーが笑う。
俺も小さく笑った。
「まあ……いい奴だよ」
それだけは間違いない。
だからこそ。
できるなら。
前世で知ったような目には遭ってほしくない。
そんなことを考えてしまった時点で、もう手遅れなのだろう。
俺はとっくに、この物語の外側にはいない。
七歳の頃に立てた「絶対に原作へ関わらない」という完璧な計画など、今や見る影もなかった。
数日後。
アレン・ウォーカーが、黒の教団へやって来る。
そして俺の知る物語が始まる。
その先が、本当に俺の知っている通りになるのか。
それとも。
もう既に、違う何かが始まっているのか。
今の俺にはまだ分からなかった。
ただ一つ分かっていたのは――。
弟弟子がやって来るのなら。
兄弟子として、一度くらいは迎えてやろうということだった。
……それくらいなら、原作を変えたうちには入らないだろう。
たぶん。