D.Gray-man ― DEALT HAND ― 作:からし明太子
翌朝。
黒の教団本部の食堂では、朝食の時間だというのに妙な人だかりができていた。
原因は一つしかない。
「……また取られた」
科学班の男が、呆然と自分の手札を見下ろしている。
その向かいでは、アレンが申し訳なさそうな顔をしながら、卓上の硬貨を自分の側へ寄せていた。
「すみません」
「謝るなら返してくれよ!」
「賭けですから」
「笑顔で言うな!」
周囲から笑いが起きる。
俺は少し離れたところでコーヒーを飲みながら、その光景を眺めていた。
昨日、食堂で「久しぶりにポーカーをやろう」と話した。
それ自体はいい。
問題は、朝食を食べ終わる頃には科学班の連中まで加わり、いつの間にか小さな賭場が出来上がっていたことだ。
「アレン君、また勝ったの?」
リナリーが俺の隣へ座る。
「三連勝」
「強いね」
「俺が教えたからな」
「なんでちょっと自慢げなの?」
「弟弟子の成長は嬉しいものだろ」
「賭け事で?」
「……何事にも例外はある」
リナリーの目が細くなったので、コーヒーを飲んで誤魔化した。
卓上では次の勝負が始まっている。
アレンの表情は穏やかだ。
一見すれば、何を考えているのか分かりやすそうに見える。
だが、あれは罠だ。
昔からそうだった。
最初の頃は、手札が良ければ嬉しそうにして、悪ければ困った顔をする、ごく普通の子供だった。
ところが俺がブラフを教えた辺りから変わった。
何度も負けて。
俺の手元を観察して。
相手の視線や指先の動きを覚えて。
いつの間にか、笑顔のまま平然と嘘をつけるようになった。
教育を間違えたという自覚は多少ある。
「ほら」
リナリーが卓を指した。
アレンがまた勝った。
「これで四連勝だね」
「調子に乗ってるな」
「止める?」
「いや」
俺はカップを置いた。
「そろそろ教育してくる」
「教育?」
「現実を」
席を立つ。
アレンはこちらへ気づくと、僅かに笑みを深くした。
「ジークさんもやります?」
「そのつもり」
周囲の科学班員がざわついた。
「お、おい。ヴァイスも入るのか?」
「弟弟子に負けるわけないだろ」
アレンがカードを切りながら言った。
「昔の僕だと思わない方がいいですよ」
「言うようになったな」
「ジークさんに教えてもらいましたから」
「そこだけ聞くと師弟愛みたいに聞こえるな」
「違うんですか?」
「金が絡むと話は別だ」
俺が席へ座ると、リナリーが呆れたようにため息を吐いた。
◇
二十分後。
「…………」
アレンが無言で自分の手元を見ていた。
「どうした?」
「納得いきません」
「何が?」
「おかしいでしょう」
俺は卓上の硬貨をまとめながら首を傾げた。
「何もおかしくない。五戦五勝」
「僕がです」
「違う。俺が」
「分かってます!」
珍しく声を大きくした。
周りでは科学班の連中が笑っている。
さっきまでアレンに負け続けていた連中なので、単純に溜飲が下がったのだろう。
「一度くらい僕の方がいい手札だったでしょう」
「いい手札なら勝てるゲームじゃないって、誰に教わった?」
「……ジークさんです」
「そういうことだ」
「絶対途中で何かしましたよね?」
「証拠は?」
「その言い方!」
アレンが眉を寄せる。
俺は笑った。
このやり取りも懐かしい。
旅の途中では何度もやった。
もちろん、アレンが昔と同じ腕前というわけではない。
正直かなり上達していた。
普通の相手なら、今のアレンに勝ち続けるのは難しいだろう。
だからこそ面白い。
「もう一回」
アレンが言った。
「いいけど、何賭ける?」
「……」
アレンの視線が、自分の側に残された僅かな硬貨へ落ちる。
「金ないだろ」
「まだあります」
「それ全部昼飯代じゃないのか?」
「…………」
「やめとけ」
「でも――」
俺は一枚の紙を卓上へ置いた。
アレンの動きが止まる。
「何ですか、これ」
「借用書」
「出た!」
科学班の誰かが叫んだ。
リナリーが俺を睨む。
「ジーク」
「冗談だよ」
紙を引っ込めた。
「弟弟子から未来の給料まで巻き上げるほど落ちちゃいない」
アレンがじっとこちらを見る。
「昔、他の人にはやりましたよね?」
「相手が続けたいって言ったから」
「やっぱりやったんじゃないですか」
「世の中には自己責任って言葉がある」
「便利な言葉に逃げないでください」
リナリーまで頷いている。
二対一になった。
こうなると分が悪い。
「はい、終わり終わり」
カードをまとめようとした、その時だった。
『アレン・ウォーカー、神田ユウ。至急、室長室へ』
本部内の放送が響いた。
周囲の空気が変わる。
アレンも卓上から顔を上げた。
「僕?」
「ああ」
俺には、何となく分かった。
来たか。
アレンの最初の任務。
◇
コムイの執務室へ向かう途中、アレンは何度か俺の顔を見た。
「何だよ」
「いえ」
「言いたいことあるなら言え」
「ジークさん、さっきから少し変ですよ」
鋭い。
こういうところも昔から変わらない。
「弟弟子の初任務だからな」
「まだ任務だって決まってませんよ」
「室長が神田と一緒に呼んで、他に何がある」
「……確かに」
「不安?」
聞くと、アレンは少し考えてから首を横へ振った。
「緊張はしてます」
「そうか」
「でも、クロス師匠のところでも何度もAKUMAとは戦いましたから」
「知ってる」
「それに――」
アレンが自分の左腕を見る。
「そのために、僕はここへ来たんです」
穏やかな声だった。
だが、その奥には硬いものがある。
アレンがエクソシストとして戦う理由を、俺は知っている。
AKUMAの中に囚われた魂。
自分が一度はAKUMAにしてしまったマナ。
その罪も、悲しみも。
全部抱えたまま、この少年はここまで来た。
前世で漫画を読んでいた頃は、その決意を格好いいと思っていた。
実際に隣で聞くと、そんな簡単なものではなかった。
「アレン」
「はい?」
「無茶するなよ」
「ジークさんに言われるとは思いませんでした」
「俺はちゃんと自分の身を守ってる」
「右目を使って倒れたこと、何回あります?」
「……」
思わず足が止まりそうになった。
「誰から聞いた?」
「昔から知ってるでしょう」
「そうだった」
アレンは、俺が眼帯を外した後に倒れたところを数度見ている。
詳しい理由までは話していない。
それでも危険なものだということは分かっている。
「とにかく」
俺は話を戻した。
「お前と俺は違う」
「どこがです?」
「兄弟子の言うことは聞いとけ」
「便利ですね、その立場」
「こういう時のために兄弟子やってるんだよ」
「初めて聞きました」
少し笑いながら、二人で執務室へ入った。
◇
既に神田がいた。
壁際に立ち、見るからに機嫌が悪い。
「遅ぇ」
「呼ばれてすぐ来ましたよ」
「お前に言ってねぇ」
神田の視線が俺へ向く。
「何でてめぇまでいる」
「保護者」
「誰がですか」
すぐ横からアレンに否定された。
「兄弟子」
「それならまあ」
「納得すんな」
コムイが机の向こうで楽しそうに笑っている。
「仲良しだねえ」
俺と神田が同時に、
「どこが」
と言った。
アレンが少し困った顔をする。
リナリーまで来ていれば笑っていただろう。
「それじゃあ、本題に入ろうか」
コムイの声が真面目になる。
机の上に地図が広げられた。
「古代都市マテールで、イノセンスと思われる反応が確認された」
来た。
記憶の中にある名前。
マテール。
土翁。
空夜のアリア。
俺は何も言わず地図を見る。
「現地には先行してファインダーが入ってる。反応は遺跡の内部。ただ、問題があってね」
「AKUMAですか?」
アレンが尋ねる。
「その可能性が高い」
コムイが頷いた。
「敵側もイノセンスの存在に気づいているらしい。君たちには現地へ向かってもらって、イノセンスの確保をお願いしたい」
アレンが真剣な顔で地図を見る。
神田はいつも通りだった。
「俺一人でいい」
「駄目」
「足手まといはいらねぇ」
「誰が足手まといですか」
「お前だ、モヤシ」
「……」
アレンの眉が動く。
懐かしい。
原作でもこんな感じだった。
いや。
実物を見ると本当に面倒臭いな、この二人。
「神田」
「何だ」
「初日から弟弟子を苛めるな」
「苛めてねぇ」
「アレンも乗るな」
「僕は何も言ってません」
「今から言う顔してた」
「ジークさん、僕のこと何だと思ってるんです?」
「付き合い長いから分かるんだよ」
コムイが咳払いをする。
「とにかく二人で行ってもらうよ。神田は経験者としてアレンをフォローしてあげて」
「断る」
「即答しないでよ」
神田は露骨に嫌そうな顔をした。
だが命令そのものを拒否する気はないらしい。
アレンは少し考えた後、俺を見る。
「ジークさんは?」
「俺?」
「一緒じゃないんですか?」
聞かれると思っていた。
コムイが答える。
「ジーク君には別件があるんだ」
「別件?」
「昨日持ち帰ったイノセンスについて、確認してほしいことが出てきた。それと周辺地域で別の異常報告もある」
そういうことになっている。
俺自身、昨日の時点では聞いていなかったが、今渡された資料を見る限り嘘ではない。
それに。
俺がマテールへ行かない方がいい。
そう考えている自分がいることも否定できなかった。
原作ではアレンと神田が行く。
そこで二人はララとグゾルに出会う。
そして。
神田の身体についても、少しだけ明かされる。
俺が同行すれば何かが変わるかもしれない。
変わる。
その言葉は、今の俺にとって希望であると同時に恐怖でもあった。
良い方向へ変わるとは限らない。
「……今回は二人で行け」
俺は言った。
アレンが僅かに不満そうな顔をする。
「別にお前の実力を心配してるわけじゃない」
「そうなんですか?」
「多少はしてるけど」
「どっちですか」
「兄弟子だから心配するのは普通だろ」
俺は肩を竦めた。
「でも、俺がいなくても任務はできる」
アレンを見る。
「そうだろ?」
数秒。
アレンは俺を見返した後、小さく頷いた。
「はい」
「なら行ってこい」
神田にも視線を向ける。
「ユウ」
「その呼び方やめろ」
「こいつ頼むな」
「断る」
「即答二回目」
コムイが頭を抱えた。
◇
出発準備は早かった。
黒の団服。
必要な荷物。
現地までの地図。
ファインダーとの合流地点。
アレンは旅慣れている。
クロスと一緒に散々歩き回ってきたのだから当然だった。
正門まで見送りに行くと、神田が嫌そうな顔をした。
「何でついてくる」
「見送り」
「いらねぇ」
「お前の見送りじゃない」
「ジークさん」
アレンが苦笑する。
ティムキャンピーが頭上を飛んでいた。
俺はアレンの団服を軽く見た。
「似合ってるな」
「本当ですか?」
「ああ」
「昨日は何も言わなかったじゃないですか」
「昨日は見慣れてなかった」
黒の団服を着たアレン。
前世では見慣れた姿だった。
なのに今は妙な感じがした。
クロスのもとで旅をしていた子供が、正式に黒の教団のエクソシストになった。
時間が経ったのだと、今さら実感する。
「ジークさん」
「ん?」
「帰ってきたら、ポーカーの続きしましょう」
俺は思わず笑った。
「懲りてないな」
「次は勝ちます」
「その台詞、昨日も聞いた」
「今度こそです」
「分かったよ」
それくらいの約束なら、いくらでもする。
「じゃあ帰ってこい」
口にした後、自分で少しだけ驚いた。
アレンも一瞬目を丸くした。
だから続ける。
「財布の中身、全部取り返したいんだろ?」
アレンが笑った。
「もちろんです」
「なら死ぬな」
「はい」
軽い。
それでいい。
大げさな別れではない。
ただの初任務だ。
数日もすれば帰ってくる。
――俺はそう知っている。
知っている、はずだった。
「行くぞ」
神田が先に歩き始める。
「待ってくださいよ」
アレンも追う。
少し進んだところで振り返り、
「行ってきます、ジークさん!」
と言った。
俺は片手を上げた。
「行ってらっしゃい」
二人の背中が遠ざかる。
それを見ながら、胸の奥に小さな違和感が残った。
昔なら、アレンが原作通り任務へ行ったことに安心したかもしれない。
これで原作通り。
問題ない。
そう思えた。
でも今は。
「……」
見えなくなった道を、しばらく眺めていた。
「心配?」
横から声がした。
リナリーだった。
「いたのか」
「少し前から」
「声掛けろよ」
「邪魔しちゃ悪いかなって」
「何の邪魔だよ」
リナリーが俺と同じ方向を見る。
「アレン君、大丈夫だよ」
「分かってる」
そう答えた。
未来を知っている。
少なくとも、今回の任務からアレンが生きて戻ることは知っている。
なのに。
「……分かってるんだけどな」
俺は小さく息を吐いた。
リナリーは何も聞かなかった。
ただ隣に立っていた。
◇
その日の午後。
俺は科学班の一室で、昨日回収したイノセンスの記録を確認していた。
「適合者なし、か」
結晶化したイノセンスが、特殊な容器の中に保管されている。
俺が手を触れても反応しない。
当然だ。
俺には既に《アルカナ・デック》がある。
「お前の相手も、どっかにいるんだろうな」
返事などない。
それでも何となく呟いた。
イノセンスは人間を選ぶ。
何を基準に選ぶのかは、今でも完全には分かっていない。
神の結晶。
そう呼ばれている。
だが俺には昔から、その名前を素直に受け入れられなかった。
神が人間を守るために与えた力。
それなら、なぜ適合しない人間を壊す?
なぜ咎落ちが起こる?
なぜ適合者は、戦う以外の道をほとんど与えられない?
『考えすぎるな』
昔、クロスに言われたことがある。
俺は、
『師匠がそれ言う?』
と返した。
あの人ほど、この戦争の裏を探っている人間もそうはいない。
「……」
資料へ視線を戻す。
だが文字が頭へ入らない。
何度か。
無意識に時計を見る。
まだアレンたちが戻る時間ではない。
分かっている。
「……集中しろ、俺」
自分に言い聞かせた。
今、俺にできることはない。
アレンにはアレンの任務がある。
神田もいる。
あいつら自身が経験しなければならないものまで、俺が全部先回りする必要はない。
それに。
俺自身にも仕事がある。
頭では理解している。
でも。
窓の向こうへ目を向ける。
空は灰色だった。
原作を知っているというのは、便利なようでいて。
案外、ろくでもないものなのかもしれない。
起きることを知っている。
痛い目に遭うことも知っている。
それでも、何もせず待たなければならない。
「……嫌な役回りだな」
誰にも聞こえない声で呟いた。
◇
一方、その頃。
荒野を進む二人のエクソシスト。
「遅ぇ」
前を歩く神田が言った。
「神田が速すぎるんですよ」
「黙って歩け、モヤシ」
「アレンです」
「どうでもいい」
「よくありません」
そのやり取りをしながらも、アレンは歩みを止めなかった。
やがて遠くに、巨大な遺跡群が見え始める。
かつて栄え。
今は人の住まなくなった古代都市。
マテール。
アレンが僅かに目を細めた。
ここが。
黒の教団へ入ってからの、
初めての任務。
そして彼はまだ知らない。
この廃墟で出会う二人の存在が、
エクソシストとしての彼の心に、小さくないものを残すことを。
◇
夜。
俺は自室に戻り、カードケースを机の上へ置いた。
銀色の蓋を開く。
整然と収まった五十四枚。
その一番奥。
他のどの札とも違う、一枚の白いカード。
《核札》。
軽く指で触れる。
「……」
ふと思う。
俺にはカードがある。
アレンには左腕がある。
神田には六幻がある。
みんな、自分に配られたものを使って戦っている。
好きで選んだわけでもないのに。
「配られた手札、か」
自分で昔から使っている言葉なのに、今日は少し違って聞こえた。
俺はカードケースを閉じる。
明日も仕事だ。
アレンたちが帰ってくる頃には、追加の報告書も終わらせておこう。
帰ってきた弟弟子に、
『まだ書いてないんですか?』
などと言われたら、兄弟子の面目が立たない。
「……それだけは嫌だな」
少し笑って、灯りを消した。
けれど。
眠りに落ちる直前まで、
俺の頭の片隅には、
古代都市マテールへ向かった二人の背中が残っていた。