D.Gray-man ― DEALT HAND ― 作:からし明太子
アレンと神田をマテールへ送り出した翌朝、俺はまた黒の教団本部を出ることになった。
昨日帰ってきたばかりだというのに、である。
「……俺、三ヶ月ぶりに帰ってきたんだけど」
「うん」
「昨日まで任務だったんだけど」
「それも知ってるよ」
「なら普通、何日か休ませない?」
コムイの執務机を挟んで訴えてみたが、室長本人はまるで悪びれる様子がなかった。
「本当は休ませてあげたいんだけどね」
「その言い方する時、大抵休ませる気ないだろ」
「嫌だなあ。そんなことないよ」
笑顔。
信用できない。
俺はため息を吐きながら、渡された資料へ視線を落とした。
昨日、コムイが言っていた「周辺地域での異常報告」。
黒の教団から列車と馬車を乗り継いで半日ほどの場所にある、小さな町――ベルネ。
人口は千人に満たない。
特産品らしいものもなく、古い教会と牧畜くらいしか目立ったもののない、ごく普通の地方都市。
そこでこの二週間に、七人の住民が行方不明になっている。
「七人……」
「共通点がある」
コムイが資料を一枚めくった。
「全員、失踪する少し前から同じことを話してるんだ」
「同じこと?」
「夜になると、亡くなった家族の声が聞こえるって」
俺の手が止まった。
嫌な話だ。
この世界で「死んだ人間の声が聞こえる」などという話に、ろくなものはない。
「千年伯爵か」
「その可能性が高い」
「イノセンス反応は?」
「今のところ確認されてない。ただ、現地の教会からファインダーへ連絡があった。二日前には町外れの墓地付近で、明らかに人間ではない影を見たという証言も出てる」
「なるほど」
資料を閉じる。
それなら、エクソシストを送る判断は妥当だった。
問題は。
「なんで俺?」
「近いから」
「雑だな」
「それだけじゃないよ」
コムイが少しだけ真面目な表情になる。
「今の本部で、単独調査からAKUMA討伐まで一人で任せられる人間が少ないんだ」
「元帥連中は?」
「それぞれ別件」
「リナリー」
「別の任務が控えてる」
「ラビは?」
「まだ戻ってない」
「……つまり消去法」
「信頼の結果と言ってほしいな」
「物は言いようだな」
それでも断る理由はなかった。
人が消えている。
AKUMAの可能性がある。
俺が行けば助けられるかもしれない。
なら行く。
面倒だと思うのと、放っておけるかどうかは別の話だ。
「分かった。行く」
「ありがとう」
「報告書は簡潔でいい?」
「駄目」
「即答かよ」
◇
本部を出ようとすると、正門のところでリナリーに捕まった。
「また行くの?」
少し不満そうだった。
「仕方ないだろ。仕事だ」
「帰ってきたばかりなのに」
「俺もそう言った」
「コムイ兄さんに?」
「聞き流された」
「あとで言っておく」
「ほどほどにな」
兄妹喧嘩へ発展されても困る。
リナリーは俺の荷物を見る。
「何日くらい?」
「二、三日で戻れると思う」
「思う、じゃなくて戻ってきて」
「善処します」
「ジーク」
「帰ってくる」
言い直すと、ようやく納得したらしい。
「それと」
「ん?」
「右目」
やっぱり言われた。
「使わないよ」
「本当に?」
「今回程度の調査で使うつもりはない」
「程度って言って油断しないでね」
「分かってる」
リナリーはまだ何か言いたそうだったが、最後には小さく笑った。
「行ってらっしゃい」
「ああ。行ってくる」
昨日はアレンへ言った言葉を、今日は自分が受け取る。
変な感じだった。
◇
ベルネの町へ着いたのは、その日の夕方だった。
第一印象は、静か。
悪い意味で。
家々の窓は閉ざされ、日が落ちきってもいないのに通りを歩く人間がほとんどいない。
店も早々に扉を閉めている。
馬車を降りると、先に到着していたファインダーが迎えに来た。
「ヴァイス様ですね」
「様はいらない」
若い男だった。
名前はルーク。
歳は俺より少し上くらいだろう。
「現地の状況は?」
「昨日、また一人消えました」
「八人目か」
「はい。パン屋の主人です。三年前に亡くした妻の声を聞いた、と」
歩きながら説明を受ける。
「失踪者の家に争った形跡は?」
「ありません。ただ、全員夜中に自分から外へ出たようです」
「目撃者は?」
「一人だけ」
「誰?」
「最初に失踪した男の父親です。ヨハン・ベルツという老人で、町外れに住んでいます」
「会えるかな?」
「既に話は通してあります」
「じゃあ先にそこ行くか」
◇
ヨハン・ベルツは、痩せた老人だった。
年齢は六十を少し越えた程度のはずだが、実際より十歳ほど老けて見える。
息子を亡くしてから眠れていないのだろう。
「黒の教団の方ですか」
「ああ」
黒い団服を見れば、説明する必要もなかった。
「ジークハルト・ヴァイス。少し話を伺っても」
老人は頷いた。
小さな居間へ通される。
俺は向かいへ座った。
「息子さんがいなくなった夜のこと、もう一度聞かせてもらえますか?」
「何度も話しました」
「分かっています」
「それでも?」
「現場へ来た人間が、自分の耳で聞いた方がいい」
ヨハンはしばらく俺を見ていたが、やがて視線を落とした。
「……あの日、息子は娘の声を聞いたと言いました」
「娘?」
「私の孫です」
五年前。
病で死んだという。
「ミーナという子でした」
老人の声が少し掠れる。
「まだ十三でした。息子は……あの子をとても可愛がっていた」
嫌な予感が形を持ちはじめる。
「亡くなった後、千年伯爵のような男を見なかったか?」
老人の顔が上がった。
「……どうして」
当たりか。
「丸い身体。妙な帽子。笑顔の男」
「……いました」
ルークが息を呑む。
俺は表情を変えないよう努めた。
「いつ?」
「ミーナを埋葬した夜です」
五年前。
「息子は取り乱していました。あの子を返してくれるなら何でもすると……私は止めました。しかし――」
「伯爵と契約した」
ヨハンが震えた。
「翌朝、息子は何事もなかったように家へ帰ってきました。娘を呼び戻すのをやめた、と」
「それから五年間?」
「何もありませんでした」
そこが引っ掛かる。
AKUMAが生まれたのなら、その場にいた人間を殺して皮を被る。
少なくとも俺が知る限りではそうだ。
なら。
「息子さん、本当に息子だったか?」
ヨハンの顔が強張った。
「何を……」
「五年前から昨日まで」
「息子です!」
声が荒くなった。
当然だ。
それでも聞かなければならない。
「一度も違和感は?」
「ありません!」
「食べ物の好み。癖。話し方。何でもいい」
「やめてください!」
老人が机を叩く。
俺は黙った。
ルークが口を挟もうとしたので、手で制する。
しばらくして。
老人の肩から力が抜けた。
「……ありました」
小さな声。
「何が?」
「妻の命日を……忘れたことが」
俯いたまま続ける。
「息子は毎年欠かさず墓へ行っていました。それなのに五年前から、一度も」
決まりだった。
俺は立ち上がった。
「息子さんが最後に向かった場所は?」
「教会です」
「町の?」
「いいえ」
老人が窓の外へ目を向ける。
「森の奥に、古い鐘楼があります。百年以上前に捨てられた礼拝堂です」
「失踪者も?」
「みんな……夜になると、あちらから声を聞いたと言っていました」
◇
日が完全に落ちるのを待った。
町の外。
森。
道は途中から獣道になり、木々の向こうには古い鐘楼が見える。
「ヴァイスさん」
「ジークでいい」
「では、ジークさん。ファインダーはここで待機しますか?」
「一人残して、もう一人は町へ戻れ」
「しかし」
「何かあったら本部へ連絡する人間が必要だ」
俺はカードケースへ手を掛ける。
「それに、相手がAKUMAなら俺の方が動きやすい」
ルークは迷った末、頷いた。
「分かりました」
「無理してついてくる必要はない」
「怖くないんですか?」
素直な質問だった。
「怖いよ」
俺も素直に答えた。
「AKUMAが怖くなくなる日なんて、多分来ない」
意外そうな顔をされた。
「そうなんですか?」
「俺を何だと思ってるんだ」
「エクソシストだから……」
「エクソシストだって人間だよ」
死ぬ時は死ぬ。
痛いものは痛い。
俺が未来を知っていようが、イノセンスを持っていようが、その辺は変わらない。
「怖いから準備する。死にたくないから頭使う。それだけ」
銀色のケースを開く。
「《アルカナ・デック》――発動」
白銀の光。
五枚のカードがケースから抜け出し、俺の指の間へ収まった。
♠6。
♣3。
♥4。
♦5。
♣2。
「悪くない」
戦うには十分だ。
◇
廃礼拝堂の中は、思ったより広かった。
割れたステンドグラス。
腐った長椅子。
天井の一部が抜け、月明かりが差し込んでいる。
その中央。
鐘が鳴った。
――ゴォン。
風はない。
鐘を引く縄も切れている。
それでも鳴った。
『……お父さん』
少女の声がした。
ルークの顔が強張る。
「今の……」
「聞こえた」
『お父さん……こっちだよ』
暗闇。
人影が一つ。
十三歳ほどの少女。
古いワンピース。
柔らかな金髪。
笑っている。
「ミーナか」
少女の笑顔が深くなる。
『そうだよ』
でも。
人間じゃない。
俺にはアレンのように魂は見えない。
それでも五年もAKUMAを相手にしていれば分かる。
人間を真似ているだけの何か。
「お前が五年前に作られたAKUMAだな」
少女の首が不自然に傾く。
『違うよ?』
「なら何?」
『ミーナ』
「そうか」
一枚のカードを抜く。
「じゃあミーナ。悪いけど、終わりにする」
笑顔が消えた。
次の瞬間。
少女の身体が裂けた。
人間の皮膚の下から黒い機械。
だが。
「……Level2」
形が変わっている。
五年。
人間を殺し続けた。
それだけの時間があれば、進化していてもおかしくない。
『アハハハハハハ!』
声が重なる。
男。
女。
子供。
老人。
八人分の声。
こいつ。
「失踪者を食ったな」
『ミンナ会イタカッタ人ニ会エタヨ』
「……それを殺したって言うんだよ」
『同ジダヨ』
「違う」
即答した。
AKUMAの腕が伸びる。
避ける。
床が砕けた。
「♣3――《トリック・ヴェール》」
俺の姿が薄れる。
正確には透明になるわけではない。
音。
気配。
視線。
そういった「認識するための情報」をずらす。
『ドコ!?』
「こっち」
背後。
♠6。
六条の斬撃。
AKUMAの背中へ走る。
『ギャアアッ!!』
しかし浅い。
硬いな。
五年も生き延びただけはある。
反撃。
壁際まで飛び退く。
砲弾。
「♣2――《チェンジ》」
飛ばしておいたカードと位置を交換。
爆発が元いた場所を飲み込む。
「っ……危な」
熱風が頬を掠めた。
油断すれば死ぬ。
分かっている。
俺は右目へ触れかけて、止めた。
使わない。
この程度で使うな。
「いまの手札でやれる」
自分へ言い聞かせる。
AKUMAがこちらを見失った一瞬。
♦5。
五枚のカードが光弾となって飛ぶ。
腕。
脚。
胸。
連続着弾。
姿勢が崩れた。
「今だ」
スペードへ手を伸ばす。
だが。
『オ父サン』
声が変わった。
「……」
『助ケテ』
少女の声。
泣いている。
『痛イヨ』
一瞬だけ。
指が止まる。
分かっている。
偽物だ。
魂を利用しているだけ。
それでも。
知識で理解することと、耳で聞くことは違う。
『殺サナイデ』
「……卑怯だな、お前」
『オ兄チャン』
今度は別の声。
『助ケテヨ』
誰かを呼ぶ声。
失踪者たちのものだろう。
俺は奥歯を噛んだ。
「俺には魂は見えない」
アレンなら。
あいつなら、この中にいる魂を見られる。
泣いているのか。
怒っているのか。
助けを求めているのか。
俺には分からない。
「だからさ」
カードを構える。
「せめて、これ以上増やさない」
♠6は使用済み。
次のカードを引く。
ドロー。
♠K。
思わず笑った。
「……珍しくいい札」
白銀の光が集まる。
一枚のカードが形を変える。
長い刃。
完全な大剣と呼ぶほどではないが、これまでの投擲札とは比較にならないほど巨大な斬撃力。
スペードの最大出力。
『ヤメロォォォ!!』
「嫌だ」
一歩踏み込む。
「俺も帰るって約束してるんでな」
振り抜いた。
白銀の斬撃が礼拝堂を横断する。
AKUMAの身体に一本の線。
一拍遅れて。
上下へ分かれた。
『ア――』
黒い機械が崩れる。
その瞬間。
ほんの僅か。
少女の声がした気がした。
『……お父さん』
それがAKUMAの真似だったのか。
本当に中の魂だったのか。
俺には分からない。
爆発。
黒い塵。
静寂。
「……終わった」
剣がカードへ戻る。
俺はしばらく、その場に立っていた。
◇
礼拝堂の地下から。
失踪した人々の遺品が見つかった。
服。
指輪。
靴。
八人。
生存者はいなかった。
翌朝。
ヨハンへ伝えた。
老人は長い間、何も言わなかった。
「ミーナは……」
やがて。
「ミーナは、どうなったのでしょう」
難しい質問だった。
俺には魂が見えない。
嘘をつくこともできる。
救われました。
安らかになりました。
そう言えば、老人は少し楽になれるかもしれない。
でも。
「分からない」
俺はそう答えた。
ヨハンが顔を上げる。
「俺には、AKUMAの中の魂までは見えない」
「……そうですか」
「でも」
少し迷う。
「これ以上、人を殺すことはない」
老人は黙った。
「それしか言えない」
「十分です」
意外な答えだった。
「嘘を言われるより……ずっと」
ヨハンの目から涙が落ちた。
俺は何も言わなかった。
慰めの言葉なんて、今の俺には思いつかなかった。
ただ。
泣き終わるまで。
そこにいた。
◇
黒の教団へ戻ったのは、それから二日後だった。
正門を潜る。
見慣れた黒い壁。
「……疲れた」
今回こそ休みたい。
本気で。
そう思って歩いていると、廊下の向こうから見覚えのある白髪が現れた。
「あ」
「あ」
同時。
アレン。
黒の団服。
少し汚れている。
頬にも小さな傷。
でも。
生きている。
「ジークさん!」
「帰ってたのか」
「昨日戻りました」
「そうか」
その一言だけで。
胸の奥に残っていたものが少し軽くなった。
「任務は?」
「無事に終わりました」
「怪我してるじゃん」
「これくらいです」
「神田は?」
アレンが微妙な顔をする。
「……元気です」
「間が気になるな」
「いろいろありまして」
「だろうな」
知っている。
マテールで何があったか。
ララ。
グゾル。
でも。
俺から言うことではない。
「ジークさんこそ」
アレンが俺の団服を見る。
袖が裂けている。
「何があったんです?」
「AKUMA一体」
「怪我は?」
「ない」
「本当に?」
「お前までリナリーみたいなこと言うなよ」
「ジークさんは信用がないので」
「弟弟子に言われたくない」
アレンが少し笑う。
その笑い方を見て。
何かがあったのだと分かる。
マテールの話。
前世では知っている。
でも。
今のアレンが何を見て、何を感じたのかは。
本人から聞かなければ分からない。
「飯は?」
「まだです」
「じゃあ食堂行くか」
「はい」
並んで歩く。
「それで」
「?」
「マテール、どうだった?」
アレンはすぐには答えなかった。
少し歩いてから。
「……歌を聴きました」
「歌?」
「はい」
それだけ。
でも。
声から分かった。
きっと。
忘れない歌なのだろう。
「そっか」
俺はそれ以上聞かなかった。
話したくなったら、いつか話せばいい。
食堂の角を曲がったところで。
リナリーが俺たちを見つけた。
「あ!」
こちらへ走ってくる。
「ジーク!」
「ただいま」
「怪我してない?」
「第一声それ?」
「袖破れてる!」
「服だけ」
「本当に?」
「本当だって」
アレンが隣で笑っている。
「僕も同じこと聞きました」
「でしょ?」
「何で意気投合してるの?」
「ジークさんの日頃の行いです」
「お前、たった三日でリナリー側についたな?」
「正しい方についただけです」
「言うようになったな……」
二人が笑う。
俺も。
少しだけ笑った。
マテールの任務は終わった。
ベルネの事件も終わった。
この世界では。
俺が知っている場所でも。
俺の知らない場所でも。
毎日誰かが泣き、誰かが戦っている。
原作に描かれていた事件だけが、この世界のすべてではない。
当たり前のことなのに。
実際に歩いて。
人と話して。
AKUMAを斬って。
改めて思い知らされた。
俺が知っている『D.Gray-man』は。
きっと、この世界のほんの一部分に過ぎない。
それでも。
食堂へ向かう二人の後ろ姿を見ながら思う。
今はまだ。
帰ってきた時に、こうして顔を見られるなら。
それで十分だった。
――少なくとも。
この時の俺は、まだそう思っていた。