メガコーポは一日にして成らず ~転生特典と未来技術で始める巨大企業創業記~ 作:すすぺっと
翌朝。
目を覚まして最初に思ったのは、今日もちゃんとこの世界だった、ということだった。
別に元の世界へ戻れると思っていたわけじゃない。
それでも昨日は、あまりにも色々ありすぎた。
転生、別の世界、DBS、Eden、Aether、SYSTEM。
最後には、自分で会社を作るとまで決めた。
一晩寝て多少は頭の中も整理できたが、だからといって全部に慣れたわけではない。
というか、正直まだ何もかも慣れない。
この家も、自分の顔も、アメリカ人として生きていることも、知識としては分かるのに、自分の人生だという感覚がまだ追いついていなかった。
ベッド脇のスマートフォンを手に取ると、すでにヴェラからメッセージが届いていた。
『おはようございます、エリック。今日は初出勤ですね』
俺は思わず眉を寄せた。
『その言い方やめろ。何年も勤めてることになってるんだろ』
すぐに返信が来る。
『あなたにとっては初めてでしょう?』
『そうだけどさ』
昨日の夜、ヴェラは自分の住居へ戻った。
俺が仕事へ行っている間、あいつは会社設立に必要な情報を整理しておくと言っていた。
こっちは今の仕事。
向こうは起業準備。
やることは山ほどある。
『退職のお話はご自分でお願いしますね』
続けて送られてきた一文に、俺は苦笑した。
『そこまでやらせるつもりはない』
『安心しました』
本当に安心しているのかは怪しい。
スマートフォンを置き、着替えを済ませる。
今日は会社へ行く。
会社を辞めるために、まず会社へ行かなければならない。
妙な話だった。
朝食を済ませて家を出る。
玄関の外へ出たところで、俺は改めて周囲を見回した。
低い戸建てが横へ広がる住宅街。
道路も駐車スペースも、日本で暮らしていた頃よりずっと広い。
家の前には大きめのSUVやピックアップトラックが並び、少し離れた道路では何台もの車が流れている。
知識では知っていた。
映像で見たことだってある。
でも、自分の日常としてアメリカの住宅街に立つのは初めてだった。
「……本当にアメリカなんだよな」
今さらな感想だった。
自分の車に乗り込む。
左側にあるハンドルも、右側通行も、頭では当然のこととして理解できている。身体も迷わず動いた。
それでも三浦直人としての感覚が残っているせいか、最初の交差点では少しだけ意識してしまう。
道路標識は英語。
店の看板も英語。
カーラジオから聞こえてくる声も当然英語だった。
しかも全部、普通に理解できる。
信号待ちで隣を見ると、大きなピックアップトラックの運転手がコーヒーを飲んでいた。
歩道には仕事へ向かうらしい人たちがいて、通り沿いには朝から営業している店が並んでいる。
どれも特別な光景じゃない。
この世界の人間にとっては、ただの朝だ。
俺にとってだけ、その全部が少しずつ新しかった。
「これも慣れていくしかないか」
独り言を漏らし、アクセルを踏む。
行き先は分かっていた。
どの道路へ入るのか。
どこで曲がるのか。
渋滞を避けるならどの道を使うのか。
考えれば、エリック・ウォーカーとしての知識が自然に出てくる。
やがて住宅地が減り、低いオフィスや倉庫、工場が目立つ一帯へ入った。
その先に、今日の目的地が見えてくる。
ガルフライン・インダストリアル・システムズ。
俺――エリック・ウォーカーが、調達マネージャーとして働いている会社だ。
駐車場へ車を入れ、いつもの場所らしい区画へ停める。
エンジンを切ってから、しばらく建物を眺めた。
初めて来た場所だった。
少なくとも、俺の感覚では。
けれど、どの入口を使えばいいのか分かる。
社員証をどこへかざすのかも、その先を右へ曲がれば自分の部署へ行けることも知っている。
俺は小さく息を吐いて、車を降りた。
「……やっぱり慣れないな、これ」
知らないのに知っている。
昨日確認した文脈記憶というやつは便利だったが、どうにも気持ちが追いつかない。
社員入口から建物へ入る。
すれ違った男が、何の違和感もなくこちらへ声をかけてきた。
「おはよう、エリック」
名前も分かる。
部署も分かる。
「おはよう」
そして俺の口からも、英語がごく自然に出る。
わざわざ日本語から頭の中で訳している感覚すらない。
そのことにも、まだ少し違和感があった。
向こうにとっては、いつもの朝。
ここにいる人間の中で、今日が初出勤なのは俺だけだ。
もちろん、それを知っている人間はいない。
自席へ着き、PCを立ち上げる。
ログインにも迷わない。
メールを確認し、発注状況を開く。
そこまでやると、不思議な感覚は少しだけ薄れた。
仕事の内容そのものは、前世とそれほど遠くなかったからだ。
いくつかの案件を確認していると、1件の納期変更が目に留まった。
購入部品の出荷が遅れる。
そのまま受け入れれば、社内の製造予定に引っかかる可能性がある。
俺は在庫と必要数量を確認した。
全部が今すぐ必要なわけではない。
先に必要な分だけ出せるなら、工程への影響は避けられる。
仕入先へ連絡し、分納が可能か確認する。
その間に製造側へ必要時期を確認して、こちらが本当に必要としている数量を絞る。
しばらくして返ってきた回答を見て、条件を整理した。
これなら間に合う。
「……普通にできるな」
思わず呟いた。
この会社で働いてきた記憶はない。
けれど、やるべきことは分かる。
それどころか、三浦直人として何年も似た仕事をしてきた分、考え方そのものには馴染みがあった。
経営者としては初心者。
科学者でも技術者でもない。
だが、会社員として積み上げてきたものまで消えたわけじゃない。
それが分かっただけでも、少し安心した。
午前の仕事が一区切りついたところで、俺は社内チャットを開いた。
相手は直属の上司。
ロバート・ヘイズ。
顔も声も分かる。
どういう話し方をする人なのかも分かる。
ただし、やっぱり一緒に働いた記憶はない。
少しだけ指が止まった。
これから言うことを考えれば、なおさらだった。
それでも送信する。
『少しお時間いただけますか。お話ししたいことがあります』
数分もしないうちに返信が来た。
午後なら時間を取れるらしい。
俺は画面を閉じた。
会社を作る。
昨日、そう決めた。
なら、その前にやるべきことがある。
まずは会社員としての俺を、きちんと終わらせる。
そのための最初の一言を、今日伝える。
午後。
指定された時間にロバートのところへ向かった。
扉をノックして入ると、50歳前後の男がPCから顔を上げた。
もちろん顔は知っている。
知っているはずなのだが、俺にとって実際に会うのは初めてだった。
「座ってくれ。何か問題でもあったか?」
「いえ。仕事のトラブルではありません」
椅子に座る。
ここまで来たら、変に遠回しにしても仕方がない。
「退職したいと思っています」
ロバートの表情が止まった。
数秒。
「……それは予想してなかったな」
「すみません」
「理由を聞いても?」
当然の質問だ。
「自分で会社を始めようと思っています」
今度はさっきより長く沈黙した。
「会社?」
「はい」
「転職じゃなく?」
「転職ではありません」
ロバートは椅子へ背を預けた。
驚いてはいる。
だが怒っている様子はない。
「いつから考えてた?」
少し答えに困った。
まさか昨日です、とは言いづらい。
嘘をつく必要もないが、全部を説明するわけにもいかない。
「自分で何かやることには以前から興味がありました。実際に決めたのは最近です」
それなら嘘ではない。
前世から巨大企業に憧れていたのだから。
「待遇に問題があるなら、話はできるぞ」
「いえ。会社に不満があるわけではありません」
これは本心だった。
少なくとも、辞める理由はそこではない。
「何をやるつもりなんだ?」
「まだ全部は固まっていません。ただ、産業技術関係を考えています」
「なるほど」
ロバートは少し考えてから、机の上で指を組んだ。
「意思は固い?」
「はい」
「そうか」
思ったよりあっさりしていた。
いや、普通はこんなものなのかもしれない。
ドラマじゃない。
会社を辞める社員が出るたびに大事件になっていたら、組織なんて回らない。
「分かった。なら退職日と引き継ぎを詰めよう」
「ありがとうございます」
「ありがとうと言われる話でもないけどな」
少し笑ってから、ロバートは仕事の話へ切り替えた。
現在抱えている案件、発注済みのもの、納期に問題があるもの、仕入先との交渉が途中のもの。
誰へ引き継ぐか。
話しているうちに、さっきまでの妙な緊張は消えていった。
仕事の話なら分かる。
俺は今抱えている案件を頭の中で整理していく。
「ケビンを中心に引き継ぐのがいいと思います。すでに一部は一緒に見ています」
「俺もそう考えてた」
「納期で動いている案件がいくつかあるので、それは状況をまとめます。仕入先との確認事項も一覧にしておきます」
ロバートが頷く。
「頼む」
会社を辞める。
だからといって、今日から仕事がなくなるわけではない。
むしろ逆だ。
自分がいなくなっても回る状態にしなければならない。
それを終えて初めて、ちゃんと辞めたと言える。
退職を申し出てから、何日かが過ぎた。
その間も仕事が減るわけではなかった。
昼間はこれまで通りガルフラインで働きながら、自分が抱えている案件の整理と引き継ぎを進める。仕事が終われば家に戻り、今度はヴェラと会社設立の準備をする。
今の会社を辞めるための仕事と、これから自分の会社を始めるための準備。
しばらくは、その2つを同時に進める生活になった。
退職するからといって担当案件は止まらない。発注は動いているし、仕入先からの連絡も来る。納期が変われば製造側との調整も必要になる。
その合間に、引き継ぎ資料も作っていく。
進行中の案件ごとに、発注状況、必要数量、納期、懸念事項、仕入先側の担当者、社内の関係部署まで整理していく。
自分の頭に入っているだけでは意味がない。
俺がいなくなった後でも、資料を見れば何が進んでいて、次に何を確認すればいいのか分かるようにしておく。
「ここ、もう一度確認していいですか?」
隣からケビン・パーカーが画面を覗き込んだ。
30代前半のシニアバイヤー。
俺が辞めた後、いくつかの案件を引き継ぐことになっている。
「この部品、来月分は発注済みですよね?」
「ああ。ただし全部が同じ納期じゃない。前半分だけ先に入る。後半は仕入先から確定回答待ちだ」
「なるほど」
「だから製造側には前半分だけでどこまで回せるか確認してある。ここ」
該当するメールを開く。
ケビンが頷いた。
「分かりました」
「分からなかったら今のうちに聞いてくれ。俺がいなくなってからじゃ面倒だからな」
「そうします」
少し間が空いた。
ケビンがこちらを見る。
「そういえば、次ってどこへ行くんです?」
来たか。
「転職じゃない」
「え?」
「会社を作る」
案の定、目を丸くした。
「マジですか?」
「マジ」
「何の会社です?」
「産業技術系。まだ細かいところは詰めてる途中だけどな」
ケビンはしばらく俺を見た後、感心したような、心配しているような微妙な顔になった。
「すごいですね」
「まだ何もすごくない。会社すらないし」
「でも起業でしょう?」
「書類を出せば会社は作れる。問題はその後だよ」
商品もない。
客もいない。
社員もいない。
売上もない。
現時点では「会社を作る」と言っているだけの男だ。
ケビンは笑った。
「それでも、自分でやろうと思うのはすごいですよ」
「そう言ってもらえるうちに成功したいな」
その時は、二人とも普通に笑った。
この会社が将来どうなるか。
俺の会社がどうなるか。
そんなことは誰にも分からない。
俺自身にも分からない。
ただ、やると決めただけだ。
仕事が終わると、今度はヴェラとの時間だった。
「法人形態については、こちらが候補です」
「ふむ」
自宅のテーブルに資料が並ぶ。
ヴェラの説明を聞きながら、俺は候補を確認していく。
設立地域、事業目的、銀行、税務、会計、保険、契約。
考えることはいくらでもあった。
「会社を作るだけでも面倒だな」
「昨日も似たことを言っていましたね」
「昨日より実感がある」
「いいことです」
「まあな。何をやらなきゃいけないのか、少しずつ見えてきた」
そう言いながら、次の資料へ目を移す。
昼間は今の会社の引き継ぎ。
帰宅してからは、これから作る会社の準備。
さすがに疲れる。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
自分の会社を作るためにやっている。
その一点だけで、面倒な資料を見る意味もずいぶん変わっていた。
そんな生活が続くうちに、別の問題が出てきた。
「エリック」
「ん?」
「効率が悪いです」
「何が?」
「移動です」
ヴェラは当然のように言った。
ここ数日、仕事が終わる頃にヴェラが俺の家へ来て、数時間起業準備を進め、それから自分の家へ戻る。
休日も似たようなものだった。
「まあ、確かにな」
「今後はもっと増えます」
「だろうな」
法人を作れば終わりではない。
むしろ、そこからの方がやることは増える。
俺は家の中を見回した。
一人で暮らすには余裕がある。
使っていない部屋もある。
「……ここ使うか?」
ヴェラがこちらを見る。
「ここ、とは?」
「空いてる部屋。毎日往復するより、その方が楽だろ」
「私を住まわせるんですか?」
「ああ」
ヴェラが少しだけ目を細めた。
「ずいぶん思い切りましたね。こんな若い女を自宅に」
「仕事の効率の話だろ」
「しかも私、かなりスタイルいいですよ?」
そう言って、わざとかどうかは知らないが、ヴェラが姿勢を正した。
……でかい。
いや、知っていたけど。
改めて見ると本当にでかい。
視線が下がった。
そして当然のように、ヴェラと目が合った。
「今、見ましたね?」
「見た」
「即答ですか」
「パイオツカイデーな女が目の前にいたら見るだろ」
ヴェラが数秒固まった。
それから、口元を押さえて笑い始める。
「パイオツカイデーって……」
「でかいものをでかいと言って何が悪い」
「エリック、あなた一応36歳ですよ?」
「36歳でも巨乳は好きだ」
「堂々と宣言しましたね」
「隠す必要あるか?」
ないだろ。
前世からそうだった。
美人は好きだし、胸は大きい方が好きだ。
そこを今さら上品に取り繕うつもりもない。
ヴェラはまだ笑っている。
「それで、そんな私を家に住まわせると?」
「その聞き方だとものすごく下心があるみたいになるな」
「ないんですか?」
「胸は見る」
「そこではなくて」
「同じ部屋で寝ようとは言ってないだろ」
「残念です」
「絶対残念じゃないだろ、お前」
「どうでしょう?」
楽しそうに笑いやがる。
俺はため息をついて、話を戻した。
「空いてる部屋をお前の個室にすればいい。荷物も置けるし、毎日往復する必要もなくなる」
「私の部屋として自由に使っていいんですね?」
「ああ。勝手に入ったりもしない」
「意外と紳士ですね」
「巨乳好きと常識がないのは別問題だ」
「名言みたいに言わないでください」
うるさい。
だが、理屈としては間違っていなかった。
仕事と私生活の区切りは必要だし、いくらヴェラでも本人の部屋へ勝手に入るつもりはない。
「それで、どうする?」
「私は賛成です。移動時間がなくなりますし、起業準備もかなりやりやすくなります」
「なら決まりだな」
「はい」
あっさり決まった。
こうしてヴェラが俺の家で暮らすことになった。
理由は、あくまで起業準備と生活の効率化。
少なくとも今は、それ以上でも以下でもない。
……まあ。
毎日パイオツカイデーが視界に入る生活になることについて、不満があるかと聞かれれば。
まったくない。
そして、最後の出勤日が来た。
机の上はすでに片づいていた。
必要なデータは会社の所定の場所へ整理し、引き継ぎも終わっている。
個人的に持ち出すものは何もない。
会社の資料も、仕入先の価格情報も、契約書も。
ここで知ったものは、ここへ置いていく。
ケビンが最後に確認へ来た。
「例の納期案件、回答来ました」
「どうだった?」
「予定通りでいけます」
「なら大丈夫だな」
もう俺が判断する仕事ではない。
その事実が、少しだけ妙だった。
ロバートのところへ挨拶へ行く。
「世話になりました」
俺が言うと、ロバートは手を差し出した。
「こっちこそ。頑張れよ」
握手する。
「ありがとうございます」
「失敗して戻ってきても席があるとは約束できないけどな」
「そこは成功する前提でお願いします」
「そのくらいでいい」
最後まで普通だった。
それがありがたかった。
職場へ戻り、社員証や貸与物を返す。
何人かの同僚から声をかけられた。
大げさな別れではない。
またどこかで会うかもしれないし、二度と会わないかもしれない。
会社なんて、たぶんそういうものだ。
建物を出る。
駐車場まで歩いてから、一度だけ振り返った。
ガルフライン・インダストリアル・システムズ。
俺にとっては短い。
エリック・ウォーカーという人間にとっては、何年も働いていた会社。
その時間を俺自身が覚えていないことには、最後まで妙な感じが残った。
それでも。
今日で終わりだ。
もう次の出勤日に、この道を通ってここへ来る必要はない。
「……会社員、辞めたんだな」
口にしてみて、ようやく少し実感が湧いた。
前世から数えれば、大学を出てからずっと会社員だった。
誰かが作った会社に入り、その中で仕事をしてきた。
次は違う。
自分で会社を作る。
車へ乗り込み、家へ向かう。
帰ればヴェラがいる。
机の上には、まだ正式決定していない会社設立の資料がある。
退職したからといって、休みになるわけではない。
むしろ、これからの方が忙しくなる。
それでいい。
家へ戻ると、リビングでヴェラがノートPCを開いていた。
「お帰りなさい」
「ただいま」
それだけのやり取りが、少し妙に感じた。
もうこの家には、俺以外の生活用品も増え始めている。
ヴェラが画面をこちらへ向けた。
「退職、お疲れさまでした」
「ああ」
「では」
嫌な予感がした。
「次はこちらですね」
画面には、法人設立に関する資料が並んでいる。
俺は思わず笑った。
やっぱり休ませる気はないらしい。
でも、悪くない。
俺は椅子を引いて、ヴェラの隣へ座った。
「次は、会社だな」
会社員としての生活は終わった。
今度は、俺の会社を始める番だった。