メガコーポは一日にして成らず ~転生特典と未来技術で始める巨大企業創業記~   作:すすぺっと

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第5章 会社員を辞めます

翌朝。

 

目を覚まして最初に思ったのは、今日もちゃんとこの世界だった、ということだった。

 

別に元の世界へ戻れると思っていたわけじゃない。

 

それでも昨日は、あまりにも色々ありすぎた。

 

転生、別の世界、DBS、Eden、Aether、SYSTEM。

 

最後には、自分で会社を作るとまで決めた。

 

一晩寝て多少は頭の中も整理できたが、だからといって全部に慣れたわけではない。

 

というか、正直まだ何もかも慣れない。

 

この家も、自分の顔も、アメリカ人として生きていることも、知識としては分かるのに、自分の人生だという感覚がまだ追いついていなかった。

 

ベッド脇のスマートフォンを手に取ると、すでにヴェラからメッセージが届いていた。

 

『おはようございます、エリック。今日は初出勤ですね』

 

俺は思わず眉を寄せた。

 

『その言い方やめろ。何年も勤めてることになってるんだろ』

 

すぐに返信が来る。

 

『あなたにとっては初めてでしょう?』

 

『そうだけどさ』

 

昨日の夜、ヴェラは自分の住居へ戻った。

 

俺が仕事へ行っている間、あいつは会社設立に必要な情報を整理しておくと言っていた。

 

こっちは今の仕事。

 

向こうは起業準備。

 

やることは山ほどある。

 

『退職のお話はご自分でお願いしますね』

 

続けて送られてきた一文に、俺は苦笑した。

 

『そこまでやらせるつもりはない』

 

『安心しました』

 

本当に安心しているのかは怪しい。

 

スマートフォンを置き、着替えを済ませる。

 

今日は会社へ行く。

 

会社を辞めるために、まず会社へ行かなければならない。

 

妙な話だった。

 

朝食を済ませて家を出る。

 

玄関の外へ出たところで、俺は改めて周囲を見回した。

 

低い戸建てが横へ広がる住宅街。

 

道路も駐車スペースも、日本で暮らしていた頃よりずっと広い。

 

家の前には大きめのSUVやピックアップトラックが並び、少し離れた道路では何台もの車が流れている。

 

知識では知っていた。

 

映像で見たことだってある。

 

でも、自分の日常としてアメリカの住宅街に立つのは初めてだった。

 

「……本当にアメリカなんだよな」

 

今さらな感想だった。

 

自分の車に乗り込む。

 

左側にあるハンドルも、右側通行も、頭では当然のこととして理解できている。身体も迷わず動いた。

 

それでも三浦直人としての感覚が残っているせいか、最初の交差点では少しだけ意識してしまう。

 

道路標識は英語。

 

店の看板も英語。

 

カーラジオから聞こえてくる声も当然英語だった。

 

しかも全部、普通に理解できる。

 

信号待ちで隣を見ると、大きなピックアップトラックの運転手がコーヒーを飲んでいた。

 

歩道には仕事へ向かうらしい人たちがいて、通り沿いには朝から営業している店が並んでいる。

 

どれも特別な光景じゃない。

 

この世界の人間にとっては、ただの朝だ。

 

俺にとってだけ、その全部が少しずつ新しかった。

 

「これも慣れていくしかないか」

 

独り言を漏らし、アクセルを踏む。

 

行き先は分かっていた。

 

どの道路へ入るのか。

 

どこで曲がるのか。

 

渋滞を避けるならどの道を使うのか。

 

考えれば、エリック・ウォーカーとしての知識が自然に出てくる。

 

やがて住宅地が減り、低いオフィスや倉庫、工場が目立つ一帯へ入った。

 

その先に、今日の目的地が見えてくる。

 

ガルフライン・インダストリアル・システムズ。

 

俺――エリック・ウォーカーが、調達マネージャーとして働いている会社だ。

 

駐車場へ車を入れ、いつもの場所らしい区画へ停める。

 

エンジンを切ってから、しばらく建物を眺めた。

 

初めて来た場所だった。

 

少なくとも、俺の感覚では。

 

けれど、どの入口を使えばいいのか分かる。

 

社員証をどこへかざすのかも、その先を右へ曲がれば自分の部署へ行けることも知っている。

 

俺は小さく息を吐いて、車を降りた。

 

「……やっぱり慣れないな、これ」

 

知らないのに知っている。

 

昨日確認した文脈記憶というやつは便利だったが、どうにも気持ちが追いつかない。

 

社員入口から建物へ入る。

 

すれ違った男が、何の違和感もなくこちらへ声をかけてきた。

 

「おはよう、エリック」

 

名前も分かる。

 

部署も分かる。

 

「おはよう」

 

そして俺の口からも、英語がごく自然に出る。

 

わざわざ日本語から頭の中で訳している感覚すらない。

 

そのことにも、まだ少し違和感があった。

 

向こうにとっては、いつもの朝。

 

ここにいる人間の中で、今日が初出勤なのは俺だけだ。

 

もちろん、それを知っている人間はいない。

 

自席へ着き、PCを立ち上げる。

 

ログインにも迷わない。

 

メールを確認し、発注状況を開く。

 

そこまでやると、不思議な感覚は少しだけ薄れた。

 

仕事の内容そのものは、前世とそれほど遠くなかったからだ。

 

いくつかの案件を確認していると、1件の納期変更が目に留まった。

 

購入部品の出荷が遅れる。

 

そのまま受け入れれば、社内の製造予定に引っかかる可能性がある。

 

俺は在庫と必要数量を確認した。

 

全部が今すぐ必要なわけではない。

 

先に必要な分だけ出せるなら、工程への影響は避けられる。

 

仕入先へ連絡し、分納が可能か確認する。

 

その間に製造側へ必要時期を確認して、こちらが本当に必要としている数量を絞る。

 

しばらくして返ってきた回答を見て、条件を整理した。

 

これなら間に合う。

 

「……普通にできるな」

 

思わず呟いた。

 

この会社で働いてきた記憶はない。

 

けれど、やるべきことは分かる。

 

それどころか、三浦直人として何年も似た仕事をしてきた分、考え方そのものには馴染みがあった。

 

経営者としては初心者。

 

科学者でも技術者でもない。

 

だが、会社員として積み上げてきたものまで消えたわけじゃない。

 

それが分かっただけでも、少し安心した。

 

午前の仕事が一区切りついたところで、俺は社内チャットを開いた。

 

相手は直属の上司。

 

ロバート・ヘイズ。

 

顔も声も分かる。

 

どういう話し方をする人なのかも分かる。

 

ただし、やっぱり一緒に働いた記憶はない。

 

少しだけ指が止まった。

 

これから言うことを考えれば、なおさらだった。

 

それでも送信する。

 

『少しお時間いただけますか。お話ししたいことがあります』

 

数分もしないうちに返信が来た。

 

午後なら時間を取れるらしい。

 

俺は画面を閉じた。

 

会社を作る。

 

昨日、そう決めた。

 

なら、その前にやるべきことがある。

 

まずは会社員としての俺を、きちんと終わらせる。

 

そのための最初の一言を、今日伝える。

 

♢

 

午後。

 

指定された時間にロバートのところへ向かった。

 

扉をノックして入ると、50歳前後の男がPCから顔を上げた。

 

もちろん顔は知っている。

 

知っているはずなのだが、俺にとって実際に会うのは初めてだった。

 

「座ってくれ。何か問題でもあったか?」

 

「いえ。仕事のトラブルではありません」

 

椅子に座る。

 

ここまで来たら、変に遠回しにしても仕方がない。

 

「退職したいと思っています」

 

ロバートの表情が止まった。

 

数秒。

 

「……それは予想してなかったな」

 

「すみません」

 

「理由を聞いても?」

 

当然の質問だ。

 

「自分で会社を始めようと思っています」

 

今度はさっきより長く沈黙した。

 

「会社?」

 

「はい」

 

「転職じゃなく?」

 

「転職ではありません」

 

ロバートは椅子へ背を預けた。

 

驚いてはいる。

 

だが怒っている様子はない。

 

「いつから考えてた?」

 

少し答えに困った。

 

まさか昨日です、とは言いづらい。

 

嘘をつく必要もないが、全部を説明するわけにもいかない。

 

「自分で何かやることには以前から興味がありました。実際に決めたのは最近です」

 

それなら嘘ではない。

 

前世から巨大企業に憧れていたのだから。

 

「待遇に問題があるなら、話はできるぞ」

 

「いえ。会社に不満があるわけではありません」

 

これは本心だった。

 

少なくとも、辞める理由はそこではない。

 

「何をやるつもりなんだ?」

 

「まだ全部は固まっていません。ただ、産業技術関係を考えています」

 

「なるほど」

 

ロバートは少し考えてから、机の上で指を組んだ。

 

「意思は固い?」

 

「はい」

 

「そうか」

 

思ったよりあっさりしていた。

 

いや、普通はこんなものなのかもしれない。

 

ドラマじゃない。

 

会社を辞める社員が出るたびに大事件になっていたら、組織なんて回らない。

 

「分かった。なら退職日と引き継ぎを詰めよう」

 

「ありがとうございます」

 

「ありがとうと言われる話でもないけどな」

 

少し笑ってから、ロバートは仕事の話へ切り替えた。

 

現在抱えている案件、発注済みのもの、納期に問題があるもの、仕入先との交渉が途中のもの。

 

誰へ引き継ぐか。

 

話しているうちに、さっきまでの妙な緊張は消えていった。

 

仕事の話なら分かる。

 

俺は今抱えている案件を頭の中で整理していく。

 

「ケビンを中心に引き継ぐのがいいと思います。すでに一部は一緒に見ています」

 

「俺もそう考えてた」

 

「納期で動いている案件がいくつかあるので、それは状況をまとめます。仕入先との確認事項も一覧にしておきます」

 

ロバートが頷く。

 

「頼む」

 

会社を辞める。

 

だからといって、今日から仕事がなくなるわけではない。

 

むしろ逆だ。

 

自分がいなくなっても回る状態にしなければならない。

 

それを終えて初めて、ちゃんと辞めたと言える。

 

♢

 

退職を申し出てから、何日かが過ぎた。

 

その間も仕事が減るわけではなかった。

 

昼間はこれまで通りガルフラインで働きながら、自分が抱えている案件の整理と引き継ぎを進める。仕事が終われば家に戻り、今度はヴェラと会社設立の準備をする。

 

今の会社を辞めるための仕事と、これから自分の会社を始めるための準備。

 

しばらくは、その2つを同時に進める生活になった。

 

退職するからといって担当案件は止まらない。発注は動いているし、仕入先からの連絡も来る。納期が変われば製造側との調整も必要になる。

 

その合間に、引き継ぎ資料も作っていく。

 

進行中の案件ごとに、発注状況、必要数量、納期、懸念事項、仕入先側の担当者、社内の関係部署まで整理していく。

 

自分の頭に入っているだけでは意味がない。

 

俺がいなくなった後でも、資料を見れば何が進んでいて、次に何を確認すればいいのか分かるようにしておく。

 

「ここ、もう一度確認していいですか?」

 

隣からケビン・パーカーが画面を覗き込んだ。

 

30代前半のシニアバイヤー。

 

俺が辞めた後、いくつかの案件を引き継ぐことになっている。

 

「この部品、来月分は発注済みですよね?」

 

「ああ。ただし全部が同じ納期じゃない。前半分だけ先に入る。後半は仕入先から確定回答待ちだ」

 

「なるほど」

 

「だから製造側には前半分だけでどこまで回せるか確認してある。ここ」

 

該当するメールを開く。

 

ケビンが頷いた。

 

「分かりました」

 

「分からなかったら今のうちに聞いてくれ。俺がいなくなってからじゃ面倒だからな」

 

「そうします」

 

少し間が空いた。

 

ケビンがこちらを見る。

 

「そういえば、次ってどこへ行くんです?」

 

来たか。

 

「転職じゃない」

 

「え?」

 

「会社を作る」

 

案の定、目を丸くした。

 

「マジですか?」

 

「マジ」

 

「何の会社です?」

 

「産業技術系。まだ細かいところは詰めてる途中だけどな」

 

ケビンはしばらく俺を見た後、感心したような、心配しているような微妙な顔になった。

 

「すごいですね」

 

「まだ何もすごくない。会社すらないし」

 

「でも起業でしょう?」

 

「書類を出せば会社は作れる。問題はその後だよ」

 

商品もない。

 

客もいない。

 

社員もいない。

 

売上もない。

 

現時点では「会社を作る」と言っているだけの男だ。

 

ケビンは笑った。

 

「それでも、自分でやろうと思うのはすごいですよ」

 

「そう言ってもらえるうちに成功したいな」

 

その時は、二人とも普通に笑った。

 

この会社が将来どうなるか。

 

俺の会社がどうなるか。

 

そんなことは誰にも分からない。

 

俺自身にも分からない。

 

ただ、やると決めただけだ。

 

♢

 

仕事が終わると、今度はヴェラとの時間だった。

 

「法人形態については、こちらが候補です」

 

「ふむ」

 

自宅のテーブルに資料が並ぶ。

 

ヴェラの説明を聞きながら、俺は候補を確認していく。

 

設立地域、事業目的、銀行、税務、会計、保険、契約。

 

考えることはいくらでもあった。

 

「会社を作るだけでも面倒だな」

 

「昨日も似たことを言っていましたね」

 

「昨日より実感がある」

 

「いいことです」

 

「まあな。何をやらなきゃいけないのか、少しずつ見えてきた」

 

そう言いながら、次の資料へ目を移す。

 

昼間は今の会社の引き継ぎ。

 

帰宅してからは、これから作る会社の準備。

 

さすがに疲れる。

 

それでも、不思議と嫌ではなかった。

 

自分の会社を作るためにやっている。

 

その一点だけで、面倒な資料を見る意味もずいぶん変わっていた。

 

そんな生活が続くうちに、別の問題が出てきた。

 

「エリック」

 

「ん?」

 

「効率が悪いです」

 

「何が?」

 

「移動です」

 

ヴェラは当然のように言った。

 

ここ数日、仕事が終わる頃にヴェラが俺の家へ来て、数時間起業準備を進め、それから自分の家へ戻る。

 

休日も似たようなものだった。

 

「まあ、確かにな」

 

「今後はもっと増えます」

 

「だろうな」

 

法人を作れば終わりではない。

 

むしろ、そこからの方がやることは増える。

 

俺は家の中を見回した。

 

一人で暮らすには余裕がある。

 

使っていない部屋もある。

 

「……ここ使うか?」

 

ヴェラがこちらを見る。

 

「ここ、とは?」

 

「空いてる部屋。毎日往復するより、その方が楽だろ」

 

「私を住まわせるんですか?」

 

「ああ」

 

ヴェラが少しだけ目を細めた。

 

「ずいぶん思い切りましたね。こんな若い女を自宅に」

 

「仕事の効率の話だろ」

 

「しかも私、かなりスタイルいいですよ?」

 

そう言って、わざとかどうかは知らないが、ヴェラが姿勢を正した。

 

……でかい。

 

いや、知っていたけど。

 

改めて見ると本当にでかい。

 

視線が下がった。

 

そして当然のように、ヴェラと目が合った。

 

「今、見ましたね?」

 

「見た」

 

「即答ですか」

 

「パイオツカイデーな女が目の前にいたら見るだろ」

 

ヴェラが数秒固まった。

 

それから、口元を押さえて笑い始める。

 

「パイオツカイデーって……」

 

「でかいものをでかいと言って何が悪い」

 

「エリック、あなた一応36歳ですよ?」

 

「36歳でも巨乳は好きだ」

 

「堂々と宣言しましたね」

 

「隠す必要あるか?」

 

ないだろ。

 

前世からそうだった。

 

美人は好きだし、胸は大きい方が好きだ。

 

そこを今さら上品に取り繕うつもりもない。

 

ヴェラはまだ笑っている。

 

「それで、そんな私を家に住まわせると?」

 

「その聞き方だとものすごく下心があるみたいになるな」

 

「ないんですか?」

 

「胸は見る」

 

「そこではなくて」

 

「同じ部屋で寝ようとは言ってないだろ」

 

「残念です」

 

「絶対残念じゃないだろ、お前」

 

「どうでしょう?」

 

楽しそうに笑いやがる。

 

俺はため息をついて、話を戻した。

 

「空いてる部屋をお前の個室にすればいい。荷物も置けるし、毎日往復する必要もなくなる」

 

「私の部屋として自由に使っていいんですね?」

 

「ああ。勝手に入ったりもしない」

 

「意外と紳士ですね」

 

「巨乳好きと常識がないのは別問題だ」

 

「名言みたいに言わないでください」

 

うるさい。

 

だが、理屈としては間違っていなかった。

 

仕事と私生活の区切りは必要だし、いくらヴェラでも本人の部屋へ勝手に入るつもりはない。

 

「それで、どうする?」

 

「私は賛成です。移動時間がなくなりますし、起業準備もかなりやりやすくなります」

 

「なら決まりだな」

 

「はい」

 

あっさり決まった。

 

こうしてヴェラが俺の家で暮らすことになった。

 

理由は、あくまで起業準備と生活の効率化。

 

少なくとも今は、それ以上でも以下でもない。

 

……まあ。

 

毎日パイオツカイデーが視界に入る生活になることについて、不満があるかと聞かれれば。

 

まったくない。

 

♢

 

そして、最後の出勤日が来た。

 

机の上はすでに片づいていた。

 

必要なデータは会社の所定の場所へ整理し、引き継ぎも終わっている。

 

個人的に持ち出すものは何もない。

 

会社の資料も、仕入先の価格情報も、契約書も。

 

ここで知ったものは、ここへ置いていく。

 

ケビンが最後に確認へ来た。

 

「例の納期案件、回答来ました」

 

「どうだった?」

 

「予定通りでいけます」

 

「なら大丈夫だな」

 

もう俺が判断する仕事ではない。

 

その事実が、少しだけ妙だった。

 

ロバートのところへ挨拶へ行く。

 

「世話になりました」

 

俺が言うと、ロバートは手を差し出した。

 

「こっちこそ。頑張れよ」

 

握手する。

 

「ありがとうございます」

 

「失敗して戻ってきても席があるとは約束できないけどな」

 

「そこは成功する前提でお願いします」

 

「そのくらいでいい」

 

最後まで普通だった。

 

それがありがたかった。

 

職場へ戻り、社員証や貸与物を返す。

 

何人かの同僚から声をかけられた。

 

大げさな別れではない。

 

またどこかで会うかもしれないし、二度と会わないかもしれない。

 

会社なんて、たぶんそういうものだ。

 

建物を出る。

 

駐車場まで歩いてから、一度だけ振り返った。

 

ガルフライン・インダストリアル・システムズ。

 

俺にとっては短い。

 

エリック・ウォーカーという人間にとっては、何年も働いていた会社。

 

その時間を俺自身が覚えていないことには、最後まで妙な感じが残った。

 

それでも。

 

今日で終わりだ。

 

もう次の出勤日に、この道を通ってここへ来る必要はない。

 

「……会社員、辞めたんだな」

 

口にしてみて、ようやく少し実感が湧いた。

 

前世から数えれば、大学を出てからずっと会社員だった。

 

誰かが作った会社に入り、その中で仕事をしてきた。

 

次は違う。

 

自分で会社を作る。

 

車へ乗り込み、家へ向かう。

 

帰ればヴェラがいる。

 

机の上には、まだ正式決定していない会社設立の資料がある。

 

退職したからといって、休みになるわけではない。

 

むしろ、これからの方が忙しくなる。

 

それでいい。

 

家へ戻ると、リビングでヴェラがノートPCを開いていた。

 

「お帰りなさい」

 

「ただいま」

 

それだけのやり取りが、少し妙に感じた。

 

もうこの家には、俺以外の生活用品も増え始めている。

 

ヴェラが画面をこちらへ向けた。

 

「退職、お疲れさまでした」

 

「ああ」

 

「では」

 

嫌な予感がした。

 

「次はこちらですね」

 

画面には、法人設立に関する資料が並んでいる。

 

俺は思わず笑った。

 

やっぱり休ませる気はないらしい。

 

でも、悪くない。

 

俺は椅子を引いて、ヴェラの隣へ座った。

 

「次は、会社だな」

 

会社員としての生活は終わった。

 

今度は、俺の会社を始める番だった。

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