ダンジョンに強敵を求めるのは間違っているだろうか 作:アイスクリームベリーベリー
第五十階層を離れてから数日。
ロキ・ファミリアの遠征隊は、失った物資を節約しながら慎重に上の階層を目指していた。第五十一階層で遭遇した未知の新種によって予定は大きく狂わされたものの、幸い死者は一人も出ていない。
とはいえ、誰もが無傷というわけではなかった。長期間の探索で蓄積した疲労に加え、負傷者も少なくなく、腐食液を浴びて損傷した武器や防具も多い。往路と比べれば、遠征隊全体の戦力は確実に落ちていた。
カイも例外ではない。いつもなら肩へ担いでいる二メートル近い雷槍は、今や厚い布で幾重にも包まれ、荷物として運ばれている。
腐食液によって柄の各所が深く抉れ、穂先にも大きな損傷が残ったそれは、少し力を込めれば折れても不思議ではない状態だった。
「なあ、本当にこれ直ると思うか?」
歩きながら自分の得物を見下ろしたカイへ、すぐ隣を歩いていたベートが面倒そうに顔を向ける。
「知らねぇよ。つーか直す前提なのがおかしいだろ。どう見ても作り直した方が早ぇだろ」
「結構気に入ってんだぞ、これ」
「だったらもうちょい大事に使えや」
「大事にした結果がこれだよ」
「どこがだ!」
二人のやり取りを聞いていたティオナが、少し前を歩きながら笑い声を上げる。
「カイって武器壊すこと多いよねー」
「今回は俺のせいじゃねぇだろ」
「今回は、ね」
ティオネの冷たい補足に、カイが露骨に顔を顰めた。
「何だよ、その言い方」
「事実でしょうが」
反論しようとして、カイは結局口を閉じた。これまで壊してきた武器の数を思い返せば、今回はともかく普段まで擁護できないことくらい本人も分かっている。
少し離れた場所では、アイズがレフィーヤの背負っている荷物へ視線を向けていた。
「レフィーヤ。重い?」
「だ、大丈夫です! このくらいなら全然!」
「少し持とうか」
「本当に大丈夫ですから!」
勢いよく首を横へ振るレフィーヤを見て、アイズは僅かに首を傾げる。遠征中に何度も助けられてきたレフィーヤには、せめて帰り道くらい迷惑をかけたくないという意地があった。
「雑魚に構うな、アイズ」
横から飛んできたベートの声にレフィーヤの肩が僅かに縮こまり、すぐさまティオナが口を挟んだ。
「ベート、うるさい。アイズに指図しないでくれる?」
「うるせえのはてめえだろうが。装備溶かされやがって、バカゾネス」
「バカって言った方がバカだしー!」
「ガキかてめぇは!」
二人の言い争いを横目に、ティオネが深々と溜息を吐く。アイズは特に気にした様子もなく、なおもレフィーヤの荷物を見つめていた。
深層で何度も死線を潜り抜けた後だからこそ、こうした他愛のないやり取りに安堵している団員は少なくない。フィンも先頭を歩きながら、その騒がしさを咎めようとはしなかったが、警戒だけは一度も緩めていなかった。
そうして一行は、第十七階層へ足を踏み入れた。階層主ゴライアスの間へ続くこの領域は普段から危険度が高く、遠征帰りの今、必要以上の戦闘は避けたいところだった。
「前方に反応!」
斥候役の団員が声を上げた直後、迷宮の奥から複数の重い足音が響いてくる。一つや二つではないと察したガレスが大盾を構え、前衛達もすぐに戦闘態勢へ移った。
曲がり角の先から姿を現したのは、牛頭人身の巨体だった。
「ミノタウロス!」
レフィーヤが杖を構える。一体や二体ではない。十を超える数のミノタウロスが、荒い鼻息を漏らしながら遠征隊の前へ姿を現した。
「
フィンは冷静に敵の数を確認しながら槍を構える。
「団長、どうします?」
「数は多いけど、今の僕達なら問題ない。長引かせる必要もないから、早く済ませよう」
「そう来なくっちゃ!」
ティオナが両拳を打ち合わせながら前へ出る横で、ベートが呆れたように鼻を鳴らした。
「お前、帰り道でもまだ暴れ足りねぇのかよ」
「だって途中で帰ってきちゃったんだもん!」
「遊びじゃねぇんだぞ」
「それ、カイにも言ってよ」
「何で俺だよ」
名指しされたカイが眉を寄せる。雷槍は使えないものの、それでも青年は一歩前へ出ると両手を軽く開き、自分へ向かって突進してくるミノタウロスを見据えた。
「武器なしでいける?」
「こいつら相手ならな。――〖
ティオナの問いへ口元を僅かに吊り上げて返し、短い詠唱を紡ぐ。青白い電光が黒い戦闘服の表面を駆け抜け、全身へ雷を巡らせたカイが重心を下げるのと、フィンの号令が響いたのはほぼ同時だった。
「来るぞ!」
◇
結果から言えば、それは戦闘と呼ぶには一方的すぎた。
第十七階層のミノタウロスは、駆け出しの冒険者にとって遭遇すれば死を覚悟するほどの強敵である。しかし、深層から帰還してきたロキ・ファミリアの精鋭達を相手にすれば、その脅威度は大きく変わった。
「おらァ!」
ベートの蹴りがミノタウロスの顎を正確に捉える。巨体が宙へ浮き上がり、そのまま背後の仲間を巻き込みながら地面へ叩きつけられた。
反対側ではティオナが迫ってきたミノタウロスの懐へ躊躇なく踏み込み、振り下ろされた腕をかわして脇腹へ拳を叩き込む。強烈な一撃を受けた巨体が横へ弾き飛ばされ、後ろにいたもう一体まで巻き込んだ。
「ティオナ、出過ぎ!」
「大丈夫だって!」
「それを判断するのはあんたじゃない!」
ティオネも別の一体の懐へ入り込み、確実に動きを封じていく。そのさらに奥では、アイズのデスペレートが銀色の軌跡を描くたび、ミノタウロスの身体へ深い斬撃が刻まれていた。
深層の怪物を相手にしてきた剣姫にとって、この程度の敵はもはや脅威と呼べるものではない。その隣では、カイもミノタウロスの腹部へ拳を深くめり込ませていた。
「――ッ!?」
接触と同時に青白い火花が散り、乾いた放電音が響いた。武器を持っていないからといってカイの戦闘力が失われるわけではなく、魔法によって強化された脚力と膂力だけでも、格下の怪物を相手にするには十分すぎる。
背後から別の個体が腕を振り下ろす。カイは振り返ることすらせず半歩横へ移動して拳を空振りさせ、その勢いを利用して巨体の体勢を崩した。
懐へ潜り込んで放った掌底が顎を打ち抜き、接触箇所から青白い火花が散る。一撃で意識を刈り取られたミノタウロスは、その場へ崩れ落ちた。
「ほんっと武器いらねぇんじゃねぇの、お前」
「槍の方が楽なんだよ」
「どの口が言ってやがる」
横目で呟くベートへ、カイが平然と返す。
戦況は完全にロキ・ファミリア側へ傾いていた。それを本能で悟ったのか、群れの後方にいたミノタウロス達が突然動きを変え、まだ戦える個体まで踵を返して戦場から一斉に逃げ出した。
「……あ?」
「逃げた?」
ベートが顔を上げ、ティオナも目を丸くする。
「おい、お前らモンスターだろうが!」
当然、ベートの怒鳴り声など聞くはずもない。生き残ったミノタウロス達は迷宮の通路へ雪崩れ込み、そのまま上へ向かって走り去っていった。
その方向を確認したフィンの表情が変わる。
「まずい。この先は上の階層へ向かう階段だ」
「上には……」
ラウルもすぐに意味を理解し、顔色を変えた。
「Lv.1の冒険者もいる」
第十七階層より上なら、駆け出しの冒険者も珍しくない。そこへミノタウロスが複数体入り込めば、遭遇した者が生き延びられる保証などどこにもなかった。
「アイズ、ベート、カイ!」
三人が同時にフィンを見る。
「追え! 逃がすな!」
「分かった」
「言われなくても追う!」
「ああ!」
三人が一斉に地面を蹴る。
「私も――」
ティオナも続こうとしたが、フィンが片手を上げて制した。
「残りはこちらで片付ける。ティオナ達は隊列を守ってくれ」
「はーい……」
明らかに不満そうではあったものの、ティオナは素直に引き下がる。フィンは遠ざかっていく三人の背中を見送ると、すぐさま残された敵へ視線を戻した。
◇
「くそっ、何で逃げ足だけ速ぇんだよ!」
ベートの苛立った声が迷宮に響く。
逃げたミノタウロス達は、まるで死への恐怖に突き動かされるように上の階層を目指していた。戦えば到底三人には及ばないはずの怪物達だが、入り組んだ迷宮で逃走だけに専念されると事情が変わる。
「右に二体」
先頭を走るアイズが短く告げる。
「左に一体いる」
「じゃあ俺、左行く」
カイが返したところで、ベートが振り返った。
「待て。槍ねぇくせに一人で行く気か?」
「さっき見てただろ」
「そういう話じゃねぇよ! 勝手に一人で突っ走んなって言ってんだ!」
思わぬ言葉にカイが僅かに目を瞬かせる。
「お前、俺の心配してんの?」
「殺すぞ!」
「元気だな」
「てめぇ……!」
「二人とも。逃げる」
アイズの静かな一言で、二人は即座に前へ視線を戻した。
「チッ。カイ、ヤバかったら戻れよ」
「分かってる」
「絶対分かってねぇだろ」
「お前もな」
三人は分岐で別れ、アイズとベートが二体を追う一方、カイは単独で左の通路へ飛び込んだ。
全身へ纏った雷は、まだ解除していない。逃走するミノタウロスの足音を追い、脚へ巡る雷を強めて地面を蹴ると、青年の身体が一気に加速した。
「待てっつってんだろ!」
もちろん、怪物が待つはずもない。
すぐに背中を捉えたものの、ミノタウロスはカイが距離を詰めるたびに目前の分岐へ飛び込み、偶然にも上の階層へ続く経路を選び続けた。曲がりくねった通路や幾重にも分かれた枝道に視界を遮られ、カイが最短経路を読み直して次の通路へ回り込んだ時には、また巨大な背中が先へ遠ざかっている。
「運だけはいいな、あいつ……!」
第十六階層へ上がり、さらに第十五階層へ。
直線なら、とっくに捕まえている。だが怪物は広い空間へ出れば即座に別の通路へ飛び込み、狭い分岐では曲がり角の向こうへ姿を消し、まるで悪運だけに背中を押されているかのように上へ、上へと逃げ続けた。
カイもむやみに速度だけを上げるわけにはいかない。この先には他の冒険者がいる可能性があり、見通しの悪い通路を最高速で駆け抜けて曲がり角の向こうにいるLv.1を巻き込めば、怪物を追っている意味そのものがなくなる。
だから姿を見失うたびに足音と痕跡を拾い直す。階段を上がり、分岐を読み、そのたびにまた背中を捉える。
それでもミノタウロスは振り向こうともせず、ひたすら上へ逃げ続けた。
「どこまで逃げる気だよ……!」
カイの額から汗が流れる。
長い遠征による疲労に、連日の戦闘まで重なっている。目立った傷こそないものの、万全でないことだけは否定できなかった。
だからといって、追跡をやめる選択肢はない。この先にいるのが駆け出しの冒険者かもしれず、一人で探索している者かもしれない以上、自分達が逃がした怪物によって誰かが死ぬ可能性を知りながら引き返す気にはなれなかった。
「……見えた」
前方を走る巨体が、また一つ曲がり角の向こうへ消える。カイは呼吸を整え、さらに足へ力を込めた。
◇
第五階層。
ベル・クラネルは、今日の探索が順調だと思っていた。ゴブリンやコボルトといった、ダンジョンへ潜り始めた頃には恐ろしく感じていた怪物にも、少しずつ慣れてきている。
剣を振ることにも、攻撃を避けることにも、魔石を回収することにも、以前ほど戸惑わなくなった。まだまだ駆け出しではあるが、それでも自分は確実に強くなっている。
だから今日は、いつもより少しだけ奥へ行ってみようと考えた。エイナから無理をするなと何度も言われており、最初は第二階層付近まで、慣れてきても行動範囲は少しずつ広げるようにと、耳にたこができるほど注意されている。
その忠告は、頭では十分に分かっていた。それでも、今なら大丈夫なのではないか、もう少しだけ下へ行っても自分なら何とかなるのではないかと思ってしまった。
その考えが間違いだったことを理解したのは、迷宮の奥から聞いたこともない咆哮が響いた時だった。
「……え?」
ベルの足が止まった。曲がり角の向こうから現れたのは、巨大な角を持つ牛の頭と、人間を遥かに上回る巨体だった。
「ミノ……タウロス……?」
知識だけなら知っていた。中層付近に生息する強力なモンスターであり、Lv.1の駆け出しが相手にしていい存在ではない。
なぜそんな怪物が第五階層にいるのかという疑問さえ、今はまともに考えることができなかった。ミノタウロスの赤い瞳がベルを捉え、全身の血が凍るような感覚とともに、本能だけが一つの言葉を叫ぶ。
逃げろ。
ベルは背中を向け、全力で走り出した。
背後から咆哮が追ってくる。巨大な足が床を踏み砕く音が近づくたび、心臓が胸を突き破りそうなほど激しく鳴った。
「っ、はっ……はぁ……!」
自分より遥かに大きな身体なのに、少しずつ距離を詰められている。ベルは目についた分岐へ飛び込み、次の角を曲がり、さらに別の通路へと逃げ込んだ。
知っている道を選んでいる余裕などなかった。ただ怪物から離れるために足を動かし続けるが、どれだけ曲がっても背後の足音は消えてくれない。
「ど、どうしよう……!」
他の冒険者はいないのか。誰でもいい、誰か助けてくれ。
そう願いながら走り続けても、不自然なほど周囲には人影がなかった。直後、ミノタウロスの拳がベルのすぐ後ろにある壁を砕く。
「うわっ!?」
飛び散った破片が背中へ当たり、少年の身体が前へ投げ出された。転びそうになりながらもどうにか踏み止まり、再び足を動かす。
止まったら死ぬ。その思いだけでベルは走り続けた。
だが、やがて目の前に現れた光景に息を呑む。
「……そんな」
行き止まりだった。左右を見回しても逃げ道はなく、振り返れば通路の入口を塞ぐようにミノタウロスがゆっくりと近づいてくる。
ベルは震える手で腰から短刀を抜いた。
英雄譚の中では、英雄達はどれほど巨大な怪物を前にしても立ち向かっていた。ならば自分もと必死に言い聞かせるが、現実に自分を見下ろしている怪物は、物語の挿絵などとは比べものにならないほど恐ろしい。
「う、うわああああっ!」
恐怖を押し潰すように叫びながら踏み込み、短刀を振る。その瞬間、ミノタウロスの腕が動いた。
「――っ!?」
何が起きたのか、ベルには分からなかった。気づけば身体は地面へ転がり、握っていた短刀は遠くへ弾き飛ばされている。
空になった右手を見つめたまま、少年の身体は動かない。
武器を失った。逃げ道もない。
ミノタウロスが近づき、大きな腕を持ち上げる。怖い。嫌だ。
英雄になりたかった。冒険者になりたかった。まだ何もしていないし、何も始まっていないのに、ここで全部終わる。
「――死にたく、ない」
掠れた声が零れた。
巨大な拳が振り下ろされる――その瞬間。
「――やっと追いついた」
聞き覚えのない声とともに、ベルの視界を黒い影が横切った。次の瞬間には轟音が響き、目の前で振り下ろされたはずの拳が不自然な位置で逸れている。
「――ッ!?」
違う。勝手に逸れたのではない。
少年と怪物の間へ割り込んだ一人の青年が、振り下ろされた巨大な腕の軌道を片腕で逸らしていた。
黒黒に近い藍色の短髪。汚れと裂け目の残る黒い戦闘服。頬には浅い傷があり、その全身には青白い電光が絶えず走っていた。
「間に合ったか」
青年は振り返り、地面へ座り込んだベルを確認する。
「お前、大丈夫か? 怪我してるか?」
「だ、大丈夫……です」
「そうか。じゃあ、ちょっと下がってろ」
それだけ聞くと青年は再びミノタウロスへ向き直り、ベルは返事さえできずその背中を見つめた。
獲物を奪われたミノタウロスが怒りに吼え、巨大な拳を振り下ろす。青年は半歩だけ軸をずらして内側へ滑り込み、青白い雷を纏った右拳を腹部へ深くめり込ませた。
乾いた放電音とともに火花が散り、巨体が地面から浮き上がる。
「――ッ、ゴォ!?」
ベルの目が見開かれた。自分にはどうすることもできなかった怪物が、青年の一撃によって後方へ大きく吹き飛ばされていく。
背中から迷宮の壁へ激突し、岩盤が砕けた。それでもミノタウロスは完全には死んでおらず、震える腕を地面へつき、怒りに満ちた唸り声を上げながら再び立ち上がろうとする。
「タフだな」
青年は驚いた様子もなく、それがベルには異様に映った。恐怖がない。余裕ぶっているわけでもない。ただ目の前の怪物を、倒すべき相手として見ている。
自分が数秒前まで、死そのものとして見上げていた存在を。
青年が地面を蹴る。立ち上がりざまに振るわれた腕を身を低くして潜り抜け、そのまま死角へ回り込んだ。
軸足を踏み込み、側頭部へ鋭い回し蹴りを叩き込む。接触箇所から青白い火花が飛び散り、乾いた音とともにミノタウロスの首が大きく振られた。
巨体は横倒しとなって床へ激突し、今度こそ動かなくなる。
「……終わり」
青年が小さく息を吐く。その姿を見つめながら、ベルは言葉を失っていた。
強い。
それ以外の言葉が、何一つ浮かばない。
英雄譚の中では、何度も英雄を見てきた。巨大な怪物へ立ち向かい、仲間を守り、絶望的な状況を覆す彼らの物語を、幼い頃から胸を躍らせながら読んできた。
けれど、それは物語だった。遠い昔の、手の届かない英雄達の話だった。
今、目の前にいる青年は違う。確かに存在し、自分と同じようにオラリオで生き、同じダンジョンへ潜っている。
そんな一人の冒険者が、たった今、自分にはどうすることもできなかった怪物を倒した。
そして何より少年の胸へ焼き付いたのは、その圧倒的な強さだけではなかった。怪物の拳が振り下ろされようとした瞬間、迷わず自分の前へ立った背中だった。
武器さえ持っていないのに、青年は迷わなかった。あの怪物と自分の間へ、当然のように立った。
「……すごい」
無意識に声が漏れる。
「あ?」
青年が振り返り、ベルは慌てて首を横へ振った。
「い、いえ!」
深紅の瞳と視線が合う。少し怖そうな顔をしているが、その目を見ても不思議と怖いとは思わなかった。
「立てるか?」
「は、はい!」
ベルは慌てて立ち上がろうとしたが、膝に力が入らずよろめいた。青年が差し出した手を掴み、どうにか身体を起こす。
「す、すみません」
「別に。血も出てねぇみたいだな」
「はい……」
「運いいな、お前」
その言葉が胸へ刺さった。本当に、運が良かっただけだ。この人が間に合わなければ、自分はもう死んでいた。
「あの……!」
ベルは意を決して顔を上げた。助けてくれた礼を言いたい。名前も聞きたい――そう思った時だった。
「カイ!」
通路の向こうから声が飛び、ベルと青年が同時に振り返る。金色の髪の少女と灰色の髪を持つ狼人が、こちらへ走ってきていた。
「無事?」
「見りゃ分かんだろ」
アイズの問いへカイと呼ばれた青年が答えると、追いついたベートが間髪を容れず怒鳴った。
「てめぇ勝手に奥まで行きやがって! 一人でどこまで追ってんだ!」
「しょうがねぇだろ。こいつ逃げ続けてたんだから」
「だからって十二階層分も追い回す奴があるか!」
「逃がすなって言われただろ」
「限度ってもんがあんだよ!」
怒鳴り合う二人を横目に、アイズの視線がベルへ向く。
「……怪我は?」
「だ、大丈夫です!」
「そう」
短く答えた少女も、その隣にいる狼人もベルは知っていた。〖
そんな二人の隣に立つ青年へ、ベルはもう一度視線を向ける。
カイ。
それが彼の名前なのだと、ようやく理解した。
「あの、カイさん!」
「ん?」
呼び掛けたものの、続く言葉が出てこなかった。
ありがとう。ただ、それだけ言えばいいはずなのに、ベルの視線は自分の足元へ落ちていく。
少し離れた場所に、自分の短刀が転がっていた。ミノタウロスへ立ち向かおうとして、一撃で弾き飛ばされた武器だ。
何もできなかった。武器を落とし、恐怖で身体も動かなかった。その全部をこの人に見られたと思うと、急激に恥ずかしさが込み上げてくる。
「……っ」
「どうした?」
カイが眉を寄せる。
「す、すみません!」
「は?」
ベルは短刀を拾い上げると、そのまま通路の向こうへ駆け出した。背後からカイの声が聞こえたが、それでも止まれない。
「お、おい!」
今は顔を見られたくなかった。自分があまりにも情けなく思えた。
「……何だったんだ、あいつ」
小さくなっていく白い背中を見送り、カイが呟く。ベートは鼻で笑った。
「お前が怖かったんじゃねぇの?」
「何でだよ」
「顔」
「お前に言われたくねぇよ」
「はァ!?」
二人が睨み合う横で、アイズはベルの消えた通路を静かに見つめていた。
「……逃げた」
「まあ、生きてるならいいだろ」
カイが肩を竦め、そのまま倒れているミノタウロスへ視線を戻す。
「こいつで最後か?」
「ああ。俺とアイズが追ってた二匹も潰した。これで逃げた奴は全部だ」
「じゃあ戻るか」
「てめぇが仕切んな!」
即座に怒鳴ったベートが、カイを睨みつける。
「一人で五階層まで突っ走りやがって!」
「……五階層まで来てたのか」
「今さら気づいたのかよ!」
額に青筋を浮かべるベートの横で、アイズがカイをしばらく見つめた。
「カイ。疲れてる?」
「あ? 別に」
「嘘」
「何でだよ」
「普段なら、ここまで来る前に気づく」
淡々とした指摘に、カイの言葉が止まった。
十七階層から上へ向かっていることも、いくつ階段を越えたかも把握していた。ただ追跡に意識を寄せすぎたせいで、五階層まで来ていたという事実を改めて意識したのが今だっただけだ。
長い遠征による疲労に、連日の戦闘まで重なっている。傷そのものは致命的ではないが、万全でないことだけは否定できなかった。
「……ちょっとだけな」
珍しく素直に認めると、ベートが鼻を鳴らす。
「最初からそう言えや」
「だから問題ねぇって」
「問題あるかどうか決めんのはフィンだろうが」
「お前、今日フィンみてぇだな」
「殺すぞ」
三人は来た道を戻り始める。その途中、カイは一度だけ白髪の少年が消えた方向へ視線を向けた。
名前も知らない。どこのファミリアかも分からない。ただの駆け出しで、恐怖で動けなくなり、武器まで落としていた少年。
「……まあ、生きてりゃいいか」
小さく呟くと、カイはそれ以上深く考えることなく二人の後を追った。
◇
一方、ベルはひたすら走っていた。ミノタウロスから逃げていた時とは違い、もう命の危険はない。
それでも足を止めることができず、ようやく壁へ手をついた時には肩で大きく息をしていた。
「……何やってるんだ、僕」
助けてもらったのに、礼も言わずに逃げてしまった。
「最低だ……」
顔が熱い。情けなさで泣きそうになるのに、頭から離れてくれない光景があった。
黒い背中。全身を走っていた青白い雷。ミノタウロスを圧倒した拳と蹴り。
そして、自分を助けて最初に掛けられた言葉。
『お前、大丈夫か?』
ベルは胸元を強く握った。怖かったし、悔しかった。何もできなかった自分が、どうしようもなく情けない。
けれど、その中に一つだけ、幼い頃から物語の英雄達へ抱いてきたものとは少し違う、はっきりとした感情があった。
遠い物語の中にいる英雄ではない。今、このオラリオにいて、自分と同じ街で暮らし、同じ迷宮へ潜っている。
初めて、現実にいる誰かへ向けた憧れだった。
「あの人みたいに……」
ベルは拳を強く握った。
強くなりたい。
今の自分ではあまりにも遠く、名前しか知らない。それでも追いかけたいと思った。
次に会った時には、せめて胸を張って礼を言えるくらいにはなりたい。
ベル・クラネルの胸に芽生えた小さな願いを、この時の本人はまだ十分には理解していなかった。
遠く先を歩く、一人の冒険者。
その背中へ追いつきたいという思いだけが、少年の中で確かに芽吹き始めていた。
第二話 了