ダンジョンに強敵を求めるのは間違っているだろうか 作:アイスクリームベリーベリー
遠征から帰還した翌朝。
迷宮都市オラリオは、ロキ・ファミリアが深層から持ち帰った異変など知らぬように、いつもと変わらない朝を迎えていた。東から差し込む陽光が白亜の巨塔バベルを照らし、大通りにはすでに多くの冒険者や商人が行き交っている。
黄昏の館でも、帰還した団員達は朝から慌ただしく動いていた。
傷の治療を受ける者もいれば、遠征で消費した物資を確認する者、破損した武器や防具を抱えて馴染みの鍛冶師へ向かう者もいる。そして、遠征で得た戦利品を金に換えるのも大切な仕事だった。
◇
「800万ヴァリス」
ディアンケヒト・ファミリアの買い取り所。
受付を担当していたアミッドの言葉に、ティオネの片眉がゆっくりと上がった。
「安いわね」
「……これでも十分な額だと思いますが」
「そうかしら?」
机の上には、第五十一階層で発見したカドモスの死骸から回収した皮膜が置かれている。極めて希少なドロップアイテムで、その品質も市中へ出回る品を一目で上回ると分かるほどだった。
「この品質なら、もっと出せるでしょう?」
「ティ、ティオネさん……」
隣に立つレフィーヤが、やや引き気味に小声を漏らした。
「私達、あのカドモスとは戦ってませんよね?」
「何のこと?」
「いや、拾っただけですよね!?」
「拾うために第五十一階層まで行ったのよ」
「そういう問題なんでしょうか……」
レフィーヤが困惑する横で、ティオネは一歩も引かない。
「1350万」
「さすがに出せません」
「じゃあ他のファミリアに持っていこうかしら」
アミッドの眉が僅かに動いた。
「……私の一存では決められません」
「なら、聞いてきてもらえる?」
「少々お待ちください。ディアンケヒト様と相談してまいります」
「よろしく」
アミッドが店の奥へ消えていく。
数分後、戻ってきた少女はいつもの無表情を保ちながらも、どこか疲れたように小さく息を吐いた。
「……1200万ヴァリス。それで買い取らせていただきます」
「ありがとう、アミッド」
満足そうに微笑むティオネ。
「持つべきものは友人ね」
「こういう時だけ友人扱いしないでいただけますか」
「こ、怖い……」
二人を見比べ、レフィーヤだけが乾いた笑みを浮かべていた。
◇
同じ頃、ゴブニュ・ファミリアの工房でも別の怒鳴り声が響き渡っていた。
「うーん……溶けちゃった」
「『溶けちゃった』じゃねぇ! あれにどれだけ手間が掛かったと思ってんだ!」
ティオナの目の前には、遠征へ持ち込んだ大双刃〖ウルガ〗の無惨な残骸が置かれている。新種の腐食液を浴びた刀身は武器としての形を失い、整備すれば使えるという段階をとうに越えていた。
「また作ってくれる?」
「簡単に言うな!」
「駄目?」
「その顔すんな!」
本人は悪びれた様子もなく首を傾げるが、鍛冶師は頭を抱えるばかりだった。
「ったく……作り直しだ。前と同じもんがすぐできると思うなよ」
「やった!」
「喜ぶな!」
そんな怒声が工房へ響く頃、少し離れた別の鍛冶場では、一本の長槍を前に別の鍛冶師が深いため息を吐いていた。
「……ひでぇな」
作業台の上には、布を解かれたカイの愛槍――〖ヴァレス〗が横たわっている。腐食液を浴びた穂先は所々欠け、柄にも深い損傷が刻まれていた。
「直るか?」
「直すだけならな」
「じゃあ頼む」
「話を最後まで聞け」
鍛冶師が呆れたように顔を上げる。
「ここまで傷んでると、表面だけ削って終わりってわけにはいかねぇ。柄も一度ばらして確認するし、穂先も打ち直しだ」
「何日だ?」
「急いでも五日。状態次第じゃもっと掛かる」
「長ぇ」
「こうしたのは誰だよ」
「芋虫」
「ふざけてんのか?」
「本当に芋虫みてぇな奴だったんだよ」
説明する方もされる方も嫌そうな顔になった。
カイは作業台の〖ヴァレス〗へ視線を落とす。手に馴染んだ得物がしばらく使えないというのは、やはり落ち着かなかった。
「その間これ使え」
鍛冶師が壁へ立て掛けていた長槍を一本放る。受け取ったカイは軽く振り、重心を確かめた。
「軽いな」
「お前の槍が重いんだよ。それでもそこらの安物よりはマシだ」
「雷流して平気か?」
「限度を考えろよ?」
「多分な」
「今すぐ返せ」
「冗談だって」
「お前の冗談は信用ならねぇ」
長槍を取り返されそうになり、カイはさっと距離を取った。
握り慣れた〖ヴァレス〗とは感覚が違う。それでも武器がないより遥かにいい。
「壊したら弁償だからな」
「分かったよ」
「本当に分かってんのか……?」
鍛冶師の疑わしげな視線を背中に感じながら、カイは店を後にした。
その頃、同じ工房の奥では、主神ゴブニュがアイズの愛剣を前にしていた。
「また派手に使ったな」
「……ごめんなさい」
「さすがに五日は掛かる。それまではこれを使え」
ゴブニュが一本の細身のレイピアを差し出す。アイズはそれを受け取り、何度か握り直した。
「不壊属性はないが、切れ味は悪くない。使いこなすには時間がかかるがな」
「……ありがとうございます。」
「慣れるまでは無茶をするな」
「……うん」
短く答え、アイズは借りた剣に視線を落とした。
昨夜、ステイタスを更新した。二週間近く戦い続けたにもかかわらず、増えた数値は僅かだった。
――頭打ち。
一度意識した言葉は、簡単には消えてくれない。
もっと強くなりたい。
けれど、焦って前だけ見ればいつか転ぶとロキには言われた。
「……難しい」
「何か言ったか?」
「何でもない」
アイズは首を横へ振り、借りた剣を腰へ下げた。
◇
一方、その朝。
ベル・クラネルもまた、いつも通りダンジョンへ向かうためオラリオの大通りを歩いていた。
第五階層でミノタウロスに襲われてから一夜が明けても、胸の奥に芽生えた熱は消えていない。
カイ・ヴァレス。
冒険者となって僅か三年でLv.5へ到達した、ロキ・ファミリアの第一級冒険者。
知れば知るほど遠い存在だと分かる。それでも、不思議と諦めたいとは思わなかった。
「あの」
「え?」
突然後ろから声を掛けられ、ベルは振り返った。
そこには灰色がかった髪をした少女が立っている。
「これ、落としましたよ」
差し出された小さな手の中には、一粒の魔石が載っていた。
「あっ!」
ベルは慌てて腰の袋を確認する。
「す、すみません! ありがとうございます!」
「ふふ。どういたしまして」
少女は柔らかく笑った。
年齢はベルとそれほど変わらないように見える。穏やかな表情と人当たりのいい声音に、ベルは少しだけ緊張を解いた。
「冒険者さん、ですよね?」
「はい! まだ駆け出しですけど……」
「これからダンジョンへ?」
「そのつもりです」
そう答えた瞬間、ぐぅぅ、とあまりにも分かりやすい音がベルの腹から鳴った。
少女と少年の間に、数秒の沈黙が落ちる。
「ご、ごめんなさい!」
「どうして謝るんですか?」
少女がくすくすと笑った。
「朝ご飯、まだなんですね?」
「ちょっと寝坊しちゃって……」
「だったら、これをどうぞ」
少女が持っていた包みを差し出す。
「え?」
「お弁当です。私の分なんですけど」
「そ、そんな! 悪いですよ!」
「空腹でダンジョンに潜る方が危ないですよ?」
もっともなことを言われ、ベルは言葉に詰まる。
「でも……」
「それなら、お礼をしてもらいましょうか」
「お礼?」
少女は少し悪戯っぽく笑った。
「今夜、《豊穣の女主人》へ来てください」
「豊穣の……?」
「私、そこで働いてるんです。お客さんになってくれれば、それで帳消しです」
ベルは目を瞬かせる。
「それでいいんですか?」
「はい」
包みを押しつけるように手渡され、ベルは戸惑いながら受け取った。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして。私はシル。シル・フローヴァです」
「あ、僕はベルです。ベル・クラネル」
「ベルさんですね」
名前を確認するように、シルが微笑んだ。
「じゃあ、今夜待ってますね」
「はい!」
軽く手を振り、少女は人混みの中へ消えていく。
残されたベルは手の中の弁当へ視線を落とし、「……不思議な人だな」と呟きながらも、自然と頬を緩ませていた。
◇
昼。
いつものようにダンジョンへ入ったベルは、上層を駆け回っていた。
ゴブリンにコボルト。今まで何度も戦ってきたモンスター達を前にして、昨日までとは何かが違った。
「っ!」
迫る爪を半歩だけ身体を引いてかわし、そのまま踏み込んで短刀を走らせる。刃が急所を切り裂き、コボルトが地面へ崩れ落ちた。
「……今の」
自分でも驚くほど身体が動いた。
第五階層でミノタウロスから必死に逃げ回った時とも違う。ただ速いだけではなく、次にどこへ足を置けばいいのか、以前より少しだけ分かる気がする。
『あの人みたいに――』
黒い背中が脳裏を過ると、ベルの足がさらに前へ出た。
もう一体。あと一体。
もっと、少しでも強くなりたい。
それでも昨夜エイナとヘスティアから言われた言葉は頭に残っていた。無理に第五階層より先へ進もうとはせず、頃合いを見て短刀を下ろす。
「今日は……ここまで」
名残惜しさを押し殺し、ベルは地上へ向かった。
◇
その日の午後。
ロキ・ファミリアの面々も、ようやく遠征後の雑務から解放され始めていた。
換金を終えたティオネ達も戻り、武器を預けていたアイズとカイも黄昏の館へ帰ってくる。
「お、槍あるじゃん」
ティオナがカイの手にある長槍へ目を向けた。
「借り物」
「また壊したら怒られるね」
「もう言われた」
「絶対壊すなって?」
「何で分かるんだよ」
「カイだから?」
「どういう意味だ」
不満そうに眉を寄せるカイの横で、アイズも腰の剣へ手を添えた。
「私も、借りた」
「あれ? デスペレートは?」
「五日掛かるって」
「カイも五日?」
「最低五日」
「じゃあお揃いだね!」
「何がお揃いなんだよ」
ティオナが楽しそうに笑う。
「私は武器ないけどね!」
「お前は作り直しだろ」
「そうとも言う!」
「それ以外何て言うんだよ」
カイが呆れたところで、ティオネが手を叩いた。
「はいはい。武器の話は後。全員揃ったなら、夜の予定を確認するわよ」
「何かあるの?」
「遠征の打ち上げ」
カイが首を傾げる一方、ティオナはすでに分かっていたらしく顔を輝かせた。
「ご飯!」
「そこしか頭にないの?」
「で、どこ?」
「《豊穣の女主人》」
その名を聞き、何人かの団員達から歓声が上がった。
深層から無事に帰還した者達にとって、遠征の打ち上げは長く続いた緊張からようやく解放される時間だった。
◇
夕方。
「…………」
ベルの背中を見下ろしたヘスティアが、動きを止めていた。
「神様?」
「な、何でもないよ!」
慌てて答える。
だが、何でもないはずがなかった。
力 I82 → H120
耐久 I13 → I42
器用 I96 → H139
敏捷 H172 → G225
魔力 I0
「…………」
昨夜の更新から、一日も経っていない。
それだけで、これほど伸びている。
力は38、耐久は29、器用は43。そして敏捷は53も上昇していた。
「……やっぱり」
ヘスティアの視線が、スキル欄へ向かう。
〖憧憬一心〗
・早熟する。
・憧憬が続く限り効果持続。
・憧憬の丈により効果向上。
昨日と変わらず、そこに刻まれていた。
『少しは、近づけるかな』
昨夜のベルの言葉が蘇る。
原因は、まず間違いない。
カイ・ヴァレスへの憧れ。
あの第一級冒険者へ追いつきたいという願いが、ベルの成長を異常な速度で加速させている。
「神様?」
「あっ、ごめんごめん!」
ヘスティアは慌てて羊皮紙への転写を再開した。
今回も、スキル欄だけは写さない。
「はい、できたよ」
「ありがとうございます!」
身体を起こしたベルが紙を受け取る。
「えっ……」
数字を見た少年の赤い瞳が大きく開いた。
「こんなに……?」
「今日は結構頑張ったみたいだね」
「はい。でも……こんなに上がるものなんですか?」
「最初のうちは伸びやすいんだよ!」
ヘスティアは即答した。
「そ、そうなんですね」
「そうそう!」
笑顔を作りながら、胸の内では別のことを考える。
伸びやすい。
そんな一言で済む数字ではない。
それでも、この力を知ったベルがさらに無茶をするのだけは避けたかった。
「あ、神様」
「ん?」
「僕、今日ちょっと出掛けてもいいですか?」
「今から?」
「朝、お弁当をくれた人がいて……その人が働いてる酒場に来てほしいって」
途端にヘスティアの目が細くなる。
「……女の子?」
「え?」
「女の子なのかい?」
「は、はい」
「ベル君!」
「何で怒ってるんですか!?」
「怒ってない!」
どう見ても怒っていた。
しばらく問い詰められた末、事情を説明してどうにか納得してもらう。
「もう……分かったよ」
「ありがとうございます!」
「でも、あんまり遅くならないこと。明日もダンジョンへ行くんだろう?」
「はい。終わったらすぐ帰ります」
「約束だからね?」
「約束します」
そう答え、ベルは教会を後にした。
この時は本当に、そのつもりだった。
◇
夜。
酒場《豊穣の女主人》を訪れたベルは、入口に立った時点ですでに圧倒されていた。
外まで漏れていた賑やかな声は中へ入るとさらに大きくなり、店内では冒険者や町の客達が料理と酒を囲んで思い思いに騒いでいる。
「ベルさん!」
忙しそうに店内を行き来していたシルが、すぐにこちらへ気づいた。
「本当に来てくださったんですね」
「約束しましたから」
「嬉しいです。こちらへどうぞ」
柔らかく微笑み、シルはベルを店の隅にある席へ案内した。
ほどなくして料理が運ばれてくる。
「遠慮しないで食べてくださいね」
「こんなにいいんですか?」
「もちろん。せっかく来てくださったんですから、いっぱい食べてください」
「僕がお礼をするために来たはずなんですけど……」
「細かいことは気にしないでください」
何かがおかしい気もしたが、目の前の料理から漂う香りには逆らえなかった。
「いただきます」
ベルが料理へ手を付け始めて、しばらくした頃。
酒場の入口から、一際大きな声が上がった。
「お客様ご一行、ご来店でーす!」
何気なくそちらへ視線を向けたベルの手が止まった。
店へ入ってきたのは、十数人を超える冒険者の集団だった。周囲の客達がざわめき、その名を口にしていく。
「ロキ・ファミリアの皆さんですよ」
料理を運びに来たシルが教える。
「遠征から戻ったばかりなんだとか」
「ロキ・ファミリア……」
その言葉だけで胸が大きく鳴った。
視線が自然と一団を追う。
大勢の冒険者達が、店の奥に用意された大きなテーブルを囲んでいく。
見覚えのある金色の髪。
灰色の
そのさらに奥に。
「……カイさん」
小さく漏れた声は、酒場の喧騒に紛れて誰にも届かなかった。
いた。
黒に近い藍色の髪。あの日と違い青白い雷を纏ってはいないものの、見間違えるはずがない。
ロキ・ファミリアの一団が席へ着く。
「みんな、遠征ご苦労さん! 今日は好きなだけ飲みや!」
「おおおおおっ!」
赤髪の女神の音頭とともに、幾つものジョッキが一斉に掲げられた。
テーブルには大量の料理が並び、長く保存食ばかりの生活を続けていた団員達が次々と手を伸ばしていく。
「うまっ!」
肉料理を頬張ったティオナが目を輝かせた。
「ティオナ、少しはゆっくり食べなさいよ」
「だって久しぶりにちゃんとした料理だよ!」
「喉に詰まらせても知らないわよ」
ティオネが呆れたように妹を見る。
その向かいでは、カイもかなりの速さで皿を空にしていた。
「カイも食べるの早いよね」
「腹減ってんだよ」
「ティオナと変わらないじゃない」
「こいつと一緒にすんな」
「何で!?」
ティオナが抗議し、周囲から笑い声が上がった。
「追加のお料理です」
落ち着いた声とともに現れたのは、緑色の髪を揺らすエルフの店員だった。慣れた手つきで皿を並べていた彼女は、カイの前まで来たところで僅かに動きを止める。
「……お久しぶりですね、カイ」
「ん?」
料理へ伸ばしかけていた手を止め、カイが顔を上げた。相手を確認すると、驚くでもなく軽く片手を上げる。
「おう、リュー。久しぶり」
「遠征へ出ていたと聞きました。無事に戻られたようで何よりです」
「まあな。そっちも元気そうじゃねぇか」
「私はずっと店にいましたが」
「知ってるよ」
淡々と返され、カイが僅かに眉を寄せる。リューはそんな反応にも特に表情を変えず、空になった皿を盆へ重ねていった。
「それにしても、帰って早々よく食べますね」
「二週間近く保存食だったんだぞ。まともな飯があるなら食うだろ」
「食べ過ぎて動けなくならない程度にしてください」
「子供じゃねぇんだから分かってる」
「そうでしょうか」
「何だその間は」
カイが眉を顰めるが、リューは答えなかった。ただほんの僅かに目元を和らげると、盆を持ち直す。
「では、ごゆっくり」
「おう」
それだけを交わし、リューは次の卓へと向かっていった。
「知り合いなの?」
ティオナが料理を頬張りながら尋ねる。
「ああ。まぁな」
「ふーん」
興味を持ったのも一瞬だったらしい。目の前へ新しい料理が置かれた途端、ティオナの意識はそちらへ戻っていく。
「これもおいしそう!」
「結局食べ物じゃない」
ティオネが呆れ、再び卓に笑いが広がった。
一方、アイズはいつも通り静かに料理を口へ運んでいた。その隣ではレフィーヤが、昨日より僅かに表情の和らいだ彼女を見て密かに安堵している。
少なくとも今夜くらいは、遠征のことを忘れて楽しんでもいい。
ロキ・ファミリアの団員達は、誰もがそう思っていた。
一方、少し離れた席で、ベルはカイを見つめていた。
次に会った時は、ちゃんと礼を言う。
そう決めていた。
今なら行けるだろうか。
大勢の第一級冒険者に囲まれたあの場所へ近づき、自分から声を掛けられるだろうか。
「……よし」
ベルが意を決して椅子から立ち上がろうとした、その時だった。
「おい、カイ!」
酒場中へ響くほど大きな声が飛んだ。
ジョッキを片手にしたベートが、赤くなった顔で向かいに座るカイを指差している。
「何だよ」
「そういやよぉ、帰りに追っかけたミノタウロス!」
ベルの動きが止まった。
嫌な予感が、胸の底から這い上がってくる。
「ああ?」
「最後の一匹だよ。五階層まで逃げやがった奴!」
心臓が強く鳴る。
あの日のことだ。
「ベート、酔ってる」
アイズが静かに指摘する。
「酔ってねぇ!」
「酔ってる奴はみんなそう言うんだよ」
カイが面倒そうに返すが、ベートは止まらなかった。
「でよ、いたじゃねぇか。あの白髪のガキ!」
「……いたな」
ベルの身体から、さっと血の気が引いていく。
白髪。第五階層。ミノタウロス。
――自分のことだった。
「助けられた後も震えやがってよ。何か言い掛けたと思ったら、結局そのまま逃げやがった」
周囲の団員の何人かが、思い出したように顔を上げる。
「あー、カイが言ってた子?」
ティオナが首を傾げる。
「駆け出しだったんだっけ?」
「ああ。多分Lv.1だ」
カイがそう答えると、ティオネが僅かに眉を上げた。
「それでミノタウロスと遭遇したの? よく生きてたわね」
その言葉に悪意はない。
だからこそ、ベルの胸へ重く落ちた。
違う。
自分が生き延びたのではない。
助けてもらっただけだ。
短刀を振っても何もできず、一撃で吹き飛ばされ、最後には恐怖で身体すら動かなかった。
「情けねぇったらありゃしねぇ」
ベートの笑い声が、胸へ突き刺さる。
「おい、ベート」
カイの声音が僅かに低くなった。
だが、酒の回ったベートは気づかない。
「いや、だってそうだろ? カイがいなきゃあそこで終わってた雑魚だぜ?」
ベートはジョッキを煽り、鼻で笑った。
「あのガキとてめぇじゃ、立ってる場所が違いすぎんだよ。あんな駆け出しが第一級まで上がる? 何年掛かるってんだ、あァ?」
同じ場所。
その言葉だけが、ベルの胸の奥へ深く突き刺さった。
脳裏には、あの日見た黒い背中が浮かぶ。
遠く先を歩く、一人の冒険者。
自分が追いつきたいと願った場所。
その距離を、今まざまざと突きつけられた。
「……すみません」
「ベルさん?」
シルが振り返った時には、ベルはすでに椅子を引いていた。
俯いたまま店の出口へ向かって駆け出す。
「ベルさん!」
シルも慌てて後を追った。
だが、扉の先へ飛び出した白い髪は人混みへ紛れ、夜の大通りを駆けていく。店を出たシルが周囲を見回した時には、もうその姿を見つけることはできなかった。
「ベルさん……」
心配そうな声だけが、夜の街へ残った。
◇
「いい加減にしろ、ベート」
カイがジョッキを机へ置いた。
鈍い音が鳴り、ベートが眉を寄せる。
「あァ?」
「Lv.1がミノタウロスに追われたんだ。逃げんのは普通だろ」
「だから雑魚だっつってんだよ」
「一回逃げたくらいで決めんな」
ベートの眉が僅かに吊り上がった。
「……随分肩持つじゃねぇか」
「別に、肩持ってねぇよ」
カイは眉を顰める。
「あいつが強くなるか、ずっと弱ぇままかなんて知らねぇ。次に会った時も同じなら、その時笑えばいいだろ」
「…………」
「死んでたら次はねぇ。それだけだ」
「カイの言う通りだ」
それまで黙っていたリヴェリアが、静かに口を開いた。
声音は穏やかだったが、向けられた視線は鋭い。
「そもそも、第十七階層でミノタウロスを逃がしたのは我々の不手際だ。巻き込まれた駆け出しを笑う資格などない。恥を知れ、ベート」
「……ちっ」
「ベート」
「……ちっ、分かったっつーの」
ベートが不機嫌そうに顔を逸らした。
言いたいことが完全に消えたわけではないらしいが、それ以上白髪の少年を嘲ることはなかった。
「カイ」
アイズの声に振り向く。
金色の瞳は、酒場の入口へ向いていた。
「今の子」
「あ?」
「白髪だった」
カイも扉へ視線を向ける。
すでに少年の姿はない。
「……あいつだったのか?」
「多分」
アイズが頷いた。
カイは数秒、閉じた扉を見つめる。
「追う?」
「いや」
少し考え、首を横へ振った。
「今追ったら、余計逃げそうだろ」
「……確かに」
「怪我してるようにも見えなかったしな」
それがカイの判断だった。
それまで特別気に留めていなかった白髪の少年の姿が、ほんの少しだけ頭に残る。
今度会ったら、せめて名前くらいは聞いておこう。
そう思ったのも一瞬だけで、カイは再びテーブルへ視線を戻した。
◇
ベルは走っていた。
酒場を飛び出し、人通りの多い大通りを抜けても足を止めない。背後から自分の名を呼ぶシルの声が聞こえた気がしたが、振り返ることなどできなかった。
胸が苦しい。それは、走っているせいだけではなかった。
『情けねぇったらありゃしねぇ』
ベートの笑い声が、頭から離れない。
『あのガキとてめぇじゃ、立ってる場所が違いすぎんだよ』
否定できなかった。本当に、その通りだったからだ。
何もできなかった。
ミノタウロスを見ただけで恐怖に呑まれ、必死に逃げ、追い詰められた。最後にはカイに助けてもらったというのに、礼すら言えずに逃げた。
「……っ」
悔しかった。何もできなかった自分自身が。
そして何より、今日こそ礼を言うと決めていたのに、また逃げてしまったことが悔しかった。
走り続けた足が、やがて人通りの少ない場所で止まる。
ベルは膝へ手をつき、荒い呼吸を繰り返した。
ふと、酒場を飛び出す直前に聞いた声を思い出す。
『ベート』
カイの声だった。
低く、少し怒っているように聞こえた。その後に何を言ったのかは知らない。
聞く前に、自分が逃げ出してしまったからだ。
「……僕は」
弱い。
そんなことは、分かっていたつもりだった。
まだLv.1、冒険者になったばかりの駆け出しだ。
冒険者となって僅か三年でLv.5へ到達し、第一級冒険者として深層を歩くカイは、今の自分では比べることすら烏滸がましいほど遠い。
それでも――
『あんな駆け出しが第一級まで上がる? 何年掛かるってんだ、あァ?』
ベルは歯を食い縛った。
あの言葉を否定できない自分が悔しい。
カイの背中を追いかけたいと思いながら、何もできない自分がたまらなく悔しかった。
「強く……」
握り締めた拳が震える。
「強くなりたい……!」
静かな決意ではなく、綺麗な憧れだけでもなかった。
悔しさも、羞恥も、惨めさも、自分への怒りも、何もかもが胸の中でぐちゃぐちゃに混ざり合っている。それでも、その全てが同じ一つの方向へベルを押していた。
ベルは顔を上げた。
夜のオラリオの中心には、闇を貫くように白亜の巨塔バベルが聳えている。
帰るべき教会とは、別の方向。
『終わったらすぐ帰ります』
ほんの数時間前、自分でヘスティアへ告げた言葉が脳裏を過る。
約束した。
それでも少年の足は、もうバベルへ向かっていた。
今の自分がどれほど弱いのか、その身に刻みつけるように。
ただ、強くなりたかった。
あの日、自分と怪物の間へ立った背中へ。
ほんの少しでも近づくために。
第五話 了
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
感想や気になった点、誤字脱字などありましたら教えていただけると嬉しいです。
次回もよろしくお願いします。