ダンジョンに強敵を求めるのは間違っているだろうか 作:アイスクリームベリーベリー
夜のバベルは、昼間とは違う静けさに包まれていた。
地上へ戻る冒険者達の波はすでに落ち着き、これからダンジョンへ潜ろうとする者の姿もほとんどない。その流れへ逆らうように、ベル・クラネルは地下へ続く階段を駆け下りていた。
頭の中には、まだ酒場で聞いた声が残っている。
『あんな駆け出しが第一級まで上がる? 何年掛かるってんだ、あァ?』
「……っ!」
その言葉を振り払うように、ベルは速度を上げた。
悔しかった。何より、それを否定できなかった自分自身が。
◇
第一階層から第二階層、そして第三階層へ。
普段ならば周囲を確認し、地図と現在地を照らし合わせながら慎重に進む道を、その夜のベルはほとんど休まず駆け抜けていた。
「――はぁっ!」
飛び掛かってきたゴブリンの腕をかわし、懐へ潜り込む。振るった短刀が胴を深く裂き、魔物の身体が力を失って石床へ崩れ落ちた。
横手から迫ったコボルトの爪を屈んで避け、そのまま脚を払う。体勢を崩した相手の胸へ短刀を突き立てると、ベルは息を整える間もなく次の通路へ向かった。
「次……!」
金を稼ぐためでも、探索記録を伸ばすためでもない。
ただ、少しでも強くなりたかった。
弱い自分を認めることしかできないのなら、せめて昨日の自分より少しでも先へ進みたかった。
『カイがいなきゃあそこで終わってた雑魚だぜ?』
「分かってる……!」
誰もいない通路で、思わず声が漏れる。
ベートに言われなくても、自分がどれほど弱かったのかは嫌というほど分かっていた。第五階層でミノタウロスを前にした時、自分には何一つできなかった。
立つことも、逃げ切ることも。
最後には、ただ死を待つしかなかった。
そこへ飛び込んできたのが、あの男だった。
『――やっと追いついた』
汚れと裂け目の残る黒い戦闘服。
武器さえ持たず、拳と雷だけで、自分にはどう足掻いても勝てなかった怪物を倒した冒険者。
同じ人間なのに、あまりにも遠かった。
「……もっと」
ベルは走る。
「もっと……!」
次のモンスターを探し、少年はさらに奥へ進んでいった。
◇
どれほど時間が経ったのか。
ベル自身にも、もう分からなくなっていた。
額から流れた汗が頬を伝い、何度も短刀を振るった右腕には鈍い疲労が溜まっている。上層の魔物を相手に大きな傷こそ負っていなかったものの、身体は明らかに休息を求め始めていた。
それでも、足を止めなかった。
曲がり角を抜け、その先にあった階段を駆け下りる。
「……あれ?」
そこでようやく、ベルは周囲の景色がいつもと違うことに気づいた。
壁の色も、通路の形も違う。それまで歩いていた場所より、どこか空気が重く感じられた。
腰の地図を慌てて取り出し、自分が通ってきた道を思い返す。
「ここ……第六階層……?」
喉が鳴った。
いつの間に。
第四階層までで引き返す。
昨日まで何度も自分へ言い聞かせていた線を、感情に任せて越えていた。
『自分がどの階層まで安全に探索できるか、必ず把握しておくこと』
エイナの声が蘇る。
「まずい……」
頭に上っていた血が、一気に冷えた。
戻らなければならない。そう思って振り返った、その時だった。
壁の奥から硬いものが砕ける音が響いた。
「――っ!」
亀裂が走り、石壁が内側から押し出されるように割れる。
そこから姿を現したのは、全身を塗り潰したような漆黒の人型。細長い腕の先には、刃を思わせる三本の指が伸びている。
「ウォー……シャドウ」
エイナから教わった名前が、ベルの口から漏れた。
第六階層で出現するモンスター。
上層に生息する魔物の中でも、駆け出しが特に警戒しなければならない相手。
その直後、背後でも石壁が弾ける。
「もう一体……!?」
二体のウォーシャドウが、ベルを挟み込むように立っていた。
声を発することもなく、銀色の顔面だけをこちらへ向けている。短刀を握るベルの掌へ、じっとりと汗が滲んだ。
「……帰らないと」
逃げなければならない。
エイナなら、間違いなくそう言う。
今の自分が来るべき場所ではない。
その認識だけは、すでに戻っていた。
けれど、退路を塞ぐ二体の影は逃がしてくれそうにない。
「だったら……ここを抜ける」
ベルは短刀を構えた。
「――っ!?」
速い。
反射的に上半身を逸らすと、直前まで顔があった場所を刃のような指が通り抜けた。
かわした。そう認識した瞬間、反対側からもう一体が迫った。
「くっ!」
短刀を横へ構える。
甲高い音とともに強烈な衝撃が腕を抜け、ベルの身体が大きくよろめいた。
そこへ一体目の腕が伸びた。
「がっ……!」
胸元が裂け、赤い血が飛んだ。
今まで戦ったゴブリンやコボルトとは、明らかに違う。
速さも、間合いも、攻撃の鋭さも。
「強い……」
二体が再び距離を詰める。
けれど、その動きを見ながらベルは自分の身体に残る感覚へ、僅かな違和感を覚えていた。
「……見える」
完全に避けられるわけではない。
余裕などどこにもない。
それでも、見失ってはいなかった。
ウォーシャドウの肩が動く。
長い腕が振り抜かれるより先に、身体を沈めた。
「っ!」
頭上を黒い爪が通り抜ける。
そこへもう一体が踏み込んでくるが、ベルは床を蹴って横へ転がった。
避けられる。
戦える。
「何で……」
夕方に見た数字が脳裏を過る。
力――H120。
器用――H139。
敏捷――G225。
昨日までとはまるで違っていた、自分のステイタス。
「僕……強くなってる」
まだ弱い。
カイとは比べものにならない。
それでも、昨日の自分とは違う。
ベルは大きく息を吐き、感情のまま振るっていた短刀を、今度は生き残るために構え直した。
「……行くぞ」
二体の影が動いた。
ベルも同時に床を蹴った。
ウォーシャドウの方が腕は長い。真正面から短刀を振れば、こちらが先に切られる。
ならば、腕が伸び切った瞬間に懐へ潜り込む。
「――そこ!」
黒い爪を紙一重でかわし、その腕の内側へ身体を滑り込ませる。短刀が黒い胸を抉り、ウォーシャドウが後退した。
一撃では倒れない。無理に追えば、もう一体に狙われる。
ベルは踏み止まり、背後から迫る気配へ身体を伏せる。二体目の爪が頭上を通り過ぎた瞬間、傷を負った一体へ肉薄した。
「はぁぁっ!」
狙うのは胸の奥。
短刀を両手で握り込み、全身の力で突き込む。
硬いものへ刃が触れ、直後に砕ける感触が掌へ伝わった。胸奥の魔石を破壊されたウォーシャドウは身体を硬直させ、そのまま端から灰へ崩れていく。
「一体……!」
息をつく時間はなかった。
残された一体が背後から飛び掛かってくる。
「くっ!」
間に合わないと判断し、咄嗟に左腕を上げた。
三本の爪が腕を裂き、焼けるような激痛が走る。
「ぁ……!」
それでも、ベルは退かなかった。
その一撃を左腕で受けたことで、ベル自身はウォーシャドウの懐へ潜り込んでいた。
「捕まえた……!」
刃が首元へ深く入り込み、黒い身体が傾く。ベルは離れず、もう一度斬りつけ、最後に胸へ短刀を突き立てた。
硬い魔石が砕け、二体目のウォーシャドウも灰となって崩れ落ちる。
「はぁ……はぁ……」
ベルも石床へ片膝をついた。
勝った。二体のウォーシャドウを、自分の力で倒した。
「……僕が?」
信じられない。
昨日の自分なら、間違いなく勝てなかった。
逃げることさえできずに殺されていたかもしれない。
震える右手を見る。血と汗で濡れた手の中には、まだ短刀が握られている。
「……帰らないと」
今度は、はっきりと口にした。
勝てたから先へ行くのではない。
ここは自分が長く留まっていい場所ではない。
ようやくその判断を下した時、壁から嫌な音が響いた。
「え……」
一つではない。
左右の壁へ亀裂が走り、その向こうから黒い腕が伸びてくる。
さらに前方の通路からも、ゴブリンやコボルトが集まり始める。
『ダンジョンでは、戦っている間にも次のモンスターが生まれます』
また、エイナの声を思い出した。
分かっていたし、エイナから何度も教えてもらっていた。それでも今になって、ベルはその意味を身体で理解した。
一体倒せば終わるわけではない。自分が疲れていようが傷ついていようが、次が来て、その次もまた現れる。
自分が疲れていようと、怪我をしていようと、ダンジョンは待ってくれない。
これまで自分が潜っていた場所が、どれだけ浅い場所だったのか。
カイ達第一級冒険者が、どのような場所を歩いているのか。
ほんの入口だけを見せつけられたような気がした。
「……遠いな」
ベルは乾いた笑みを浮かべた。
絶望したからではない。
ここまで来て初めて、憧れた背中との距離が少しだけ具体的に見えたからだ。
「でも……追いつきたい」
だからこそ、ここで終わるわけにはいかない。
死んでしまえば、あの背中を追うことすらできなくなる。
ベルは短刀を握り直し、地上へ続く道を見据えた。
「帰るんだ……!」
モンスター達が一斉に動いた。
ベルは出口へ続く道を切り開くため、迫る魔物へ踏み込んだ。
◇
空が白み始める頃。
朽ちた教会の前へ、小柄な女神が疲れ切った足取りで戻ってきた。
「……いない」
ヘスティアの声は掠れていた。
眠ることなどできなかった。
夜のうちに《豊穣の女主人》へ足を運び、ベルが突然店から飛び出したと聞いた。シルも追ったものの、人混みの中で見失ったという。
そこからヘスティアは酒場の周囲をはじめ、大通りや中央広場、ベルが立ち寄りそうな場所を思いつく限り探し回った。
まさか感情に任せて夜のダンジョンへ潜ったのではないか――そんな最悪の考えが浮かんだが、確かめる術もなく、結局また街へ戻り、入れ違いになっているかもしれないと何度もホームへ戻っている。
「どこ行ったんだよ……ベル君」
唇を噛む。
怒っていた。
けれど、それ以上に怖かった。
もし、何かあったのなら。
「……っ」
その先を考えたくない。
俯きかけた時、まだ人通りの少ない朝の道に足音が響いた。
「……?」
ヘスティアが顔を上げる。
遠くに、小さな人影が見えた。
白い髪。
「ベル君!」
考えるより先に駆け出していた。
だが、近づくほどにヘスティアの表情から血の気が失われていく。
服は何箇所も切り裂かれ、全身に血が滲んでいた。左腕には即席で巻いた布があり、歩いていることさえ不思議なほど少年の身体は傷だらけだった。
「ベル君!? どうしたんだい、その傷!」
「……神様」
「『神様……』じゃないよ! 本当に心配したんだからね!」
ヘスティアがベルの身体を支える。
触れた身体は熱を持ち、足にもほとんど力が入っていなかった。
「何があったんだい? ずっとどこにいたんだい?」
「……ダンジョンです」
「ダンジョン!?」
思わず声が裏返る。
「こんな時間まで、一人で?」
「……はい」
ヘスティアは息を呑んだ。
「……どこまで行ったんだい?」
ベルは少しだけ視線を逸らした。
「第六階層まで……」
「第六階層!?」
早朝の通りへ、女神の声が響いた。
「ベル君、君はまだ第五階層までだっただろう!?」
「すみません……気づいたら」
「気づいたらって……!」
言いたいことはいくらでもあった。
一人で夜のダンジョンへ潜ったこと。
自分の適正階層を越えたこと。
こんなになるまで戦ったこと。
けれど、ベルの顔を見た瞬間、それらの言葉は喉の奥で止まった。
少年は泣いていない。
血で汚れた顔には疲労が色濃く残っている。
それでも赤い瞳だけは、何かを見失うまいとするように前を向いていた。
「神様……」
「……何だい」
ベルの声は掠れていた。
「僕……強くなりたいです」
ヘスティアは何も言わなかった。
「もっと……もっと強くなりたい」
カイのようになりたい。
そうは言わなかった。
けれど、ヘスティアには分かった。
ベルの瞳が追っているものが何なのか。
遠く先にいる誰かの背中へ届こうとしている。
けれど、それだけではない。
今度は自分自身の足で立ち、自分の力で危険を越えたいと願い始めている。
「……うん」
ヘスティアはベルの身体を強く支えた。
「なれるよ。君なら、強くなれる」
その言葉を聞いた瞬間、ベルの身体からふっと力が抜けた。
「ベル君!?」
「すみません……もう、限界……です」
「ベル君! ちょ、ちょっと! ここで寝ちゃ駄目だよ!」
慌てて抱き留める。
返事はなかった。
限界まで張り詰めていた糸が切れたように、ベルはヘスティアの腕の中で眠りに落ちていた。
◇
同じ朝。
黄昏の館では、遠征から戻った団員達が遅めの朝食を取り始めていた。
「……なあ」
食堂の隅から、低い声が響く。
「俺、本当にそんなこと言ったのか?」
テーブルへ突っ伏しているベートを見て、ティオナがこくりと頷いた。
「言ったよ」
「かなり盛大にね」
隣のティオネが冷淡に追い打ちをかける。
「白髪の子を散々馬鹿にして、カイにもリヴェリアにも怒られてたじゃない」
「…………」
狼人の耳が垂れたように見えた。
「酔いが醒めた後にロキから聞いたんでしょ?」
「……聞いた」
「じゃあ何で確認したのよ」
「何かの間違いかもしれねぇだろうが……」
「自業自得だね」
「うるせぇ、アマゾネス」
いつものように噛みつく声にも、普段ほど勢いがない。
その様子を見たレフィーヤは、少し意外そうに目を瞬かせた。
「ベートさんでも、落ち込むことあるんですね……」
「聞こえてんぞ、エルフ!」
「す、すみません!」
「謝るな! 余計ムカつく!」
レフィーヤが慌てて口を押さえ、ティオナが堪え切れずに笑う。
しかし、その笑顔はすぐに別の方向へ向いた。
「それよりさ」
少し離れた席。
アイズが静かに朝食を取っている。
いつもの無表情。
けれど、ティオナ達にはその僅かな違いが分かっていた。
「アイズ、まだ元気ないよね」
「昨日よりはマシに見えるけど」
ティオネが答える。
「クリスタルドロップを渡した時は、少し元気になってくださったんですけど……」
レフィーヤも不安そうにアイズを見る。
そこへ、長い翠髪を揺らしてリヴェリアが歩み寄った。
「
ティオナが小声で呟く。
「聞こえているぞ、ティオナ」
「えっ」
「口を慎め」
「はーい……」
ティオナが肩を縮める。
リヴェリアは小さく息を吐き、そのままアイズへ視線を向けた。
「アイズ。少しいいか?」
「……うん」
二人は食堂を出ていった。
その背中を見送りながら、ティオナが頬杖をつく。
「リヴェリアに任せてれば大丈夫だとは思うけどさ」
「こっちはこっちで、何かしてあげたいってこと?」
「うん」
ティオネに頷き、ティオナはもう一度アイズが消えた扉を見る。
レフィーヤも同じ方向へ目を向けながら、胸の前で手を握った。
◇
「何があった?」
人の少ない廊下へ移ったところで、リヴェリアが尋ねた。
アイズは足を止める。
「……ステイタス」
「やはりそうか」
アイズは視線を落とした。
帰還直後に更新したステイタス。Lv.5になって三年が経ち、ほとんど伸びなくなった基本アビリティ。
途中で断念した第五十九階層への遠征。第五十一階層で遭遇した、正体の分からない女の姿をした怪物。
「もっと……強くなりたい」
口をついて出たのは、やはり同じ言葉だった。
「今のままじゃ、足りない」
「何が足りない?」
「全部」
「お前が力を求める理由を、私は知らぬわけではない」
アイズの瞳が僅かに揺れた。
「だからこそ言っている。焦りに任せて剣を振り続ければ、お前はいつか自分自身を見失う」
「……でも、止まりたくない」
「止まれとは言っていない。進み方を見失うなと言っている」
「焦る必要はない。迷うのなら、迷いながらでも考え続けろ」
「……うん」
「それでも分からなければ、言いに来い。相談ぐらいには乗ってやる」
アイズは僅かに目を見開いた。
「リヴェリア」
「何だ?」
「……ありがとう」
リヴェリアは小さく息を吐く。
「礼を言うにはまだ早い」
そう言いながらも、その声音は先ほどより僅かに柔らかかった。
「朝食へ戻るぞ」
「うん」
二人が歩き始める。
胸の中の靄が消えたわけではない。
強くならなければならない。その思いも、焦りも、何一つ消えてはいなかった。
それでも、一人で抱え込んでいた時よりは少しだけ息がしやすくなっていた。
◇
食堂へ戻る途中。
中庭から、乾いた風切り音が聞こえてきた。
アイズが足を止める。
「……カイ」
視線の先。
借り物の長槍を構えたカイが、一人で型を確かめるように穂先を走らせていた。
突きから払い。
柄を返して石突きを振り、半歩踏み込んで再び穂先を前へ出す。
「……違うな」
動きを止め、僅かに眉を顰める。
〖ヴァレス〗より軽い。
重心の位置も違えば、穂先へ力が乗るタイミングも違う。
戦えないほどではない。
だが、使い慣れた武器との僅かなずれが気持ち悪かった。
「朝から精が出るな」
リヴェリアの声に、カイが振り返る。
「あ?」
「遠征から戻ったばかりだ。少しは身体を休めたらどうだ?」
「休んだぞ」
リヴェリアは小さく息を吐いた。
「……相変わらずだな、お前は」
「動けるんだからいいだろ」
「よくない」
即座に返され、カイが口を尖らせる。
アイズはそのやり取りを見てから、借り物の槍へ目を向けた。
「使いづらい?」
「ちょっとな」
「私も」
腰にある借り物のレイピアへ手を添える。
「デスペレートと違うから」
「そりゃそうだろ」
カイは槍を軽く回し、肩へ担いだ。
そこでアイズが思い出したように口を開く。
「昨日の子」
「白髪の?」
「うん」
「それが?」
「……大丈夫かな」
カイが首を傾げる。
昨夜の白髪の少年。
自分達の会話を聞き、俯いたまま《豊穣の女主人》を飛び出していった。
「さあな」
それ以上の答えは出せなかった。
「昨日見た時は怪我してなかったし、追い掛けても余計逃げそうだったからな」
「……うん」
「次会った時に話せばいいだろ」
「何を?」
「名前くらい聞くとか?」
アイズが瞬きをした。
「知らないの?」
「聞く前に逃げられたよ」
「……そうだった」
「二回もな」
「二回」
「第五階層と昨日」
カイが僅かに眉を寄せる。
「何であいつ、俺見ると逃げんだ?」
「……分からない」
「だよな」
本気で疑問らしい。
アイズは少しだけ首を傾げ、それからほんの僅かに目元を和らげた。
ベル・クラネルにとって、カイ・ヴァレスはすでに追いかけるべき巨大な背中になっている。
けれど、カイにとってのベルはまだ。
名前さえ知らない、妙に自分を見ると逃げていく白髪の駆け出しに過ぎなかった。
「カイ」
「今度は何だ?」
「カイは……焦らないの?」
「何が?」
「もっと強くならないと、って」
唐突な問いだった。
先ほどまでのリヴェリアとの会話が、まだ胸の中に残っていたのだろう。
カイは一瞬だけ目を瞬かせる。
「んー……」
少し考える。
「強くなりたくねぇわけじゃないけど」
借り物の槍を見下ろす。
「それが一番じゃねぇな」
「一番?」
「強い奴と戦いてぇ」
迷いのない答えだった。
「今回の芋虫みてぇな新種も、あの女みてぇな奴も、まだ何なのか分かってねぇだろ」
「……うん」
「第五十九階層にも行けなかった」
カイの視線が、黄昏の館の向こうへそびえるバベルへ向かう。
「もっと下には、もっと強ぇ奴がいるかもしれねぇ」
赤い瞳が楽しそうに細くなった。
「だったら、見てぇし、戦いてぇ」
「だから、強くなる?」
「そう」
カイは笑う。
「今のままじゃ届かねぇ奴と戦うために、強くなる」
「……そう」
アイズが小さく呟く。
似ているようで、違う。
自分はただ、もっと強くならなければと焦っている。
カイは、強さの向こう側にある何かへ手を伸ばしている。
「何だよ?」
「何でもない」
「さっきからそればっかだな」
アイズは答えなかった。
ただ、ほんの少しだけ考えるように視線を伏せる。
「アイズー!」
そこへ、中庭の向こうから大きな声が飛んできた。
ティオナ。
その後ろにはティオネとレフィーヤもいる。
「いたいた!」
「何?」
「今日さ、私達に付き合わない?」
アイズが首を傾げた。
「どこに?」
「街!」
「……ダンジョンじゃなくて?」
「何で休日の誘いで真っ先にダンジョンが出てくるのよ」
ティオネが呆れたように言う。
レフィーヤは一歩前へ出た。
「あの、アイズさん。街へお買い物に行きませんか?」
「買い物?」
「はい!」
緊張しているのか、レフィーヤの声が少し上擦る。
「気分転換にもなると思いますし、その……皆さんで一緒に行けたらって」
アイズは三人を見る。
ティオナが笑い。
ティオネが仕方なさそうに肩を竦め。
レフィーヤが期待と不安の入り混じった顔でこちらを見ている。
「……うん」
「本当ですか!?」
「付き合う」
レフィーヤの顔が一気に明るくなる。
「やった!」
「じゃあ決まり!」
ティオナがアイズの腕を取る。
「ちょ、ちょっとティオナさん! 私が誘ったんですから!」
「みんなで行くんでしょ?」
「そうですけど!」
騒がしくなる三人を見ながら、アイズは少しだけ目を細めた。
「カイも行く?」
ティオナが振り返る。
「買い物?」
「うん!」
「何買うんだ?」
「服とか!」
「行かねぇ」
「即答!?」
「槍振ってる方がいい」
「カイらしいわね」
ティオネが苦笑する。
「じゃあ留守番よろしくー!」
「何で俺が留守番なんだよ」
ティオナ達の声が遠ざかっていく。
アイズも少し遅れてその後を追いかけようとして、ふと足を止めた。
「カイ」
「あ?」
「行ってくる」
「おう」
「……槍、壊さないでね」
「借り物まで壊す前提で話すな!」
返ってきた声を聞き、アイズは僅かに笑い、そのまま三人の後を追った。
◇
中庭に一人残されたカイは、しばらくその背中を見送っていた。
「買い物ねぇ……」
自分にはよく分からない。
服なら着られればいい。
武器なら戦えればいい。
だが、あれでアイズの気が少しでも晴れるなら、悪くはないのだろう。
借り物の槍を握り直す。
軽い。
やはり〖ヴァレス〗とは違う。
それでも。
「慣れりゃ使える」
穂先を前へ向けた。
一度より二度。二度より三度。先ほどまでよりは狙った位置へ収まるようになっている。
カイは満足そうに口元を上げた。
それから、ふと。
中庭の向こうに見える白亜の巨塔を見上げる。
バベル。
その地下には、世界最大のダンジョンがどこまでも続いている。
第五十九階層には届かなかった。
第五十一階層で現れた新種の正体も分かっていない。
あの女型の怪物が何者だったのかも。
そのさらに下に何がいるのかも。
何一つ分からない。
「……いいな」
自然と笑みが浮かぶ。
分からないことばかりだ。
ならばまだ、いくらでも先がある。
「次は……もっと下まで行きてぇな」
同じ朝、一人の白髪の少年は傷だらけの身体で願った。
もっと強くなりたい、と。
金髪金眼の剣士もまた、足りない強さを求め続けている。
そしてカイが求めているのは、その強さの先だった。
まだ見ぬ強敵。まだ知らない深層。
赤い瞳は、地下深くへ続くダンジョンの入口――白亜の巨塔バベルを見据えていた。
第六話 了
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
感想や気になった点、誤字脱字などありましたら教えていただけると嬉しいです。
次回もよろしくお願いします。