ダンジョンに強敵を求めるのは間違っているだろうか   作:アイスクリームベリーベリー

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第六話 強くなりたい

 

 夜のバベルは、昼間とは違う静けさに包まれていた。

 

 地上へ戻る冒険者達の波はすでに落ち着き、これからダンジョンへ潜ろうとする者の姿もほとんどない。その流れへ逆らうように、ベル・クラネルは地下へ続く階段を駆け下りていた。

 

 頭の中には、まだ酒場で聞いた声が残っている。

 

『あんな駆け出しが第一級まで上がる? 何年掛かるってんだ、あァ?』

 

「……っ!」

 

 その言葉を振り払うように、ベルは速度を上げた。

 

 悔しかった。何より、それを否定できなかった自分自身が。

 

     ◇

 

 第一階層から第二階層、そして第三階層へ。

 

 普段ならば周囲を確認し、地図と現在地を照らし合わせながら慎重に進む道を、その夜のベルはほとんど休まず駆け抜けていた。

 

「――はぁっ!」

 

 飛び掛かってきたゴブリンの腕をかわし、懐へ潜り込む。振るった短刀が胴を深く裂き、魔物の身体が力を失って石床へ崩れ落ちた。

 

 横手から迫ったコボルトの爪を屈んで避け、そのまま脚を払う。体勢を崩した相手の胸へ短刀を突き立てると、ベルは息を整える間もなく次の通路へ向かった。

 

「次……!」

 

 金を稼ぐためでも、探索記録を伸ばすためでもない。

 

 ただ、少しでも強くなりたかった。

 

 弱い自分を認めることしかできないのなら、せめて昨日の自分より少しでも先へ進みたかった。

 

『カイがいなきゃあそこで終わってた雑魚だぜ?』

 

「分かってる……!」

 

 誰もいない通路で、思わず声が漏れる。

 

 ベートに言われなくても、自分がどれほど弱かったのかは嫌というほど分かっていた。第五階層でミノタウロスを前にした時、自分には何一つできなかった。

 

 立つことも、逃げ切ることも。

 

 最後には、ただ死を待つしかなかった。

 

 そこへ飛び込んできたのが、あの男だった。

 

『――やっと追いついた』

 

 汚れと裂け目の残る黒い戦闘服。

 

 武器さえ持たず、拳と雷だけで、自分にはどう足掻いても勝てなかった怪物を倒した冒険者。

 

 同じ人間なのに、あまりにも遠かった。

 

「……もっと」

 

 ベルは走る。

 

「もっと……!」

 

 次のモンスターを探し、少年はさらに奥へ進んでいった。

 

     ◇

 

 どれほど時間が経ったのか。

 

 ベル自身にも、もう分からなくなっていた。

 

 額から流れた汗が頬を伝い、何度も短刀を振るった右腕には鈍い疲労が溜まっている。上層の魔物を相手に大きな傷こそ負っていなかったものの、身体は明らかに休息を求め始めていた。

 

 それでも、足を止めなかった。

 

 曲がり角を抜け、その先にあった階段を駆け下りる。

 

「……あれ?」

 

 そこでようやく、ベルは周囲の景色がいつもと違うことに気づいた。

 

 壁の色も、通路の形も違う。それまで歩いていた場所より、どこか空気が重く感じられた。

 

 腰の地図を慌てて取り出し、自分が通ってきた道を思い返す。

 

「ここ……第六階層……?」

 

 喉が鳴った。

 

 いつの間に。

 

 第四階層までで引き返す。

 

 昨日まで何度も自分へ言い聞かせていた線を、感情に任せて越えていた。

 

『自分がどの階層まで安全に探索できるか、必ず把握しておくこと』

 

 エイナの声が蘇る。

 

「まずい……」

 

 頭に上っていた血が、一気に冷えた。

 

 戻らなければならない。そう思って振り返った、その時だった。

 

 壁の奥から硬いものが砕ける音が響いた。

 

「――っ!」

 

 亀裂が走り、石壁が内側から押し出されるように割れる。

 

 そこから姿を現したのは、全身を塗り潰したような漆黒の人型。細長い腕の先には、刃を思わせる三本の指が伸びている。

 

「ウォー……シャドウ」

 

 エイナから教わった名前が、ベルの口から漏れた。

 

 第六階層で出現するモンスター。

 

 上層に生息する魔物の中でも、駆け出しが特に警戒しなければならない相手。

 

 その直後、背後でも石壁が弾ける。

 

「もう一体……!?」

 

 二体のウォーシャドウが、ベルを挟み込むように立っていた。

 

 声を発することもなく、銀色の顔面だけをこちらへ向けている。短刀を握るベルの掌へ、じっとりと汗が滲んだ。

 

「……帰らないと」

 

 逃げなければならない。

 

 エイナなら、間違いなくそう言う。

 

 今の自分が来るべき場所ではない。

 

 その認識だけは、すでに戻っていた。

 

 けれど、退路を塞ぐ二体の影は逃がしてくれそうにない。

 

「だったら……ここを抜ける」

 

 ベルは短刀を構えた。

 

「――っ!?」

 

 速い。

 

 反射的に上半身を逸らすと、直前まで顔があった場所を刃のような指が通り抜けた。

 

 かわした。そう認識した瞬間、反対側からもう一体が迫った。

 

「くっ!」

 

 短刀を横へ構える。

 

 甲高い音とともに強烈な衝撃が腕を抜け、ベルの身体が大きくよろめいた。

 

 そこへ一体目の腕が伸びた。

 

「がっ……!」

 

 胸元が裂け、赤い血が飛んだ。

 

 今まで戦ったゴブリンやコボルトとは、明らかに違う。

 

 速さも、間合いも、攻撃の鋭さも。

 

「強い……」

 

 二体が再び距離を詰める。

 

 けれど、その動きを見ながらベルは自分の身体に残る感覚へ、僅かな違和感を覚えていた。

 

「……見える」

 

 完全に避けられるわけではない。

 

 余裕などどこにもない。

 

 それでも、見失ってはいなかった。

 

 ウォーシャドウの肩が動く。

 

 長い腕が振り抜かれるより先に、身体を沈めた。

 

「っ!」

 

 頭上を黒い爪が通り抜ける。

 

 そこへもう一体が踏み込んでくるが、ベルは床を蹴って横へ転がった。

 

 避けられる。

 

 戦える。

 

「何で……」

 

 夕方に見た数字が脳裏を過る。

 

 力――H120。

 

 器用――H139。

 

 敏捷――G225。

 

 昨日までとはまるで違っていた、自分のステイタス。

 

「僕……強くなってる」

 

 まだ弱い。

 

 カイとは比べものにならない。

 

 それでも、昨日の自分とは違う。

 

 ベルは大きく息を吐き、感情のまま振るっていた短刀を、今度は生き残るために構え直した。

 

「……行くぞ」

 

 二体の影が動いた。

 

 ベルも同時に床を蹴った。

 

 ウォーシャドウの方が腕は長い。真正面から短刀を振れば、こちらが先に切られる。

 

 ならば、腕が伸び切った瞬間に懐へ潜り込む。

 

「――そこ!」

 

 黒い爪を紙一重でかわし、その腕の内側へ身体を滑り込ませる。短刀が黒い胸を抉り、ウォーシャドウが後退した。

 

 一撃では倒れない。無理に追えば、もう一体に狙われる。

 

 ベルは踏み止まり、背後から迫る気配へ身体を伏せる。二体目の爪が頭上を通り過ぎた瞬間、傷を負った一体へ肉薄した。

 

「はぁぁっ!」

 

 狙うのは胸の奥。

 

 短刀を両手で握り込み、全身の力で突き込む。

 

 硬いものへ刃が触れ、直後に砕ける感触が掌へ伝わった。胸奥の魔石を破壊されたウォーシャドウは身体を硬直させ、そのまま端から灰へ崩れていく。

 

「一体……!」

 

 息をつく時間はなかった。

 

 残された一体が背後から飛び掛かってくる。

 

「くっ!」

 

 間に合わないと判断し、咄嗟に左腕を上げた。

 

 三本の爪が腕を裂き、焼けるような激痛が走る。

 

「ぁ……!」

 

 それでも、ベルは退かなかった。

 

 その一撃を左腕で受けたことで、ベル自身はウォーシャドウの懐へ潜り込んでいた。

 

「捕まえた……!」

 

 刃が首元へ深く入り込み、黒い身体が傾く。ベルは離れず、もう一度斬りつけ、最後に胸へ短刀を突き立てた。

 

 硬い魔石が砕け、二体目のウォーシャドウも灰となって崩れ落ちる。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 ベルも石床へ片膝をついた。

 

 勝った。二体のウォーシャドウを、自分の力で倒した。

 

「……僕が?」

 

 信じられない。

 

 昨日の自分なら、間違いなく勝てなかった。

 

 逃げることさえできずに殺されていたかもしれない。

 

 震える右手を見る。血と汗で濡れた手の中には、まだ短刀が握られている。

 

「……帰らないと」

 

 今度は、はっきりと口にした。

 

 勝てたから先へ行くのではない。

 

 ここは自分が長く留まっていい場所ではない。

 

 ようやくその判断を下した時、壁から嫌な音が響いた。

 

「え……」

 

 一つではない。

 

 左右の壁へ亀裂が走り、その向こうから黒い腕が伸びてくる。

 

 さらに前方の通路からも、ゴブリンやコボルトが集まり始める。

 

『ダンジョンでは、戦っている間にも次のモンスターが生まれます』

 

 また、エイナの声を思い出した。

 

 分かっていたし、エイナから何度も教えてもらっていた。それでも今になって、ベルはその意味を身体で理解した。

 一体倒せば終わるわけではない。自分が疲れていようが傷ついていようが、次が来て、その次もまた現れる。

 

 自分が疲れていようと、怪我をしていようと、ダンジョンは待ってくれない。

 

 これまで自分が潜っていた場所が、どれだけ浅い場所だったのか。

 

 カイ達第一級冒険者が、どのような場所を歩いているのか。

 

 ほんの入口だけを見せつけられたような気がした。

 

「……遠いな」

 

 ベルは乾いた笑みを浮かべた。

 

 絶望したからではない。

 

 ここまで来て初めて、憧れた背中との距離が少しだけ具体的に見えたからだ。

 

「でも……追いつきたい」

 

 だからこそ、ここで終わるわけにはいかない。

 

 死んでしまえば、あの背中を追うことすらできなくなる。

 

 ベルは短刀を握り直し、地上へ続く道を見据えた。

 

「帰るんだ……!」

 

 モンスター達が一斉に動いた。

 

 ベルは出口へ続く道を切り開くため、迫る魔物へ踏み込んだ。

 

     ◇

 

 空が白み始める頃。

 

 朽ちた教会の前へ、小柄な女神が疲れ切った足取りで戻ってきた。

 

「……いない」

 

 ヘスティアの声は掠れていた。

 

 眠ることなどできなかった。

 

 夜のうちに《豊穣の女主人》へ足を運び、ベルが突然店から飛び出したと聞いた。シルも追ったものの、人混みの中で見失ったという。

 

 そこからヘスティアは酒場の周囲をはじめ、大通りや中央広場、ベルが立ち寄りそうな場所を思いつく限り探し回った。

 

 まさか感情に任せて夜のダンジョンへ潜ったのではないか――そんな最悪の考えが浮かんだが、確かめる術もなく、結局また街へ戻り、入れ違いになっているかもしれないと何度もホームへ戻っている。

 

 

「どこ行ったんだよ……ベル君」

 

 唇を噛む。

 

 怒っていた。

 

 けれど、それ以上に怖かった。

 

 もし、何かあったのなら。

 

「……っ」

 

 その先を考えたくない。

 

 俯きかけた時、まだ人通りの少ない朝の道に足音が響いた。

 

「……?」

 

 ヘスティアが顔を上げる。

 

 遠くに、小さな人影が見えた。

 

 白い髪。

 

「ベル君!」

 

 考えるより先に駆け出していた。

 

 だが、近づくほどにヘスティアの表情から血の気が失われていく。

 

 服は何箇所も切り裂かれ、全身に血が滲んでいた。左腕には即席で巻いた布があり、歩いていることさえ不思議なほど少年の身体は傷だらけだった。

 

「ベル君!? どうしたんだい、その傷!」

 

「……神様」

 

「『神様……』じゃないよ! 本当に心配したんだからね!」

 

 ヘスティアがベルの身体を支える。

 

 触れた身体は熱を持ち、足にもほとんど力が入っていなかった。

 

「何があったんだい? ずっとどこにいたんだい?」

 

「……ダンジョンです」

 

「ダンジョン!?」

 

 思わず声が裏返る。

 

「こんな時間まで、一人で?」

 

「……はい」

 

 ヘスティアは息を呑んだ。

 

「……どこまで行ったんだい?」

 

 ベルは少しだけ視線を逸らした。

 

「第六階層まで……」

 

「第六階層!?」

 

 早朝の通りへ、女神の声が響いた。

 

「ベル君、君はまだ第五階層までだっただろう!?」

 

「すみません……気づいたら」

 

「気づいたらって……!」

 

 言いたいことはいくらでもあった。

 

 一人で夜のダンジョンへ潜ったこと。

 

 自分の適正階層を越えたこと。

 

 こんなになるまで戦ったこと。

 

 けれど、ベルの顔を見た瞬間、それらの言葉は喉の奥で止まった。

 

 少年は泣いていない。

 

 血で汚れた顔には疲労が色濃く残っている。

 

 それでも赤い瞳だけは、何かを見失うまいとするように前を向いていた。

 

「神様……」

 

「……何だい」

 

 ベルの声は掠れていた。

 

「僕……強くなりたいです」

 

 ヘスティアは何も言わなかった。

 

「もっと……もっと強くなりたい」

 

 カイのようになりたい。

 

 そうは言わなかった。

 

 けれど、ヘスティアには分かった。

 

 ベルの瞳が追っているものが何なのか。

 

 遠く先にいる誰かの背中へ届こうとしている。

 

 けれど、それだけではない。

 

 今度は自分自身の足で立ち、自分の力で危険を越えたいと願い始めている。

 

「……うん」

 

 ヘスティアはベルの身体を強く支えた。

 

「なれるよ。君なら、強くなれる」

 

 その言葉を聞いた瞬間、ベルの身体からふっと力が抜けた。

 

「ベル君!?」

 

「すみません……もう、限界……です」

 

「ベル君! ちょ、ちょっと! ここで寝ちゃ駄目だよ!」

 

 慌てて抱き留める。

 

 返事はなかった。

 

 限界まで張り詰めていた糸が切れたように、ベルはヘスティアの腕の中で眠りに落ちていた。

 

     ◇

 

 同じ朝。

 

 黄昏の館では、遠征から戻った団員達が遅めの朝食を取り始めていた。

 

「……なあ」

 

 食堂の隅から、低い声が響く。

 

「俺、本当にそんなこと言ったのか?」

 

 テーブルへ突っ伏しているベートを見て、ティオナがこくりと頷いた。

 

「言ったよ」

 

「かなり盛大にね」

 

 隣のティオネが冷淡に追い打ちをかける。

 

「白髪の子を散々馬鹿にして、カイにもリヴェリアにも怒られてたじゃない」

 

「…………」

 

 狼人の耳が垂れたように見えた。

 

「酔いが醒めた後にロキから聞いたんでしょ?」

 

「……聞いた」

 

「じゃあ何で確認したのよ」

 

「何かの間違いかもしれねぇだろうが……」

 

「自業自得だね」

 

「うるせぇ、アマゾネス」

 

 いつものように噛みつく声にも、普段ほど勢いがない。

 

 その様子を見たレフィーヤは、少し意外そうに目を瞬かせた。

 

「ベートさんでも、落ち込むことあるんですね……」

 

「聞こえてんぞ、エルフ!」

 

「す、すみません!」

 

「謝るな! 余計ムカつく!」

 

 レフィーヤが慌てて口を押さえ、ティオナが堪え切れずに笑う。

 

 しかし、その笑顔はすぐに別の方向へ向いた。

 

「それよりさ」

 

 少し離れた席。

 

 アイズが静かに朝食を取っている。

 

 いつもの無表情。

 

 けれど、ティオナ達にはその僅かな違いが分かっていた。

 

「アイズ、まだ元気ないよね」

 

「昨日よりはマシに見えるけど」

 

 ティオネが答える。

 

「クリスタルドロップを渡した時は、少し元気になってくださったんですけど……」

 

 レフィーヤも不安そうにアイズを見る。

 

 そこへ、長い翠髪を揺らしてリヴェリアが歩み寄った。

 

「保護者(リヴェリア)登場」

 

 ティオナが小声で呟く。

 

「聞こえているぞ、ティオナ」

 

「えっ」

 

「口を慎め」

 

「はーい……」

 

 ティオナが肩を縮める。

 

 リヴェリアは小さく息を吐き、そのままアイズへ視線を向けた。

 

「アイズ。少しいいか?」

 

「……うん」

 

 二人は食堂を出ていった。

 

 その背中を見送りながら、ティオナが頬杖をつく。

 

「リヴェリアに任せてれば大丈夫だとは思うけどさ」

 

「こっちはこっちで、何かしてあげたいってこと?」

 

「うん」

 

 ティオネに頷き、ティオナはもう一度アイズが消えた扉を見る。

 

 レフィーヤも同じ方向へ目を向けながら、胸の前で手を握った。

 

 ◇

 

「何があった?」

 

 人の少ない廊下へ移ったところで、リヴェリアが尋ねた。

 

 アイズは足を止める。

 

「……ステイタス」

 

「やはりそうか」

 

 アイズは視線を落とした。

 

 帰還直後に更新したステイタス。Lv.5になって三年が経ち、ほとんど伸びなくなった基本アビリティ。

 

 途中で断念した第五十九階層への遠征。第五十一階層で遭遇した、正体の分からない女の姿をした怪物。

 

「もっと……強くなりたい」

 

 口をついて出たのは、やはり同じ言葉だった。

 

「今のままじゃ、足りない」

 

「何が足りない?」

 

「全部」

 

「お前が力を求める理由を、私は知らぬわけではない」

 

 アイズの瞳が僅かに揺れた。

 

「だからこそ言っている。焦りに任せて剣を振り続ければ、お前はいつか自分自身を見失う」

 

「……でも、止まりたくない」

 

「止まれとは言っていない。進み方を見失うなと言っている」

 

「焦る必要はない。迷うのなら、迷いながらでも考え続けろ」

 

「……うん」

 

「それでも分からなければ、言いに来い。相談ぐらいには乗ってやる」

 

 アイズは僅かに目を見開いた。

 

「リヴェリア」

 

「何だ?」

 

「……ありがとう」

 

 リヴェリアは小さく息を吐く。

 

「礼を言うにはまだ早い」

 

 そう言いながらも、その声音は先ほどより僅かに柔らかかった。

 

「朝食へ戻るぞ」

 

「うん」

 

 二人が歩き始める。

 

 胸の中の靄が消えたわけではない。

 

 強くならなければならない。その思いも、焦りも、何一つ消えてはいなかった。

 

 それでも、一人で抱え込んでいた時よりは少しだけ息がしやすくなっていた。

 

     ◇

 

 食堂へ戻る途中。

 

 中庭から、乾いた風切り音が聞こえてきた。

 

 アイズが足を止める。

 

「……カイ」

 

 視線の先。

 

 借り物の長槍を構えたカイが、一人で型を確かめるように穂先を走らせていた。

 

 突きから払い。

 

 柄を返して石突きを振り、半歩踏み込んで再び穂先を前へ出す。

 

「……違うな」

 

 動きを止め、僅かに眉を顰める。

 

 〖ヴァレス〗より軽い。

 

 重心の位置も違えば、穂先へ力が乗るタイミングも違う。

 

 戦えないほどではない。

 

 だが、使い慣れた武器との僅かなずれが気持ち悪かった。

 

「朝から精が出るな」

 

 リヴェリアの声に、カイが振り返る。

 

「あ?」

 

「遠征から戻ったばかりだ。少しは身体を休めたらどうだ?」

 

「休んだぞ」

 

リヴェリアは小さく息を吐いた。

 

「……相変わらずだな、お前は」

 

「動けるんだからいいだろ」

 

「よくない」

 

 即座に返され、カイが口を尖らせる。

 

 アイズはそのやり取りを見てから、借り物の槍へ目を向けた。

 

「使いづらい?」

 

「ちょっとな」

 

「私も」

 

 腰にある借り物のレイピアへ手を添える。

 

「デスペレートと違うから」

 

「そりゃそうだろ」

 

 カイは槍を軽く回し、肩へ担いだ。

 

 そこでアイズが思い出したように口を開く。

 

「昨日の子」

 

「白髪の?」

 

「うん」

 

「それが?」

 

「……大丈夫かな」

 

 カイが首を傾げる。

 

 昨夜の白髪の少年。

 

 自分達の会話を聞き、俯いたまま《豊穣の女主人》を飛び出していった。

 

「さあな」

 

 それ以上の答えは出せなかった。

 

「昨日見た時は怪我してなかったし、追い掛けても余計逃げそうだったからな」

 

「……うん」

 

「次会った時に話せばいいだろ」

 

「何を?」

 

「名前くらい聞くとか?」

 

 アイズが瞬きをした。

 

「知らないの?」

 

「聞く前に逃げられたよ」

 

「……そうだった」

 

「二回もな」

 

「二回」

 

「第五階層と昨日」

 

 カイが僅かに眉を寄せる。

 

「何であいつ、俺見ると逃げんだ?」

 

「……分からない」

 

「だよな」

 

 本気で疑問らしい。

 

 アイズは少しだけ首を傾げ、それからほんの僅かに目元を和らげた。

 

 ベル・クラネルにとって、カイ・ヴァレスはすでに追いかけるべき巨大な背中になっている。

 

 けれど、カイにとってのベルはまだ。

 

 名前さえ知らない、妙に自分を見ると逃げていく白髪の駆け出しに過ぎなかった。

 

「カイ」

 

「今度は何だ?」

 

「カイは……焦らないの?」

 

「何が?」

 

「もっと強くならないと、って」

 

 唐突な問いだった。

 

 先ほどまでのリヴェリアとの会話が、まだ胸の中に残っていたのだろう。

 

 カイは一瞬だけ目を瞬かせる。

 

「んー……」

 

 少し考える。

 

「強くなりたくねぇわけじゃないけど」

 

 借り物の槍を見下ろす。

 

「それが一番じゃねぇな」

 

「一番?」

 

「強い奴と戦いてぇ」

 

 迷いのない答えだった。

 

「今回の芋虫みてぇな新種も、あの女みてぇな奴も、まだ何なのか分かってねぇだろ」

 

「……うん」

 

「第五十九階層にも行けなかった」

 

 カイの視線が、黄昏の館の向こうへそびえるバベルへ向かう。

 

「もっと下には、もっと強ぇ奴がいるかもしれねぇ」

 

 赤い瞳が楽しそうに細くなった。

 

「だったら、見てぇし、戦いてぇ」

 

「だから、強くなる?」

 

「そう」

 

 カイは笑う。

 

「今のままじゃ届かねぇ奴と戦うために、強くなる」

 

「……そう」

 

 アイズが小さく呟く。

 

 似ているようで、違う。

 

 自分はただ、もっと強くならなければと焦っている。

 

 カイは、強さの向こう側にある何かへ手を伸ばしている。

 

「何だよ?」

 

「何でもない」

 

「さっきからそればっかだな」

 

 アイズは答えなかった。

 

 ただ、ほんの少しだけ考えるように視線を伏せる。

 

「アイズー!」

 

 そこへ、中庭の向こうから大きな声が飛んできた。

 

 ティオナ。

 

 その後ろにはティオネとレフィーヤもいる。

 

「いたいた!」

 

「何?」

 

「今日さ、私達に付き合わない?」

 

 アイズが首を傾げた。

 

「どこに?」

 

「街!」

 

「……ダンジョンじゃなくて?」

 

「何で休日の誘いで真っ先にダンジョンが出てくるのよ」

 

 ティオネが呆れたように言う。

 

 レフィーヤは一歩前へ出た。

 

「あの、アイズさん。街へお買い物に行きませんか?」

 

「買い物?」

 

「はい!」

 

 緊張しているのか、レフィーヤの声が少し上擦る。

 

「気分転換にもなると思いますし、その……皆さんで一緒に行けたらって」

 

 アイズは三人を見る。

 

 ティオナが笑い。

 

 ティオネが仕方なさそうに肩を竦め。

 

 レフィーヤが期待と不安の入り混じった顔でこちらを見ている。

 

「……うん」

 

「本当ですか!?」

 

「付き合う」

 

 レフィーヤの顔が一気に明るくなる。

 

「やった!」

 

「じゃあ決まり!」

 

 ティオナがアイズの腕を取る。

 

「ちょ、ちょっとティオナさん! 私が誘ったんですから!」

 

「みんなで行くんでしょ?」

 

「そうですけど!」

 

 騒がしくなる三人を見ながら、アイズは少しだけ目を細めた。

 

「カイも行く?」

 

 ティオナが振り返る。

 

「買い物?」

 

「うん!」

 

「何買うんだ?」

 

「服とか!」

 

「行かねぇ」

 

「即答!?」

 

「槍振ってる方がいい」

 

「カイらしいわね」

 

 ティオネが苦笑する。

 

「じゃあ留守番よろしくー!」

 

「何で俺が留守番なんだよ」

 

 ティオナ達の声が遠ざかっていく。

 

 アイズも少し遅れてその後を追いかけようとして、ふと足を止めた。

 

「カイ」

 

「あ?」

 

「行ってくる」

 

「おう」

 

「……槍、壊さないでね」

 

「借り物まで壊す前提で話すな!」

 

 返ってきた声を聞き、アイズは僅かに笑い、そのまま三人の後を追った。

 

     ◇

 

 中庭に一人残されたカイは、しばらくその背中を見送っていた。

 

「買い物ねぇ……」

 

 自分にはよく分からない。

 

 服なら着られればいい。

 

 武器なら戦えればいい。

 

 だが、あれでアイズの気が少しでも晴れるなら、悪くはないのだろう。

 

 借り物の槍を握り直す。

 

 軽い。

 

 やはり〖ヴァレス〗とは違う。

 

 それでも。

 

「慣れりゃ使える」

 

 穂先を前へ向けた。

 

 一度より二度。二度より三度。先ほどまでよりは狙った位置へ収まるようになっている。

 

 カイは満足そうに口元を上げた。

 

 それから、ふと。

 

 中庭の向こうに見える白亜の巨塔を見上げる。

 

 バベル。

 

 その地下には、世界最大のダンジョンがどこまでも続いている。

 

 第五十九階層には届かなかった。

 

 第五十一階層で現れた新種の正体も分かっていない。

 

 あの女型の怪物が何者だったのかも。

 

 そのさらに下に何がいるのかも。

 

 何一つ分からない。

 

「……いいな」

 

 自然と笑みが浮かぶ。

 

 分からないことばかりだ。

 

 ならばまだ、いくらでも先がある。

 

「次は……もっと下まで行きてぇな」

 

 同じ朝、一人の白髪の少年は傷だらけの身体で願った。

 

 もっと強くなりたい、と。

 金髪金眼の剣士もまた、足りない強さを求め続けている。

 

 そしてカイが求めているのは、その強さの先だった。

 

 まだ見ぬ強敵。まだ知らない深層。

 

 赤い瞳は、地下深くへ続くダンジョンの入口――白亜の巨塔バベルを見据えていた。

 

         第六話 了




ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

感想や気になった点、誤字脱字などありましたら教えていただけると嬉しいです。

次回もよろしくお願いします。
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