「おい、急に走り出してどうしたんだよ」
下校途中のことである。
彼女、灰原哀が転校してきたのはつい最近のことだ。
本音を言わない、どこか影のある少女だった。
その実全てに対して希望を失っていて、組織に対する復讐に燃えるひと。
「あなたを利用してでも、私は組織に復讐を果たす。それでも私をうちに抱え込むの?」の自嘲と共に問いかける、優しさを捨てきれない女性。
その彼女が、フードを深く被り、震えて道路脇にうずくまっている。
「おい、灰原」
「阿笠邸に来て、一緒に!」
「何があったんだよ」
「いいから!!!」
勢いに押され、手を引かれてコナンは走り出した。
阿笠邸へ辿り着くと、灰原は扉を閉めて念入りに施錠した。
「おかえり哀君」と挨拶する阿笠博士もすぐに異常を理解しておろおろし出した。
居間を出て狭い部屋に篭るように三人か集まる。
部屋の明かりが薄暗く感じて、コナンは顔を顰めた。
「んで、なんだったんだよ」
「あのあなたの家の下に入ってるポアロとかいう店の店員」
「ああ、安室さんか。さっき掃き掃除してたな」
「バーボンだった」
え、と掠れた声が響いた。
遅れて、それが自分の声だったと気がつく。
バーボン、というのは彼女の姉を殺した組織幹部だと言うことは知っている。
名前だけは聞いていたが、それがまさか……。
「な、何言ってんだ。なにかの見間違いじゃないのか」
「そんなわけないでしょ!あんな特徴的な容姿の男、他に誰がいるっていうのよ!」
「………」
コナンは絶句して言葉を失った。
安室が、組織幹部。
NOCとして組織に潜入捜査しているのか、だとしたら灰原の姉を残忍に殺したのは一体なぜなのか。
まさか逆で、公安に潜入している組織のスパイなのか。
ぐるぐると思考が巡る中、灰原が恨みをあらわに叫ぶ。
「殺してやる!のうのうと、あんな平和を謳歌して!お姉ちゃんをあんなに無惨な方法で殺しておいて!」
「灰原……」
「地下室に!バラバラにして腐るまま放置して!墓にも、入れずに……せせら笑っていた奴!悪魔憑きの狂人!」
コナンの正体を知りつつ泳がせていたのか。
まさかアポトキシン4869の被験者の状態を確認するために、コナンのことをじっと観察していたのか。
己の感じていた友情は嘘だったのか。
考えがまとまらない。
コナンは慎重に灰原へと問いかけた。
「なあ、マーリンってコードネームの組織の幹部はいるのか」
「聞いたことは無いわ。私は全ての幹部を知ってるわけじゃないし。でも居てもおかしくはないわね」
「………」
マーリン。
一般的には、甘く深みのある伝統的シードルの一種を指す。
ばたばたと慌てたように阿笠博士がコナンの肩を掴んだ。
「し、新一、危険じゃ!安室さんは新一の正体を…」
「ああ。なら、安室さんの真意を確かめるっきゃねーだろ」
コナンは力強く眦を強めた。
「どっちにしろ、灰原に仇を討たせてやることはできねぇ。灰原にこれ以上を罪を重ねさせたくないし、正しい司法のもとで裁かれるべきだ」
「ばかじゃないの。だから公安なんかに潜り込んでるんでしょ。公安の人間が正しい裁きなんて受けるはずがないわ」
「それでもだ」
それでも。
真実の追求をやめたりしない。真相を白日の元に晒すことを諦めたりしない。
それが探偵の在り方だ。
「俺は真実を明らかにして、安室さんが何を考えていたか白日の元に晒す」
「………」
「短い間だけど、友人って呼んでくれたんだ。なら、いや、だからこそ白黒はっきりつける」
「………好きにしなさい」
灰原は肩をすくめたようだった。
「どちらにしろ、今の私にあの男を殺す手立てはないわ。こんな子供の体じゃナイフを抱えて飛び出ても一捻り。毒もまともに買えない。無力な子供だわ」
「灰原、早まった真似をするなよ」
「わかってるわよ。今あの男を短絡的に殺せば、この家は組織によって放火され博士もあなたも殺される。流石にそんな恩知らずじゃないわよ」
「それでも、隙があるならやるだろ」
「………」
灰原はドス黒い怨念の滲む瞳でせせら笑った。
それは間違いなく、あの業火の中で見たものと同じ、ピアノソナタの旋律と同じ、身を捨てるための怨念だった。
「そうね。だって、こんなに恨めしいんですもの」
「哀君……」
「呑気に平和そうに昼間の店の前で掃き掃除して、同僚の女性と雑談して。まるで表の人間みたいに屈託なく笑って。絶対に殺してやる」
「……博士、灰原を見張っといてくれ。ともかく俺は安室さんに真意を聞いてくる」
「じゃが、もし本当に組織の人間だったとしたら新一が危険じゃ!」
「その時はなんとかするさ。頼んだぜ博士」
スケボーを持って、腕時計型麻酔銃とキック力増強シューズを確かめて。
コナンは走り出したのだった。
『よぉ、バーボン。依頼だ』
「昼間っからなんですジン。今忙しいんですけど」
『シェリーがいなくなった。悪魔の力で行方を調べろ』
「!……言っときますけど相棒の力は万能じゃありませんよ」
バイト中の電話に、降谷君は迷惑そうに嘆息した。
こうして前振りなく突然銀髪君から依頼を投げつけられるのにも慣れたものだ。
でも銀髪君、バーボンには優しくて予定がバッティングしてるとずらしてくれるんだよね。
他のメンツに投げる時はずらしてくれないし期日が過ぎて完了してなかったらズドンだし。
あの暴れん坊将軍はほんとなんとかしたほうがいいと思う。
「で、いつ居なくなったんですか」
『三日前だ』
「はぁ?その間何を……下っ端に探させて、ダメだったってわけですね。シェリーもなかなかやりますね」
『ぐだぐだ抜かすからボイラー室に閉じ込めてたんだが、もぬけの殻だった。見張も使えねぇ奴ばかりだ』
「射撃の的にするのはやめてくださいよ。人材もタダじゃないんですから」
『死体ぐらいならテメェの悪魔にやれるが』
「もう殺したんですか…死体をもらっても相棒も困ります」
なんか最近悪魔にあやかろうとして組織内に妙な宗教が蔓延してるんだよね。
私のサーヴァント召喚陣に似た不格好な円を血で書いて死体を捧げるやつ。
たぶんあの動画を銀髪君がそこかしこで流すからだと思うけど。
死体はね、困るんだよね。
なんのエネルギーもない空き缶というか。
なのに怨念だけは一丁前だから、怪異の核になりやすいし。
丁寧に埋葬してやることしかできない。
ちなみに私は感情を食べるが、好みは幸福や悦楽といったまろやかな味わいである。
一回むしゃくしゃした時に降谷くんにシードル原液を飲ませて幸福漬けにして思う存分食いまくった時があるが、あれは愉快な事件だった。
酒の影響を完全に抜いた後ものすごい怒られたが、私は最高級ビュッフェ状態であった。
脳内ナザレの人にも懇々と説教されたからもうしない。
「ともかくシェリーを探して、進捗があったら報告します」と言って降谷くんが電話を切る。
それから息をついて箒に顎を乗せた。
『で、マーリン。志保さんは無事か?』
『無事だよ。さっき横の道通ったよ』
『ブッッッ。言ってくれても良くないか!?』
『いや、鼻歌歌ってて機嫌よさそうだったから後で言おうかと思って』
最近色々順調だからな。
降谷君もストレスフリーで、なんとなく邪魔したくなかったのだ。
今話しかけても事態が拗れるだけのような気がしたし。
『ともかく志保さんの保護だな。まさか逃げ出すとは思ってなかったけどちょうど良かった。志保さん、意外と鍵開けのスキルとかあるんだな』
『どうだろう、そうは見えなかったけど…』
『よし、まずはバイトを早引きしよう』
『降谷くん、そろそろ梓くんにジャーマンスープレックス喰らうよ。自由な勤務形態は程々にね』
どうしようもねぇ早退常習犯は「すみません!急用で早退します!」の一言で華麗にバイト先から消えていく。
どんなイケメンでもそろそろゴミ扱いされそうなものだが、梓くんは普通に許してくれる。
ナザレの親友並みの心の広さだ。
片付けて車に向かう。
すると、先回りしていたらしいコナンくんがスケボーを片手に駐車場入り口で待っていた。
駐車場はビル裏手の奥まった箇所にあり、日陰になっていてどこか陰気臭い。
降谷くんが車に手をかけていつも通りにっこりした。
「コナン君!どうしたんだい、何か事件でもあった?」
「………安室さん」
コナン君は俯いてしばし沈黙する。
それから決意を固めたように降谷くんと目を合わせた。
深い青の輝きが降谷くんを捉えら。
「バーボン。聞き覚えある?」
「………お酒かな。美味しいとは思うけど、僕はよく料理酒に使うかなぁ」
「あなたのコードネーム、だよね」
「なんのことかよくわからないなぁ」
にっこり笑いつつ、内心すごく焦っている降谷くんです。
「わわわわなんで急にコナンくんどうして」と念話が漏れている。
バーボンの名前が出たからか、ついつい降谷君の笑みが影を帯びる。
そのせいで何処か淫靡な色のようなものが唇をを舐める降谷くんから放たれた。
私はわかるんだが、「話が全然見えない突然なぜバーボンの話を!?」と思っているに違いない。
「答えて。どうして宮野明美さんを殺害したの」
「………待って欲しい。何か重大な誤解がある気がする」
「誤解って?」
「うん、ここでは言えないから場所を移そう。僕の家、もしくはシェリーのやさに行こう」
「酷いことしない?」
「しない。その物騒な腕時計に誓って言うけど僕は無実だ。いや無実とは言えないかもしれないけど、君に危害は加えない」
「………わかった」
あーなるほどね、完全に理解した。
私は千里眼で状況を把握して、思わず眉間を揉みしだいた。
碌でもない状況ではあるが、コナン君が間に入ってくれて助かったと言えるだろう。
・歴史と神学
歴史界隈では「夢の介入者」と呼ばれる現象があることは公然の事実だが、それをマーリン伝説と結びつける神学界とは意見が対立しがち
情報機関や外交の中枢では「夢の介入者」の実在を把握しており、出現記録をつけている。
公安はその性質上、降谷に憑く「夢の介入者」を極めて重要視しており、降谷に巨大な裁量権を与えている。
・シードル原液事件
降谷に裏切られたマーリンの怒りの仕返し事件。
幸福抽出機にされた降谷はホワホワした状態でずっとチューチュー幸福感を吸われていた。
諸伏の嘆願で解放され、今はシードル原液の影響は完全に抜けている。