「……提督、起きた?」
横須賀鎮守府の早朝。時雨は、提督室に忍び込んで布団の中で起きるのを待っていた。
提督の私室は、執務棟の二階奥にある。朝日が薄いカーテン越しに差し込み、部屋はほのかな橙色に染まっていた。布団の中で、若い男の寝息が規則正しく響いている。時刻は〇五三〇。起床ラッパの一時間前だった。
提督は、布団の中で微かに身じろぎし、寝ぼけた声を漏らした。
「ん……んぅ……」
どうやらまだ夢の中にいるらしく、布団を抱きしめるように丸くなった。その腕の先には――何かがあった。温かくて、柔らかくて、明らかに人間ではない何かが。
「……っふふ、まだ寝てる」
時雨は、小さく笑って提督を起こさない程度にギュッと身体に抱きついてみた。
提督は無意識のうちに、腕の中の温もりを引き寄せた。まるで抱き枕か何かと思っているかのように、ぐっと力を込めて。
「んー……あと十分……」
提督の顔が時雨の髪にほぼ密着するほど近づき、寝息が時雨の耳元にかかった。完全に熟睡している。第二種軍装の上着だけ脱いで、白のシャツと軍袴という寝間着姿の提督は、起きる気配が微塵もなかった。
廊下はまだ静まり返っている。巡回の当番が通るにも早すぎる時間帯で、提督室には二人分の呼吸音だけが満ちていた。提督の腕は時雨の腰をしっかりと抱え込んでいて、少し身じろぎしただけで余計に締まる具合だった。
「……提督、早く起きないとキスしちゃうよ?」
時雨は、からかうように提督の耳元で囁いた。
当然ながら、反応は寝息だった。すぅ、すぅ、と規則正しい呼吸が続く。むしろ時雨の囁きに無意識で反応したのか、腕の力がさらに強まり、ぐいっと時雨を胸元に押し付けた。
「……んっ、と。…提督?」
提督の寝顔は呑気そのもので、口元にはうっすら涎が光っていた。普段はそれなりに威厳のある顔立ちなのだが、今この瞬間だけは完全に無防備だった。シャツの襟元は寝乱れて鎖骨が覗き、軍袴の裾から素足が伸びている。
時計の針が静かに進む。〇五三五。あと二十五分で起床ラッパが鳴る。
「……ボクを無視するのかい?………んっ」
時雨はジト目で頬を膨らませた後、ニコッと笑って提督の唇にそっと自身の唇を這わせた。ほんの一瞬の出来事だったが、キスをしたのは間違いない。
「……っ」
唇が離れた。ほんの一瞬だけの接触。提督の唇は乾いていて、少しだけ温かかった。
ぴくり、と眉が動いた。寝息が一瞬だけ止まる。
「……ん」
だが、それだけだった。寝返りを打って反対側を向いてしまい、時雨を抱く腕が緩んだ。枕に顔を半分埋めて、また規則正しい寝息が再開する。
〇五四十分。提督の口元がもごもごと動いた。何か寝言を呟いているようだった。
「……陸奥……それ機密書類……食べるな……」
「……っ夢の中では、他の艦娘の事かい?……むぅ」
時雨は、少し拗ねたように眉をひそめて提督の背中に抱きつきながら額を擦り付けた。
背中に押し付けられる温もりを感じてか、むにゃ、と小さく唸った。無意識に背中を丸めて、まるで猫のように体を縮こまらせる。
「……ん……あったかい……」
寝言だった。完全に寝言だった。提督の意識は一ミリも浮上しておらず、ただ背中の温もりを心地よい熱源としてしか認識していなかった。
〇五四五。起床ラッパまで残り十五分。窓の外では雀がちゅんちゅんと鳴き始め、鎮守府に朝の気配が忍び寄ってきていた。だが、提督の寝息は一向に浅くなる気配がない。むしろ時雨の体温に包まれて、より深く眠りに落ちているようにすら見えた。
提督の夢の中では、まだ陸奥が機密書類をかじっているらしい。口元がヤギのように、もごもご動いている。
「……っもう、提督なんて知らない」
時雨はプイッと提督から離れて起き上がり、乱れた制服を整えた。しばらく寝息をたてる様子を伺った後、提督の首筋にキスをした。
「……っん」
首筋に唇が触れた瞬間、びくっと肩が跳ねた。
「ひゃっ……!」
だが、目は開かなかった。むしろ首をすくめて布団に潜り込み、ミノムシのようになって完全に繭状態と化した。
時雨が静かに部屋を出ると、廊下は朝の光で白く染まっていた。板張りの床がひんやりと冷たい。時刻は〇五四八。あと少しで起床ラッパが鳴り響く。
提督室の扉の向こうから、まだ寝息が聞こえていた。あの男は起きる気がない。完全に寝る気だ。
と、廊下の角から足音が聞こえた。規則正しく、重い軍靴の音。
秘書艦の長門が、朝の巡回で廊下を歩いていた。時雨が提督室の方向から歩いてくるのを見て、足を止めた。
「……時雨か。こんな朝早くに、提督の私室の前で何をしている?」
「……おはよう長門さん。…ボクは提督の机に、昨日渡しそびれてしまった書類を置きに行っていただけだよ。どうせ、まだ起きないだろうから朝イチ、一番はじめに視界に映る場所に書類を置いておこうと思ってね」
時雨は、普段通りのクールな表情で長門の質問に答えた。
長門の目が僅かに細まった。秘書艦として提督の私室への出入りは把握しているが、早朝に駆逐艦が訪ねてくるのは珍しい。
「……そうか。書類か」
腕を組み、提督室の扉にちらりと視線をやった。中から規則正しい寝息が微かに聞こえてくる。長門の眉がぴくりと動いた。
「……あの馬鹿、まだ寝ているな」
〇五五五。起床ラッパまであと五分。長門の表情がわずかに引き締まった。秘書艦として毎朝提督を起こすのも業務の一環なのだが、この男は毎度のこと起きない。戦艦級の腕力で布団を引き剥がすのが日課だった。
長門は暫くの間、額に手を当てて悩み抜いた末、時雨をじっと見据えた。
「ちょうどいい。時雨、お前も手伝え。今日は二人がかりで起こす」
「……うん、良いよ」
時雨はクールな表情から一転、いたずらっ子のような顔をして長門からの提案に賛同した。
〇五五九。起床ラッパまで六十秒。長門が重い足取りで提督室の扉の前に立ち、ノックもなしに扉を開けた。
「提督。起床時間だ。三つ数える」
返答はない。布団の中の繭は完全に無言だった。
……一、二、
ずかずかと室内に踏み込み、布団の端を掴んだ。戦艦の握力により布団を掴む音がみしっと響く。
「…三つ。提督、起きろ」
「やぁ……あとごふん……」
布団の中から絞り出された声は完全に子供のそれだった。ミノムシ状態のまま、微塵も動く気配がない。
長門のこめかみに青筋が浮かんだ。そして、時雨の方を振り返った。
「……見ろ、この有様だ。いつものことだ。遠慮はいらん、好きにやれ」
時雨は、「はーい」と軽く返事を返して提督の耳元へと身体を寄せた。
「……提督ー?早く起きないと、提督の大事に隠し持っているアノ秘密を皆にバラしちゃうよ?……良いのかなー?」
提督の耳元で悪魔の囁きをした時雨。
すると提督の上体が、がばっと跳ね起きた。髪はぼさぼさ、目は半開き、涎の跡が頬についている。だが、その瞳には明確な恐怖が宿っていた。
「なっ……何を……!?」
提督の目が泳いだ。長門がいる。時雨がいる。寝起きで頭が回っていない提督の顔が、みるみる青ざめていく。
「お、起きました。起きてます。はい」
長門は腕を組んだまま、冷ややかな視線を注いだ。
「……ふむ。一発で起きたか。いつもなら戦艦二人がかりで布団を剥ぐ必要があるというのに」
長門の目が時雨と提督の間を行き来した。何を隠しているのか、秘書艦として気にならないわけがない。
青い顔をした提督は布団を胸元までぎゅっと引き上げ、時雨を見た。目が「頼む」と必死に訴えていた。
「な、何もない。何もないぞ長門。ただ普通に、その、目が覚めただけだ」
「……っふふ、良かった。起きたのならアノ秘密は守るよ。ボクは、口が堅いことで有名だからね?」
時雨は、提督の涎を優しく拭き取ってあげながら語った。
提督は時雨に顔を拭かれて、ほっとしたような、それでいて胃が痛いような複雑な表情を浮かべた。
「あ、ああ……ありがとう時雨……」
ちらりと長門の方を窺う。秘書艦の視線が刺さっている。明らかに「秘密」の中身を知りたがっている目だ。
長門は、一歩前に出た。そして問いかける。
「……秘書艦として、提督の隠し事は把握しておく義務がある。時雨、アノ秘密とやらは何だ」
布団を握る手が震えた。完全に目が覚めた。覚めすぎた。今の提督にとって、深海棲艦より長門の追及の方がよほど恐ろしかった。
「長門、いい。いいんだ。大したことじゃない。男にだってひとつやふたつ……」
長門はさらに一歩詰めた。戦艦の威圧感が部屋に満ちる。
「提督……」
長門の絶対的な威圧に、冷や汗が提督の頬を伝った。そして、助けを求めるように時雨を見た。目が「言うなよ」と訴えている。
「……長門さん、本当にこれは他言無用だよ?……実は提督はね?」
時雨の口から告げられた秘密が、ビッグ7である長門を凍りつかせた。
「提督はね、一人で夜中にトイレへ行けないみたいなんだ。……長門さん、このことは、皆には黙っていて欲しいな?」
「…………」
ちなみに、これは嘘である。本当の秘密は提督と時雨だけのものだ。長門へ本当の事を伝える意思は初めから無かった。
「……あ、あ、あ」
当の本人はと言うと、口がぱくぱくと金魚のように動いていた。顔が赤いのか青いのか判別がつかない、人間としてはかなり珍しい色味だった。
「…………」
長門は、瞬きを三回した。
「…………なに?」
戦艦長門、歴戦の猛者、横須賀鎮守府の鉄壁の秘書艦。その顔が、完全に固まっていた。
「……な、なが……こ、これは」
提督は否定したかった。心の底から否定したかった。だが、ここで「嘘だ」と言えば時雨が「じゃあ本当の秘密を」と切り返してくるに決まっている。寝起きである提督の脳がフル回転して出した結論は一つ。
「……あ、ああ。うん。そう、なんだー」
死んだ目だった。
「……うむ」
長門は腕を組んだまま、提督をじっと見つめた。信じがたいものを見る目だった。
「……提督。貴官は、第二種軍装を着る身でありながら、夜間のトイレが…」
「長門。それ以上は言わないでくれ」
布団を被り直したかった。今すぐ消えてしまいたかった。しかし、提督の前には悪魔の時雨と横須賀鎮守府最強である戦艦長門の最強布陣が既に完成していた。
あまりにも目の前の男が憐れだと思ったのか、悪魔——。天使の時雨が助け舟を出してあげた。
「……長門さん、提督をそんな目で見ないであげて欲しいな。夜中に一人でトイレには行けないけど、これでも歴戦の提督なんだ。それは、長門さんが一番分かっているだろう?」
時雨の言う通り目の前の憐れな提督は、これでも日本海軍の中でも、トップクラスの実力者だった。横須賀鎮守府の艦娘たちの信頼も厚く、練度も高い。故に、提督が夜中に一人でトイレに行けないなどと、秘密をバラしてしまえばこの鎮守府は崩壊する。長門でも、それは理解できていた。
「…………」
長門の表情が複雑に揺れた。確かに、提督の実力は折り紙つきだ。大本営からも何度も表彰を受けている。だが、それとこれとは話が別というか。
「……まぁ、そうだな。提督の指揮能力は疑いようがない」
長門の視線がちらりと提督を見た。目が「本当か?」と語っている。
「……っ」
提督は黙って頷いた。頷くしかなかった。歴戦の提督の威厳は、今この瞬間、音を立てて崩れ落ちていた。
「……分かった。この件は他言無用とする。秘書艦として約束しよう」
長門は深くため息をついた。それから時計を確認して、表情を引き締め直した。
「提督、〇六〇〇だ。着替えろ。〇六三〇に会議室で朝礼がある」
長門がスケジュール内容を伝えて部屋を出た瞬間、提督は布団の上に崩れ落ちるように突っ伏した。小声で時雨に囁いた。
「……時雨。お前、俺に一生分の恥をかかせたな」
時雨は目を細めて、提督の後頭部に腕を回して抱きついた。提督の顔にムニュっと時雨の胸が直接当たった。
「……大丈夫だよ提督。ボクは、一人でトイレにも行けない提督を、それでも変わらず愛してるから」
ぶふっ、と顔が時雨の胸に埋まった。柔軟剤の良い香りと共に柔らかくて温かい感触が顔面を覆い、提督の思考が一瞬完全にフリーズした。
「んむっ……!?」
両手で時雨の肩を掴んで引き離そうとするが、寝起きで力が入らない。というより、入れていい力加減が分からない。
「し、時雨っ……長門まだ廊下にいる……!」
実際、長門の足音は廊下で止まっていた。扉の前で、何か思い出したように佇んでいる気配がある。
「愛してるって……お前なぁ……朝から心臓に悪いんだよ……!」
必死に小声で、しかし切実な声で囁いた。顔はまだ時雨の胸元に押し付けられたままだ。
提督の耳が真っ赤に染まっていた。寝起きの頭に、この感触と「愛してる」は破壊力が高すぎた。
「んふふ、……じゃ、早く支度して元の威厳ある提督に切り替えなきゃ。ボクは先に食堂に行ってるね?」
「……っちょ、時雨!?」
そう言って時雨は、提督室から軽い足取りで出ていった。
時雨が廊下を歩いていくと、食堂の方から出汁の良い香りが漂ってきた。間宮が朝の仕込に入っているのだろう。早朝の鎮守府は静かで、すれ違う艦娘もまばらだった。
「……来たか」
時雨が廊下の角を曲がると、食堂の入口付近に長門が立っていた。三つ編みの姿が視界に映った瞬間、少し複雑な表情を浮かべた。
「……時雨。ひとつ聞いていいか」
声を落として、周囲に聞こえないように。
「あの男、本当に毎晩一人でトイレに行けんのだな?」
長門の目は真剣だった。秘書艦として提督の全情報を把握する義務がある、という使命感に燃えている目だった。完全に誤解している。
「……私は長くあの男の秘書艦をやっているが、そんな報告は一度も受けたことがない。まさか、今まで本当に誰にも言えずにいたのか?」
「……うん。実は、そうなんだ。提督の立場的にもプライドが許さない話でしょ?だから、人前でそんな事言えなかったんだよ。……だからせめて、秘書官である長門さんには、この事実を知っていて欲しかったんだ。……提督の事、これからも秘書官として相談に乗ってあげて欲しいな?」
時雨は、完全に長門の事を手のひらで転がしていた。駆逐艦が戦艦を弄ぶ構図は、恐らくこの横須賀鎮守府だけだろう。
長門は腕を組んだまま、深く息を吐いた。戦艦の巨躯が、どこか哀愁を漂わせていた。
「……そうか。あの男にも、そんな弱みがあったのだな」
目を伏せた。歴戦の提督が、夜の闇の中でトイレに怯える姿を想像しているのだろう。その表情には、同情と若干の可哀想なものを見る目が同居していた。
「うむ、分かった。秘書艦として、できる限り力になろう。夜中に提督が呼んだ際には、すぐに駆けつけられるように心がけるとしよう」
完全に真に受けていた。横須賀鎮守府最強の戦艦が、歴戦の提督のトイレの付き添いを志願するという前代未聞の事態が誕生した瞬間だった。
長門の瞳が、真剣な表情で時雨を見た。
「……他にも何か、提督の秘密はあるか?秘書艦として全て把握しておきたい」
「……そうだね。後は——」
その後、しばらくの間提督のあらぬ秘密を長門へと伝えた。そのどれもが、即席で考えた嘘だった。
「…………」
長門の表情が、話を聞くごとに曇っていった。戦艦としての威厳ある顔に、困惑と憐憫が入り混じっている。
「……なるほど。つまり提督は、雷が鳴るたびに震え、実は甘いものに目がなく、猫に話しかけると返事が来ると本気で信じている、と」
殆ど嘘だったが、一つだけ本当の秘密を伝えた。
——歴戦の提督は、超が付く程の甘党だった。
嘘と本当の事を混在させながら、提督の秘密を伝えた時雨に対し、長門は全てを真剣にメモしていた。秘書艦用の手帳に、提督の秘密リストが着々と追加されていく。
「…………はぁ」
長門はペンを止め、深いため息をついた。
「……時雨、感謝する。これで提督の管理がより円滑になるだろう」
手帳を閉じて、ふと真顔になった。
「——して、最後にもうひとつだけ聞きたい。提督は……その、女性の好みは把握しているか?」
「…………う、うん?」
長門の耳がほんの僅かに赤くなっていた。秘書艦としての職務上の質問だ、という体裁を必死に保とうとしているが、隠しきれていない。食堂の奥から間宮の包丁の音がとんとんと響いていた。
「……さ、さぁ、それはどうだろうね?ボクにも、提督の女性の好みは分からないけれど。……そうだね。ボクの完全な偏見にはなるんだけど、素直で包容力のある女性がタイプって所かな?」
時雨は、完全に自分に該当するタイプを長門へ語った。
確かに時雨は、誰にも負けないと自負できるほどの包容力は持ち合わせている。ただ、素直かと言われると——。
そんな時雨の内情など露知らず、長門は相変わらず真剣な眼差しでメモをしているだけだった。
「…………うむ」
ペンが止まった。素直で包容力のある女性。長門は自分の胸を見下ろした。戦艦級の、比喩でなく戦艦並みの胸があった。
「……素直で、包容力」
顎に手を当てて考え込んだ。自分は素直だろうか。包容力は……ある。戦艦だ。物理的にも精神的にも受け止める側だ。これは該当するのでは?
長門の目が微かに輝き始めていた。完全に自分に当てはまると思い込んでいる。秘書艦としての冷静さが、恋愛方面にだけ妙に鈍かった。
「……ふむ。参考になった」
長門は手帳をパチンと閉じて、咳払いをした。
「さて、私は提督を迎えに行くとしよう。朝礼に遅れると困るからな。時雨、食堂で少し待っていろ」
長門は足早に執務棟の方へ歩いていった。その背中は、どこか張り切っているように見えた。トイレの付き添いを志願する戦艦。素直になろうとしている戦艦。横須賀鎮守府の朝は、静かに混沌としていた。
結論:時雨は恐ろしい子です。