夏の夜風はまだ生ぬるく、火薬の匂いが混じって鼻の奥に残る。
一発、また一発。橙と紅の光が夜空に咲いては散っていくのを、狛治は隣に座る恋雪の横顔越しに眺めていた。花火なんて、正直どうでもいい。それより恋雪の顔にその光が映り込むたび、頬の色が変わって見えるのが気になって仕方なかった。
――いつからだったか、はっきりとは覚えていない。
物心ついた頃から拳を振るうことだけが得意で、それ以外は何もない男だった。父親は体の弱い人だった。働けず、家では隅で咳き込んでばかりいて、薬代を稼ぐために狛治は幼い頃から盗みを働いていた。そうしなければ、父親はもっと早くに死んでいたはずだった。ある日、狛治がまだ幼い頃、親父は首を吊って死んだ。もう自分のために息子が罪を重ねずに済むように――そう言葉にして伝えることすらせず、ただ静かに命を絶った。あの日の光景は今も時折、夢の中に出てくる。
そんな自分を拾ってくれたのが慶蔵だった。素流道場は元々拳術一本の道場で、師範である慶蔵自身も昔は名の知れた拳術家だったという。刀を持たせず、ただ拳を握らせて、殴り合いの中でしか自分の輪郭を確かめられないような子供に、誰かを守るための力の使い方を叩き込んでくれた。
そんな自分の隣にいつも、細くて折れそうな体をした女がいた。
恋雪は病弱だった。少し無理をすればすぐ熱を出し、季節の変わり目には決まって寝込む。狛治は最初、その姿を見て純粋に心配していただけだったと思う。父親の姿と重なる部分があったからかもしれない。夜中に咳き込む声が聞こえれば水を運び、熱にうなされる額に濡らした手拭いを乗せ、慶蔵が留守のときは代わりに粥を作った。不器用な手つきで作った粥を、恋雪はいつも「美味しいです」と笑って食べてくれた。あの笑い方が、狛治は好きだった。
いつからそれが「妹のような存在」を通り越したのか、狛治自身にも分からない。一目ぼれだったかもしれない。けれど、気づけば、恋雪の些細な仕草――咳き込む拍子に眉を寄せる顔や、慶蔵に叱られて口を尖らせる顔、時折ひどく大人びた目をしてどこか遠くを見るその横顔――そのすべてに、狛治は目を離せなくなっていた。
慶蔵には返しきれない恩がある。拾われ、育てられ、拳術だけでなく人としての在り方まで教えられた。父親とは呼べないが、狛治の中で慶蔵はとうに、もう一人の親のような存在になっていた。その慶蔵の、たった一人の大切な娘。
分不相応だとは、ずっと分かっていた。
狛治の腕には、消せない入れ墨が三本残っている。かつて盗みを働いた罪人であることの証だ。慶蔵にも恋雪にも詳しくは話していないが、自分がまともな人間の道を外れたところから拾い上げられた人間だということは、誰よりも自分がよく知っていた。そんな自分が、この優しい女の隣に立つ資格などあるはずがない。だから決めていた。この想いは誰にも悟られないまま、墓まで持っていく。恋雪の傍で、ただの支える男として、一生を終えればそれでいい――そのはずだった。
だが、今夜はどうしてか、その決意がひどく脆く感じられた。
花火の音の合間、恋雪がふと、狛治の方を見て小さく笑った。何でもない、いつもの笑顔だ。なのに狛治の胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
このまま黙って終わらせるつもりだった。分不相応だと分かっている。それでも――今夜だけは、その理性が言うことを聞かなかった。
気づけば口が勝手に動いていた。
「恋雪さん」
自分の声が、いつもより硬く、震えていることに狛治自身が一番驚いていた。振り向いた恋雪の目を見た瞬間、もう後戻りはできないと悟った。
「俺と、夫婦になってくれませんか」
言ってしまってから、心臓が痛いほど早鐘を打った。断られたら、それでいい。今夜のことは忘れて、これまで通り傍にいられるならそれで十分だ――そう自分に言い聞かせながら、狛治は恋雪の返事を待った。
***
待って。ちょっと待ってほしい。
夜空にドンと花火が上がった、まさにその瞬間、狛治さんが真顔で「夫婦になってくれませんか」とか言い出した。
何の前振りもなしに直球ですか。せめてもうちょっと外堀埋めるとか、世間話とか挟むとかしてくれません?
――と、内心で全力ツッコミを入れつつも、わたしの口は勝手に動いていた。
「――はい」
言ってから数秒遅れて、自分の発言の意味が脳に到達した。
(いや待って、今わたし何つった? はい、って言った? マジで? 待って待って待って)
前世の俺は日本のどこにでもいる冴えない社畜だった。趣味はアニメと漫画。特に『鬼滅の刃』は、原作もアニメも円盤も特典付きで買うくらいには拗らせていた。中でも一番好きだったキャラクターは、猗窩座。上弦の参。あの圧倒的な戦闘狂で、それでいて誰よりも不器用に何かを守ろうとしていたあの男が、俺は本当に好きだった。曇らせ展開込みで、むしろ曇らせてる時のあいつが一番好きだったまである。
その俺が、まさかその猗窩座の前身――狛治の将来の嫁として転生するとは、誰が予想できただろう。しかも女の子として。ただいま花の十六歳。しかも今、まさにその狛治本人からプロポーズされて「はい」と即答してしまった。
いやいやいや、落ち着け俺。整理しよう。
わたしは基本、狛治さんのことを「年の離れた弟」だと思っている。声をかければすぐ尻尾を振りそうな顔をする、育ちすぎた犬みたいな男だ。頼れる兄貴分というより、目を離すとすぐどこかで喧嘩を売られて帰ってくる、手のかかる弟。そういう感覚のほうがずっと近いはずだった。
好きなのは、原作の猗窩座であって、目の前のこの狛治さんじゃない。断じてそうだ。俺は原作勢オタクとして、キャラクターへの解釈と目の前の人間への感情はきっちり分けて考えるタイプの人間のはずだった。二次元のキャラと三次元の人間は違う、みたいな話じゃなくて、もっとこう、狛治さんは狛治さんで、猗窩座は猗窩座で――
(――って、本当にそうか?)
心のどこかで、妙に冷静な声がした。無視した。今は考えたくない。
とにかく、混乱している。完全に混乱している。花火の光を反射してこっちを見ている狛治さんの顔が、いつもよりやけに眩しく見えて、直視できない。訂正しなきゃ、と思う自分と、このままでいいんじゃないか、と囁く自分が、頭の中で殴り合いを始めている。
原作知識のせいで、この先に何が待っているかは、嫌というほど分かっている。狛治さんが鬼になり、名前を失い、多くの人を手にかけ、最後には誰にも救われることなく消えていく――その未来を、俺は知識として持っている。だからこそ、悲劇を防ぎたいだけのはずだった。恋愛感情なんて、ややこしいものを持ち込むつもりはなかった。
なのに今、なんで俺、この人のプロポーズに「はい」って言っちゃったんだ。
隣の道場の跡取りバカ息子のプロポーズだったら絶対言わない。あいつには言われても全力で逃げる自信がある。でも狛治さんには――
(いや、考えるな。今は考えるな。とりあえず今夜は、この「はい」を撤回する言葉が、なぜか一つも出てこない、という事実だけ持ち帰ろう)
花火が最後の一発、ひときわ大きく夜空を染めた。
その光の下で、わたしは自分の中の混乱に、NOと言えない日本人の俺がいた。
***
最後の一発が夜空で大きく花を咲かせ、やがて静かに消えていった。
余韻を残す煙が風に流れていくのを、二人はしばらく無言のまま見上げていた。祭りのざわめきが遠ざかり、提灯の明かりもまばらになった帰り道。恋雪の頬は、花火の熱のせいだけではないほど赤く染まっていた。
何か言わなければ、と思う。けれど、何を言えばいいのか分からない。「はい」と口にしてしまった言葉の重みが、今更のように喉の奥に張り付いて、まともな言葉ひとつ出てこなかった。
隣を歩く狛治も、同じように黙り込んでいた。いつもなら気遣いの一つも言うはずの男が、今夜だけは妙に静かで、時折ちらりとこちらを窺っては、また前を向く。その挙動不審さが、かえって恋雪の胸を締めつけた。
夜道は二人分の下駄の音だけが響いていた。虫の声と、遠くでまだ燻る火薬の匂い。提灯の灯りが途切れる暗がりに差し掛かったとき、狛治の指先が、ふと恋雪の手に触れた。
一瞬、びくりと肩が跳ねる。振り払おうとしたわけではない。ただ驚いただけだった。けれど狛治の指は、離れていくどころか、そっと恋雪の手を包み込むように握った。
「――寒くないですか」
らしくもない、遠回しな言葉だった。理由になっていない理由。だが恋雪には、その不器用さの意味が痛いほど伝わった。
「……いいえ」
小さく、震える声でそう答えるのが精一杯だった。振り払う理由なんて、どこにもなかった。
つないだ手のひらから伝わる体温が、やけに熱く感じられる。歩幅を合わせようとして、かえってぎこちなくなる二人の足取り。恋雪は俯いたまま、自分の顔がどれほど赤くなっているか、狛治に見られていないことだけを祈った。狛治もまた、正面を向いたまま、耳の先まで赤くなっているのを隠すように、少しだけ早足になっていた。
狛治は前を向きながら、未来を向きながら横にいる恋雪に誓う。
「俺は――俺は、誰よりも強くなって。一生、あなたを守ります」
その宣誓に、恋雪が少し息をのむ。
そして、恋雪は涙目で頷くだけだった。
星の少ない夜空の下、繋がれた手の温もりだけが、今夜起きたことが夢ではないと二人に教えていた。
道場の灯りが遠くに見えてくるまで、二人はただ、その短すぎる帰り道を、できるだけゆっくりと歩いた。
――その様子を、路地の暗がりからじっと睨みつける影があったことに、二人はまだ気づいていない。