朝靄の残る庭に、乾いた土を踏む音だけが響いていた。
「ほらよ、遠慮すんな」
慶蔵の声は稽古の時だけ一段低くなる。恋雪は縁側の柱にもたれ、綿入れの半纏にくるまりながらその声を聞いていた。まだ喘息の発作の余韻が胸の奥に居座っていて、深く息を吸うと軽く咳き込む。それでも、この光景だけは見逃せなかった。
――今日で、狛治さんが来てから何日目だっけ。
数えるのをやめたのは、たぶん五日目あたりからだ。曖昧になったのは記憶が薄れたからではなく、単に「もう数える意味がない」と諦めたからだった。あの日、父・慶蔵にボコボコにされた少年がこの家にやってきた瞬間の緊張は、恋雪の中で今もまだ少しくすぶっている。けれど目の前の光景は、その緊張とはまるで別の種類の衝撃を運んでくる。
慶蔵が半歩踏み込む。腰の据わった、無駄のない一歩。対する狛治は、構えというほどの構えも取らず、ただ膝を軽く落として重心を沈めているだけだった。技もなければ型もない。あるのはただ、獣じみた反射神経だけ。
その狛治の拳が、風を切る音を置き去りにして慶蔵の胴を狙う。
(漫画やアニメとは全然違う。速すぎぃ……)
恋雪は半纏の下で拳を握った。前世の記憶が、目の前の光景に勝手に解説を付け始める。速さも、踏み込みの鋭さも、まだ十歳かそこらの子供の動きではない。筋も骨も出来上がっていないはずの身体で、なぜあれだけの初速が出せるのか。
けれど――慶蔵は捌く。
大きく避けるでもなく、力任せに受け止めるでもない。狛治の拳がわずかに軌道を逸れるように、慶蔵の掌がほんの少し添えられただけだった。まるで川の流れに小石を一つ置いて、水の向きを変えてしまうような、そんな捌き方。
「まだまだ力任せだな、お前」
慶蔵は笑いながら言う。息一つ乱れていない。
狛治は答えなかった。代わりに、もう一度踏み込んだ。今度は拳ではなく蹴り。低く、鋭く、慶蔵の軸足を刈り取るような一撃だったが、それすらも慶蔵は最小限の動きで受け流す。
恋雪はその応酬を見ながら、内心で一人静かに震えていた。
(呼吸、使ってないよな……? それこそ、全集中なんて知らないはずだ……)
当然だ。この時代、この場所に、鬼殺隊も産屋敷も存在を匂わせるものは何一つない。慶蔵の拳術は純粋な人の技であり、狛治の動きもまた、才能と生存本能だけで組み上げられた獣の身体能力に過ぎない。それでも――呼吸という下駄を履かせる前のこの段階で、既にこれだけの応酬が成立している。
(異常なんだよな……素の身体能力だけでこれって)
前世の記憶の中の猗窩座と、目の前で土埃を上げながら食らいつく少年が、恋雪の中でゆっくりと重なっていく。まだ丸みの残る頬、汗で額に張り付いた髪、それでも目だけは既に据わっていて、獲物を逃さない獣のそれだった。
「そこまで」
慶蔵が軽く手を上げると、狛治はすぐに動きを止めた。荒い息を吐きながらも、不満げな顔一つ見せない。ただ、負けたことそのものへの悔しさだけが、握られたままの拳に滲んでいた。
「今のままだと、いつか俺を殺しちまうぞ」
慶蔵はそう言って豪快に笑ったが、恋雪だけは、その冗談にうまく笑えなかった。
(――洒落になんないんだよ)
内心でそう呟いた自分の声が、思いのほか掠れていたことに、恋雪はまだ気づいていない。
思い出すのは、狛治がやってきた日。
結局、あの後に名前を聞いた後、病で臥せってしまっていた。
そして、発作の波が引いたのは、日が傾きかけた頃。
それでも身体の奥にはまだ熱がわだかまっていて、寝間着は寝汗ですっかり湿っている。恋雪が薄目を開けると、枕元には見慣れない影があった。
「起きましたか?」
狛治だった。夕日の明るさを背にした顔は、影になってよく見えない。けれど声だけは、思ったよりずっと落ち着いていた。
「……はい、なんとか」
答える声が掠れる。喉の奥がまだ焼けるように痛い。
「汗、すごいですね」
「え」
「着替えないと、また冷えて熱が上がります」
言うが早いか、狛治の手が迷いなく帯に伸びた。
(ちょ、待って!?)
恋雪の脳内で前世の羞恥心が一斉に警鐘を鳴らす。相手は自分と同じ子供、こっちも今は子供の身体、変なことは何もない――そう理屈では分かっている。分かっているのに、中身の魂だけが「いやいやいや、無理無理無理無理ィ!」と全力で抗議してくる。
「じ、自分でできます……!」
「無理です、それ」
即答だった。そこに反論の余地がない。
「なんでそんな言い切れるんですか」
「今、腕上げようとして震えてました」
見られていた。恋雪は思わず自分の腕を見下ろす。確かに、少し持ち上げただけで指先が細かく震えていた。
「……見なかったことにしてください」
「見えたものは見えたので」
身も蓋もない返しだった。恋雪はもう反論を諦め、天井の木目を数えることに全神経を注ぐことにした。木目は十七本あった。数えても何の解決にもならなかった。
帯を解く手つきは、驚くほど慣れていた。迷いがなく、恋雪の身体に負担をかけないよう、力の加減まで計算されている。
「手際、良すぎません……?」
「実父の看病で、これくらいは」
短い返事の奥に、何かが沈んでいる気配があった。恋雪はそれ以上踏み込むのをやめ、代わりに乾いた寝間着に袖を通す作業に意識を逃がした。
着替えが終わる頃には、恋雪の体力はほとんど底をついていた。厠に行きたい、と口にしただけで、狛治は当然のように腕を差し出してくる。
「歩けます、たぶん」
「たぶん、じゃ困ります」
「大丈夫、です……たぶん」
「今の"たぶん"、二回目ですけど」
数え上げられて、恋雪は言葉に詰まる。結局、大人しく背負われる形で厠まで運ばれることになった。
「重くないですか」
「軽いです。むしろ、軽すぎて心配になるくらいで」
素直な感想だったが、恋雪の胸には別の意味で刺さった。
(完全に褒め言葉ではないやつだ……)
厠の前で下ろされると、狛治は「終わったら呼んでください、そこにいますので」とだけ言って、壁際に腰を下ろした。声をかければすぐ届く距離。逃げ場のない距離でもあった。
厠の戸を閉めた途端、恋雪は変な汗をかき始めた。板戸一枚を隔てた向こうに、狛治がいる。距離にして、たぶん一間もない。
(待って、この時代の厠って、壁薄すぎるよな……?)
見渡せば、戸の上部には風通し用の格子窓。下は下で、簡素な板張りの隙間から外の光がうっすら漏れている。密閉性という概念そのものが、この時代にはまだ存在していないらしかった。
(うう、母親は家族だったからそこまで気にならなかったけど。家族でもない今日来たばかりの人にトイレの音を聞かせることなるとは、色々と死ねる……。
ウォシュレットどころか、防音すらないって……)
現代の記憶が容赦なく比較対象として蘇る。あの、ボタン一つで全てが解決する快適空間は、この時代にはまだ何百年も先の話だ。
「今日は慶蔵…さんは、帰りが遅くなると言ってました」
戸の向こうから、唐突に狛治の声が飛んできた。世間話だった。あろうことか、こんな状況で、こんなにも平常運転の世間話だった。
(いやいやいや、今それ聞かせるタイミングじゃなくない!?)
恋雪は内心で全力の突っ込みを入れながらも、返事をしないわけにもいかない気まずさに追い詰められる。
「……そう、なんですか」
声が震えた。震えた理由は、羞恥心以外の何ものでもない。
「それと、さっき見ましたが、井戸端の石が苔で滑りやすくなってて。恋雪さんが転んだら危ないので、今度直しておきます」
生活に根差した、極めて真面目な話題だった。狛治の声にからかいの色は一切なく、本気で井戸の心配をしているらしい。その温度差が、余計に恋雪の羞恥心を追い詰めてくる。
(聞こえてる、よな……? 普通に、聞こえてるよな……?)
音を立てないように、なんて発想自体がそもそも無理な話だった。それでも往生際悪く息を潜めていると、狛治がふと言った。
「大丈夫ですか、静かですけど」
(それ、心配するとこ間違ってるだろ!?)
「だ、大丈夫です……! すぐ出ます……!」
裏返った声で答えると、戸の向こうから「はい」とだけ、あっさりした返事が返ってきた。悪意も邪気もない、ただの相槌。それが逆に、恋雪の羞恥心にとどめを刺した。
出てきた時、狛治の顔には何の含みもなかった。本当に、心底何とも思っていない顔だった。その屈託のなさに、恋雪は内心で長々とため息をついた。
(この時代、羞恥心のハードル低すぎるだろ……俺だけがおかしいのか?)
共同生活が当たり前で、音や気配に対する感覚が現代とは根本的に違う時代。頭では理解していても、魂に染みついた現代人の感覚だけは、そう簡単には切り替わってくれそうになかった。
狛治は膝を抱えて座ったまま、ぼんやりと庭の暗がりを見ていた。物音に気づいて顔を上げる瞬間の表情が、ほんの一瞬だけ幼く見えた。
「大丈夫でしたか」
「はい……その、ありがとうございます」
「これくらい、当然です」
当然、という言葉の軽さに、恋雪は妙な違和感を覚えた。この子にとっては、誰かの世話を焼くことが「当然」の範囲に含まれている。その基準の作られ方を思うと、軽い日常のはずの今のやり取りが、急に別の重みを帯びて胸に落ちてくる。
けれどそれを顔に出せば、また要らぬ勘繰りを招くだけだ。恋雪は羞恥と気まずさの仮面の下に、その重みをそっと押し込んだ。
数日が経過する頃には、諦めと共に、前世男である恋雪の――存在するかも分からない――乙女心は完全に死んだ。
(原作の恋雪さん、スゲーな……)
夕餉の支度をする物音が、台所の方から聞こえてくる。恋雪は布団の上に半身を起こし、その音に耳を澄ませていた。
「今日はいい飯にするぞ、狛治。稽古でしごいた分は食わせてやらんとな」
慶蔵の声は、いつも通り朗らかだった。少し大袈裟なくらいの明るさ。ここ数カ月、この道場に染み付いた、慶蔵なりの生き方だった。
(父さん、相変わらず声だけはでかいんだよなぁ)
恋雪はぼんやりとその声を聞きながら、内心で軽口を叩く。けれど同時に、この明るさの裏側にあるものにも、うっすらと気づいていた。母が逝ってから、慶蔵が声を張る回数は、むしろ増えている。
台所からは狛治の返事は聞こえない。おそらく黙って頷いただけなのだろう。それでも慶蔵は気にする様子もなく、包丁の音に合わせて何かを話し続けている。稽古の講評、明日の予定、井戸端の修繕――他愛のない話題ばかりだったが、その一つ一つに、慶蔵の側からの気遣いが滲んでいるように恋雪には感じられた。
(門下生、結局、ずっと一人もいないままだったからなぁ、この道場)
隣の玄武道場の嫌がらせで、素流道場に通う者はここ数年で一人もいなくなった。空っぽの道場に、慶蔵と自分の二人きり。そこに突然転がり込んできた狛治という存在は、慶蔵にとって単なる同居人以上の意味を持っているのだろうと、恋雪は薄々察していた。
跡取り、という言葉を慶蔵は一度も口にしていない。それでも、稽古をつける時の慶蔵の目には、明らかに期待の色があった。今日の組手にしても、単なる暇つぶしにしては本気が過ぎた。
(誰かに継いでほしいんだろうな、この場所)
血の繋がりだとか、道場の格だとか、そういうものに慶蔵はおよそ頓着しないタイプだった。目の前にいる人間の中身しか見ていない。だからこそ、才能のある少年を拾ってきたことにも、恋雪は今更ながら妙に納得できてしまう。
夕餉の席で、慶蔵は相変わらず豪快に飯をかき込んでいた。
「狛治、お前もっと食え。育ち盛りなんだから、遠慮するだけ損だぞ」
「……いただきます」
狛治は短く答えて、椀に手を伸ばす。まだぎこちない動きだったが、初日に比べれば、随分と場に馴染んできたように見えた。
恋雪はその光景を、ぼんやりと眺めていた。三人分の食器の音、慶蔵の笑い声、狛治の遠慮がちな相槌。それだけの、ありふれた光景。けれど数ヶ月前まで、この場にはもう一つの声があったことを、恋雪は思い出さずにはいられない。
(母さん……)
胸の奥が、一瞬だけ締め付けられる。けれど慶蔵の様子を見る限り、その喪失をあえて言葉にするつもりはないのだろう。笑って、飯を食って、稽古をつけて――それが慶蔵なりの、悲しみとの付き合い方だった。
(父さんも、狛治さんも、それぞれのやり方で埋めようとしてるんだな、それぞれの空白を)
柄にもなく、そんなことを考えてしまった自分に、恋雪は内心で小さく苦笑する。
(らしくねぇな、俺。湿っぽいのは柄じゃないっての)
すぐに軽口へと逃げる。けれどその軽口の奥で、今しがた感じた温かさだけは、静かに消えずに残っていた。
「恋雪さん」
不意に名を呼ばれて、恋雪は物思いから引き戻される。見ると、狛治が自分の椀から焼き魚の一番身の厚い部分を、恋雪の皿へと黙って取り分けていた。
「……え?」
「発作明けは、精のつくもの食べた方がいいって、聞いたので」
短く言うと、狛治はもう自分の飯に視線を戻していた。恩着せがましさの欠片もない。まるで箸を持ち替えるのと同じくらい、当たり前の動作として。
(んん?)
恋雪の内心が、一瞬にして真っ白になった。
(今の、何? 今の動き、何だったの……?)
前世、社会人時代。合コンだの飲み会だのの場で、女性社員たちが「男は言葉より行動だよね」「さりげない気遣いができる男が一番ズルい」としみじみ語っていたのを、恋雪は横で聞き流していた記憶がある。あの頃は正直、話半分にしか聞いていなかった。
(あれ、こういうことだったのか……)
たった一切れの魚。言葉にすれば数秒で終わる出来事。それなのに、胸の奥にじわりと妙な熱が灯る感覚があった。損得も計算も打算も一切ない、ただの反射としての気遣い。それが逆に、変に破壊力を持ってしまうのだと、恋雪は今更ながら思い知る。
(これが狛治がスパダリと前世で言われていた理由……世のお姉さま方も、そうなるわ……)
かつて流していた数々が、急に実感を伴って蘇ってくる。あれは惚気ではなく、警告だったのかもしれない。さりげない優しさというのは、身構えていない時に不意打ちで刺さってくるから厄介なのだと。
「……ありがとうございます」
かろうじてそれだけ返すと、狛治は軽く頷いただけで、また黙々と箸を動かし始めた。会話らしい会話もない。それでも、その沈黙の質が、初日のそれとは明らかに違っていた。
慶蔵が横でその様子を見て、にやりと笑う。
「仲良くなったな、お前ら」
「べ、別にそんなんじゃ……!」
慌てて否定する声が、我ながら不自然に上擦った。狛治は特に反応もせず、ただ黙々と飯をかき込んでいる。その反応の薄さが、逆に恋雪の羞恥心を無駄に刺激した。
(いや待て、動揺してるのは俺だけじゃん、これ)
一人だけ勝手に慌てふためいている構図に気づき、恋雪は内心でひっそりと自分に突っ込みを入れる。けれどその夜、床につく前に思い出すのは、慶蔵の豪快な笑い声よりも、あの一切れの焼き魚のことだった。
こうして、拾われてきた少年と、病弱な少女と、豪快な師範の、奇妙な三人暮らしが静かに動き出した。まだ互いの距離は測りかねたままで、狛治の胸の奥にあるものも、恋雪の胸に秘めた記憶も、誰にも打ち明けられてはいない。
それでも、確かに三人が出会った日から――何かが、少しずつ変わり始めていた。