恋雪にTS転生したので、猗窩座を救いたい人生だった   作:自分の性癖に素直になろう小説

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第八話 女子力対決、勝者は狛犬

 

 俺は負けた。完全に敗北した。

 

 朝から晩まで寝たり起きたりを繰り返すだけの毎日で、勝負も何もあったものではないのだが、それでも「負けた」という言葉以外に今の気持ちを言い表せる語彙が見つからない。

 

 台所から漂ってくる出汁の匂いが、その日も俺の敗北を静かに告げていた。

 

「恋雪(こゆき)さん、粥(かゆ)ができました。今日は梅を叩いて混ぜてみたんですけど、酸っぱいの平気ですか」

 

 狛治(はくじ)が茶碗を手に、するりと障子を開けて入ってくる。湯気の立つ粥(かゆ)の表面には、丁寧に叩かれた梅肉が綺麗な円を描くように広がっていて、正直に言えば見た目からしてもう負けている。

 

「……平気です。ありがとうございます」

 

 病床の恋雪(こゆき)としては殊勝な返事だが、内心では違う。前世で何百杯とコンビニ弁当を食べてきた男の勘が告げている。これは、素人の飯ではない。

 

 狛治(はくじ)は道場の掃除も、洗濯物の畳み方も、薬湯の火加減も、恋雪(こゆき)の看病に関わることなら大抵のことを危なげなくこなす。最初の数日こそ女物の帯の結び方は少し覚束なかったが、今ではもう危なっかしさの欠片もない。慶蔵(けいぞう)などは「あいつは筋がいい」とだけ言って笑っているが、俺は知っている。あれは筋がいいのではなく、場数が違うのだ。

 

 病弱な父親を、狛治(はくじ)は長らく一人で見てきたのだという。粥(かゆ)の炊き方も、汗を拭う布の絞り方も、熱の上がった額に手を当てる呼吸の間合いも、あの手は全部、体で覚えている。

 

 対して俺はどうだ。

 

 自分の帯すらまともに結べず、厠(かわや)にひとりで行くだけで息が上がり、匙を持つ手すら震える日がある。前世で培った知識も、この体の前では何の役にも立たない。俺は、この時代のどんな十一歳の女の子よりも、圧倒的に家事ができない。

 

「……美味しいです」

 

 一口食べて、俺は素直にそう呟いた。悔しいが事実だから仕方ない。狛治(はくじ)は「よかった」と、それだけで満足そうに笑う。その笑い方が妙に眩しくて、俺は粥(かゆ)をかき込むふりをして目を逸らした。

 

 

 

 

 悔しい。とにかく悔しい。

 

 その晩、布団の中で俺は一人、拳を握りしめていた。前世では曲がりなりにも社会人として自炊(レンチン)もしていたし、一人暮らしの経験もある。裁縫だって、ボタン付けくらいはできた(気もする)。なのに、この体になってからというもの、指先の力が入らず、針を持てば必ず何かを刺し、鍋を持てば必ず何かをこぼす。

 

 女子力、という言葉が脳裏をよぎる。

 

 男のまま死んで女に転生したというのに、その女子力とやらで、まさか精神年齢が年下の男に完敗するとは思わなかった。そう、完全なる敗北である。

 この世に、姉より家事が優れた弟なぞ存在するはずがない!!

 

(……いや、俺、姉じゃないし。歳、向こうの方が上だし)

 

 その自己矛盾に気づいた瞬間、布団の中で一人赤面して悶絶する羽目になったが、それはそれとして悔しさは消えない。

 

 俺は闇の中で静かに誓いを立てた。

 

 いつか必ず、狛治(はくじ)より上手く料理を作ってやる。裁縫だって、掃除だって、何だって、絶対に追い越してやる。前世の記憶があるくせに現世の体に負け続けているこの状況が、どうにも我慢ならなかった。

 

 翌朝、俺はさっそく台所に立って味噌汁を作ろうとし、火加減を誤って鍋を焦がし、煙を吸って軽く咳き込み、慶蔵(けいぞう)に「無理すんな」と苦笑まじりに叱られ、狛治(はくじ)には「大丈夫ですか」と本気で心配され、なんなら焦げた鍋の始末まで手早くやってのけられた。

 

 誓いは、初日にして早くも暗雲が立ち込めていた。

 尚、父・慶蔵(けいぞう)の目には、突然、家事に目覚めた今の恋雪(こゆき)の姿がどう映るのかを、あえて伝えなかったのは親心でもあった。

 

 

 

 

 

「……というわけで、狛治(はくじ)。今日からお前にも読み書きを教える。自分の名前もちゃんと書けねえんじゃ、今後困るからな」

 

 家事が失敗してから三日ほど経ったある朝、慶蔵(けいぞう)が急に思い立ったように筆と紙を持ち出してきた。狛治(はくじ)は素直に正座して筆を構えたが、その筆先は開始十秒で早くも震えている。

 

「……えっと、これは、こう、ですか」

 

 できあがった「一」の字は、まるで蛇が力尽きて倒れているような形をしていた。慶蔵(けいぞう)は腕を組んで唸り、しばらくして「俺には無理だ」と早々に白旗を上げた。武術に関しては誰よりも辛抱強い男が、こと勉学に関してはあっさり匙を投げるあたりが実に慶蔵(けいぞう)らしい。

 

 見かねた俺は、つい口を挟んでしまった。

 

「わたしが教えます。狛治(はくじ)さん、まずは筆に力を入れすぎないことが大事なんです」

 

 自分で言っておいて内心びくびくしていた。何せ、こちらの時代の崩し字には未だに時々面食らう。それでも基礎の基礎くらいならと、我ながら偉そうな口調で説明を始める。

 

 するとどこでたがが外れたのか、俺の口からは気づけば読み書きの範疇をはるかに超えた話が飛び出していた。

 

「いいですか、狛治(はくじ)さん。数というのはただ足したり引いたりするだけのものではなくて、たとえば負の数というものを考えると……」

 

 前世で叩き込まれた数学の知識が、こんな場面で無駄に発揮される。マイナスの概念、方程式の考え方、果ては図形の証明の理屈まで、俺は誰に頼まれたわけでもないのにとくとくと語ってしまった。半分は狛治(はくじ)への見栄で、半分は単に喋りたかっただけだ。

 

 狛治(はくじ)はそれを、意外にも真剣な顔で聞いていた。飲み込みの遅い筆運びとは裏腹に、話の筋そのものは案外きちんと追えているらしい。

 

「……恋雪(こゆき)さんの話、難しいですけど、なんとなく分かる気がします。数が足りない分を、なかったことにするんじゃなくて、負ってることにする、ってことですよね」

 

 その理解の速さに、俺は一瞬言葉を失った。頭が悪いわけでは、決してない。ただ、机に向かうこと自体に慣れていないだけなのだ。

 

「それってすごいですけど……恋雪(こゆき)さんの言う、その、負の数とか、方程式とかはなんに使うんですか」

 

 狛治(はくじ)は純粋な、本当に何の他意もない顔でそう聞いてきた。

 

 俺は答えに詰まった。

 

 商いの帳簿がどうとか、借金の計算がどうとか、何か気の利いたことを言おうとしたが、江戸のこの時代の暮らしに即した具体例が、俺の頭からは一つも出てこない。前世の記憶は豊富にあるくせに、それをこの世界でどう役立てればいいのか、俺自身がまるで分かっていなかったのだと、そこで初めて思い知らされる。

 

「……それは、その、いつか役に立つ時が来ます……きっと」

 

 我ながら情けない誤魔化しだった。狛治(はくじ)は「そうなんですね」と特に疑いもせず頷いてくれたが、その素直さがかえって俺の胸に刺さる。

 

 器用な手を持つ弟分に、頭の中身まで見透かされそうになった朝だった。

 

 

 

 

 

 それから少し経った頃。

 

「よう、恋雪(こゆき)。生きてるか」

 

 いつもの調子で、断りもなく庭先から顔を出したのは玄真(げんま)だった。三月に入り、寒さが緩み始めた頃合いで、雛祭りが近いこともあって町のあちこちが浮かれた空気をまとっている。玄真(げんま)も気まぐれに顔を出す頻度がここ最近わずかに増えていた——と気づいたのは、俺だけかもしれない。

 

 だが、縁側に腰を下ろそうとした玄真(げんま)の足が、そこでぴたりと止まった。

 

「……何だ、そいつ」

 

 視線の先にいたのは狛治(はくじ)だった。ちょうど俺の額に載せた濡れ手拭いを取り替え終えたところで、玄真(げんま)の声に顔を上げ、特に警戒するでもなく「こんにちは」と会釈する。その自然な距離感が、かえって玄真(げんま)の眉間の皺を深くした。

 

「……ああ、この間話した、うちに来た人です。狛治(はくじ)さんっていいます」

 

 俺は努めて平静な声でそう答えたが、内心では冷や汗をかいていた。以前、まだ狛治(はくじ)とすら出会っていなかった頃に、原作知識を頼りに玄真(げんま)にかまをかけてこの名前を出したことがある。あの時の玄真(げんま)は「誰だそいつ」と鼻で笑い飛ばしていたはずだ。

 

 その「誰だそいつ」が、今、目の前で恋雪(こゆき)の世話を甲斐甲斐しく焼いている。

 

「……お前が、狛治(はくじ)」

 

 玄真(げんま)の声が、いつもの俺様な調子から一段低くなった。記憶が繋がったのだろう。以前どこかで聞いた覚えのある名の男が、思っていたよりずっと年若く、思っていたよりずっと恋雪(こゆき)の傍にいる——その事実を噛み締めるような間があった。

 

「はい。よろしくお願いします」

 

 狛治(はくじ)は特に含むところもなく、まっすぐに頭を下げる。この愚直なまでの素直さが、玄真(げんま)の癇に障ったらしい。玄真(げんま)は口の端を歪め、何か言おうとして、結局「ふん」とだけ鼻を鳴らすに留めた。まだ、はっきりとした敵意を向けるには材料が足りない——そんな顔だった。

 

 その微妙な空気を破ったのは、当の玄真(げんま)自身だった。

 

「まあいい。それより恋雪(こゆき)、忘れてねえだろうな。もうすぐ雛祭りだぞ」

 

「もちろん覚えてます」

 

 建前ではそう答えたが、内心では首を傾げていた。この時代の雛祭りがどれほどの規模で祝われるものか、正直あまり実感がない。前世の記憶にある雛人形とちらし寿司のイメージだけが漠然とあるくらいだ。

 

 俺の顔色を読んだのか、慶蔵(けいぞう)が奥から出てきて笑いながら説明を差し挟む。

 

「このあたりだとそこまで大袈裟なもんじゃねえが、上の子たちの家じゃ人形を飾って、無病息災を願って贈り物をし合う風習がある。まあ、器量よしの娘のところにゃ、色々と贈り物が集まるってやつだな」

 

 言われてみれば、この時期は、ちょっとした菓子や小間物が届いていた気がする。去年までは母さん経由だったから、あまり気にしていなかった。

 

「だから、直接渡しに来たんだよ」

 

 玄真(げんま)はそう言うなり、懐から漆塗りの小箱を取り出した。中には見るからに値の張りそうな紅と、珍しい砂糖菓子が詰め込まれている。玄武(げんぶ)道場の跡取りらしい、金に糸目をつけない選び方だった。

 

「オレの女には、これくらい当然だろ」

 

 恩着せがましい口調でそう言い放ち、玄真(げんま)は箱を押しつけるように渡してくる。俺は「ありがとうございます」と儀礼的に受け取ったが、正直なところ心はまるで動かなかった。値段が高いのは分かる。分かるが、それだけだ。

 

 その視線の先で、狛治(はくじ)が少しだけ落ち着かなげに袖の中をまさぐっているのに、俺は気づいた。

 

「……俺は、こんなものしか」

 

 差し出されたのは、小さな花飾りだった。道場の裏手に咲いていたのだろう、まだ蕾の多い花を丁寧に束ね、余った紐で簡素に結んだだけの、飾り気のない一輪。値打ちで言えば、玄真(げんま)の贈り物とは比べるべくもない。

 

「寝てる時でも、匂いだけは分かるかと思って」

 

 それだけ言って、狛治(はくじ)は少し照れたように視線を逸らす。

 

「……はっ、木くずと変わらねえ拾い物じゃねえか」

 

 玄真(げんま)がすかさず茶化すように笑ったが、俺の耳にはほとんど届いていなかった。

 

 枕元にそっと置かれた花からは、まだ控えめな香りしかしない。それなのに、俺の中では何かが決定的に負けた気がした。値段でも、見栄えでもない何かに。

 

「……お気持ちだけで、十分ですよ」

 

 表向きはそう澄まして受け流したが、花を包む紐の結び方まで丁寧なことに気づいてしまった時点で、もう手遅れだった。俺は花の匂いを確かめるふりをして顔を寄せ、緩みそうになる口元を必死に隠す。

 

 その様子を、玄真(げんま)が横目でじっと見ていたことに、俺はまだ気づいていなかった。

 

 

 

 

 

 玄真(げんま)が帰った後の道場は、拍子抜けするほど静かだった。

 

 夕餉を終え、慶蔵(けいぞう)が酒を舐めながらイビキをかき始めた頃、俺は枕元の花にもう一度目をやった。花瓶などという上等なものはないから、欠けた湯呑みに水を張っただけの簡素な仕立てだったが、それすら狛治(はくじ)が「これなら倒れても割れませんから」と選んだものだと聞いて、俺はまた一つ言葉を失っていた。

 

 高価な紅も砂糖菓子も、今頃台所の奥にしまわれている。一方で、値打ちのないはずの花は、今も枕元でわずかに香りを放っている。

 

 この差は、いったい何なのだろう。

 

(……いや、分かってるけど。分かってるけどさ)

 

 前世でどれだけ物語に見てきた俺は、自分の記憶を思い返す。高い贈り物より、こういう「見てくれている」証拠の方が効くのだと、今さら実感として理解してしまった自分が情けない。

 

「恋雪(こゆき)さん、まだ起きてらっしゃいますか」

 

 障子の向こうから、狛治(はくじ)の声がする。夜回りの最後に様子を見に来る、いつもの習慣だった。

 

「起きてます。どうぞ」

 

 障子がするりと開き、狛治(はくじ)が行灯(あんどん)の灯りを片手に顔を覗かせる。

 

「玄真(げんま)さんの贈り物、良かったですね。あんな立派なもの、俺には逆立ちしたって用意できません」

 

 狛治(はくじ)は特に卑屈になるでもなく、淡々とそう言った。悔しがっているふうでもなければ、拗ねているふうでもない。ただ事実を述べているだけの声だった。

 

「……そうですね。立派でした」

 

 俺はそう相槌を打ちながら、枕元の花にちらりと視線をやった。狛治(はくじ)はその視線の先に気づいたのか、少しだけ照れたように目を逸らす。

 

「その花、すぐ萎れてしまうと思いますけど」

 

「そうしたら、気が向いた時にでも、また摘んできてください」

 

 我ながら、あまりに素直な返事だった。言ってしまってから、俺は内心で盛大に取り乱す。今のは弟に向ける言葉ではない。姉ぶるにしても、今のは踏み込みすぎだ。

 

 だが狛治(はくじ)は特に深読みするでもなく、「はい」とだけ答えて、少し嬉しそうに頷いた。その単純さが、今はありがたい。

 

「おやすみなさい、恋雪(こゆき)さん」

 

 障子が閉まり、足音が遠ざかっていく。

 

 俺は布団の中で、湯呑みに活けられた小さな花にもう一度目をやった。器用な手を持っているが、色々と不器用な人が、不器用なりに選び抜いた一輪。値段では測れない何かが、確かにそこにあった。

 

 同時に、頭の片隅では別のことも考えていた。今日の玄真(げんま)の、あの妙に静かな目つき。あれはたぶん、俺が思っている以上に厄介な感情の始まりだ。

 

 原作知識のある俺には、この先に待っている展開の断片が、いくつか見えている気がする。

 

 今度こそは誰も死なせたくない——そう思いながら、俺はゆっくり目を閉じた。花の匂いが、静かに枕元に残っていた。

 

 

 

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