恋雪にTS転生したので、猗窩座を救いたい人生だった 作:自分の性癖に素直になろう小説
俺は負けた。完全に敗北した。
朝から晩まで寝たり起きたりを繰り返すだけの毎日で、勝負も何もあったものではないのだが、それでも「負けた」という言葉以外に今の気持ちを言い表せる語彙が見つからない。
台所から漂ってくる出汁の匂いが、その日も俺の敗北を静かに告げていた。
「
「……平気です。ありがとうございます」
病床の
病弱な父親を、
対して俺はどうだ。
自分の帯すらまともに結べず、
「……美味しいです」
一口食べて、俺は素直にそう呟いた。悔しいが事実だから仕方ない。
悔しい。とにかく悔しい。
その晩、布団の中で俺は一人、拳を握りしめていた。前世では曲がりなりにも社会人として自炊(レンチン)もしていたし、一人暮らしの経験もある。裁縫だって、ボタン付けくらいはできた(気もする)。なのに、この体になってからというもの、指先の力が入らず、針を持てば必ず何かを刺し、鍋を持てば必ず何かをこぼす。
女子力、という言葉が脳裏をよぎる。
男のまま死んで女に転生したというのに、その女子力とやらで、まさか精神年齢が年下の男に完敗するとは思わなかった。そう、完全なる敗北である。
この世に、姉より家事が優れた弟なぞ存在するはずがない!!
(……いや、俺、姉じゃないし。歳、向こうの方が上だし)
その自己矛盾に気づいた瞬間、布団の中で一人赤面して悶絶する羽目になったが、それはそれとして悔しさは消えない。
俺は闇の中で静かに誓いを立てた。
いつか必ず、
翌朝、俺はさっそく台所に立って味噌汁を作ろうとし、火加減を誤って鍋を焦がし、煙を吸って軽く咳き込み、
誓いは、初日にして早くも暗雲が立ち込めていた。
尚、父・
「……というわけで、
家事が失敗してから三日ほど経ったある朝、
「……えっと、これは、こう、ですか」
できあがった「一」の字は、まるで蛇が力尽きて倒れているような形をしていた。
見かねた俺は、つい口を挟んでしまった。
「わたしが教えます。
自分で言っておいて内心びくびくしていた。何せ、こちらの時代の崩し字には未だに時々面食らう。それでも基礎の基礎くらいならと、我ながら偉そうな口調で説明を始める。
するとどこでたがが外れたのか、俺の口からは気づけば読み書きの範疇をはるかに超えた話が飛び出していた。
「いいですか、
前世で叩き込まれた数学の知識が、こんな場面で無駄に発揮される。マイナスの概念、方程式の考え方、果ては図形の証明の理屈まで、俺は誰に頼まれたわけでもないのにとくとくと語ってしまった。半分は
「……
その理解の速さに、俺は一瞬言葉を失った。頭が悪いわけでは、決してない。ただ、机に向かうこと自体に慣れていないだけなのだ。
「それってすごいですけど……
俺は答えに詰まった。
商いの帳簿がどうとか、借金の計算がどうとか、何か気の利いたことを言おうとしたが、江戸のこの時代の暮らしに即した具体例が、俺の頭からは一つも出てこない。前世の記憶は豊富にあるくせに、それをこの世界でどう役立てればいいのか、俺自身がまるで分かっていなかったのだと、そこで初めて思い知らされる。
「……それは、その、いつか役に立つ時が来ます……きっと」
我ながら情けない誤魔化しだった。
器用な手を持つ弟分に、頭の中身まで見透かされそうになった朝だった。
それから少し経った頃。
「よう、
いつもの調子で、断りもなく庭先から顔を出したのは
だが、縁側に腰を下ろそうとした
「……何だ、そいつ」
視線の先にいたのは
「……ああ、この間話した、うちに来た人です。
俺は努めて平静な声でそう答えたが、内心では冷や汗をかいていた。以前、まだ
その「誰だそいつ」が、今、目の前で
「……お前が、
「はい。よろしくお願いします」
その微妙な空気を破ったのは、当の
「まあいい。それより
「もちろん覚えてます」
建前ではそう答えたが、内心では首を傾げていた。この時代の雛祭りがどれほどの規模で祝われるものか、正直あまり実感がない。前世の記憶にある雛人形とちらし寿司のイメージだけが漠然とあるくらいだ。
俺の顔色を読んだのか、
「このあたりだとそこまで大袈裟なもんじゃねえが、上の子たちの家じゃ人形を飾って、無病息災を願って贈り物をし合う風習がある。まあ、器量よしの娘のところにゃ、色々と贈り物が集まるってやつだな」
言われてみれば、この時期は、ちょっとした菓子や小間物が届いていた気がする。去年までは母さん経由だったから、あまり気にしていなかった。
「だから、直接渡しに来たんだよ」
「オレの女には、これくらい当然だろ」
恩着せがましい口調でそう言い放ち、
その視線の先で、
「……俺は、こんなものしか」
差し出されたのは、小さな花飾りだった。道場の裏手に咲いていたのだろう、まだ蕾の多い花を丁寧に束ね、余った紐で簡素に結んだだけの、飾り気のない一輪。値打ちで言えば、
「寝てる時でも、匂いだけは分かるかと思って」
それだけ言って、
「……はっ、木くずと変わらねえ拾い物じゃねえか」
枕元にそっと置かれた花からは、まだ控えめな香りしかしない。それなのに、俺の中では何かが決定的に負けた気がした。値段でも、見栄えでもない何かに。
「……お気持ちだけで、十分ですよ」
表向きはそう澄まして受け流したが、花を包む紐の結び方まで丁寧なことに気づいてしまった時点で、もう手遅れだった。俺は花の匂いを確かめるふりをして顔を寄せ、緩みそうになる口元を必死に隠す。
その様子を、
夕餉を終え、
高価な紅も砂糖菓子も、今頃台所の奥にしまわれている。一方で、値打ちのないはずの花は、今も枕元でわずかに香りを放っている。
この差は、いったい何なのだろう。
(……いや、分かってるけど。分かってるけどさ)
前世でどれだけ物語に見てきた俺は、自分の記憶を思い返す。高い贈り物より、こういう「見てくれている」証拠の方が効くのだと、今さら実感として理解してしまった自分が情けない。
「
障子の向こうから、
「起きてます。どうぞ」
障子がするりと開き、
「
「……そうですね。立派でした」
俺はそう相槌を打ちながら、枕元の花にちらりと視線をやった。
「その花、すぐ萎れてしまうと思いますけど」
「そうしたら、気が向いた時にでも、また摘んできてください」
我ながら、あまりに素直な返事だった。言ってしまってから、俺は内心で盛大に取り乱す。今のは弟に向ける言葉ではない。姉ぶるにしても、今のは踏み込みすぎだ。
だが
「おやすみなさい、
障子が閉まり、足音が遠ざかっていく。
俺は布団の中で、湯呑みに活けられた小さな花にもう一度目をやった。器用な手を持っているが、色々と不器用な人が、不器用なりに選び抜いた一輪。値段では測れない何かが、確かにそこにあった。
同時に、頭の片隅では別のことも考えていた。今日の
原作知識のある俺には、この先に待っている展開の断片が、いくつか見えている気がする。
今度こそは誰も死なせたくない——そう思いながら、俺はゆっくり目を閉じた。花の匂いが、静かに枕元に残っていた。