恋雪にTS転生したので、猗窩座を救いたい人生だった   作:自分の性癖に素直になろう小説

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第九話 大人の階段を上るお話、けれど、大人になると普通のお話

 

 朝の空気はまだ湿っていた。井戸端で水を汲んでいた慶蔵(けいぞう)の耳に、隣家の壁越しに響いてくる浮かれた声がわずかに届く。

 

「昨夜の玄武(げんぶ)道場、太鼓まで持ち出して騒いでたな」

 

 独り言のようにこぼした慶蔵(けいぞう)の言葉に、薪割りの手を止めた狛治(はくじ)が振り返った。

 

「元服(げんぷく)とかいう、あれですか」

 

「ああ。一人息子が十五になったからってんで、盛大に祝っていたな。まあ、うちのような貧乏道場じゃあ無理だがなあ」

 

 慶蔵(けいぞう)が浮かべた苦笑いには、少しばかりあきれも滲んでいる。羽振りのいい隣の道場とは違う素流(そりゅう)道場。その原因が玄武(げんぶ)道場の嫌がらせだったりもする。一つ一つは、本人はさして気にしていないふりをしているが、狛治(はくじ)にはうっすらとその裏の心情も伝わっていた。

 

「師範は、元服(げんぷく)はされなかったんですか」

 

「俺の家はそんな上等なもんじゃなかったからな。十五の頃はもう旅をしながら、そこらで殴り合ってた」

 

 からからと笑う慶蔵(けいぞう)の声には、しかし嫌な響きはない。狛治(はくじ)は、その豪快さにいつも救われている気がした。

 

「恋雪(こゆき)さんは」

 

「ぐっすりだ。昨夜は薬が効きすぎたのか、朝餉にも起きてこなかったからな。あいつは放っといても、隣が何騒ごうが寝てるだろうな」

 

 その言葉どおり、離れの布団の中では、恋雪(こゆき)が薬のおかげでまだ深い眠りの底にいた。深夜の祝いの太鼓も、隣の噂話も、彼女の耳には一切届いていない。

 

「今日は日銭稼ぎに出る。夕方までかかりそうだ。お前は町に買い出しへ行ってくれ、味噌が切れてる」

 

「わかりました」

 

 慶蔵(けいぞう)は道具袋を担ぎ、狛治(はくじ)は買い物籠を手に、それぞれ違う方角へと歩き出した。素流(そりゅう)道場には、しばらくの間、眠り続ける恋雪(こゆき)だけが残された。

 

 

 

 

 

 ***

 

 目が覚めたのは、日がずいぶん高く昇った頃だった。

 

(あー……、二度寝どころか三度寝した気がする……)

 

 頭がまだぼんやりしている。

 ただ、社畜時代にはできなかった平日の三度寝。もれなく、病弱の体がセットになっているが。そんな幸福と不幸を混在させながらも、布団から這い出て、水でも飲もうかと考えていた矢先、庭のほうから聞き覚えのある声が響いた。

 

「おーい、恋雪(こゆき)! いるかー!!」

 

 玄真(げんま)だった。しかも、いつもより声が弾んでいる。反射的に体が固まる。これまでの記憶が警報を鳴らしていた――これは、「絶対にろくなことじゃない」パターンの声だ。

 

「あ、今は父も狛治(はくじ)さんも、出かけているみたいで……」

 

 寝間着のまま縁側に顔を出すと、玄真(げんま)が満面の笑みでこちらを見ていた。手には、見たこともないくらい上等な反物を抱えている。

 

「ちょうどいい! 二人がいないなら好都合だ」

 

(全然好都合じゃないんだけど!?)

 

 心の中で全力で突っ込みながら、わたしは後ずさった。

 

「好都合、とは……」

 

「決まってるだろ、これに着替えろ」

 

 突きつけられたのは、鮮やかな朱色の着物だった。しかも刺繍まで入っている。どう見ても普段着ではない。

 

「こ、これは……?」

 

「玄武(げんぶ)道場に行くための、よそ行きだ。お前んちの継ぎ接ぎだらけの普段着じゃ、恥ずかしくてオレが連れていけねえからな」

 

 その言い草に一瞬むっとしたが、それどころではない。行き先を聞いて、わたしの中の警報は最大音量に達していた。

 

「お待ちください。父の許しもなく、よその道場へお邪魔するわけには参りません」

 

「隣だろ、隣。挨拶みたいなもんだ」

 

「挨拶にしても、まず父を通していただくのが筋かと」

 

 できる限り理屈で押し返そうとした。感情論では玄真(げんま)に勝てないことは、長年の付き合いでよくわかっている。だが、道理を説けば通じる相手かどうかは、また別の話だった。

 

「筋も何も、慶蔵(けいぞう)さんは今はいないだろ? だったらオレが先に連れてって、後でちゃんと挨拶しとくから問題ねえ」

 

「問題は大ありです。順序が逆です」

 

「細けえこと気にすんな。玄武(げんぶ)道場の方から会いに行ってやるんだから、むしろ光栄に思え」

 

 話が一向に噛み合わない。玄真(げんま)の中では、素流(そりゅう)道場側の都合や体面など、最初から勘定に入っていないのだ。

 

「とにかく、そういった場合は父が戻ってから、正式にお話をいただければと……」

 

「はいはい、わかったわかった。話はもう終わりだ。着替えろって」

 

 押し切られる、という表現がこれほどしっくりくる状況もない。着物を押し付けられ、有無を言わさず部屋の中に押し戻される。

 

(……筋論、通じなかったか)

 

 わたしは観念して、部屋の隅で着物を広げたのだが、事態はそこから予想外の方向に転がった。

 

 

 

 

 

「おせえよ! まだかよ!」

 

 襖の向こうから、待ちくたびれた玄真(げんま)の声が飛んでくる。帯の結び方すらろくにできない体に、慣れない上等な着物を着せるのは、想像以上に時間がかかっていた。

 

「も、もう少しお待ちください……」

 

「もう少しって、さっきから同じこと言ってるだろ!! いつまでかかるんだ!」

 

「あと少し、あと少しですので……!」

 

 半分も終わっていないくせに、口だけは調子よく答えてしまう。帯が思うように結べず、右手と左手が独立した生き物のように絡まっていく。

 

「もう待てねえ、見せてみろ」

 

「え、ちょっ――」

 

 ガラッ、と襖が勢いよく開いた。

 

 

 

 

 

 ***

 

「あ……っ!」

 

 恋雪(こゆき)の口から、小さな悲鳴が漏れる。

 

 反射的に、畳の上に乱雑に広がっていた厚手の帯を胸元に抱きかかえ、己の身体を隠そうと丸くなった。

 

 しかし、その防壁はあまりにも心もとなかった。

 

 玄真(げんま)の視線が、部屋の真ん中でうずくまる恋雪(こゆき)の、あまりにも無防備な「着替えの途中」の姿を容赦なく捉える。

 

 少女はまだ、帯を締めるどころか、本着物の腰紐すら結べていなかった。

 

 焦って無理に身体をねじったせいで、せっかく合わせたはずの贅沢な着物は、肩からずるりと滑り落ちている。

 

 露わになった左の肩口からは、中に着た真っ白な肌襦袢(はだじゅばん)の襟が大きくはだけ、少し汗ばんだ鎖骨と、緊張で激しく上下する小さな胸元がわずかに見えていた。

 

 さらにたくし上げたままの裾からは、むき出しの色白の細い足が露わになっていた。足の指先は、恥ずかしさのあまり、冷たい畳を掴むようにきゅっと丸まっている。

 

 病弱で色白の恋雪(こゆき)は、身体こそ幼いままであったが、そこかしこに女性としてのものがほんのりと見て取れるものだった。

 

 それらを前にした玄真(げんま)は、思わず、ごくりと喉を鳴らす。

 

 

 

 

 ***

 

 

「あ……っ!」

 

 思わず声が出た。声だけは完全に儚げな美少女のそれだったが、着替え中であったことよりも、不器用さで着物をうまく着れない羞恥心の方で、肌に赤みがさす。

 

 すでに介護を通して何度か狛治(はくじ)にもみられた身体でもある。自分のことは自分でわかっていている。この実年齢よりも幼く見える子供っぽい身体はエロさはないのだと、今なら自信をもって言える!

 

 玄真(げんま)がそんな俺を見て一瞬固まった後、無理やり、大きな声を上げる。

 

「な、なんだその格好! ちゃ、ちゃんと着ろよ!」

 

「開けないでくださいと言いましたよね、わたし……!?」

 

 わたしは咄嗟に着物の前をかき合わせながら、この人生の中でも渾身の力で玄真(げんま)を押し返した。バン、と大きな音を立てて襖を閉める。

 

「痛って! いきなり閉めんな!」

 

「勝手に開けるほうが悪いです!」

 

 襖越しに怒鳴り合いながらも、心臓はまだ早鐘を打っていた。

 

(ああ、もう……恥ずかしさの種類がもう色々混ざって処理落ちしてる)

 

 乱れた帯を結び直しながら、わたしは深く長いため息をついた。

 

「……もう、絶対に勝手に開けないでください」

 

 なにか迷うような間があった後。

 

「わ、わかったよ……」

 

 さすがに気まずさを覚えたのか、玄真(げんま)の声から先ほどまでの威勢が少し抜けていた。それきり襖の向こうは静かになり、わたしはようやく落ち着いて着替えを再開することができた。

 

 

 

 

 

 

 玄武(げんぶ)道場の門をくぐった瞬間、わたしは場の空気が変わったのを肌で感じた。

 

 広い敷地、手入れの行き届いた庭木、磨き上げられた廊下。うちの素流(そりゅう)道場とは、何もかもが数段階違う。

 

(……うわ、これ完全に格差社会の見本市じゃん)

 

 内心で呑気な感想を漏らしている場合ではなかった。案内されるまま表座敷に通されると、座らされたわたしを、居並ぶ門下生たちがじろじろと眺めてくる。値踏みされている、というのがこれ以上なくしっくりくる視線だった。

 

「これが例の、隣の……」

 

「ずいぶんと儚げなお嬢さんだね」

 

 ひそひそと交わされる声が、容赦なくこちらの耳にも届いてくる。儚げ。この言葉を浴びるたび、わたしの中では毎回同じ感想が湧く。

 

(儚げなんじゃなくて、単に栄養と薬が足りてないだけなんだよなあ……)

 

 もちろん、そんな身も蓋もない自己分析を口に出すわけにはいかない。わたしは慎ましく俯いて、儚げな娘というレッテルに全力で乗っかることにした。

 

 正面に座った玄武(げんぶ)道場の道場主が、静かに口を開いたのは、茶が一巡した頃だった。

 

「昨夜、玄真(げんま)は元服(げんぷく)いたしましてな」

 

 柔らかい声だった。威圧的というより、むしろ穏やかで、それがかえって底の見えない印象を与える。

 

「この玄武(げんぶ)道場も、代々剣一筋で御公儀(ごこうぎ)にお仕えしてきた家柄。玄真(げんま)もいずれ、この道場を継ぐ身にある」

 

「……存じております」

 

 わたしは無難に相槌を打った。ここまでは、単なる自己紹介の範疇だ。だが、道場主の言葉には、まだ続きがあった。

 

「近頃は、時世も変わったもの。剣一本で身を立てる道場も減り、拳術の真似事のような流派まで、道場を名乗る有様で」

 

 その一言に、座敷の空気がわずかに冷えた。拳術の真似事――言うまでもなく、素流(そりゅう)道場を指している。

 

「隣の道場も、かつては門下生も相応にいたと聞き及びますが、今や師範お一人と、住み込みの若い衆が一人。まことに、お気の毒なことだ」

 

 同情するような口ぶりだったが、その実、言葉の端々に見下しが滲んでいた。わたしは膝の上で拳を握った。

 

(……あ、これ、完全に嫌味だ)

 

 道場主は続けた。

 

「お嬢さんも、ずいぶんとご苦労なさっているのでしょう。あのように手狭で、決して裕福とは言えぬ道場では」

 

 どこまでも柔らかい声で、道場主は言葉を重ねていく。決定的な単語は、ただの一度も出てこない。それでも、その先に何を言おうとしているのか、聞いている誰もが察せられるだけの含みが、確かにそこにはあった。

 

「この玄武(げんぶ)道場であれば、少なくとも、ひもじい思いをさせることはないだろうな」

 

 やや遠回りな言葉が言われる一方で、この場から立ち去る理由がまだない。この場を断ろうにも、断る内容が明言されていないのだ。前世であった競合他社に訪問した時の居心地の悪さを久しぶりに覚える。

 

 だが、そこまでは、全然我慢できた。

 

 我慢できなかったのは、その直後だった。

 

「かの道場も、もとは別の流派のものであったと聞きますが。変わられて、今や見る影もない。師範殿も、さぞかし無念でしょうな」

 

 その一言で、わたしの中の何かが、静かに、しかし確かに切れた。

 

 父の道場を、貧しいと笑われるのは、まだいい。事実だから、仕方ない。だが、勝手に憐れまれるのは、話が別だ。

 

「……お言葉ですが」

 

 気づけば、声が出ていた。自分でも驚くほど、はっきりとした声だった。座敷の空気が、一瞬でこちらに向く。

 

「父は、無念になど思っておりません。門下生の数が少ないことも、道場が手狭なことも、それが即ち道場の値打ちが低いということには、なりません」

 

 場が静まり返る。玄真(げんま)が、隣で息を呑む気配がした。

 

「わたしは、確かに病弱な身にございます。この道場のように、立派な暮らしもできぬでしょう。ですが、父の拳と、狛治(はくじ)さんの拳を――見掛けだけで軽んじられるのは、素流(そりゅう)道場の娘として、聞き捨てなりません」

 

 言い切ってから、わたしは自分の心臓がどくどくと激しく鳴っているのに気づいた。

 

(……言っちゃった。完全に言っちゃった)

 

 格上の当主に、女子供が正面から異を唱えるなど、この時代の常識からすれば無礼にもほどがある。頭の隅で、冷静な部分がそう告げていた。それでもなお、あの道場を――慶蔵(けいぞう)や狛治(はくじ)を、黙って笑われたままにしておくことだけは、どうしてもできなかった。

 

 道場主は、しばらく無言でこちらを見つめていた。値踏みするような視線ではなく、値踏みし直すような視線だった。

 

「……ふむ」

 

 短く、そうこぼす。怒気は感じられなかった。むしろ、意外なものを見た、というような響きがあった。

 

「その見てくれに似合わず、なかなか気概のあるお嬢さんだ」

 

 その言葉に、皮肉が混じっているのか、それとも別の何かなのか、わたしには判じかねた。

 

 張り詰めた空気の中で、わたしはようやく自分の呼吸が浅くなっていることに気づいた。啖呵を切った反動なのか、慣れない場で気を張り続けた疲労なのか、あるいはその両方か。

 

 喉の奥で、ひゅっ、と小さな音がした。

 

「……っ」

 

 息が、うまく吸えない。

 

「お、おい、恋雪(こゆき)?」

 

 これまで道場主との会話に入ってこれなかった玄真(げんま)の声が、やけに遠くに聞こえる。胸の中心がぎゅっと締め付けられ、息を吸おうとするほど、逆に喉が狭くなっていくような感覚があった。目の前がちかちかと光り、座敷の柱がやけにぼやけて見える。

 

(うそ、ここで……!?)

 

 よりにもよってこのタイミングか、と思う余裕だけは、まだかろうじて残っていた。あれだけ啖呵を切っておきながら、すぐに発作で崩れ落ちるなど、格好がつかないにもほどがある。

 

(かっこ悪……。今のは、われながら結構いい啖呵だったのに……!)

 

 崩れ落ちる体を、誰かの腕が支えた。玄真(げんま)の声だったのか、道場の誰かだったのか、その時にはもう判別がつかなかった。ただ、薄れていく意識の隅で、羞恥だけがやけにはっきりと居座り続けていた。

 

 ――言ったことは、後悔していない。

 

 ただ、言った直後にこんな無様なところを見せてしまったことだけが、意識を手放す寸前まで、恨めしくてたまらなかった。

 

 

 

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