恋雪が意識を失ったまま素流道場に運び込まれたのは、日が少し傾き始めた頃だった。
玄武道場の使いが息を切らして駆け込んできたとき、慶蔵は日銭稼ぎから帰ってきたばかりで疲れているにも関わらず、無言で走り出した。狛治もまた、買い出しの籠を放り出して後を追った。
玄武道場の門前では、恋雪はすでに戸板に乗せられ、医者らしき男が脈を診ていた。青白い顔、浅く速い呼吸。その姿を見た瞬間、慶蔵の顔から表情が消えた。
「……連れて帰る」
短く、地を這うような声だった。
道場主が何かを言いかけたが、慶蔵はそれを最後まで聞かなかった。戸板ごと恋雪を抱え上げ、狛治とともに踵を返す。振り返りもしない背中に、玄武道場の門前が、しんと静まり返った。
それから、数日が過ぎた。
恋雪は目を覚まさなかった。時折うっすらと瞼を震わせ、うわ言のように何かを呟くことはあっても、意識が戻る気配はなかった。熱は上がったり下がったりを繰り返し、その度に慶蔵は枕元を離れなかった。
「……大丈夫だ。大丈夫だからな」
誰に向けての言葉なのか、本人にもわからないまま、慶蔵は同じ台詞を繰り返した。武骨な男の手が、震える娘の額に濡れた布を当てる。その手つきだけは、道場で拳を振るうときとまるで違う、危ういほど繊細なものだった。
狛治は、普段と変わらぬ顔をして日々の雑事をこなした。飯を炊き、水を汲み、稽古の型をなぞる。だが、その拳から発せられる風切り音は、以前よりも明らかに鋭さを増していた。誰かに向けられているわけでもない苛立ちが、拳の一つ一つに滲み出ていた。
「狛治」
ある夜、慶蔵が声をかけた。
「……お前、何か言いたいことがあるなら言え」
「……いえ」
短い返事の後、しばらくの沈黙があった。狛治は拳を見下ろしたまま、絞り出すように続けた。
「あの日、自分が付いていれば」
「お前のせいじゃない」
「わかっています。……わかってはいるんですが」
それきり、狛治は口を噤んだ。買い出しに出ていたのは日課の一つに過ぎない。誰にも責められる筋合いのないことだ。それでも、割り切れない何かが、若い体の内側でくすぶり続けていた。
一方、玄武道場でも、重い沈黙が座敷を支配していた。
「……あれから、いかがした」
道場主が問うたのは、恋雪が運ばれてから三日目のことだった。玄真は答えず、ただ俯いていた。
「聞いておらんのか」
「……容体は、わからねえ。誰も何も教えてくれねえんだ」
絞り出すような声だった。あの日以来、玄真は幾度となく素流道場の門前まで足を運んでいたが、その度に追い返されていた。当然だろう。事の発端が、自分にあるのだから。
道場主は、しばし目を閉じた。
「……あの折の物言い、些か過ぎたやもしれん」
珍しく、自省の色を帯びた声だった。あの座敷で、病弱な娘に啖呵を切らせるまでの言葉を投げたのは、他ならぬ自分だ。武家の格や道理を説いたつもりであったが、その道理が、これほど脆い体を追い詰める刃になろうとは、正直、計算していなかった。
「……このままただで済むはずもなかろう。相手は病弱な身の娘だぞ」
門下生たちの間にも、落ち着かぬ空気が満ちていた。
「玄真様が、勝手に連れ出したというのは本当か」
「聞けば筋も通さずに、な。師範も、それを咎めておられるらしい」
「先方が黙っておるはずもあるまい。慶蔵殿は、若い頃から名の知れた拳の遣い手だと聞くぞ」
誰の口からともなく漏れる噂は、道場の内側でじわじわと不安を育てていった。手を出した以上、何らかの報いを受けるであろうことは、誰の目にも明らかだった。
六日目の朝、恋雪の熱がようやく引いた。
目こそまだ開かぬものの、呼吸は穏やかになり、頬にわずかな血の気が戻った。それを確かめた慶蔵は、長い間、娘の寝顔を見つめていた。それから、静かに立ち上がった。
「狛治」
「はい」
「支度をしろ。玄武道場へ行く」
その声に、迷いは一片もなかった。数日間、押し殺し続けてきたものが、ようやく形を持って動き出そうとしていた。
「話し合い、ですか」
「いや」
慶蔵は、戸口で振り返った。その顔に浮かんでいたのは、怒りというより、もっと静かで、それゆえに底知れない何かだった。
「勝負だ」
――その一言が、素流道場から玄武道場へと、その日のうちに届けられることになる。
素流道場の二人が玄武道場の門前に姿を現したのは、昼を回った頃だった。
慶蔵は稽古着のまま、腰に得物の一つも差さず、ただ拳だけを提げてそこに立っていた。隣には、同じく得物を持たぬ狛治が控えている。その異様な軽装が、かえって覚悟の重さを物語っていた。
「――慶蔵殿」
出迎えた門下生の声には、隠しきれない緊張が滲んでいた。門の奥から、玄真が飛び出してくる。
「恋雪は……! 恋雪はどうなった!」
「命は取り留めた」
慶蔵の声は低く、感情を殺したような響きだった。
「取り留めた、が」
言葉を切り、慶蔵は玄真を、それから奥に控える道場主を真っ直ぐに見据えた。
「六日だ。六日間、あの子は生死の境をさまよった。筋も通さず勝手に連れ出され、身の程を弁えろと座敷で吊し上げにされた挙句にな」
「――待たれよ、慶蔵殿」
奥から出てきた道場主が、静かに口を挟んだ。
「あの折の物言い、些か行き過ぎた面はあった。それは認めよう。だが」
「言葉で済む話か」
慶蔵の声が、初めてわずかに震えた。怒りというより、抑え込んできたものが漏れ出るような震えだった。
「あの子はな、生まれつき体が弱い。ちょっとした風邪でも三日は寝込む。それを知った上で、あんたらは、あの子を連れ出して、あんな空気の中に放り込んだんだ」
誰も答えなかった。答えられる言葉が、そこにはなかった。
「詫びの一つも寄越さず、様子を見に来ることすらしなかった。それがどういう了見か、俺はそっちに聞きたいくらいだ」
道場主の顔が、初めてわずかに強張った。数日間、内心で自省の言葉を並べてはいたものの、格式ばった武家の面子が、素流道場に頭を下げるという行為を、頑なに拒んでいたのだ。その迷いを、慶蔵は正確に見抜いていた。
「……道場主として、詫び状の一つも書けばよかったか」
「今更、紙切れ一枚でどうにかなる話だと思うか」
慶蔵は一歩、前に出た。
「俺は、剣術がどうの、拳術がどうのと、道場同士の格を競いに来たわけじゃない。ただ――」
その目に宿る光が、初めて明確な殺気を帯びた。
「娘を傷つけられた親として、落とし前をつけに来た」
道場の広い庭に、両者が対峙する。玄武道場側には、道場主を除いても数十人近い門下生が集まっていた。真剣、あるいは木刀を手にした彼らの顔には、動揺と、それを押し隠すような虚勢が入り混じっている。対する素流道場は、慶蔵と狛治の、たったの二人だった。
「素流の拳術如きが、束になってもうちの剣には敵わぬ」
門下生の一人が、震える声で強がりを口にした。数の上では、圧倒的にこちらが有利だ。そのはずだった。
「――分かった。もはや、話し合いの時ではないようだ。それでは、始めよう」
道場主が、重々しく告げる。
慶蔵と狛治が通されたのは、玄武道場の訓練場。
そこには玄武道場の門下生合わせて四十名近くが揃っていた。
道場主が、静かに片手を上げた。ざわめいていた場が、それだけで静まり返る。
「――勝負の形について、申し伝えておく」
重々しい声だった。
「乱戦での決着は、双方の武名に瑕をつけるのみ。玄武道場の名において、当道場より腕に覚えのある者、十名を出す。一対一、順に相手を務めさせよう」
その言葉に、慶蔵はわずかに眉を動かした。数の上でこちらが圧倒的に不利であることは、火を見るより明らかだ。だが、道場主の意図は、そこにはなかった。
「無論、これがこちらに利のある形であることは承知しておる。だが、乱戦にて多勢を頼み、なし崩しに勝ちを拾うようでは、玄武の看板が泣く」
道場主は、狛治と慶蔵を順に見据えた。
「拳一つで、十人と正面から渡り合ってみせよと言うておるのだ。……できぬとは言わせぬぞ」
挑発めいた響きを孕みながらも、その言葉には確かな筋が通っていた。数を頼みに恥をかかせるのではなく、正々堂々と実力を示させる。武家の意地と体面、その両方を保つための、道場主なりの矜持だった。
「……いいだろう」
慶蔵が短く応じた。
「が、一つ聞いておく。負けた側は、何を差し出す」
「――看板だ」
道場主の声が、一段と低く落ちた。
「玄武道場が敗れれば、二度と素流道場に関わらぬと約束しよう。逆に、そちらが敗れれば……相応の詫びを立てていただく。互いの看板に懸けての勝負だ。異存はあるまいな」
その言葉に、庭の空気が一段と張り詰めた。単なる私闘ではない。道場そのものの名誉を賭けた、正式な試合となった瞬間だった。
「異存はない」
慶蔵は短く頷くと、そのまま一歩下がり、庭の端に腰を下ろした。控えに徹する構えだった。
「先鋒は、狛治。お前が行け」
「……はい」
名を呼ばれた狛治は、静かに前へと進み出た。得物は持たない。素手のまま、庭の中央に立つ。
対する玄武道場側から進み出たのは、門下生の中でも一際体格のいい男だった。竹刀を手に、慎重な足取りで間合いに入ってくる。得物すら持たぬ相手を侮る色は、その目にはなかった。
「……いくぞ」
男が低く告げ、竹刀を正眼に構える。狛治は、それに応えるように、静かに拳を上げた。
構えを見交わす二人の間に、痛いほどの静寂が満ちていく。誰も、声一つ発さなかった。
一人目、二人目、三人目――対戦は、恐ろしいほど淡々と進んでいった。
竹刀を構えた門下生たちは、いずれも道場でそれなりの実力を認められた者ばかりだったが、狛治の拳の前では、その差はほとんど意味を成さなかった。間合いに入る前に沈められる者、渾身の一撃を放った直後に懐へ踏み込まれ、鳩尾を突かれて崩れ落ちる者。勝負は、どれも十数手と続かなかった。
四人目、五人目、六人目。庭に横たわる門下生の数が増えるごとに、見守る者たちの間に、諦めにも似た沈黙が広がっていく。
七人目、八人目。狛治の息が、わずかに上がり始めていた。それでも拳の速さは衰えず、竹刀を弾き、あるいはかわし、確実に一撃を沈めていく。
九人目が膝をついたとき、庭には既に長い時間が流れていた。狛治の額には汗が滲み、肩は目に見えて上下している。連戦の疲労は、隠しようもなく体に表れ始めていた。
――そして、十人目。
「……オレが行く」
低い声とともに、玄真が竹刀を手に前へと進み出た。
「玄真様……」
「止めるな」
周囲の制止を振り切り、玄真は庭の中央に立った。その目には、これまでとは違う色があった。九人が次々と沈められていく様を、誰よりも間近で見ていたのだ。狛治の強さも、その疲労の色も、正確に見て取っていた。
「これは、私闘ではないぞ」
道場主が、わずかに眉を寄せる。
「試合だ。正式な、な」
玄真は短く言い切った。先鋒から数えて十人目、その枠は既に空いている。誰かが出なければならないなら、自分が出る。その理屈に、間違いはなかった。
道場主は、しばらく無言で息子を見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「……よかろう」
狛治と玄真が、間合いを挟んで対峙する。
狛治の呼吸は、まだ整いきっていなかった。九人分の連戦の疲労は、如何に鍛えた体でも、そう簡単には消えない。対する玄真は、この日初めての立ち合いだ。体力の差は、誰の目にも明らかだった。
「……悪いが、手加減はしない」
玄真が竹刀を正眼に構える。その切っ先は、わずかにも揺れていなかった。
「望むところです」
狛治は静かに拳を構えた。
先に動いたのは玄真だった。踏み込みざま、鋭い突きが放たれる。狛治はそれを最小限の動きでかわし、拳を返す。だが、その拳は空を切った。玄真が、既に半歩後ろへ引いていたのだ。
(――速い)
狛治は内心でそう評した。先の九人とは、明らかに一線を画する動きだった。腐っても剣術道場の跡取り。付け焼き刃の実力ではない。
二撃目、玄真の竹刀が横薙ぎに振られる。狛治は身を沈めてこれを避け、間合いを詰めようとした。だが、玄真はその踏み込みを読んでいたかのように、素早く後退しながら竹刀を突き出す。切っ先が、狛治の肩をかすめた。
「っ……」
浅い痛みが走る。九人分の疲労が、判断のわずかな遅れとなって表れていた。普段の狛治であれば、間違いなくかわしきっていた一撃だ。
攻守が入れ替わる。狛治が踏み込み、拳を放つ。玄真はそれを竹刀で受け流しながら、体を捌いて間合いを外す。攻めても、決定打には届かない。守っても、完全には防ぎきれない。両者の呼吸が、次第に荒くなっていった。
庭の空気が、痛いほどに張り詰めていく。誰も、声を発さなかった。竹刀の風切り音と、地を踏む足音、そして荒くなっていく二人の息遣いだけが、その場を支配していた。
三度、四度と、拳と竹刀が交錯する。決定打は、どちらにも出なかった。互角――少なくとも、この瞬間だけを切り取れば、そう呼べる拮抗だった。
玄真の目に、微かな驚きと、それを上回る昂揚が浮かぶ。
(――やれる。この男、疲れてる。今なら)
玄真は、狛治の拳の速度が、わずかに落ちていることに気づいていた。九人を沈めた疲労が、確実にその体を蝕んでいる。今、この瞬間を逃せば、次はない。
「――ここだ!」
裂帛の気合とともに、玄真が大きく踏み込んだ。渾身の力を込めた、袈裟懸けの一撃。防御を度外視した、決着を狙う大振りだった。
その一瞬、狛治の目が細くなった。
大振りは、隙を生む。踏み込みの深さも、竹刀の軌道も、疲労の中でなお、狛治の目には正確に映っていた。
「――鈴割り」
振り下ろされる竹刀の側面へ、拳が正確に合わせられる。
乾いた音とは、違った。
ばきん、という、何かが内側から弾けるような、鈍く重い音が庭に響いた。竹刀は、ただ折れたのではない。真ん中から、粉々に砕け散っていた。
「な――」
玄真が、手の中に残った柄の断片を、呆然と見つめる。竹の破片が舞い散った後、そこには、鈍い光を放つ細い金属片が交じっていた。
「これは……鉄、か」
狛治が、地面に転がった破片の一つを拾い上げ、静かに呟いた。芯に鉄を仕込んだ、いわゆる仕込み竹刀。竹刀や竹刀の内側に金属を通し、打突の威力を底上げする、本来の試合であれば決して使うことの許されない代物だった。
庭が、再びざわめいた。
「玄真様、まさか、その竹刀は……」
「詰め物入りの、鍛え竹刀ではないか」
門下生たちの間から、驚愕と非難の混じった声が上がる。玄真自身、握り締めた柄の断片を見下ろしたまま、言葉を失っていた。
「……知らなかった。これは、確かにオレの竹刀だが……」
声が震えていた。噓を言っているようには見えなかった。困惑と焦り、そしてわずかな恐怖の色が、その顔にありありと浮かんでいる。
道場主が、険しい顔で歩み出た。
「……何者の差し金か、追って厳しく詮議する」
その声には、これまでにない怒気が滲んでいた。仕込み竹刀の存在は、道場主自身にとっても、明らかに想定外の出来事だったらしい。
狛治は、拾い上げた金属片を、静かに地面へと置いた。拳には、わずかに擦り傷が滲んでいたが、それ以上のことは何も言わなかった。
「……勝負は、ついたな」
疲労の滲む声で、狛治がそう告げる。
鉄の芯すら砕いたその拳を前に、もはや誰も、異を唱える者はいなかった。
狛治の一言で、庭の空気が変わった。
道場主は、しばらく無言のまま、地面に散らばった竹の破片と、鈍く光る鉄芯を見つめていた。九人を沈めた拳が、最後には仕込みの鉄すら打ち砕いた。もはや、誰の目にも結果は明らかだった。
「……約束しよう」
絞り出すような声だった。
「玄武道場の名において誓う。今後一切、素流道場には関わらぬ。玄真、恋雪殿への接触も含め、二度と許さぬ」
「……父上」
玄真が何か言いかけたが、道場主の一瞥でそれを飲み込んだ。
「その方の竹刀の件は、別に詮議する。だが、勝負は勝負だ。負けは負けとして受け入れねばならぬ」
道場主は深く一礼した。武家の当主が、格下と見做していた拳術道場に対して頭を下げる。その光景に、居並ぶ門下生たちの間から、驚きとも安堵ともつかぬ息が漏れた。
「約束、確かに受け取った」
慶蔵が短く応じる。怒りに燃えていた目は、いつしかいつもの静けさを取り戻していた。
「行くぞ、狛治」
「……はい」
二人は踵を返した。崩れ落ちたままの玄真と、深く項垂れた道場主の姿を、庭に横たわる門下生たちが、それぞれの体勢のまま見送っていた。
仕込み竹刀の出所について、玄武道場が内々に調べを進めたのは、それから数日後のことだった。
結論から言えば、調べは驚くほど早く「片付いた」。
道場の武具蔵を任されていた若い下男が、数年前まで玄武道場に出入りしていた男――佐吉という名の、かつて素流道場から引き抜かれてきた元門下生と、密かに連絡を取っていたことが判明したのだ。
「佐吉が、竹刀に細工をさせたと申すか」
道場主の問いに、下男は震えながら頷いた。金を握らされ、竹刀の一本に鉄芯を仕込む手引きをした、という自白だった。
佐吉は、もともと素流道場の門下生だった男だ。腕を見込んだ玄武道場側が、仕官の口利きをちらつかせて引き抜いた。だが、いざ移ってみれば、道場内での扱いは決して良いものではなかった。剣を持たぬ拳術上がりというだけで陰口を叩かれ、格下の余所者として軽んじられる日々。やがて素行に難ありとされ、内々の詮議の末、半年ほど前にひっそりと道場を追われていた。
「……あの男か」
道場主は、苦い顔で呟いた。
調べは、そこで終わった。武具蔵の下男を厳しく処罰し、佐吉の名を追放者名簿に記し直し、それで一件落着――玄武道場の内部では、そういうことになった。町方に届け出ることもなく、すべては道場の内側だけで完結させられた。
だが、当の佐吉自身に話を聞くことは、ついに叶わなかった。すでに江戸を離れたとも、二度と姿を見せなかったとも言われ、真偽のほどは誰にもわからない。下男の証言だけを頼りに、道場の面子を守るための「片付け」が、粛々と行われただけだった。
果たして、本当に佐吉が絵図を描いたのか。それとも、単なる都合のいい生贄だったのか。真相を知る者は、玄武道場の外には一人もいなかった。
ただ、後になって、町の片隅から小さな噂が漏れ聞こえてくることがあった。
――佐吉は、玄武道場にも、素流道場にも、恨みを抱いていたらしい、と。
引き抜かれた挙句に軽んじられ、追われた玄武道場。そして、その引き抜きに応じて自分から道場を捨てた、かつての古巣――素流道場。どちらにも、行き場のない怨嗟を溜め込んでいたのではないか。そんな、確かめようのない話が、噂話の中でだけ、ひっそりと形を持っていた。
真相を掴む術は、もう誰の手にもなかった。ただ、両家の間に横たわる因縁の根が、思いのほか深く、そして入り組んでいたことだけが、後々まで薄い影を落とし続けていたことになる。
***
おまけ:鈴割りチャレンジ
「鈴割り……わたしも見たかったです」
目覚めたら、全てが終わっていた恋雪です。
前世で男サラリーマンをやっていて、今は病弱美少女をしている恋雪です。
急展開過ぎて、全てがついていけない、恋雪です。
誰だよ、佐吉って!? 幼い頃に一時、そんな門下生にいた気がするよ!(※混乱中)
そして……絶賛、布団の上で珍しくダダをこねている恋雪です。
そんなわたしを前に、珍しくおろおろとしているのが狛治14歳。
「いえ、ですから。恋雪さんも俺の練習では何度か見たことあるでしょう……?」
「あんな棒切れでやる鈴割りは、偽物です……!」
我が家の素流道場は絶賛貧乏であり、鉄を破壊した鈴割りなんて、わたしは生まれてこのかた見たことがなかったのだ。だって、壊すと高いから。
「見たいの! 本物の刀を破壊する鈴割りが見たいのーーー!!!」
じたばたとするわたしを、困った顔で見下ろす狛犬の姿があったとか、ないとか。
尚、この後に体調を再び悪化させて、父さんにしこたま怒られた。