恋雪にTS転生したので、猗窩座を救いたい人生だった   作:自分の性癖に素直になろう小説

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第十話 VS玄武道場

 

 恋雪(こゆき)が意識を失ったまま素流(そりゅう)道場に運び込まれたのは、日が少し傾き始めた頃だった。

 

 玄武(げんぶ)道場の使いが息を切らして駆け込んできたとき、慶蔵(けいぞう)は日銭稼ぎから帰ってきたばかりで疲れているにも関わらず、無言で走り出した。狛治(はくじ)もまた、買い出しの籠を放り出して後を追った。

 

 玄武(げんぶ)道場の門前では、恋雪(こゆき)はすでに戸板に乗せられ、医者らしき男が脈を診ていた。青白い顔、浅く速い呼吸。その姿を見た瞬間、慶蔵(けいぞう)の顔から表情が消えた。

 

「……連れて帰る」

 

 短く、地を這うような声だった。

 

 道場主が何かを言いかけたが、慶蔵(けいぞう)はそれを最後まで聞かなかった。戸板ごと恋雪(こゆき)を抱え上げ、狛治(はくじ)とともに踵を返す。振り返りもしない背中に、玄武(げんぶ)道場の門前が、しんと静まり返った。

 

 

 

 

 それから、数日が過ぎた。

 

 恋雪(こゆき)は目を覚まさなかった。時折うっすらと瞼を震わせ、うわ言のように何かを呟くことはあっても、意識が戻る気配はなかった。熱は上がったり下がったりを繰り返し、その度に慶蔵(けいぞう)は枕元を離れなかった。

 

「……大丈夫だ。大丈夫だからな」

 

 誰に向けての言葉なのか、本人にもわからないまま、慶蔵(けいぞう)は同じ台詞を繰り返した。武骨な男の手が、震える娘の額に濡れた布を当てる。その手つきだけは、道場で拳を振るうときとまるで違う、危ういほど繊細なものだった。

 

 狛治(はくじ)は、普段と変わらぬ顔をして日々の雑事をこなした。飯を炊き、水を汲み、稽古の型をなぞる。だが、その拳から発せられる風切り音は、以前よりも明らかに鋭さを増していた。誰かに向けられているわけでもない苛立ちが、拳の一つ一つに滲み出ていた。

 

「狛治(はくじ)」

 

 ある夜、慶蔵(けいぞう)が声をかけた。

 

「……お前、何か言いたいことがあるなら言え」

 

「……いえ」

 

 短い返事の後、しばらくの沈黙があった。狛治(はくじ)は拳を見下ろしたまま、絞り出すように続けた。

 

「あの日、自分が付いていれば」

 

「お前のせいじゃない」

 

「わかっています。……わかってはいるんですが」

 

 それきり、狛治(はくじ)は口を噤(つぐ)んだ。買い出しに出ていたのは日課の一つに過ぎない。誰にも責められる筋合いのないことだ。それでも、割り切れない何かが、若い体の内側でくすぶり続けていた。

 

 

 

 

 

 一方、玄武(げんぶ)道場でも、重い沈黙が座敷を支配していた。

 

「……あれから、いかがした」

 

 道場主が問うたのは、恋雪(こゆき)が運ばれてから三日目のことだった。玄真(げんま)は答えず、ただ俯いていた。

 

「聞いておらんのか」

 

「……容体は、わからねえ。誰も何も教えてくれねえんだ」

 

 絞り出すような声だった。あの日以来、玄真(げんま)は幾度となく素流(そりゅう)道場の門前まで足を運んでいたが、その度に追い返されていた。当然だろう。事の発端が、自分にあるのだから。

 

 道場主は、しばし目を閉じた。

 

「……あの折の物言い、些か過ぎたやもしれん」

 

 珍しく、自省の色を帯びた声だった。あの座敷で、病弱な娘に啖呵を切らせるまでの言葉を投げたのは、他ならぬ自分だ。武家の格や道理を説いたつもりであったが、その道理が、これほど脆い体を追い詰める刃になろうとは、正直、計算していなかった。

 

「……このままただで済むはずもなかろう。相手は病弱な身の娘だぞ」

 

 

 

 

 

 

 門下生たちの間にも、落ち着かぬ空気が満ちていた。

 

「玄真(げんま)様が、勝手に連れ出したというのは本当か」

 

「聞けば筋も通さずに、な。師範も、それを咎めておられるらしい」

 

「先方が黙っておるはずもあるまい。慶蔵(けいぞう)殿は、若い頃から名の知れた拳の遣い手だと聞くぞ」

 

 誰の口からともなく漏れる噂は、道場の内側でじわじわと不安を育てていった。手を出した以上、何らかの報いを受けるであろうことは、誰の目にも明らかだった。

 

 

 

 

 

 

 六日目の朝、恋雪(こゆき)の熱がようやく引いた。

 

 目こそまだ開かぬものの、呼吸は穏やかになり、頬にわずかな血の気が戻った。それを確かめた慶蔵(けいぞう)は、長い間、娘の寝顔を見つめていた。それから、静かに立ち上がった。

 

「狛治(はくじ)」

 

「はい」

 

「支度をしろ。玄武(げんぶ)道場へ行く」

 

 その声に、迷いは一片もなかった。数日間、押し殺し続けてきたものが、ようやく形を持って動き出そうとしていた。

 

「話し合い、ですか」

 

「いや」

 

 慶蔵(けいぞう)は、戸口で振り返った。その顔に浮かんでいたのは、怒りというより、もっと静かで、それゆえに底知れない何かだった。

 

「勝負だ」

 

 ――その一言が、素流(そりゅう)道場から玄武(げんぶ)道場へと、その日のうちに届けられることになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 素流(そりゅう)道場の二人が玄武(げんぶ)道場の門前に姿を現したのは、昼を回った頃だった。

 

 慶蔵(けいぞう)は稽古着のまま、腰に得物の一つも差さず、ただ拳だけを提げてそこに立っていた。隣には、同じく得物を持たぬ狛治(はくじ)が控えている。その異様な軽装が、かえって覚悟の重さを物語っていた。

 

「――慶蔵(けいぞう)殿」

 

 出迎えた門下生の声には、隠しきれない緊張が滲んでいた。門の奥から、玄真(げんま)が飛び出してくる。

 

「恋雪(こゆき)は……! 恋雪(こゆき)はどうなった!」

 

「命は取り留めた」

 

 慶蔵(けいぞう)の声は低く、感情を殺したような響きだった。

 

「取り留めた、が」

 

 言葉を切り、慶蔵(けいぞう)は玄真(げんま)を、それから奥に控える道場主を真っ直ぐに見据えた。

 

「六日だ。六日間、あの子は生死の境をさまよった。筋も通さず勝手に連れ出され、身の程を弁えろと座敷で吊し上げにされた挙句にな」

 

「――待たれよ、慶蔵(けいぞう)殿」

 

 奥から出てきた道場主が、静かに口を挟んだ。

 

「あの折の物言い、些か行き過ぎた面はあった。それは認めよう。だが」

 

「言葉で済む話か」

 

 慶蔵(けいぞう)の声が、初めてわずかに震えた。怒りというより、抑え込んできたものが漏れ出るような震えだった。

 

「あの子はな、生まれつき体が弱い。ちょっとした風邪でも三日は寝込む。それを知った上で、あんたらは、あの子を連れ出して、あんな空気の中に放り込んだんだ」

 

 誰も答えなかった。答えられる言葉が、そこにはなかった。

 

「詫びの一つも寄越さず、様子を見に来ることすらしなかった。それがどういう了見か、俺はそっちに聞きたいくらいだ」

 

 道場主の顔が、初めてわずかに強張った。数日間、内心で自省の言葉を並べてはいたものの、格式ばった武家の面子が、素流(そりゅう)道場に頭を下げるという行為を、頑なに拒んでいたのだ。その迷いを、慶蔵(けいぞう)は正確に見抜いていた。

 

「……道場主として、詫び状の一つも書けばよかったか」

 

「今更、紙切れ一枚でどうにかなる話だと思うか」

 

 慶蔵(けいぞう)は一歩、前に出た。

 

「俺は、剣術がどうの、拳術がどうのと、道場同士の格を競いに来たわけじゃない。ただ――」

 

 その目に宿る光が、初めて明確な殺気を帯びた。

 

「娘を傷つけられた親として、落とし前をつけに来た」

 

 道場の広い庭に、両者が対峙する。玄武(げんぶ)道場側には、道場主を除いても数十人近い門下生が集まっていた。真剣、あるいは木刀を手にした彼らの顔には、動揺と、それを押し隠すような虚勢が入り混じっている。対する素流(そりゅう)道場は、慶蔵(けいぞう)と狛治(はくじ)の、たったの二人だった。

 

「素流(そりゅう)の拳術如きが、束になってもうちの剣には敵わぬ」

 

 門下生の一人が、震える声で強がりを口にした。数の上では、圧倒的にこちらが有利だ。そのはずだった。

 

「――分かった。もはや、話し合いの時ではないようだ。それでは、始めよう」

 

 道場主が、重々しく告げる。

 

 

 

 

 

 慶蔵(けいぞう)と狛治(はくじ)が通されたのは、玄武(げんぶ)道場の訓練場。

 

 そこには玄武(げんぶ)道場の門下生合わせて四十名近くが揃っていた。

 

 道場主が、静かに片手を上げた。ざわめいていた場が、それだけで静まり返る。

 

「――勝負の形について、申し伝えておく」

 

 重々しい声だった。

 

「乱戦での決着は、双方の武名に瑕をつけるのみ。玄武(げんぶ)道場の名において、当道場より腕に覚えのある者、十名を出す。一対一、順に相手を務めさせよう」

 

 その言葉に、慶蔵(けいぞう)はわずかに眉を動かした。数の上でこちらが圧倒的に不利であることは、火を見るより明らかだ。だが、道場主の意図は、そこにはなかった。

 

「無論、これがこちらに利のある形であることは承知しておる。だが、乱戦にて多勢を頼み、なし崩しに勝ちを拾うようでは、玄武(げんぶ)の看板が泣く」

 

 道場主は、狛治(はくじ)と慶蔵(けいぞう)を順に見据えた。

 

「拳一つで、十人と正面から渡り合ってみせよと言うておるのだ。……できぬとは言わせぬぞ」

 

 挑発めいた響きを孕みながらも、その言葉には確かな筋が通っていた。数を頼みに恥をかかせるのではなく、正々堂々と実力を示させる。武家の意地と体面、その両方を保つための、道場主なりの矜持だった。

 

「……いいだろう」

 

 慶蔵(けいぞう)が短く応じた。

 

「が、一つ聞いておく。負けた側は、何を差し出す」

 

「――看板だ」

 

 道場主の声が、一段と低く落ちた。

 

「玄武(げんぶ)道場が敗れれば、二度と素流(そりゅう)道場に関わらぬと約束しよう。逆に、そちらが敗れれば……相応の詫びを立てていただく。互いの看板に懸けての勝負だ。異存はあるまいな」

 

 その言葉に、庭の空気が一段と張り詰めた。単なる私闘ではない。道場そのものの名誉を賭けた、正式な試合となった瞬間だった。

 

「異存はない」

 

 慶蔵(けいぞう)は短く頷くと、そのまま一歩下がり、庭の端に腰を下ろした。控えに徹する構えだった。

 

「先鋒は、狛治(はくじ)。お前が行け」

 

「……はい」

 

 名を呼ばれた狛治(はくじ)は、静かに前へと進み出た。得物は持たない。素手のまま、庭の中央に立つ。

 

 対する玄武(げんぶ)道場側から進み出たのは、門下生の中でも一際体格のいい男だった。竹刀を手に、慎重な足取りで間合いに入ってくる。得物すら持たぬ相手を侮る色は、その目にはなかった。

 

「……いくぞ」

 

 男が低く告げ、竹刀を正眼に構える。狛治(はくじ)は、それに応えるように、静かに拳を上げた。

 

 構えを見交わす二人の間に、痛いほどの静寂が満ちていく。誰も、声一つ発さなかった。

 

 

 

 

 

 

 一人目、二人目、三人目――対戦は、恐ろしいほど淡々と進んでいった。

 

 竹刀を構えた門下生たちは、いずれも道場でそれなりの実力を認められた者ばかりだったが、狛治(はくじ)の拳の前では、その差はほとんど意味を成さなかった。間合いに入る前に沈められる者、渾身の一撃を放った直後に懐へ踏み込まれ、鳩尾を突かれて崩れ落ちる者。勝負は、どれも十数手と続かなかった。

 

 四人目、五人目、六人目。庭に横たわる門下生の数が増えるごとに、見守る者たちの間に、諦めにも似た沈黙が広がっていく。

 

 七人目、八人目。狛治(はくじ)の息が、わずかに上がり始めていた。それでも拳の速さは衰えず、竹刀を弾き、あるいはかわし、確実に一撃を沈めていく。

 

 九人目が膝をついたとき、庭には既に長い時間が流れていた。狛治(はくじ)の額には汗が滲み、肩は目に見えて上下している。連戦の疲労は、隠しようもなく体に表れ始めていた。

 

 ――そして、十人目。

 

「……オレが行く」

 

 低い声とともに、玄真(げんま)が竹刀を手に前へと進み出た。

 

「玄真(げんま)様……」

 

「止めるな」

 

 周囲の制止を振り切り、玄真(げんま)は庭の中央に立った。その目には、これまでとは違う色があった。九人が次々と沈められていく様を、誰よりも間近で見ていたのだ。狛治(はくじ)の強さも、その疲労の色も、正確に見て取っていた。

 

「これは、私闘ではないぞ」

 

 道場主が、わずかに眉を寄せる。

 

「試合だ。正式な、な」

 

 玄真(げんま)は短く言い切った。先鋒から数えて十人目、その枠は既に空いている。誰かが出なければならないなら、自分が出る。その理屈に、間違いはなかった。

 

 道場主は、しばらく無言で息子を見つめていたが、やがて小さく頷いた。

 

「……よかろう」

 

 狛治(はくじ)と玄真(げんま)が、間合いを挟んで対峙する。

 

 狛治(はくじ)の呼吸は、まだ整いきっていなかった。九人分の連戦の疲労は、如何に鍛えた体でも、そう簡単には消えない。対する玄真(げんま)は、この日初めての立ち合いだ。体力の差は、誰の目にも明らかだった。

 

「……悪いが、手加減はしない」

 

 玄真(げんま)が竹刀を正眼に構える。その切っ先は、わずかにも揺れていなかった。

 

「望むところです」

 

 狛治(はくじ)は静かに拳を構えた。

 

 先に動いたのは玄真(げんま)だった。踏み込みざま、鋭い突きが放たれる。狛治(はくじ)はそれを最小限の動きでかわし、拳を返す。だが、その拳は空を切った。玄真(げんま)が、既に半歩後ろへ引いていたのだ。

 

(――速い)

 

 狛治(はくじ)は内心でそう評した。先の九人とは、明らかに一線を画する動きだった。腐っても剣術道場の跡取り。付け焼き刃の実力ではない。

 

 二撃目、玄真(げんま)の竹刀が横薙ぎに振られる。狛治(はくじ)は身を沈めてこれを避け、間合いを詰めようとした。だが、玄真(げんま)はその踏み込みを読んでいたかのように、素早く後退しながら竹刀を突き出す。切っ先が、狛治(はくじ)の肩をかすめた。

 

「っ……」

 

 浅い痛みが走る。九人分の疲労が、判断のわずかな遅れとなって表れていた。普段の狛治(はくじ)であれば、間違いなくかわしきっていた一撃だ。

 

 攻守が入れ替わる。狛治(はくじ)が踏み込み、拳を放つ。玄真(げんま)はそれを竹刀で受け流しながら、体を捌いて間合いを外す。攻めても、決定打には届かない。守っても、完全には防ぎきれない。両者の呼吸が、次第に荒くなっていった。

 

 庭の空気が、痛いほどに張り詰めていく。誰も、声を発さなかった。竹刀の風切り音と、地を踏む足音、そして荒くなっていく二人の息遣いだけが、その場を支配していた。

 

 三度、四度と、拳と竹刀が交錯する。決定打は、どちらにも出なかった。互角――少なくとも、この瞬間だけを切り取れば、そう呼べる拮抗だった。

 

 玄真(げんま)の目に、微かな驚きと、それを上回る昂揚が浮かぶ。

 

(――やれる。この男、疲れてる。今なら)

 

 玄真(げんま)は、狛治(はくじ)の拳の速度が、わずかに落ちていることに気づいていた。九人を沈めた疲労が、確実にその体を蝕んでいる。今、この瞬間を逃せば、次はない。

 

「――ここだ!」

 

 裂帛の気合とともに、玄真(げんま)が大きく踏み込んだ。渾身の力を込めた、袈裟懸けの一撃。防御を度外視した、決着を狙う大振りだった。

 

 その一瞬、狛治(はくじ)の目が細くなった。

 

 大振りは、隙を生む。踏み込みの深さも、竹刀の軌道も、疲労の中でなお、狛治(はくじ)の目には正確に映っていた。

 

「――鈴割(すずわ)り」

 

 振り下ろされる竹刀の側面へ、拳が正確に合わせられる。

 

 乾いた音とは、違った。

 

 ばきん、という、何かが内側から弾けるような、鈍く重い音が庭に響いた。竹刀は、ただ折れたのではない。真ん中から、粉々に砕け散っていた。

 

「な――」

 

 玄真(げんま)が、手の中に残った柄の断片を、呆然と見つめる。竹の破片が舞い散った後、そこには、鈍い光を放つ細い金属片が交じっていた。

 

「これは……鉄、か」

 

 狛治(はくじ)が、地面に転がった破片の一つを拾い上げ、静かに呟いた。芯に鉄を仕込んだ、いわゆる仕込み竹刀。竹刀や竹刀の内側に金属を通し、打突の威力を底上げする、本来の試合であれば決して使うことの許されない代物だった。

 

 庭が、再びざわめいた。

 

「玄真(げんま)様、まさか、その竹刀は……」

 

「詰め物入りの、鍛え竹刀ではないか」

 

 門下生たちの間から、驚愕と非難の混じった声が上がる。玄真(げんま)自身、握り締めた柄の断片を見下ろしたまま、言葉を失っていた。

 

「……知らなかった。これは、確かにオレの竹刀だが……」

 

 声が震えていた。噓を言っているようには見えなかった。困惑と焦り、そしてわずかな恐怖の色が、その顔にありありと浮かんでいる。

 

 道場主が、険しい顔で歩み出た。

 

「……何者の差し金か、追って厳しく詮議する」

 

 その声には、これまでにない怒気が滲んでいた。仕込み竹刀の存在は、道場主自身にとっても、明らかに想定外の出来事だったらしい。

 

 狛治(はくじ)は、拾い上げた金属片を、静かに地面へと置いた。拳には、わずかに擦り傷が滲んでいたが、それ以上のことは何も言わなかった。

 

「……勝負は、ついたな」

 

 疲労の滲む声で、狛治(はくじ)がそう告げる。

 

 鉄の芯すら砕いたその拳を前に、もはや誰も、異を唱える者はいなかった。

 

 

 

 

 

 

 狛治(はくじ)の一言で、庭の空気が変わった。

 

 道場主は、しばらく無言のまま、地面に散らばった竹の破片と、鈍く光る鉄芯を見つめていた。九人を沈めた拳が、最後には仕込みの鉄すら打ち砕いた。もはや、誰の目にも結果は明らかだった。

 

「……約束しよう」

 

 絞り出すような声だった。

 

「玄武(げんぶ)道場の名において誓う。今後一切、素流(そりゅう)道場には関わらぬ。玄真(げんま)、恋雪(こゆき)殿への接触も含め、二度と許さぬ」

 

「……父上」

 

 玄真(げんま)が何か言いかけたが、道場主の一瞥でそれを飲み込んだ。

 

「その方の竹刀の件は、別に詮議する。だが、勝負は勝負だ。負けは負けとして受け入れねばならぬ」

 

 道場主は深く一礼した。武家の当主が、格下と見做していた拳術道場に対して頭を下げる。その光景に、居並ぶ門下生たちの間から、驚きとも安堵ともつかぬ息が漏れた。

 

「約束、確かに受け取った」

 

 慶蔵(けいぞう)が短く応じる。怒りに燃えていた目は、いつしかいつもの静けさを取り戻していた。

 

「行くぞ、狛治(はくじ)」

 

「……はい」

 

 二人は踵を返した。崩れ落ちたままの玄真(げんま)と、深く項垂れた道場主の姿を、庭に横たわる門下生たちが、それぞれの体勢のまま見送っていた。

 

 

 

 

 

 

 仕込み竹刀の出所について、玄武(げんぶ)道場が内々に調べを進めたのは、それから数日後のことだった。

 

 結論から言えば、調べは驚くほど早く「片付いた」。

 

 道場の武具蔵を任されていた若い下男が、数年前まで玄武(げんぶ)道場に出入りしていた男――佐吉(さきち)という名の、かつて素流(そりゅう)道場から引き抜かれてきた元門下生と、密かに連絡を取っていたことが判明したのだ。

 

「佐吉(さきち)が、竹刀に細工をさせたと申すか」

 

 道場主の問いに、下男は震えながら頷いた。金を握らされ、竹刀の一本に鉄芯を仕込む手引きをした、という自白だった。

 

 佐吉(さきち)は、もともと素流(そりゅう)道場の門下生だった男だ。腕を見込んだ玄武(げんぶ)道場側が、仕官の口利きをちらつかせて引き抜いた。だが、いざ移ってみれば、道場内での扱いは決して良いものではなかった。剣を持たぬ拳術上がりというだけで陰口を叩かれ、格下の余所者として軽んじられる日々。やがて素行に難ありとされ、内々の詮議の末、半年ほど前にひっそりと道場を追われていた。

 

「……あの男か」

 

 道場主は、苦い顔で呟いた。

 

 調べは、そこで終わった。武具蔵の下男を厳しく処罰し、佐吉(さきち)の名を追放者名簿に記し直し、それで一件落着――玄武(げんぶ)道場の内部では、そういうことになった。町方に届け出ることもなく、すべては道場の内側だけで完結させられた。

 

 だが、当の佐吉(さきち)自身に話を聞くことは、ついに叶わなかった。すでに江戸を離れたとも、二度と姿を見せなかったとも言われ、真偽のほどは誰にもわからない。下男の証言だけを頼りに、道場の面子を守るための「片付け」が、粛々と行われただけだった。

 

 果たして、本当に佐吉(さきち)が絵図を描いたのか。それとも、単なる都合のいい生贄だったのか。真相を知る者は、玄武(げんぶ)道場の外には一人もいなかった。

 

 ただ、後になって、町の片隅から小さな噂が漏れ聞こえてくることがあった。

 

 ――佐吉(さきち)は、玄武(げんぶ)道場にも、素流(そりゅう)道場にも、恨みを抱いていたらしい、と。

 

 引き抜かれた挙句に軽んじられ、追われた玄武(げんぶ)道場。そして、その引き抜きに応じて自分から道場を捨てた、かつての古巣――素流(そりゅう)道場。どちらにも、行き場のない怨嗟を溜め込んでいたのではないか。そんな、確かめようのない話が、噂話の中でだけ、ひっそりと形を持っていた。

 

 真相を掴む術は、もう誰の手にもなかった。ただ、両家の間に横たわる因縁の根が、思いのほか深く、そして入り組んでいたことだけが、後々まで薄い影を落とし続けていたことになる。

 

 

 

 

 

 ***

 

おまけ:鈴割(すずわ)りチャレンジ

 

「鈴割(すずわ)り……わたしも見たかったです」

 

 目覚めたら、全てが終わっていた恋雪(こゆき)です。

 前世で男サラリーマンをやっていて、今は病弱美少女をしている恋雪(こゆき)です。

 急展開過ぎて、全てがついていけない、恋雪(こゆき)です。

 誰だよ、佐吉(さきち)って!? 幼い頃に一時、そんな門下生にいた気がするよ!(※混乱中)

 

 

 そして……絶賛、布団の上で珍しくダダをこねている恋雪(こゆき)です。

 

 

 そんなわたしを前に、珍しくおろおろとしているのが狛治(はくじ)14歳。

 

「いえ、ですから。恋雪(こゆき)さんも俺の練習では何度か見たことあるでしょう……?」

 

「あんな棒切れでやる鈴割(すずわ)りは、偽物です……!」

 

 我が家の素流(そりゅう)道場は絶賛貧乏であり、鉄を破壊した鈴割(すずわ)りなんて、わたしは生まれてこのかた見たことがなかったのだ。だって、壊すと高いから。

 

「見たいの! 本物の刀を破壊する鈴割(すずわ)りが見たいのーーー!!!」

 

 

 

 じたばたとするわたしを、困った顔で見下ろす狛犬の姿があったとか、ないとか。

 尚、この後に体調を再び悪化させて、父さんにしこたま怒られた。

 

 




>この時、恋雪(こゆき)12歳、狛治(はくじ)14歳、玄真(げんま)15歳。
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