恋雪にTS転生したので、猗窩座を救いたい人生だった 作:自分の性癖に素直になろう小説
梅雨も終わり、夏の日差しを感じ始める季節になってきた。
けれど、季節が変わっても俺は毎朝同じ時刻に目を覚ます。
そして、目覚めると最初に目に入るのが、自分の腕に記された三つの罪人の証。
嫌でも自分の立場というものを分からせられる、そんな日課から俺の朝は始まる。
試合の後、目に見えた嫌がらせはぴたりと止んだ。米や炭の仕入れが急に渋られることもなくなったし、道端で若い衆に絡まれることもない。表向きには、あの試合そのものがなかったことにされている。誰も口には出さない。師範も、俺も。
だが、近所の連中がうっすらと勘づいているのは、俺にも分かっていた。少し前、試合に負けた
だが、
あの人はただでさえ、外のことを知りたがっている。寝床から出られない苛立ちを、時折こらえきれずに滲ませる。
最初にすれ違ったときのことは、今でも覚えている。
それ以来、顔を合わせるたびに同じことが繰り返された。何かを言おうとして、飲み込む。その繰り返しだ。俺の方から声をかけたことはない。かけたところで、何を話せばいいのか分からなかった。
それと
そんな夏の朝だった。
師範は隣町まで出稽古に出ていて、昼過ぎまで帰らない。道場はしんと静まり返っている。俺は井戸端で水を汲み終えると、桶を提げて庭に回った。
そして、誰に頼まれたわけでもないのに、朝の涼しいうちから庭にしゃがみ込んで、雑草を根から引き抜いていく。土の匂い。指先に絡みつく根の感触。何も考えずに、ただ手を動かしているだけの時間。
俺はそれが嫌いではなかった。
むしろ好きだった。
昔、親父の看病をしていた頃も、そうだった。狭い長屋の、猫の額ほどの庭先で、同じように雑草を抜いていた記憶がある。あの頃は生きるのに必死で、花を愛でる余裕なんてなかった。それでも、土いじりをしている間だけは、頭の中が静かになった。誰かに何かを求められることもなく、ただ土と向き合っていられる。今もその感覚は変わらない。
「――
縁側の方から声がした。振り返ると、
「起きていて大丈夫なんですか」
「今日は、ちょっと調子がいいので」
そう言う声に、少し無理をしている響きが混じっている気がした。それでも俺は、それ以上は聞かなかった。無理に寝かせようとすれば、意固地になって余計に外に出たがるのが、この人だ。三年も一緒にいれば、それくらいは分かる。
「そんなに面白いものでもないですよ」
「面白いっていうか……」
言葉を探すように、視線が泳ぐ。
「なんか、真剣だなって」
その一言に、少し照れた。自分でも、そんな大層なことをしているつもりはなかったから。
「雑草を抜いているだけです」
「その割には、すごい集中力じゃない」
そう言われて、俺は苦笑いを返すしかなかった。手元の草を一本、丁寧に根元から引き抜く。
「花より、こっちの方が性に合ってるんです」
「花より雑草って、それはそれでどうなの」
からかうような声だった。だが目は笑っていない。じっと、俺の手の動きを追っている。
「昔――親父の世話をしてた頃、こうやって庭いじりをしてた時間だけが、なんていうか……息がつけたんです」
深く考えずに、口が勝手に動いていた。
「他のことは、何も考えなくて済むから」
「……そう」
短く、それだけを返した。だが声の調子が、少しだけ柔らかくなっていた気がする。
俺は再び手元に視線を戻し、雑草を抜く作業に戻った。
蝉の声が、庭のどこかで鳴き始めた。夏はまだ、始まったばかりだった。
***
錦鯉に餌をやるのは、いつの間にか俺の日課になっていた。
その日も、朝稽古を終えたあと、道場裏の池に回った。餌の入った桶を提げて水面に近づくと、鯉たちが待ちかねたように寄ってくる。橙、白、黒が入り混じった体が、ぬるりと水面をかき乱しながら競い合う。
餌を撒きながら、俺はぼんやりとその光景を眺めていた。
三年前、まだ道場に来て間もない頃、
「あれが、ベジータ。あっちの白黒のがスネ夫。で、目が金色に光ってるあの子がムスカ」
聞いたこともない名前ばかりだった。今でも意味は分からない。あのとき、由来を尋ねてみたが、
「なんだか、好きな名前なんです」
それ以上は教えてくれなかった。妙な名前だとは思ったが、楽しそうに語る顔を見ていると、それでいいような気がした。
近頃町の方で流行っている
今日も、鯉たちは変わらず騒がしい。ムスカと呼ばれていた金目の一匹が、他を押しのけて餌に食らいつく。あれからもう三年経つのに、名付けた本人が見ていないところでも、その名前だけは律儀に俺の頭に残っている。
餌をやり終えて、水面が静かになるのを待った。波紋が広がり、やがて消えていく。
池の水を替えるのも、藻を取るのも、いつからか俺の仕事になっていた。師範はそういう細かいことに頓着しない人だし、
面倒だと思ったことは、一度もなかった。
***
その日は朝から雨だった。
稽古は早々に切り上げて、俺は
絵を描くようになったきっかけは、去年の暮れのことだ。
大掃除をしていたとき、
「犬、ですか? うまいですね」
素直にそう言うと、
「違います。お父さんです……!」
聞けば、師範が素振りをしている姿を描いたものらしい。だが、どう見ても手足が四本では足りない。数えてみると、六本近くあるように見えた。
「六本も手足があると、ちょっとその、器用そうですね」
思わずそう言うと、
「動きが早くて、わたしにはそう見えたんです!」
本気で怒っているようで、それが妙におかしくて、俺は思わず笑ってしまった。すると
「だったら、
絵なんて描いたことがない、と断ったが、聞き入れてはもらえなかった。「いいから!」の一点張りに押し切られ、仕方なく庭の景色を、見たままに描いてみた。
「絵、うまっ!?」
それからというもの、暇を見つけては庭の花や、池の鯉や、通りの景色なんかを描いて見せるようになった。見せるたびに、
今日は、庭の紫陽花を描いている。雨に濡れて、いつもより色が濃い。
「
「そういえば――今度、漫画? とかいうのを描いてほしいって、前に言ってましたよね」
思い出したように言うと、
「漫画……」
「絵をいくつも並べて、話みたいにするやつ、じゃないんですか」
「あー……いや、うん、そう、そんな感じです」
歯切れの悪い返事だった。
紫陽花の絵の隅に、俺は小さく、鯉の絵を描き足した。ムスカのつもりだった。
「あ、それ、ムスカ!」
雨音が、部屋の中まで静かに響いていた。
***
熱が上がったり下がったりを繰り返して、もう三日目だった。
「いつもごめんね。わたしのせいで鍛錬もできないし、遊びにも行けない……」
意識も朦朧しながら、弱々しい声で、俺ことわたし――
「遊びたいとは思わない、昔から。開いた時間やそこらで鍛錬しているので、気になさらず」
――いや、絶対嘘でしょ。十五の男子が「遊びたいと思わない」はさすがに無理があるでしょ。でも顔が真顔なんだよな……。
「でも……たまには、気分転換に……。今夜は花火が上がるそうだから、行ってきて……」
これも、もう何度目か分からない台詞だった。毎年この時期になると同じやり取りをしている気がする。年中行事、正月、盆、花火の
「そうですね。眩暈が治まっていたら、背負って橋の前まで行きましょうか」
――あれ?
そこで、意識が少し覚醒する。
いやいやいや、待って。そこは「俺は行きませんよ」ってなるところじゃないの。何を当たり前のようにわたしを連れて行く前提で話進めてるの。しかも「背負って」って、何その具体的な移動手段。介護福祉士の資格でも持ってるの。
でも顔を見ると、本当になんでもないことのように、当たり前のように、そう言っているだけだった。表情筋一つ動かさずに。
――ああ、これは。知ってる。知ってるぞ、このシーン。
濡れた布を頭にかけてもらいながら。
「今日行けなくても、来年も再来年も花火は上がるから、その時に行けばいいですよ」
――。
来た。
本当に、寸分違わず、来てしまった。
原作の、あの、屈指の名シーンが。何回読み返したか分からない、あの台詞が、今、目の前で、本人の口から。
しかも、こっちは前世の記憶があるせいで、原作でこの台詞がどれだけの意味を持つか、全部知ってしまっている。知っているのに、いざ本人の声で聞かされると、そんな予備知識なんて何の役にも立たなかった。
視界がにじんだ。
「……」
「だ、大丈夫ですか、
しくしくと、勝手に涙が出てきた。
止めようと思っても止まらない。心の中では「待って、勝手に涙が!?」とわたしがパニックになりながら、もう半分では別の思考が働いていた。
――原作の
でも、俺は違う。
来年も再来年も生きている未来を、想像できてしまう。というか、原作知識がある為に、俺は来年も再来年もあることを知っている。
けれど、
ちゃんとした、社畜仲間、介護もできる系男子。年末に大掃除してたら、俺の描いたヘタクソな父親の絵を見て「犬ですか?」とか言ってきたくせに、絵の才能はなぜかバケモノ級。庭の手入れも、鯉の世話も、しれっと完璧にこなす。
――ダメだ。ダメだこれ。熱で意識が朦朧として俺は変なことを考えている。
涙を拭う手を止めて、考え込む。
わたしは知っている。この人が、この先、何になるのかを。
それだけじゃない。
なのに――。
なのに、今、この瞬間、
原作の
わたしも、元気になれる。
元気になれば、動ける範囲が広がる。できることが増える。調べられなかったことを調べられるし、防げなかったものを、今度こそ防げるかもしれない。原作をなぞるだけの、諦めた生き方をしなくてもいい。
原作の
これから先をどう生きるかは、俺が決めていい。
決めた。
今より、ちゃんと生きよう。
母さんのことは、もう取り返せない。でも、この先の全部が、同じように奪われるとは限らない。
そこまで考えて、胸の奥に小さく灯った、名前のつけられない熱だけは、そっと蓋をした。
今はまだ、見ないふりをする。
「
「だ、大丈夫です。ちょっと、感動しちゃって」
「感動、ですか……?」
きょとんとする
涙声のまま、なんとかそう誤魔化した。
我ながら、嘘は下手だと思う。