恋雪にTS転生したので、猗窩座を救いたい人生だった 作:自分の性癖に素直になろう小説
ふと、その指先が、ほんの一瞬だけ止まった。
(……前に診た時とは、まるで違う)
――以前助けた時の
***
「……
「――いいえ、何でもありません」
「……思った以上に、良くなっていますね」
呟くような声に、俺は息を詰めた。
「肺の音も、前より随分と楽になっています。顔色もいい。このまま無理をせず、体を労わり続ければ――」
「あなたは人のまま、生きていけます」
その言葉には、確かな優しさが滲んでいた。俺のために言ってくれているのだと、痛いほどわかる。鬼になるという選択がどれほどの代償を伴うか、それを一番よく知っているのは、この人自身のはずだから。
「わざわざ、外れた道を選ぶ必要はありません。人として――生きることを、選んだ方がいい」
(……そうだ、それが一番いいに決まってる)
わかっている。頭では、痛いほどわかっている。それでも俺は、首を横に振らずにはいられなかった。
「……人のままじゃ、届かない場所があるんです」
「届かない?」
「もし、この世界が――俺の知っている通りに進むなら」
言葉を選びながら、慎重に口を開く。ここで下手を打てば、ただの妄言としか思われない。原作という言葉は使えない。だから、俺は自分なりの理屈を組み立てた。
「弱いままじゃ、大事なものを守れない未来が来るかもしれない。人には、限界があります。どれだけ強い覚悟を持っていても、体一つじゃ届かない力ってものが、確かにあるんです。どうしようもないことは、いくらでもこの世界に転がっている……!」
「あなたは、何を知っているというの」
「――俺は、ただの勘です。でも、確信に近い勘です。近い将来、何か大きな災いが来る。それに、今の力じゃ誰も抗えない。俺は、それをどうしても変えたい」
「大きな災い、ね」
「具体的に、何を恐れているんですか」
質問の圧に、俺は言葉に詰まった。曖昧なまま押し通そうとしても、この人には通じない。焦りが、口を軽くする。
「……鬼を統べる、頂点の存在です。全ての元凶で、この国の裏で、何百年も――」
言いながら、自分の口が勝手に動いていくのを止められなかった。
「――
言った瞬間、空気が変わった。
「――今、なんと」
「あ……」
しまった、と思った時にはもう遅い。喉から零れ出た言葉は、取り消せない。
「なぜ、あなたがその名前を知っている」
答えられない。答えれば、余計に深みに嵌る。俺は口を閉ざしたまま、
沈黙が、痛いほど長く感じられる。
(言えない。言えるわけがない)
未来を知っている人間なんて、誰が信じるだろうか。信じたとして、それはそれで恐ろしい。俺は必死に言葉を探した。理屈でも、言い訳でもいい。何か、この空気を変えるものを。
「……
震えそうになる声を、無理やり奮い立たせる。
「詳しいことは、言えません。でも、これだけは本当です。俺は、何も知らないまま失うのが、もう嫌なんです。母を失った時みたいに、何もできずに終わるのは――もう、御免です」
「未来を変えたい! 自分を変えたいんです!」
静寂の中に、その叫びだけが響いた。夜気が震えるような、大きな声だった。自分でも驚くほどの熱量が、喉の奥から溢れていた。
ただ、俺の目を――正確には、俺の瞳の奥にある何かを、じっと見つめていた。
***
(この目は――)
目の前の少女の瞳には、その澱みがなかった。
恐怖に震えながらも、まっすぐにこちらを見据えてくる、真っ直ぐな光。憎しみからではなく、何かを守りたいという一心から生まれた強さ。それは、
「……あなた」
沈黙が、二人の間に横たわっていた。
――数年前、この土地の周辺で、水辺にまつわる不可解な死が続いたという話。人でなくなった自分が持つ感覚と、方々に張り巡らせた細い情報網が、微かにその気配を捉えていた。鬼の仕業と思しき死。時期も、場所も――目の前の少女の母の死と、あまりに近い。
(まさか)
確証はない。ただの推測に過ぎない。それでも、一度浮かんだ疑念は、
「……あなたのお母さんは」
無意識に、言葉が口をついて出た。しかし、そこから先が続かない。何を根拠に、何を伝えられるというのか。確たる証拠もないまま、ただの推測で少女の傷口を抉るような真似は、できるはずもなかった。
――代わりに、少女の方が動いた。
「お願いします」
震える声だった。それでも、そこに込められた意志だけは、少しも揺らいでいなかった。
「お願いします。わたしは……俺は」
言葉が、一人称のまま崩れる。取り繕う余裕も、今の
「大好きな人たちを、守りたいんです!」
その叫びは、静まり返った夜気を震わせ、そのまま
「その人のこと」
「愛しているのですね」
その一言に、
脳裏をよぎったのは、ただ一人の顔だった。不器用に世話を焼いてくれる、その人の横顔。焼き魚の身を黙って取り分けてくれる、大きな手。花を一輪、
(いや、違う。そういうのじゃなくて――)
慌てて打ち消そうとする内心とは裏腹に、赤らんだ頬は雄弁だった。
(あの呼吸が、ここまで確かなものになるなんて)
先ほど診た時に覚えた驚きが、静かに胸の奥で蘇る。生きようとする意志だけで、命はそう容易く繋ぎ止められるものではない。それを、
瞼の裏に浮かぶのは、遠い記憶。かつて自分にもあった、同じような温もり。夫の腕、幼い我が子の重み。そして、それら全てを容赦なく奪い去った、あの男の哄笑。
目の前の少女は、違う。
憎しみの先に、守りたいものがある。恐れの先に、愛しいものがある。その順序の違いが、あるいは――何かを変える鍵になるのかもしれない。
「……もう少しだけ、待っていて」
その声には、先ほどまでとは違う、静かな決意のようなものが滲んでいた。
「今、作っているものがあります」
静かな声が、夜気に溶けていく。
「人の死を、超えるための薬」
「言っておくけれど、期待するようなものではありません」
「成功する見込みは、限りなく低い。本来なら、数十年……いいえ、本当は百年以上の歳月をかけて、少しずつ確かめていくべきものなの。今はまだ、その途中にすぎません。人に使えるような段階には、程遠い」
言葉の一つ一つに、
「だから、使うときは――」
そこから先の言葉は、静寂に沈む夜の中に溶けていった。
夜は静かに更け、二人の対話は、誰にも知られぬまま闇の底に沈んでいく。
翌朝。
差し込む朝日に、
布団の中、体は昨夜と変わらず横たわったままだった。枕元には、誰の姿もない。あの香の名残すら、もうどこにも感じられなかった。まるで最初から、そんな夜など存在しなかったかのように。
けれど、
(忘れない)
昨夜、
(
胸の中で、静かにそう誓う。
ふと、体の軽さに気づいた。
昨夜、あれだけ長く起きて話し込んだのだから、本来なら朝には気怠さが残っているはずだ。それなのに、今朝の体は驚くほど軽い。息を吸っても、いつものような引っかかりがない。深夜のあの一時間が、まるで嘘のようだった。
(やっぱり、夢なんかじゃない)
その証拠は、他でもなく手元にあった。
枕元に、小さな包みが置かれている。中を確かめるまでもなく、それが何かは分かっていた。
立ち上がり、障子に手をかける。
そっと開けると、朝日が眩しく差し込んできた。思わず目を細める。眩しさに慣れない目の奥で、昨夜の静寂と、この朝の光とが、どこか不思議な対比を描いていた。
しばらく朝日を見ていると、
「……おはよう、ございます」
欠伸混じりに現れたのは、
「
「面目ないです。なんだか、昨日は妙に深く眠ってしまって……」
そう言いながら頭を掻く
「
不意打ちの問いに、思わず
「――え?」
「なんとなく、ですけど。今朝の
見抜かれている。
「ううん、何も。ただ、ちょっといい夢を見れただけです」
夢。そう口にした瞬間、自分でもその言葉の白々しさに苦笑しそうになる。あれは夢などではなかった。枕元に残された薬の包みが、何よりの証拠だ。それでも今は、そう誤魔化しておくのが一番いい。
「そういえば、俺も何か夢を見ていた気がします」
「
「はい。……変な夢だったので、あまりよく覚えてはいないんですが」
「摩訶不思議な、大きなお城かお屋敷みたいなところで。
「久しぶりって」
「久しぶりって、昨日ぶりですよ。毎日この家で顔を合わせてるじゃないですか」
軽い調子で突っ込みを入れると、
「俺も、そう思ったんですけど……夢の中だと、なぜか、そんな感じがしなかったんです。
そこで、
「百年以上も、会えなかった。そんな、不思議な気持ちになりました」
――百年。
その一言が、
頭の奥で、一枚の光景が勝手に像を結んでいく。歪んだ城の廊下。幾重にも重なる障子。そこで再会する、二人の姿。原作の、あの場面。無限城。何百年もの時を経て、ようやく巡り会う、
「それって……」
声が、掠れて途切れた。心臓が、嫌な速さで脈打っている。
「
呼びかけられて、
「……ううん、なんでもないです」
無理に笑みを作り、
(まさか、ね)
心の中で、自分に言い聞かせるように繰り返す。ただの偶然だ。
朝の光が、静かに二人を照らしていた。