恋雪にTS転生したので、猗窩座を救いたい人生だった   作:自分の性癖に素直になろう小説

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第十四話 恋の三角関係・イチゴ風味

 

 障子越しに差し込む朝の光が、いつもより白く畳の目を照らしていた。

 

 恋雪(こゆき)は台所に立ち、鍋の蓋を持ち上げては閉じ、また持ち上げるという無意味な動作を三度繰り返していた。中身はとうに出来上がっている。ただ、味見のたびに込み上げてくる達成感を、誰かに見せつけたくて仕方がなかったのだ。

 

(――あの頃を思えば、こんな朝が来るなんてな)

 

 内心の声はいまだに男のままだった。寝台から起き上がることすら賭けだった日々を思えば、今こうして立って湯気を浴びていること自体が奇跡に近い。あの頃は本を読むふりをして半日を過ごし、発作が来れば世界の終わりのような顔で慶蔵(けいぞう)と狛治(はくじ)に囲まれていた。今では発作もめっきり減り、せいぜい「ちょっと身体が弱い人」程度に落ち着いている。

 

(ステータス画面があったら、体力のゲージがようやく赤から黄色になったくらいの実感だ。いや、前世に比べれば全然虚弱なのは変わらないが……)

 

 そんな益体もない比較を頭の中で転がしながら、恋雪(こゆき)は膳を運んだ。狛治(はくじ)は座り、静かに待っていた。そして、膳が置かれてから姿勢を正した。

 しばらくして、慶蔵(けいぞう)、狛治(はくじ)、恋雪(こゆき)の三人がそろって食事を始める。

 

 狛治(はくじ)は箸を取り、一口目を咀嚼する。表情はほとんど動かなかったが、それは彼が味に無頓着なわけではなく、むしろ真剣に味わっている証だと、この数年で恋雪(こゆき)も知るようになっていた。

 

「どうですか、美味しいでしょう!」

 

 胸を張り、鼻をわずかに上に向けて、恋雪(こゆき)は言った。謙遜のかけらもない、堂々とした宣言だった。

 

「はい。俺より上手ですね」

 

 微笑みを浮かべながらの即答だった。世辞ではない。狛治(はくじ)の物言いにはいつも、余計な言葉を削ぎ落としたまっすぐさがある。だからこそ、次の一言も何の飾り気もなく飛び出してきた。

 

「毎朝、恋雪(こゆき)さんの料理、食べたいですよ」

 

 一拍置いて、恋雪(こゆき)の顔にじわりと赤みが差した。狛治(はくじ)は自分が何を言ったのか、まるで分かっていない様子で、二口目に箸を伸ばしている。

 

(――いや待て。今の、プロポーズの台詞じゃなかったか。前世で見たドラマなら確実に画面がキラキラしてる場面だぞ)

 

 内心で盛大にツッコミを入れながらも、口から出てきたのは全く違う言葉だった。

 

「ずるいです! わたしに追い抜かされて、悔しくないんですか?」

 

 的外れな抗議だと自分でも分かっている。だが、これ以外に赤面を誤魔化す方法を思いつかなかった。

 

「俺は、恋雪(こゆき)さんの料理が食べられて幸せですから」

 

 狛治(はくじ)はさらりと重ねる。悪気のなさが、かえって恋雪(こゆき)の耳を熱くさせた。

 

 そんな二人を眺めていた慶蔵(けいぞう)の豪快な笑い声が響く。

 

「はっはっは、若いっていいな」

 

 恋雪(こゆき)は膳の陰で顔を伏せたまま、しばらく箸を持つ手を動かせずにいた。

 

 

 

 

 ***

 

 町の喧騒は、素流(そりゅう)道場の静けさとは別世界のようだった。狛治(はくじ)は大きめの米袋を肩に担ぎ、もう一方の手に味噌の包みをぶら下げて、雑踏の間を縫うように歩いていた。

 

 朝、恋雪(こゆき)が得意げに「どうですか、美味しいでしょう!」と言った顔を思い出す。あの得意げな表情の後、自分が「毎朝食べたい」と口にした途端に真っ赤になって、的外れな抗議を叫んだ姿も。何が悔しいのか、狛治(はくじ)には今ひとつ分からなかった。ただ、あの慌てぶりを思い出すと、口元が自然と緩んだ。

 

(――むくれた顔も、見ていて安心する。病人の頃のあの申し訳なそうな顔の数十倍ぐらいマシだ)

 

 そう思ってから、自分でも妙な感想だと気づいて、少し歩調を速めた。

 

 五年前までは、こんな風に町を歩くことすら想像していなかった。腕の入れ墨を見られるたび、周囲の視線が変わるのを感じていたし、自分に居場所などないと思っていた。それが今では、慶蔵(けいぞう)から道場のことを任され、恋雪(こゆき)の世話を焼き、時折こうして買い出しにまで出される。誰かのために米袋を担いで歩くという、ただそれだけのことが、狛治(はくじ)にとっては噛みしめるほどの幸福だった。

 

 自分がそれを幸福と呼んでいい人間なのか、という疑問は、いつも胸の隅にわだかまっている。だが今日はまだ、その影は薄かった。夕暮れの光が橙色に町を染め、荷物は重いが足取りは軽い。慶蔵(けいぞう)の豪快な笑い声も、恋雪(こゆき)の料理の味も、狛治(はくじ)にとってはかけがえのないものになっていた。

 

 神社の裏手に続く坂道は、夕暮れになると人通りが絶える。狛治(はくじ)が買い物を終えて戻る途中、その静けさを破ったのは、複数の足音と笑い声だった。

 

「おい、肩がぶつかったぞ」

 

 すれ違いざま、若い男の一人がわざとらしく足を止めて言った。

 羽織に染め抜かれた紋から、玄武(げんぶ)道場の門下生だと分かる。そして、歳の頃は狛治(はくじ)とそう変わらない。だが顔に見覚えはなかった。三年前の道場戦を知る顔ぶれではない。あの後に入門した者たちなのだろうか。

 

 狛治(はくじ)は形ばかりの謝罪で頭を少し下げ、何も言わず、歩を進めようとした。

 

「無視すんなよ、罪人風情が」

 

 背後から声が続く。素流(そりゅう)道場には関わるなと言われている――それは彼らも知っているらしかった。だが、その口ぶりには納得のいかなさが滲んでいた。

 

「たった二人しかいねえボロ道場に、気を遣えって言われてもなあ」

 

「若様も何を気にしてんだか」

 

 くだらない、と狛治(はくじ)は思う。取り合う価値もない。無視を決め込んで歩き出したその背に、ひときわ下卑た声がぶつけられた。

 

「そういや、お前んとこにいる女……恋雪(こゆき)、だったか。あれ、可愛いよなあ」

 

 足が止まった。

 

「ああいう何も知らねえ生娘(おぼこ)ってなぁ、こっちが一から色々と仕込んでやりたくなるよなぁ、ひひっ」

 

「男ってもんを教えてやりゃあ、喜ぶんじゃねえの」

 

「オレたちが女にしてやってもいいぜ」

 

 下卑た笑い声が重なる。最近、外を出歩くようになった恋雪(こゆき)の姿を、彼らはどこかで見かけていたのだろう。病弱で儚げな娘が、守る者もろくにいない――そう勝手に決めつけた目で。

 

 狛治(はくじ)の中で、何かが静かに焼き切れた。

 

 気づけば、声を上げた男の顎を片手で掴み、そのまま宙に持ち上げていた。踵が地面から浮き、男の顔から一切の余裕が消える。

 

「うるさい」

 

 低い声だった。怒鳴りもしない。ただ、聞いた者の背筋を凍らせるだけの静けさがそこにあった。

 

「黙れ」

 

 殺気が肌を刺す。掴まれた男は声も出せず、ただ喉の奥で情けない音を漏らした。

 

「次に耳障りな口をきいたら、殺すぞ」

 

 もう片方の拳が、わずかに動いた。それだけだった。強く振るったわけでも、ましてや殴りつけたわけでもない。だが次の瞬間、男の片耳から一筋の血が伝い落ち、股間からは生温い染みが広がっていった。

 

 周りにいた門下生たちが我に返り、「こいつ!」と刀の柄に手をかける。

 

 その時、坂の上――神社へと続く石段から、静かな声が降ってきた。

 

「そこまでにしろ」

 

 一同の視線が上を向く。

 

「お前たちでは、そいつには勝てない」

 

 

 

 

 

 石段を下りてくる足音は、以前よりずっと重く、そして落ち着いていた。

 

 夕陽を背に立つその男を見上げて、狛治(はくじ)は一瞬、誰だか分からなかった。記憶の中の玄真(げんま)は、もっと甲高い声で喚き散らし、負けん気だけを剥き出しにした少年だった。今、目の前に立つのは、肩幅も背丈も狛治(はくじ)より一回り大きくなった、静かな威圧感をまとう青年だった。

 

「若様!」

 

「師範、申し訳ありません!」

 

 門下生たちが慌てて姿勢を正す。その呼び名に、狛治(はくじ)は内心でわずかに眉を寄せた。若様。師範。かつて「オレのものはオレのもの」と喚いていた子供が、今では道場の看板を背負う立場になっている。

 

 隣の道場主――玄真(げんま)の父が病で床に臥せって久しいという話は、狛治(はくじ)も風の噂で耳にしていた。跡取りとしてではなく、実質的な代替わりとして玄真(げんま)が道場を仕切るようになっているのだろう。以前のような子供らしさが抜け落ち、代わりに責任という重みが顔つきに刻まれている。「近頃の若様はすっかり落ち着かれた」という評判が、この一年でめっきり増えたのも頷ける。

 

 元々整っていた顔立ちに、その落ち着きが加われば、町娘たちが色めき立つのも自然な成り行きだった。玄武(げんぶ)道場の跡取りという肩書もある。狛治(はくじ)の耳にも、その手の噂は嫌でも届いていた。

 

(俺の周りに女っ気といえば、恋雪(こゆき)さんぐらいのものだが)

 

 自嘲めいた考えが、頭の隅をよぎる。最初はなぜか俺に声をかけてきた娘たちも、腕にある入れ墨を見るや、大抵一歩引いた顔をする。それが当然のことだと、狛治(はくじ)はとうに割り切っていた。

 

 玄真(げんま)は門下生たちを一瞥した。それだけで、彼らは慌てて頭を下げ、逃げるようにその場を去っていく。従わせるだけの重みが、その一瞥にはあった。

 

 二人だけになった坂道で、玄真(げんま)はしばらく黙って狛治(はくじ)を見ていた。何かを推し量るような、値踏みするような視線だった。それから、ふいに――らしくもなく――深く頭を下げた。

 

「うちの若い連中が、悪かったな」

 

 短い謝罪だった。だが、あの玄真(げんま)が、頭を下げている。狛治(はくじ)はその光景に、返す言葉を一瞬見失った。

 

「玄真(げんま)……」

 

 三年ぶりに口にする名だった。声に出してみて初めて、その歳月の長さを実感する。目の前の男の変わりようと、自分の中に残ったままの過去の記憶との落差に、狛治(はくじ)はどこか置いていかれるような戸惑いを覚えていた。

 

 ――俺だけが、変わっていない気がする。

 

 腕の証も、拳の使い方も、恋雪(こゆき)さんを守りたいという気持ちも、あの頃から何一つ変わっていない。変わったのは、拳を使う技術と、身長が少し伸びたぐらいだろうか。

 

「顔を上げてください、玄真(げんま)さん」

 

 狛治(はくじ)が言うと、玄真(げんま)はゆっくりと頭を起こした。その目に、一瞬だけ苦いものが揺れた。

 

「……お前に頭を下げるのは、癪だがな」

 

 呟くように零れた本音だった。かつての生意気さの名残が、その一言には確かにあった。狛治(はくじ)の拳一つで門下生をあしらう様を見せつけられ、腹の底では悔しさがくすぶっているのだろう。三年前、道場戦で完膚なきまでに負けた記憶が、この男の中でまだ消えていないことを、狛治(はくじ)は察した。

 

 だが玄真(げんま)はすぐに、その苦さを飲み込むように息を吐いた。若様と呼ばれる立場にある自分が、いつまでも昔のように喚き散らすわけにはいかない――そう自分に言い聞かせるような、静かな間があった。

 

「まあいい。オレの躾が行き届いてなかったってだけの話だ」

 

 肩をすくめ、玄真(げんま)はことさら平静な声を作って続けた。

 

 

 

 夕暮れの色が濃さを増し、二人の影が坂道に長く伸びていた。玄真(げんま)は懐に手を入れ、何かを確かめるような仕草をしてから、ゆっくりと口を開いた。

 

「3年前の看板にかけた約束はたがえる気はない。……が、すまなかったな」

 

 先ほどよりも静かな声だった。門下生への謝罪とは違う、もっと奥にあるものへの詫びだと、狛治(はくじ)にはすぐに分かった。

 

「本当は、恋雪(こゆき)に直接詫びたいところだがな」

 

 玄真(げんま)は苦笑いを浮かべた。自嘲するような、それでいてどこか諦めを含んだ笑みだった。

 

「父上との約束がある以上、オレは恋雪(こゆき)に会えない。だから――お前から伝えてくれ」

 

 一拍置いて、玄真(げんま)は続けた。

 

「あの時、恋雪(こゆき)に無理をさせたことも、道場戦の後にお前らに約束させたことも、全部含めてだ。すまなかった、とな」

 

 狛治(はくじ)は黙ってその言葉を聞いていた。三年前のあの日、恋雪(こゆき)が発作を起こして倒れた夜のことも、道場戦の後に交わされた約束のことも、狛治(はくじ)は忘れたことがない。玄真(げんま)がそれを今、こうして言葉にしていること自体が、狛治(はくじ)にとっては意外だった。

 

「謝罪ぐらい、ご自分で言うべきです」

 

 思わず口をついて出た言葉だった。年上に対する礼儀を保ちながらも、その一言には譲れない芯があった。人づてに詫びを済ませようとする玄真(げんま)の在り方に、どこか納得のいかないものを感じたのだ。

 

 玄真(げんま)は虚を突かれたような顔をしたが、すぐにまた苦笑いに戻った。

 

「……お前は、そういうやつだったか」

 

 呟くように言って、目を細める。狛治(はくじ)の生真面目さが、昔から変わっていないことを確かめるような響きがあった。

 

「俺から師範と恋雪(こゆき)に、一度話をしてきます」

 

 狛治(はくじ)は短くそれだけ告げると、米袋を担ぎ直した。玄真(げんま)は何も言わず、小さく頷き返す。

 

 その日はそれで別れとなった。夕闇が坂道を包み込み、二つの影はそれぞれ別の方向へと消えていった。

 

 

 

 ***

 

 数日後の夜、素流(そりゅう)道場の奥座敷には行灯(あんどん)がひとつだけ灯されていた。表向きには誰も来ていないことになっている――そういう約束のもとで、玄真(げんま)は編笠を目深に被り、裏口からひっそりと訪れていた。

 

 座敷に通されるなり、玄真(げんま)は膝を折り、両手を畳につけて深く頭を垂れた。額が床に触れるほどの、正真正銘の土下座だった。あのプライドの高い玄真(げんま)が、である。恋雪(こゆき)はその光景に、内心で驚きの声を上げずにはいられなかった。

 

(――マジで土下座するとは思わなかった……)

 

 慶蔵(けいぞう)は腕を組んだまま、しばらく玄真(げんま)を見下ろしていた。表情には普段の豪快な笑みはなく、静かな重みだけがあった。

 

「頭を上げろ」

 

 低い声だった。玄真(げんま)がゆっくりと顔を上げると、慶蔵(けいぞう)は続けた。

 

「お前の父親からは、すでに詫びを受け取っている。だから、今さらお前からもらうわけにはいかん」

 

 そこで一度言葉を切り、慶蔵(けいぞう)の視線が隣に座る恋雪(こゆき)へと移った。

 

「だが、恋雪(こゆき)は違う。恋雪(こゆき)自身が、お前を許すかどうかを決めればいい」

 

 すべてが恋雪(こゆき)に委ねられた。玄真(げんま)の肩が、わずかに強張るのが分かった。畳についた両手に、力がこもる。

 

 恋雪(こゆき)はその硬い横顔を、しばらくじっと見つめていた。幼い頃から知っている顔だ。いじめられたことも、無理やり連れ出されて発作を起こしたことも、水に流せていないわけではない。それでも――目の前で震える肩を見ていると、恨みよりも先に、別の感情が込み上げてきた。

 

「うん」

 

 短く頷いて、恋雪(こゆき)は微笑んだ。

 

「本当に、玄真(げんま)さんは変わった、ね」

 

 穏やかな声だった。取り繕った優しさではなく、心の底からの実感がそこにはあった。

 

「幼馴染のわたしは、最初から許していますよ」

 

 一瞬、座敷の空気が止まった。

 

 玄真(げんま)の目に、みるみる涙が溜まっていく。声を殺すように唇を噛み、それでも堪えきれなかったものが、頬を伝って畳に落ちた。プライドも、跡継ぎとしての体面も、その瞬間だけは崩れ去っていた。ただ一人の少年が、長年の重荷を下ろしたような、静かな嗚咽だけがそこに残った。

 

 

 

 

 その光景を、少し離れた場所から狛治(はくじ)は見ていた。

 

 美しい光景のはずだった。幼馴染同士の、長年のわだかまりが解ける瞬間。喜ぶべき場面のはずなのに、狛治(はくじ)の胸の奥には、名付けようのない澱のようなものが広がっていった。

 

 腕の入れ墨が、ふと疼いた。罪人の証。この道場に流れ着いてから、もう五年ほどが経つ。長いようで、短い歳月だった。だが――目の前で涙を流す玄真(げんま)と、それを見つめる恋雪(こゆき)との間には、その五年よりもずっと長い時間が横たわっている。十年近い月日を、二人は共に過ごしてきたのだ。

 

 自分の知らない恋雪(こゆき)が、そこにはいる。

 

 そう気づいた瞬間、狛治(はくじ)の中で何かが冷たく波立った。それが嫉妬という名の感情だと自覚するまでに、さほど時間はかからなかった。だが自覚した途端、狛治(はくじ)はその感情を持った自分自身に、強い嫌悪を覚えた。

 

 ――俺に、そんな資格があるものか。

 

 罪人の証を持つ身で、恋雪(こゆき)の隣に立つことすらおこがましいと、常々思ってきたはずだった。それなのに、幼馴染の絆に嫉妬するなど――狛治(はくじ)は拳をきつく握りしめ、こみ上げる感情に蓋をするように、静かに目を伏せた。行き場のない怒りが、自分自身へと静かに反転していく。

 

 座敷には、玄真(げんま)の嗚咽だけが、いつまでも小さく響いていた。

 

 

 

 

 

 土下座の座敷を辞する間際、玄真(げんま)は狛治(はくじ)にだけ聞こえるよう、低く一言残していった。

 

「――あの神社で待ってる」

 

 それだけだった。行き先も理由も言わなかったが、狛治(はくじ)には察しがついた。数日前、あの若い門下生たちを叱りつけた石段の上――夕暮れの神社だ。

 

 道場の片付けを終え、狛治(はくじ)が石段を上ると、玄真(げんま)はすでに賽銭箱の前に腰を下ろし、暮れなずむ町並みを見下ろしていた。すぐに隣の道場へ帰る気はないらしい。

 

「遅かったな」

 

 振り返りもせず、玄真(げんま)が言う。狛治(はくじ)は少し離れた場所に立ったまま、同じように町を見下ろした。

 

「片付けがありましたので」

 

 短い返事に、玄真(げんま)は小さく鼻を鳴らしただけだった。

 

 しばらく、二人の間に言葉はなかった。夕陽が沈みかけ、空が朱色から紫へと移り変わっていく。互いに、聞きたいことも、言いたいこともあるはずだった。恋雪(こゆき)をどう思っているのか。今、どういうつもりでいるのか。だが、それを口にすることは、どちらにもできなかった。

 

 玄真(げんま)は玄武(げんぶ)道場の跡取りという立場にある。父の病が長引く中、すでにいくつかの見合いの話が持ち上がっていることを、狛治(はくじ)は風の噂で知っていた。相応の家柄の娘との縁組。道場の存続のために避けられない道。それが分かっていながら、玄真(げんま)の胸の奥にはまだ、幼い頃に出会った恋雪(こゆき)の面影が消えずに残っている。三年前からはもう誰にも言えない、言うべきではない想いだった。

 

 一方の狛治(はくじ)もまた、腕の証を思えば、自分が何かを望む資格などないと思い続けてきた。罪人の証を持つ身で、恋雪(こゆき)の隣に立ちたいなどと、口に出せるはずもない。

 

 だからこそ、二人はその核心には決して触れなかった。

 

「近頃、稽古はどうしてる」

 

 沈黙を破ったのは玄真(げんま)だった。何気ない問いかけのようでいて、他に話すことがないゆえの逃げ道でもあった。

 

「素振りと組手が中心です。師範に言われた通り、今は型よりも実戦を重視しています」

 

「相変わらず地味だな、拳術は」

 

 言葉とは裏腹に、玄真(げんま)の声には侮蔑の色はなかった。むしろ、どこか興味の滲む響きがあった。

 

「剣術の方は、どうなんですか」

 

 狛治(はくじ)が尋ねると、玄真(げんま)はわずかに間を置いてから答えた。

 

「型を一通り修めた上で、今は実戦形式の稽古を増やしてる。門下生相手じゃ、もう手応えがなくてな」

 

 跡取りとして道場を仕切る立場になってから、対等に打ち合える相手がいなくなったということなのだろう。その言葉の端に、微かな物足りなさが滲んでいた。

 

「腕を上げているんですね」

 

「当然だ。オレを誰だと思ってる」

 

 そう言いながらも、狛治(はくじ)に向ける視線には、探るような色があった。三年前、道場戦で狛治(はくじ)の拳を目の当たりにして以来、玄真(げんま)の中には消えない疑問が居座っている。今の自分は、あの時とどれほど差を詰められたのか。口にはしないその問いが、言葉の端々に滲んでいた。

 

「お前の方はどうなんだ。師範から、何か新しい技でも仕込まれたか」

 

「特には。ただひたすら、拳を磨いているだけです」

 

「つまらん答えだな」

 

 玄真(げんま)は苦笑した。それから二人は、互いの稽古法や、師範や道場から受けた教えについて、思いのほか長く語り合った。剣術と拳術、流派の違いはあれど、鍛錬に懸ける熱量には通じるものがある。気づけば、最初の重苦しい空気はいつの間にか薄れ、二人は年相応の青年らしい顔つきで言葉を交わしていた。

 

 不思議な時間だった。ライバルであるはずの相手と、こうして肩を並べて話し込んでいる自分に、狛治(はくじ)もどこか戸惑いを覚えていた。

 

 やがて、空が完全に藍色に染まる頃、玄真(げんま)がふと空を見上げて呟いた。

 

「もう、日が暮れたな」

 

 立ち上がり、着物の裾を払う。

 

「悪いな。今の道場じゃ、オレはもうこういう話ができる立場じゃなくなっちまった」

 

 若様として、師範として、道場を背負う身。気安く誰かと語らうことすら、今の玄真(げんま)には許されない贅沢なのだろう。

 

「存外、お前とは相性はそこまで悪くないのかもな」

 

 言外に含んだ意味を、狛治(はくじ)は察した。同じ女を好きになるくらいには――そう言いたいのだろう。

 

 だが狛治(はくじ)は、静かに首を振った。

 

「いや。俺たちの相性はよくはないですよ、きっと」

 

 一切の迷いのない、まっすぐな返事だった。

 

 玄真(げんま)は虚を突かれたように狛治(はくじ)を見て、それから小さく笑った。

 

「それもそうか。それもそうだな」

 

 その笑い方は、若様と呼ばれる今の玄真(げんま)のものではなかった。三年前、悪童のように喚き散らしていた、あの頃の玄真(げんま)の顔だった。ほんの一瞬だけ覗いたその表情に、狛治(はくじ)もまた、懐かしさに似た何かを覚えた。

 

 夕闇の中、二人はそれぞれの道場へと、別々の方向に石段を下りていった。

 

 

 

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