障子越しに差し込む朝の光が、いつもより白く畳の目を照らしていた。
恋雪は台所に立ち、鍋の蓋を持ち上げては閉じ、また持ち上げるという無意味な動作を三度繰り返していた。中身はとうに出来上がっている。ただ、味見のたびに込み上げてくる達成感を、誰かに見せつけたくて仕方がなかったのだ。
(――あの頃を思えば、こんな朝が来るなんてな)
内心の声はいまだに男のままだった。寝台から起き上がることすら賭けだった日々を思えば、今こうして立って湯気を浴びていること自体が奇跡に近い。あの頃は本を読むふりをして半日を過ごし、発作が来れば世界の終わりのような顔で慶蔵と狛治に囲まれていた。今では発作もめっきり減り、せいぜい「ちょっと身体が弱い人」程度に落ち着いている。
(ステータス画面があったら、体力のゲージがようやく赤から黄色になったくらいの実感だ。いや、前世に比べれば全然虚弱なのは変わらないが……)
そんな益体もない比較を頭の中で転がしながら、恋雪は膳を運んだ。狛治は座り、静かに待っていた。そして、膳が置かれてから姿勢を正した。
しばらくして、慶蔵、狛治、恋雪の三人がそろって食事を始める。
狛治は箸を取り、一口目を咀嚼する。表情はほとんど動かなかったが、それは彼が味に無頓着なわけではなく、むしろ真剣に味わっている証だと、この数年で恋雪も知るようになっていた。
「どうですか、美味しいでしょう!」
胸を張り、鼻をわずかに上に向けて、恋雪は言った。謙遜のかけらもない、堂々とした宣言だった。
「はい。俺より上手ですね」
微笑みを浮かべながらの即答だった。世辞ではない。狛治の物言いにはいつも、余計な言葉を削ぎ落としたまっすぐさがある。だからこそ、次の一言も何の飾り気もなく飛び出してきた。
「毎朝、恋雪さんの料理、食べたいですよ」
一拍置いて、恋雪の顔にじわりと赤みが差した。狛治は自分が何を言ったのか、まるで分かっていない様子で、二口目に箸を伸ばしている。
(――いや待て。今の、プロポーズの台詞じゃなかったか。前世で見たドラマなら確実に画面がキラキラしてる場面だぞ)
内心で盛大にツッコミを入れながらも、口から出てきたのは全く違う言葉だった。
「ずるいです! わたしに追い抜かされて、悔しくないんですか?」
的外れな抗議だと自分でも分かっている。だが、これ以外に赤面を誤魔化す方法を思いつかなかった。
「俺は、恋雪さんの料理が食べられて幸せですから」
狛治はさらりと重ねる。悪気のなさが、かえって恋雪の耳を熱くさせた。
そんな二人を眺めていた慶蔵の豪快な笑い声が響く。
「はっはっは、若いっていいな」
恋雪は膳の陰で顔を伏せたまま、しばらく箸を持つ手を動かせずにいた。
***
町の喧騒は、素流道場の静けさとは別世界のようだった。狛治は大きめの米袋を肩に担ぎ、もう一方の手に味噌の包みをぶら下げて、雑踏の間を縫うように歩いていた。
朝、恋雪が得意げに「どうですか、美味しいでしょう!」と言った顔を思い出す。あの得意げな表情の後、自分が「毎朝食べたい」と口にした途端に真っ赤になって、的外れな抗議を叫んだ姿も。何が悔しいのか、狛治には今ひとつ分からなかった。ただ、あの慌てぶりを思い出すと、口元が自然と緩んだ。
(――むくれた顔も、見ていて安心する。病人の頃のあの申し訳なそうな顔の数十倍ぐらいマシだ)
そう思ってから、自分でも妙な感想だと気づいて、少し歩調を速めた。
五年前までは、こんな風に町を歩くことすら想像していなかった。腕の入れ墨を見られるたび、周囲の視線が変わるのを感じていたし、自分に居場所などないと思っていた。それが今では、慶蔵から道場のことを任され、恋雪の世話を焼き、時折こうして買い出しにまで出される。誰かのために米袋を担いで歩くという、ただそれだけのことが、狛治にとっては噛みしめるほどの幸福だった。
自分がそれを幸福と呼んでいい人間なのか、という疑問は、いつも胸の隅にわだかまっている。だが今日はまだ、その影は薄かった。夕暮れの光が橙色に町を染め、荷物は重いが足取りは軽い。慶蔵の豪快な笑い声も、恋雪の料理の味も、狛治にとってはかけがえのないものになっていた。
神社の裏手に続く坂道は、夕暮れになると人通りが絶える。狛治が買い物を終えて戻る途中、その静けさを破ったのは、複数の足音と笑い声だった。
「おい、肩がぶつかったぞ」
すれ違いざま、若い男の一人がわざとらしく足を止めて言った。
羽織に染め抜かれた紋から、玄武道場の門下生だと分かる。そして、歳の頃は狛治とそう変わらない。だが顔に見覚えはなかった。三年前の道場戦を知る顔ぶれではない。あの後に入門した者たちなのだろうか。
狛治は形ばかりの謝罪で頭を少し下げ、何も言わず、歩を進めようとした。
「無視すんなよ、罪人風情が」
背後から声が続く。素流道場には関わるなと言われている――それは彼らも知っているらしかった。だが、その口ぶりには納得のいかなさが滲んでいた。
「たった二人しかいねえボロ道場に、気を遣えって言われてもなあ」
「若様も何を気にしてんだか」
くだらない、と狛治は思う。取り合う価値もない。無視を決め込んで歩き出したその背に、ひときわ下卑た声がぶつけられた。
「そういや、お前んとこにいる女……恋雪、だったか。あれ、可愛いよなあ」
足が止まった。
「ああいう何も知らねえ生娘ってなぁ、こっちが一から色々と仕込んでやりたくなるよなぁ、ひひっ」
「男ってもんを教えてやりゃあ、喜ぶんじゃねえの」
「オレたちが女にしてやってもいいぜ」
下卑た笑い声が重なる。最近、外を出歩くようになった恋雪の姿を、彼らはどこかで見かけていたのだろう。病弱で儚げな娘が、守る者もろくにいない――そう勝手に決めつけた目で。
狛治の中で、何かが静かに焼き切れた。
気づけば、声を上げた男の顎を片手で掴み、そのまま宙に持ち上げていた。踵が地面から浮き、男の顔から一切の余裕が消える。
「うるさい」
低い声だった。怒鳴りもしない。ただ、聞いた者の背筋を凍らせるだけの静けさがそこにあった。
「黙れ」
殺気が肌を刺す。掴まれた男は声も出せず、ただ喉の奥で情けない音を漏らした。
「次に耳障りな口をきいたら、殺すぞ」
もう片方の拳が、わずかに動いた。それだけだった。強く振るったわけでも、ましてや殴りつけたわけでもない。だが次の瞬間、男の片耳から一筋の血が伝い落ち、股間からは生温い染みが広がっていった。
周りにいた門下生たちが我に返り、「こいつ!」と刀の柄に手をかける。
その時、坂の上――神社へと続く石段から、静かな声が降ってきた。
「そこまでにしろ」
一同の視線が上を向く。
「お前たちでは、そいつには勝てない」
石段を下りてくる足音は、以前よりずっと重く、そして落ち着いていた。
夕陽を背に立つその男を見上げて、狛治は一瞬、誰だか分からなかった。記憶の中の玄真は、もっと甲高い声で喚き散らし、負けん気だけを剥き出しにした少年だった。今、目の前に立つのは、肩幅も背丈も狛治より一回り大きくなった、静かな威圧感をまとう青年だった。
「若様!」
「師範、申し訳ありません!」
門下生たちが慌てて姿勢を正す。その呼び名に、狛治は内心でわずかに眉を寄せた。若様。師範。かつて「オレのものはオレのもの」と喚いていた子供が、今では道場の看板を背負う立場になっている。
隣の道場主――玄真の父が病で床に臥せって久しいという話は、狛治も風の噂で耳にしていた。跡取りとしてではなく、実質的な代替わりとして玄真が道場を仕切るようになっているのだろう。以前のような子供らしさが抜け落ち、代わりに責任という重みが顔つきに刻まれている。「近頃の若様はすっかり落ち着かれた」という評判が、この一年でめっきり増えたのも頷ける。
元々整っていた顔立ちに、その落ち着きが加われば、町娘たちが色めき立つのも自然な成り行きだった。玄武道場の跡取りという肩書もある。狛治の耳にも、その手の噂は嫌でも届いていた。
(俺の周りに女っ気といえば、恋雪さんぐらいのものだが)
自嘲めいた考えが、頭の隅をよぎる。最初はなぜか俺に声をかけてきた娘たちも、腕にある入れ墨を見るや、大抵一歩引いた顔をする。それが当然のことだと、狛治はとうに割り切っていた。
玄真は門下生たちを一瞥した。それだけで、彼らは慌てて頭を下げ、逃げるようにその場を去っていく。従わせるだけの重みが、その一瞥にはあった。
二人だけになった坂道で、玄真はしばらく黙って狛治を見ていた。何かを推し量るような、値踏みするような視線だった。それから、ふいに――らしくもなく――深く頭を下げた。
「うちの若い連中が、悪かったな」
短い謝罪だった。だが、あの玄真が、頭を下げている。狛治はその光景に、返す言葉を一瞬見失った。
「玄真……」
三年ぶりに口にする名だった。声に出してみて初めて、その歳月の長さを実感する。目の前の男の変わりようと、自分の中に残ったままの過去の記憶との落差に、狛治はどこか置いていかれるような戸惑いを覚えていた。
――俺だけが、変わっていない気がする。
腕の証も、拳の使い方も、恋雪さんを守りたいという気持ちも、あの頃から何一つ変わっていない。変わったのは、拳を使う技術と、身長が少し伸びたぐらいだろうか。
「顔を上げてください、玄真さん」
狛治が言うと、玄真はゆっくりと頭を起こした。その目に、一瞬だけ苦いものが揺れた。
「……お前に頭を下げるのは、癪だがな」
呟くように零れた本音だった。かつての生意気さの名残が、その一言には確かにあった。狛治の拳一つで門下生をあしらう様を見せつけられ、腹の底では悔しさがくすぶっているのだろう。三年前、道場戦で完膚なきまでに負けた記憶が、この男の中でまだ消えていないことを、狛治は察した。
だが玄真はすぐに、その苦さを飲み込むように息を吐いた。若様と呼ばれる立場にある自分が、いつまでも昔のように喚き散らすわけにはいかない――そう自分に言い聞かせるような、静かな間があった。
「まあいい。オレの躾が行き届いてなかったってだけの話だ」
肩をすくめ、玄真はことさら平静な声を作って続けた。
夕暮れの色が濃さを増し、二人の影が坂道に長く伸びていた。玄真は懐に手を入れ、何かを確かめるような仕草をしてから、ゆっくりと口を開いた。
「3年前の看板にかけた約束はたがえる気はない。……が、すまなかったな」
先ほどよりも静かな声だった。門下生への謝罪とは違う、もっと奥にあるものへの詫びだと、狛治にはすぐに分かった。
「本当は、恋雪に直接詫びたいところだがな」
玄真は苦笑いを浮かべた。自嘲するような、それでいてどこか諦めを含んだ笑みだった。
「父上との約束がある以上、オレは恋雪に会えない。だから――お前から伝えてくれ」
一拍置いて、玄真は続けた。
「あの時、恋雪に無理をさせたことも、道場戦の後にお前らに約束させたことも、全部含めてだ。すまなかった、とな」
狛治は黙ってその言葉を聞いていた。三年前のあの日、恋雪が発作を起こして倒れた夜のことも、道場戦の後に交わされた約束のことも、狛治は忘れたことがない。玄真がそれを今、こうして言葉にしていること自体が、狛治にとっては意外だった。
「謝罪ぐらい、ご自分で言うべきです」
思わず口をついて出た言葉だった。年上に対する礼儀を保ちながらも、その一言には譲れない芯があった。人づてに詫びを済ませようとする玄真の在り方に、どこか納得のいかないものを感じたのだ。
玄真は虚を突かれたような顔をしたが、すぐにまた苦笑いに戻った。
「……お前は、そういうやつだったか」
呟くように言って、目を細める。狛治の生真面目さが、昔から変わっていないことを確かめるような響きがあった。
「俺から師範と恋雪に、一度話をしてきます」
狛治は短くそれだけ告げると、米袋を担ぎ直した。玄真は何も言わず、小さく頷き返す。
その日はそれで別れとなった。夕闇が坂道を包み込み、二つの影はそれぞれ別の方向へと消えていった。
***
数日後の夜、素流道場の奥座敷には行灯がひとつだけ灯されていた。表向きには誰も来ていないことになっている――そういう約束のもとで、玄真は編笠を目深に被り、裏口からひっそりと訪れていた。
座敷に通されるなり、玄真は膝を折り、両手を畳につけて深く頭を垂れた。額が床に触れるほどの、正真正銘の土下座だった。あのプライドの高い玄真が、である。恋雪はその光景に、内心で驚きの声を上げずにはいられなかった。
(――マジで土下座するとは思わなかった……)
慶蔵は腕を組んだまま、しばらく玄真を見下ろしていた。表情には普段の豪快な笑みはなく、静かな重みだけがあった。
「頭を上げろ」
低い声だった。玄真がゆっくりと顔を上げると、慶蔵は続けた。
「お前の父親からは、すでに詫びを受け取っている。だから、今さらお前からもらうわけにはいかん」
そこで一度言葉を切り、慶蔵の視線が隣に座る恋雪へと移った。
「だが、恋雪は違う。恋雪自身が、お前を許すかどうかを決めればいい」
すべてが恋雪に委ねられた。玄真の肩が、わずかに強張るのが分かった。畳についた両手に、力がこもる。
恋雪はその硬い横顔を、しばらくじっと見つめていた。幼い頃から知っている顔だ。いじめられたことも、無理やり連れ出されて発作を起こしたことも、水に流せていないわけではない。それでも――目の前で震える肩を見ていると、恨みよりも先に、別の感情が込み上げてきた。
「うん」
短く頷いて、恋雪は微笑んだ。
「本当に、玄真さんは変わった、ね」
穏やかな声だった。取り繕った優しさではなく、心の底からの実感がそこにはあった。
「幼馴染のわたしは、最初から許していますよ」
一瞬、座敷の空気が止まった。
玄真の目に、みるみる涙が溜まっていく。声を殺すように唇を噛み、それでも堪えきれなかったものが、頬を伝って畳に落ちた。プライドも、跡継ぎとしての体面も、その瞬間だけは崩れ去っていた。ただ一人の少年が、長年の重荷を下ろしたような、静かな嗚咽だけがそこに残った。
その光景を、少し離れた場所から狛治は見ていた。
美しい光景のはずだった。幼馴染同士の、長年のわだかまりが解ける瞬間。喜ぶべき場面のはずなのに、狛治の胸の奥には、名付けようのない澱のようなものが広がっていった。
腕の入れ墨が、ふと疼いた。罪人の証。この道場に流れ着いてから、もう五年ほどが経つ。長いようで、短い歳月だった。だが――目の前で涙を流す玄真と、それを見つめる恋雪との間には、その五年よりもずっと長い時間が横たわっている。十年近い月日を、二人は共に過ごしてきたのだ。
自分の知らない恋雪が、そこにはいる。
そう気づいた瞬間、狛治の中で何かが冷たく波立った。それが嫉妬という名の感情だと自覚するまでに、さほど時間はかからなかった。だが自覚した途端、狛治はその感情を持った自分自身に、強い嫌悪を覚えた。
――俺に、そんな資格があるものか。
罪人の証を持つ身で、恋雪の隣に立つことすらおこがましいと、常々思ってきたはずだった。それなのに、幼馴染の絆に嫉妬するなど――狛治は拳をきつく握りしめ、こみ上げる感情に蓋をするように、静かに目を伏せた。行き場のない怒りが、自分自身へと静かに反転していく。
座敷には、玄真の嗚咽だけが、いつまでも小さく響いていた。
土下座の座敷を辞する間際、玄真は狛治にだけ聞こえるよう、低く一言残していった。
「――あの神社で待ってる」
それだけだった。行き先も理由も言わなかったが、狛治には察しがついた。数日前、あの若い門下生たちを叱りつけた石段の上――夕暮れの神社だ。
道場の片付けを終え、狛治が石段を上ると、玄真はすでに賽銭箱の前に腰を下ろし、暮れなずむ町並みを見下ろしていた。すぐに隣の道場へ帰る気はないらしい。
「遅かったな」
振り返りもせず、玄真が言う。狛治は少し離れた場所に立ったまま、同じように町を見下ろした。
「片付けがありましたので」
短い返事に、玄真は小さく鼻を鳴らしただけだった。
しばらく、二人の間に言葉はなかった。夕陽が沈みかけ、空が朱色から紫へと移り変わっていく。互いに、聞きたいことも、言いたいこともあるはずだった。恋雪をどう思っているのか。今、どういうつもりでいるのか。だが、それを口にすることは、どちらにもできなかった。
玄真は玄武道場の跡取りという立場にある。父の病が長引く中、すでにいくつかの見合いの話が持ち上がっていることを、狛治は風の噂で知っていた。相応の家柄の娘との縁組。道場の存続のために避けられない道。それが分かっていながら、玄真の胸の奥にはまだ、幼い頃に出会った恋雪の面影が消えずに残っている。三年前からはもう誰にも言えない、言うべきではない想いだった。
一方の狛治もまた、腕の証を思えば、自分が何かを望む資格などないと思い続けてきた。罪人の証を持つ身で、恋雪の隣に立ちたいなどと、口に出せるはずもない。
だからこそ、二人はその核心には決して触れなかった。
「近頃、稽古はどうしてる」
沈黙を破ったのは玄真だった。何気ない問いかけのようでいて、他に話すことがないゆえの逃げ道でもあった。
「素振りと組手が中心です。師範に言われた通り、今は型よりも実戦を重視しています」
「相変わらず地味だな、拳術は」
言葉とは裏腹に、玄真の声には侮蔑の色はなかった。むしろ、どこか興味の滲む響きがあった。
「剣術の方は、どうなんですか」
狛治が尋ねると、玄真はわずかに間を置いてから答えた。
「型を一通り修めた上で、今は実戦形式の稽古を増やしてる。門下生相手じゃ、もう手応えがなくてな」
跡取りとして道場を仕切る立場になってから、対等に打ち合える相手がいなくなったということなのだろう。その言葉の端に、微かな物足りなさが滲んでいた。
「腕を上げているんですね」
「当然だ。オレを誰だと思ってる」
そう言いながらも、狛治に向ける視線には、探るような色があった。三年前、道場戦で狛治の拳を目の当たりにして以来、玄真の中には消えない疑問が居座っている。今の自分は、あの時とどれほど差を詰められたのか。口にはしないその問いが、言葉の端々に滲んでいた。
「お前の方はどうなんだ。師範から、何か新しい技でも仕込まれたか」
「特には。ただひたすら、拳を磨いているだけです」
「つまらん答えだな」
玄真は苦笑した。それから二人は、互いの稽古法や、師範や道場から受けた教えについて、思いのほか長く語り合った。剣術と拳術、流派の違いはあれど、鍛錬に懸ける熱量には通じるものがある。気づけば、最初の重苦しい空気はいつの間にか薄れ、二人は年相応の青年らしい顔つきで言葉を交わしていた。
不思議な時間だった。ライバルであるはずの相手と、こうして肩を並べて話し込んでいる自分に、狛治もどこか戸惑いを覚えていた。
やがて、空が完全に藍色に染まる頃、玄真がふと空を見上げて呟いた。
「もう、日が暮れたな」
立ち上がり、着物の裾を払う。
「悪いな。今の道場じゃ、オレはもうこういう話ができる立場じゃなくなっちまった」
若様として、師範として、道場を背負う身。気安く誰かと語らうことすら、今の玄真には許されない贅沢なのだろう。
「存外、お前とは相性はそこまで悪くないのかもな」
言外に含んだ意味を、狛治は察した。同じ女を好きになるくらいには――そう言いたいのだろう。
だが狛治は、静かに首を振った。
「いや。俺たちの相性はよくはないですよ、きっと」
一切の迷いのない、まっすぐな返事だった。
玄真は虚を突かれたように狛治を見て、それから小さく笑った。
「それもそうか。それもそうだな」
その笑い方は、若様と呼ばれる今の玄真のものではなかった。三年前、悪童のように喚き散らしていた、あの頃の玄真の顔だった。ほんの一瞬だけ覗いたその表情に、狛治もまた、懐かしさに似た何かを覚えた。
夕闇の中、二人はそれぞれの道場へと、別々の方向に石段を下りていった。