素流道場の中央に、二人分の気配が張り詰めていた。
玄真は竹刀を正眼に構え、狛治は拳を軽く握ったまま、無防備にも見える自然体で対峙している。慶蔵と恋雪は縁側から見守っていた。
先に動いたのは玄真だった。踏み込みと同時に袈裟懸けの一撃。速さも重さも、三年前とは比べ物にならない。だが狛治はそれを最小限の動きでかわし、竹刀の軌道の外へと体を滑らせる。
「――!」
空を切った竹刀を、玄真はすぐさま返し、下段から掬い上げるように振るう。連撃を見越した動きだった。狛治はそれも半歩下がってやり過ごすと、隙を突くでもなく、あえて距離を取り直した。
打ち込んではかわされ、返す刀を捌かれる。それが幾度か繰り返された。傍から見れば、互角に打ち合っているようにも映る攻防だった。だが、竹刀を振るう玄真自身は、その内実にすぐ気づいていた。
――かわされているんじゃない。誘導されている。
狛治の動きには、無駄がなかった。ただ避けるのではなく、玄真の踏み込む位置を、わずかずつ狙った方向へと導いている。気づいた時には、玄真は自分が最も打ち込みにくい間合いへと追い込まれていた。力でねじ伏せるのではなく、最小限の労力で流れそのものを作り上げる戦い方――それは三年前には見られなかった、明らかな進化だった。
竹刀を振り抜いた玄真の呼吸が、わずかに乱れる。対する狛治は、汗一つかいていなかった。
「……この三年で、これでも鍛えたんだがな」
竹刀を構えなおしながら、玄真が呆れたように呟いた。悔しさよりも先に、感嘆に近い響きがその声にはあった。
その時、縁側から場違いなほど威勢のいい声が飛んだ。
「今だ! 鈴割り!!!」
恋雪だった。目を輝かせ、身を乗り出さんばかりの勢いで拳を振り上げている。
「ここで竹刀を割られてたまるか!? 家にばれるだろ!」
玄真が慌てて竹刀を後ろに引く。三年前、九人を下し、自分の刀まで叩き折ったあの技を、こんなお忍びの模擬戦でやられたのではたまらない。
「それに、今ではないです」
狛治は至って冷静だった。
「鈴割りは繊細な技ですから。機を見誤ると、逆にやられる危険な技です」
淡々とした説明に、恋雪はわずかに頬を膨らませた。
「せっかく応援したのに……」
むくれる恋雪をよそに、玄真は竹刀を握り直しながら、深く息を吐いた。
玄真が素流道場に顔を出すのは、表向きにはあくまで「他道場の稽古の様子を見に来ただけ」ということになっていた。誰かに見咎められれば厄介なことになる立場だ。だからこそ、別の道場の帰り路、その日暮れ前のわずかな時間を狙って、ふらりと姿を見せることが多くなった。狛治との模擬戦を口実にしてはいたが、その実、恋雪や慶蔵と交わす何気ない会話も、玄真にとっては密かな楽しみになっているようだった。
その日も、玄真は稽古の後片付けを待つふりをして、居間に腰を落ち着けていた。
「今日は、新しい料理に挑戦したんです!」
膳を運んできた恋雪が、得意げに告げる。皿の上には、色合いだけは鮮やかな何かが盛られていた。前世の記憶を頼りに再現を試みた一品らしいが、この時代の食材と調理法では、思い通りにいかないことの方が多い。
玄真が恐る恐る箸をつけ、口に運んだ瞬間、その顔から表情が消えた。
「……これは」
長い沈黙の後、玄真は箸を置いた。
「飯に対する冒涜だ!」
悲痛な叫びだった。隣で同じ皿をつついていた狛治は、表情を変えないまま咀嚼を続けている。
「頑張れば、食べれます。頑張れば」
慰めにも励ましにもなっていない評価だった。恋雪は頬を膨らませ、「せっかく作ったのに!」と抗議したが、二人の反応は変わらなかった。
梅雨に入り、雨の合間を縫って晴れ間が覗いたある日、玄真は稽古を待つ間、庭先の池を覗き込んでいた。恋雪が餌をやりながら、鯉の一匹一匹に何やら話しかけている。
「ほら、ムスカ。今日も元気ね」
「スネ夫、あんまり独り占めしちゃだめですよ」
「ベジータ……いいえ、あなたは超えられない壁じゃないわ。その食事をスネ夫に譲るやさしさを、怒りに変えてスーパー錦鯉に――」
意味不明な言動と聞くに堪えない名付けの数々に、玄真は思わず口を挟んだ。
「お前は、子供ができても名付けはやめておけ」
真顔の忠告だった。だが、稽古の準備を終えて戻ってきた狛治が、その会話を聞いて静かに口を開いた。
「……独特で、いい名前ですよ」
これまた真顔のフォローだった。玄真は呆れた顔で狛治を見たが、恋雪はといえば、褒められたはずなのに、なぜかむくれた顔をしていた。
鯉たちの名前をめぐる押し問答が続いていたその時、ぽつり、と一粒の雨が恋雪の頬を打った。
「あ」
見上げれば、先ほどまでの晴れ間はどこへやら、鉛色の雲が空を覆い尽くしている。梅雨らしい、気まぐれな空模様だった。
「降ってきましたね」
狛治が言い終わるより早く、次の瞬間には空が割れたような土砂降りになった。
「うわっ、洗濯物! ――って、それどころじゃない!」
恋雪が慌てて駆け出す。玄真も舌打ちしながら後を追い、狛治は最後まで冷静に、道場の道具をひとつだけ拾い上げてから母屋へと駆け込んだ。
三人が居間に転がり込む頃には、全員がずぶ濡れになっていた。恋雪の髪は額に張り付き、玄真の羽織からは滴が垂れ、狛治の稽古着も重たく肌に貼りついている。
「ふぅ……びしょ濡れですよ、二人とも」
恋雪が笑いながら言うと、玄真が眉を寄せた。
「お前が一番濡れてるだろうが」
言われて自分の袖を見下ろし、恋雪は「あ、本当ですね」と間の抜けた声を上げる。そこへ、へくちっ、と小さなくしゃみが飛び出した。
その瞬間、狛治の顔つきが変わった。
「風邪をひきます」
言うが早いか、狛治は手拭いを引っ掴み、恋雪の帯に手をかけようとした。躊躇いのない、迷いのない手つきだった。病弱だった頃の恋雪を、何度も同じように介抱してきた記憶がそうさせるのだろう。着物の合わせに手が入り、肩口が露わになりかける。
「ちょ――」
玄真が、はっとしたように顔を背けた。昔――まだ恋雪が寝たきりだった頃、着替えの遅い玄真がうっかりその場に入ってしまい、真っ赤になって逃げ出した記憶が、脳裏に蘇ったらしい。今また似たような場面に立ち会うことになり、耳まで赤くしている。
恋雪はといえば、慌てる様子もなく、狛治の手をやんわりと押しとどめた。
「もう、狛治さん」
苦笑交じりの声だった。
「今のわたしは、自分でできますよ」
そう言って、にっこりと笑う。かつてのように寝台から起き上がることさえ難儀していた頃とは違う。今の恋雪には、着物の始末くらい、自分の手で済ませられるだけの力がある。
その笑顔を残し、恋雪は濡れた裾を軽く持ち上げながら、一人奥の部屋へと下がっていった。
居間には、狛治と玄真だけが取り残された。雨音だけが、やけに大きく響いていた。
沈黙が落ちた居間に、雨の音だけが満ちていた。濡れた稽古着から滴る水が、畳にぽたりと染みを作っていく。玄真はしばらくの間、恋雪が消えていった襖の方をぼんやりと見つめていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「なあ」
その声は、いつもの荒っぽさが鳴りを潜め、どこか探るような、慎重な響きを帯びていた。
「お前は……」
言葉を選ぶように、玄真は一度言い淀んだ。
「恋雪の、その……肌を見て、なんとも思わない、のか?」
不器用な問いだった。だが、その裏に潜む意図を、狛治は察することができなかった。玄真の顔には、探るような真剣さがあった。まるで、狛治という男の中に、そもそも恋情というものが存在するのかどうかを確かめようとしているかのようだった。
「いや」
狛治は間を置かずに答え始めた。
「病人の看病で、そういった感情は……」
言いかけて、狛治の言葉が途切れた。
脳裏に浮かんだのは、看病という言葉には収まりきらない光景だった。ほんの数分前、着物の合わせに手をかけた瞬間に触れた、恋雪の肩口。かつて幾度となく拭ってきた、熱に浮かされた病人の肌とは、明らかに違う感触だった。血色の良い、健やかな肌の柔らかさ。あの一瞬、指先に残った感覚が、今になって鮮明に蘇ってくる。
思えば、最近の恋雪に触れる時、以前とは違う何かが自分の中にあった気がする。恋雪を手伝う時の、その一瞬の躊躇い。料理を運んでくる恋雪の笑顔に、無意識に目で追ってしまう自分。それらすべてが、看病という言葉ひとつでは説明のつかないものだったのではないか。
言葉が、喉の奥で止まったまま出てこなかった。
狛治は自分の口元に、ゆっくりと手をやった。指先が、わずかに震えているのが分かる。頬に、じわりと熱が集まってくるのを感じた。
「……あれ?」
掠れた声だった。誰に向けたものでもない、自分自身への問いかけだった。今この瞬間まで、看病の延長線上にあると信じて疑わなかった感情が、実はまったく別のものだったのではないか――そんな疑念が、今になって初めて、はっきりとした輪郭を持って狛治の胸の内に浮かび上がってきた。
赤くなった顔を隠すように俯く狛治の姿を、玄真は黙って見つめていた。その反応こそが、玄真の抱いていた問いに対する、何よりも雄弁な答えだった。
***
梅雨明けを告げるような、久しぶりの強い日差しが庭先に差し込んだ朝だった。
洗濯物を干しに出た俺の枕元――というより、いつの間にか文机の上に、見覚えのない包みが置かれていた。開けてみると、短い文と共に、小さなガラス瓶が入っている。差出人の名はどこにもなかったが、この筆跡と気配には覚えがある。珠世さんだ。
「試作薬、完成……」
思わず声が漏れた。あの鬼の系譜、人の死を超える可能性を秘めた薬。原作知識のある俺にとっては、いずれ来るはずの未来への切り札のようなものだった。
――でも、な。
文を握りしめたまま、俺はしばらく縁側に座り込んで考えた。
玄真との関係は、もうすっかり雪解けしている。あの人が本心から悔いていることも、狛治さんとの間にわだかまりがなくなりつつあることも、この目で見てきた。井戸に毒を投げ込むような未来なんて、今の玄真からは想像もつかない。だとすれば――狛治さんが鬼になることも、俺が鬼になることも、もう起こらないんじゃないか。
――全部、ハッピーエンドになるんじゃないか?
そう思うと、胸の奥がふわりと軽くなった。母を救えなかった過去の傷も、狛治さんの未来への不安も、今この瞬間だけは薄れて見えた。
珠世さんには申し訳ないけれど、この薬を使う日は来ないのかもしれない。俺はすずり箱の蓋を開け、隅にひっそりと隠すように、赤い液体の入った小瓶をしまい込んだ。もしもの時のための保険。使わずに済むなら、それに越したことはない。
――でも、俺、こんなに簡単に楽観していいのかな。
ふと、頭の片隅で小さな警鐘が鳴った気がしたけれど、俺はすぐにその音を打ち消した。楽観できるだけの材料が、ちゃんと揃っているじゃないか。そう自分に言い聞かせて、すずり箱の蓋を閉じる。
「それにしても。これは、強すぎる薬というよりも……ある意味で、毒みたいなものですよね」
誰ともなく呟く。
そういえば、と俺は思い出す。原作では、たしか十六歳の頃、恋雪から狛治にプロポーズをする場面があったはずだ。逆求婚。当時読んでいた時は、健気だなあ、なんて他人事のように思っていた展開。
――いや、無理でしょ。
前世、男だった俺が、男に向かってプロポーズなんて口が裂けても言えない。自分でも薄々気づき始めている感情はあるような、ないような。
でも、いざ言葉にするとなると話は別だ。
前世も独身だったし、今回も独身のまま終わるのかな……なんて、思考がどんどん明後日の方向に逸れていく。
――でも、狛治さんは、かっこいいけどね。
心の中でこっそり付け加えて、俺は誰にも聞かれていないことを確かめるように、辺りをきょろきょろと見回した。
恋雪、十六歳。
夏が始まろうとしていた――――