恋雪にTS転生したので、猗窩座を救いたい人生だった 作:自分の性癖に素直になろう小説
第一話 自分が一番普通だと思っている奴(TS転生者)
物心がついた、というのはたぶんこういう瞬間を言うのだろう。
俺はある日、囲炉裏の煙で燻された天井の木目をぼんやり眺めながら、唐突に「あれ、俺、なんで女の子の体に入ってるんだ?」と思った。
赤ん坊の頃の記憶は正直あいまいだ。泣いて、吸って、寝て、というのを繰り返していたら、いつの間にか歩けるようになっていて、いつの間にか喋れるようになっていて、いつの間にか「自我」というやつがちゃんと形を持っていた。気づいたら三歳とか四歳とか、そのくらいだったと思う。
最初はまあ、よくある転生ものの導入かな、くらいに軽く考えていた。前世の記憶がある、という時点でもう十分すぎるほど非日常だが、社畜として毎日エクセルと戦っていた三十路手前の人間としては、変に感動するよりも先に「これ労基とか関係なくなるやつだな、サイコー!」という妙な安堵の方が大きかった。
ついでに言えば、たらいに映った自分の顔を初めて見たときも、内心は割とドライだった。艶のある黒髪、白い肌、儚げな目元。傍から見れば、いかにも「病弱で今にも消えてしまいそうな美少女」という絵に描いたような造形らしい。だが中身はといえば、いい歳こいた男が「うわ、女子力高すぎる顔してるな俺」と他人事みたいに感想を漏らしているだけだった。中身と外見の落差については、本人が一番よく分かっている。
問題は、その後だ。
周りの大人たちが、俺のことを「
――こゆき。
最初に聞いたとき、頭の中で盛大に「ん?」が鳴った。聞き覚えがある。というか、聞き覚えがありすぎる。だが幼児の脳みそというのは記憶の引き出しの建て付けが悪いらしく、「どこかで聞いた気がする」以上の情報がなかなか出てこない。
「
そう言って頭を軽く撫でてくるのは、父親らしき大柄な男だった。名を、
――けいぞう。
これもまた、聞いたことがある名前だった。ただの偶然と言われれば偶然で片付けられる字面だが、「
極めつけは、この家の生業だった。
「
そう書かれた古い木の看板が、うちの門の前に堂々と掲げられている。
拳術専門の道場――のはずなのだが、肝心の門下生の姿がどこにもない。稽古場は妙にがらんとしていて、埃っぽい静けさだけがそこにある。
どうも隣の道場との折り合いが良くないらしく、そちらから何かと嫌がらせを受けているせいで、
「そりゅう道場」「けいぞう」「こゆき」――。
俺は布団の中で、何度もその三つの単語を頭の中で転がした。転がして、転がして、ある夜ついに、その組み合わせがどこかの記憶とパチッと接続しかけた瞬間があった。
脳裏をよぎったのは、鬼と刀と、あと何か、燃えるように赤い髪の――。
「……いやいや、まさかなぁ」
俺は布団の中で一人、声に出してツッコミを入れた。舌足らずな幼女の声で発したにしては、いささか荒っぽい口調だったと思う。だが構うものか。表向きの喋り方をどれだけ猫かぶっても、頭の中身まで女子供に合わせてやる義理はない。尚、口調は後に母親に矯正される模様。
仮にも社畜生活を生き延びた人間だ。都合のいい妄想に飛びつく危険性くらいは学習している。名前が似ているだけで「これは絶対にあの作品の世界だ!」と決めつけるのは、いくらなんでも早計というものだろう。世の中には同姓同名だって山ほどいる。ましてやここは名前しか一致していない、しかも記憶があやふやな状態でだ。信憑性でいえば、コンビニのくじで一等が当たる確率とそう変わらない。
――そう自分に言い聞かせるのだが。
言い聞かせれば言い聞かせるほど、逆に胸のざわつきが強くなっていくのはどういう了見なのか。前世でサブスクの解約を先延ばしにし続けた自分の意志の弱さを、今さら思い出したくはなかった。
夜、天井を見上げながら、俺は指折り数えるようにして「怪しい点」を数え上げていく癖がついていた。
一つ、「
二つ、「
三つ、「
四つ、この時代設定。着物、
――五つ目が、実はなかなか厄介だった。
隣の敷地に、もう一つ道場がある。剣術専門の、「
この「
しかし、知らない、ということは「存在しない」ことの証明にはならない。単に前世の記憶力が悪いだけの可能性だって十分にある。前世でも取引先の担当者の名前をよく忘れて上司に叱られていた前科がある人間の記憶を、そう簡単に信用してはいけない。
結局、確証と呼べるようなものは何一つない。あるのはただ、「なんかめちゃくちゃ既視感がある」という、実に頼りない感覚だけだった。
そして厄介なことに、俺にはこの違和感を自分の足で確かめに行く、という選択肢が最初から存在しなかった。
「
俺の体は、生まれつき恐ろしく病弱だった。ちょっと外の空気を吸っただけで喘息のような発作を起こし、少し長く歩いただけで熱を出す。同年代の子どもたちが道場の周りを駆け回っている音を、俺はいつも布団の中で聞いていた。
――調べに行きたい。
例えば隣の
だが、そのどれもが、今のこの体には許されていなかった。
布団から出れば咳が出る。井戸端まで歩けば目眩がする。頑張って庭に出た日には、その夜のうちに熱を出して寝込む。俺の好奇心と、俺の体力は、致命的なまでに釣り合いが取れていなかった。
「もう、そんな真剣な顔して唸って……悪い夢でも見たの?」
そう言って額に濡れた手ぬぐいを乗せてくれるのは、母だった。
――ゆきな。
この人の名前に関しては、何一つ既視感がなかった。それがわずかな救いのような気もするし、逆に不気味なような気もする。
「……ちがうよ。ちょっと、考えごと」
幼い子供らしい高い声で、俺はそう答える。中身は前世三十路手前の男だという自覚があるだけに、この舌足らずな声で喋るのには未だに強烈な違和感があった。慣れというのは恐ろしいもので、最近ではその違和感にすら慣れかけている自分がいる。
「考えごとって、
――なるからこそ、怖い。
もしもこの世界が、俺の記憶にあるあの物語の通りなのだとしたら。この優しい
だが、それを確かめる術がない。
布団に横たわったまま、俺はただ悶々と天井の木目を数えることしかできなかった。
「……とりあえず、もうちょっと丈夫な体だったらなあ」
誰に言うでもなく呟いたその一言だけが、静かな部屋にぽつりと落ちた。
布団の中で悶々とする日々は、それからも続いた。
もっとも、悶々とする内容の半分くらいは、正直に言えば「怪しい点の検証」ではなく、ただの現実逃避だった。
――もしも本当にこれがあの世界だとしたら。
そう考え始めると、途端に脳内会議が盛り上がる。議題はいつも一つ、
我ながら業が深いと思う。命の危険が現実味を帯びている状況で、真っ先に思いを馳せる相手が「敵側の、しかも既に鬼になってる強キャラ」というのは、控えめに言ってもオタクとして末期症状だった。だが仕方ない。前世で履修した『
柱と鬼を分けるのは、大雑把に言えば呼吸の有無だ。柱をはじめとする
一方、鬼はそもそも呼吸など使わない。一部の例外を除いて、使う必要がない。鬼になった時点で、人間の身体能力の桁が根本から変わってしまうからだ。その上でさらに、大半の鬼は「
だが
それ以外は、鬼としての規格外の身体能力と、生前から積み上げてきた拳法の実力、それだけを武器に、上位の柱たちと渡り合う。異能に頼らず、純粋なフィジカルと技術だけで頂点に近い場所まで登り詰めた男――それが、俺の知る
そして、俺にとっては、そここそが最大の魅力だった。反則技も無敵の異能も持たずに、それでも柱を、しかも複数人がかりでようやく渡り合える化け物に成り上がる。そういう「純度100%の強さ」に、俺は救いようもなく惹かれていた。
しかもその強さの根っこにあるのが、拳ひとつで弱者を助けたいという、あまりにも人間くさい執着だという事実がまた、たまらなく良かった。
――弱いということが、俺は許せない。
あの台詞を、前世の俺は何回リピート再生したか分からない。強さへの渇望が、他人を守れなかった無力感の裏返しだと分かるからこそ、あの拳の重みに説得力が宿る。血も涙もない怪物のはずなのに、根っこにあるのは驚くほど不器用な優しさだった。そのギャップに、俺という人間は完全に射抜かれてしまっていた。
だから、もし本当にこの世界が――と考えるだけで、腹の底が変な感じにざわつく。恐怖と、それを軽く上回る興奮とが、良くない配合比で混ざり合っている自覚があった。前世でここまで一人のキャラに執着した記憶はない。だというのに、この世界に来てからというもの、その執着は増す一方だった。
もっとも、それを確かめる術も、会いに行く体力も、今の自分にはない。
結局のところ、俺にできるのは布団の中で妄想を膨らませることだけだった。
――そんなわけで、俺の日課には自然と「両親観察」という項目が加わることになる。他にやることがないというのもあるが、単純にこの二人を眺めているのが飽きなかった、というのも大きい。
「おい
「もう少し待って。
「油なんか売ってねえよ。近所の隠居爺さんに稽古の相談されてただけだ」
「はいはい」
台所を挟んでの、こういう掛け合いを俺は布団から毎日聞いている。
「
「変な顔とはなんだ変な顔とは。俺はいつも通りの顔だ」
「いつも通り酷い顔ってことね」
――ここの父さん、実はとんでもない愛妻家なのでは?
前世、社畜として恋愛市場からほぼ撤退していた俺にとって、この夫婦のやり取りは謎に癒し効果が高かった。喧嘩なのか惚気なのか判別のつかない会話を繰り広げながら、二人は妙に息が合っている。おそらく本人たちは「よくある夫婦喧嘩」くらいの認識しかしていないのだろうが、傍観者からすればほぼ公開処刑レベルの砂糖菓子だった。
「
「べ、別に。ご馳走様です、って思ってるだけです」
「ご飯、まだ運んでないんだけど」
「……気持ちの上でのご馳走様です」
病弱で、確証のない既視感を抱えたまま、それでも今日も飯は美味い。両親は相変わらず騒がしい。そして俺の脳内では、相も変わらず
――悪くない人生だ、と素直に思えた。
***
この生活にも一つだけ、どうしても慣れない儀式があった。
――
あの衝撃を、俺は今でも忘れない。個室はある。囲いもある。だが、水を流すレバーもボタンも、当然のように存在しない。用を足したあとは、灰を撒いて始末をつけるか、備え付けの木片や紙で拭う。読者諸賢にはピンとこないかもしれないが、前世で二十年以上ハイテク便座の恩恵に浴してきた身にとって、これはなかなかの文化的衝撃だった。
しかも、この体は女だ。
着物というのは実に優雅な衣装だが、トイレ事情に関しては控えめに言って前世のズボンより数段面倒くさい。裾を踏まないよう、汚さないよう、片手でたくし上げながら、もう片方の手で帯や下前の位置を確認する。幼い体では手も短く、油断すると裾の先が際どいところまで垂れ下がってくる。しゃがみ方一つにも謎の集中力を要求され、毎回ちょっとした修行のような気分を味わっていた。
下着に関しても似たようなもので、この時代、庶民の女子ども向けに現代のような下着はほぼ存在しない。
「……やっぱり、面倒だな……うぉっしゅれっと……」
「うぉっしゅれっと……って、何?」
真後ろで、
「……なんでもないです。ちょっとした、あの世の呪文みたいなものです」
「呪文?
それはそれとして。
――誰か、この時代に温水洗浄便座を発明してくれないだろうか。
現実逃避気味にそんなことを考えながら、俺はよたよたと自分の布団に戻っていった。