恋雪にTS転生したので、猗窩座を救いたい人生だった   作:自分の性癖に素直になろう小説

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>10月10日の投稿2回目です。本日は3回投稿しております。




第十六話 花火の夜・残響

 

『罪人の入れ墨が入っている自分の未来なんて、うまく想像ができなかった』

 

 

 

「恋雪(こゆき)さん――俺と、夫婦になってくれませんか」

 

 言ってしまってから、心臓が痛いほど早鐘を打った。断られたら、それでいい。今夜のことは忘れて、これまで通り傍にいられるならそれで十分だ――そう自分に言い聞かせながら、俺は恋雪(こゆき)の返事を待った。

 

 

 

『ましてや、誰かがそんな自分を好いてくれる未来なんて猶更』

 

 

 

「――はい」

 

 

 

 ……。

 …………。

 そして、気が付けば花火も終わり、その帰り道。

 夜道には、俺たち二人分の下駄の音だけが響いていた。虫の声と、遠くでまだ燻る火薬の匂い。提灯の灯りが途切れる暗がりに差し掛かったとき、指先が、ふと恋雪(こゆき)の手に触れた。

 

 

 

『――俺は、親父が言っていたように。これから、真っ当な生き方ができるのか?』

 

 

 

 一瞬、びくりと恋雪(こゆき)の肩が跳ねる。けれど、振り払おうとしたわけではなかった。だから、俺はそっと恋雪(こゆき)の手を包み込むように握った。

 

 

 

『人生をやり直せるかもしれないという淡い期待が、収集もつかない程、大きく膨らんで』

 

 

 

「――寒くないですか」

「……いいえ」

 

 つないだ手のひらから伝わる体温が、やけに熱く感じられる。歩幅を合わせようとして、かえってぎこちなくなる足取り。俺は照れくさくて、正面を向いたまま、きっと耳まで赤くなっているのを隠すために、少しだけ早足になっていた。

 

 

 

『この時の俺は、命に代えても守りたいとも思った――恋雪(こゆき)と師範の二人のことを……』

 

 

 

 俺は前を向きながら、未来を向きながら横にいる恋雪(こゆき)に誓う。

 

「俺は――俺は、誰よりも強くなって。一生、あなたを守ります」

 

 

 

『だから、そんな二人が毒殺されるなど、夢にも思わなかった』

 

 

 

 ***

 

 花火の残響が耳の奥でまだ小さく鳴っている。夜道を並んで歩く間、恋雪(こゆき)はずっと自分の手のひらの温度を持て余していた。狛治(はくじ)の手は骨ばっていて硬い。剣胼胝(けんだこ)でも竹刀胼胝(しないだこ)でもない、拳を鍛え続けた男の手だ。その手が、離れることなく恋雪(こゆき)の指を包んでいる。

 

 素流(そりゅう)道場の木戸が見えてきたところで、狛治(はくじ)の足が止まった。

 

「――恋雪(こゆき)さん」

 

 改まった声だった。振り向いた横顔は、まだ夜目にもわかるほど耳まで赤い。それでも視線だけは真っ直ぐで、迷いがなかった。

 

「今日のうちに、師範に話します。今日、この場で」

 

 一拍の間があって、それから続けた。

 

「先延ばしにする理由が、俺にはもうありません」

 

 月明かりの下、その言葉は存外あっさりと落ちてきた。恋雪(こゆき)はまばたきを二度した。頬が上気しているのは、たぶん花火の熱がまだ残っているせいだけではない。

 

 ――え、今から!?

 

 胸の内側で、上品な女の子の仮面がべりっと剥がれる音がした。

 

(いやいやいや待って、順番おかしくない? 告白→即・父さん公認って、段階飛ばしすぎでしょ。せめてワンクッション、こう、指輪とか、二人で夕日見るデートとか、そういうのは……いや江戸だから指輪はないけど! そういう問題じゃなくて!)

 

 外から見れば、恋雪(こゆき)はただ月光の下でうつむき、頬を染めて言葉を失った病弱な少女だった。睫毛が震え、白い喉が小さく上下する。狛治(はくじ)の目には、それは恥じらいと、そして――ようやく自分の想いが報われたことへの、静かな感激に見えていた。

 

「恋雪(こゆき)さん?」

 

 呼ばれて、恋雪(こゆき)は弾かれたように顔を上げた。

 

「あ、いえ、その」

 

 声が上ずる。頭の中では別の自分が忙しく走り回っていた。

 

(落ち着け俺。落ち着け。相手はいい年した男が、命懸けの覚悟で言ってるんだぞ。ここでテンパってるのバレたら台無しだ。しっかりしろ、深窓の令嬢ムーブ、深窓の令嬢ムーブ……!)

 

 必死の内心とは裏腹に、口から出たのは掠れた一言だけだった。

 

「……はい」

 

 たったそれだけで、狛治(はくじ)の表情がふっと緩んだ。安堵と喜びがない交ぜになった、年相応の、少し幼さの残る笑み方だった。その顔を見た瞬間、恋雪(こゆき)の中の騒がしいツッコミ担当が、一瞬だけ黙り込む。

 

(……ずるいって、その顔)

 

「行きましょう」

 

 狛治(はくじ)が木戸に手をかける。木の軋む音が、やけに大きく夜に響いた。恋雪(こゆき)は繋がれたままの手を意識しながら、一歩を踏み出す。心臓の音は、たぶん発作の予兆ではなく、まったく別の理由で速く鳴っていた。

 

 門をくぐる直前、恋雪(こゆき)はもう一度だけ内心で呟いた。

 

(今日のうちにって、まさかこの流れ、色々と――が爆速で来るやつじゃ)

 

 続く言葉は、木戸の軋みにかき消されて、誰の耳にも届かなかった。

 

 

 

 ***

 

 行灯(あんどん)の灯りを絞って、そろそろ休もうかと思っていた矢先だった。木戸の軋む音がして、狛治(はくじ)と恋雪(こゆき)が連れ立って戻ってくる気配がした。花火を見に行くと聞いていたが、思ったより遅い。俺――慶蔵(けいぞう)は膝の上の湯呑みを置いて、廊下の向こうに目をやった。

 

 障子を開けて顔を出した狛治(はくじ)の様子で、すぐにわかった。

 

 こいつ、何かある。

 

 普段のこいつは、疲れていても道場に戻れば「ただいま戻りました」と一言、それで終わりだ。愛想がいいわけじゃないが、隠し事のできる性質でもない。それが今夜は、敷居の手前で一度立ち止まり、深く息を吸ってから中に入ってきた。膝の折り方も、いつもより一拍遅い。

 

 恋雪(こゆき)はその後ろに隠れるように立っていた。頬が花火の残り火でも映しているみたいに赤い。ただ、俺には長年見てきた娘だ。ただ照れているだけの赤さと、何かをこらえている赤さの違いくらいは見分けがつく。

 

 狛治(はくじ)が正座をして、俺の正面に座り直した。両の拳が、膝の上でぎゅっと握られている。指の関節が白い。あれだけの数を殴り倒したこいつが、今は目の前の空気に押し潰されそうな顔をしていた。

 

「師範」

 

 声が、少し掠れていた。

 

「――恋雪(こゆき)さんをください」

 

 一息だった。息継ぎの間もなく、まっすぐに言い切った。

 

 俺は、しばらく黙って狛治(はくじ)を見ていたと思う。自分でもどれくらいの間だったかはわからない。狛治(はくじ)は視線を逸らさなかった。逸らせば全部が嘘になるとでも思っているような、そんな目だった。

 

 その後ろで、恋雪(こゆき)が石みたいに固まっているのが見えた。息をするのも忘れているんじゃないか。花火よりよっぽど顔が赤い。

 

 俺の胸の奥で、何かがゆっくりとほどけていくのがわかった。

 

 長い、長い時間だった気がする。

 

 

 

 

 

「そうか、ついに。そうか……」

 

 口から出た言葉は、自分で思っていたより静かだった。それだけしか出てこなかった。

 

 まぶたの裏に、小さな恋雪(こゆき)の姿が浮かんだ。まだ乳飲み子に毛が生えたくらいの頃、熱を出すたびに小さな体を丸めて咳き込んでいた。医者を呼んでも「体質だから、気長に見てやるしかない」としか言われない。俺は拳で戦うことしか知らない男で、目に見えない病というやつが、どうにも歯痒くて仕方がなかった。

 

 その隣に、いつも雪奈(ゆきな)がいた。

 

 夜通し額の手拭いを替え、粥(かゆ)を匙で運び、眠れずにぐずる恋雪(こゆき)を胸に抱いて朝まで揺らしている後ろ姿を、俺は何度見ただろうか。あいつは弱音ひとつ吐かなかった。俺が代わろうかと言っても「あなたは道場があるでしょう」と笑って首を振るだけだった。

 

 その笑い方の下に、どれだけのものを溜め込んでいたのか。俺は結局、最後までわかってやれなかった。

 

 ――気づけば、雪奈(ゆきな)はいなくなっていた。

 

 看病疲れだったのか、それとも別の何かに押し潰されたのか。今となっては確かめようもない。ただ、あいつがいなくなった水辺の静けさだけは、今でも夢に出る。

 

 雪奈(ゆきな)を失ってから、俺はどこかで諦めていたのだと思う。恋雪(こゆき)の将来のことを。

 

 嫁にやるにしても、この体では嫁ぎ先に苦労をかけるだけだろう。ならばせめて、俺が生きているうちは、この道場でこの子を守ってやる。それだけでいい。それ以上を望むのは、贅沢というものだ――そう自分に言い聞かせて、心のどこかに蓋をしていた。

 

 そこへ、狛治(はくじ)が来た。

 

 拾ったと言えば聞こえはいいが、あの頃のこいつは、ただ行き場のない目をした痩せた少年だった。それが恋雪(こゆき)の世話に振り回され、拳を鍛え、隣の道場と因縁を作り、時にはとんでもない啖呵を切って血を流し、こちらの寿命を縮めるようなこともしてくれた。楽な月日ではなかった。手のかかる子供が二人に増えたようなものだと、何度愚痴をこぼしたかわからない。

 

 それでも。

 

 今、目の前で拳を握りしめているこの男の隣に、あの頃は寝たきりで顔色ひとつ悪かった恋雪(こゆき)が、自分の足で座っている。頬には赤みが差し、目には力がある。医者が匙を投げていたはずの体が、少しずつ、確かに人並みに近づいている。

 

 ――俺は、ちゃんと見ていなかったわけじゃなかったんだな。

 

 雪奈(ゆきな)。おまえが命懸けで守ろうとしたものは、ちゃんとここまで育った。

 

 胸の奥にこみ上げてくるものを、俺は一度、大きく息を吐くことで押し戻した。湿っぽいのは性に合わない。今夜くらいは、笑っていてやりたかった。

 

 

 

 

 息を大きく吐き出してから、俺は居住まいを正した。狛治(はくじ)もつられたように背筋を伸ばす。まだ拳を握ったままの、緊張の解けきらない顔だった。

 

「狛治(はくじ)」

 

 名を呼ぶと、狛治(はくじ)の肩がわずかに強張った。まだ何を言われるのか身構えているらしい。俺は、それがおかしくて、少しだけ口の端を緩めた。

 

「――この道場を継いでくれないか」

 

 一拍置いて、続けた。

 

「恋雪(こゆき)のことも、素流(そりゅう)の看板のことも、まとめてだ。俺は、おまえに任せたい」

 

 狛治(はくじ)が息を呑む音が、はっきりと聞こえた。

 

「師範……それは」

 

「返事は、ゆっくりでいい……と言いたいところだが」

 

 俺はわざと厳めしい顔を作って、それからすぐに崩した。

 

「見りゃわかる。おまえはもう覚悟を決めた顔をしてる。だったら、俺が今さら勿体つける必要もないだろう」

 

 言いながら、隣に目をやった。恋雪(こゆき)が両手で口元を覆い、大きく目を見開いてこちらを見ていた。花火よりもよっぽど眩しいものでも見るような目だった。

 

「お父さん……!」

 

 震える声だった。呼び方だけは、昔から変わらない。小さい頃、熱に浮かされて俺の名前をうまく呼べなかった時分から、ずっとそう呼ばれてきた。今夜のそれは、いつもより幾分か大人びて聞こえた。

 

 狛治(はくじ)は、しばらく声が出せずにいた。拳を握っていた手を解き、代わりに畳に手をついて、深く頭を下げた。

 

「師範……!」

 

 短く名を呼んだきり、続きが出てこないようだった。喉の奥で何かをこらえているのがわかる。この男は、こういう時に限って口下手になる。10人を素手で下したときの方が、よっぽど堂々としていたくらいだ。

 

 しばらくして、ようやく絞り出すように声が続いた。

 

「師範。これからも……宜しく、お願いします……」

 

 言葉の途中で一度詰まり、それでも最後まで言い切って、額が畳につくほど深く頭を下げる。

 

 俺は、その頭頂部をしばらく黙って見ていた。豪快に笑い飛ばしてやりたい気分と、それを上回る何か静かなものが、胸の中でせめぎ合っていた。結局、俺の口から出たのは、いつもより幾分か柔らかい声だった。

 

「頭を上げろ、狛治(はくじ)。今日くらいは、強く笑ってろ」

 

 そう言って、俺は隣で目を潤ませている恋雪(こゆき)と、いまだ顔を上げきれずにいる狛治(はくじ)を、順に見比べた。似合いだと思った。血の繋がりも、生まれも違う二人が、いつの間にかこうして俺の前に並んでいる。

 

 ――俺の目に狂いはなかったらしい。

 

 そう思うと、胸の奥がじんわりと温かくなった。声には出さずに、その温かさをしばらく味わっていた。

 

 

 

 

 

 二人がそれぞれの部屋に下がった後、俺はひとりで台所から欠け一つある徳利を持ち出し、小さな仏壇の前に腰を下ろした。線香を上げる気分でもない。ただ、少し話がしたかった。

 

「なあ、雪奈(ゆきな)」

 

 盃に酒を注ぎながら、位牌に向かって語りかける。返事が来るはずもないのに、こうして話しかける癖だけは、あいつが逝ってからずっと抜けない。

 

「聞いたか。狛治(はくじ)のやつ、とうとう頭を下げに来た」

 

 盃を一息に呷る。喉を通る熱さに、じんわりと目の奥が熱くなった気がしたが、それはきっと酒のせいにしておく。

 

「色々と言われた俺だ。豪快なだけが取り柄で、細かいことは何もわからない、恋雪(こゆき)の病のことも結局はお前任せだった、と……そう言われても仕方のない亭主だったと思っている」

 

 二杯目を注ぐ手が、少しだけ止まる。

 

「それでも、な」

 

 盃の中の酒面に、行灯(あんどん)の灯りが揺れていた。

 

「さんざんお前に言われてきたが。俺には、娘婿を見る目だけはあったようだぞ」

 

 そう言って、俺はひとりで小さく笑った。年甲斐もなく、照れ隠しに鼻の頭を掻く。誰も見ていないというのに、この歳になっても格好つけたがる自分が、我ながらおかしかった。

 

「あの拾ってきた痩せっぽちが、ここまでのいい男になるとはな。おまえも、あの世で見ていたなら――少しは、俺を褒めてくれてもいいんじゃないか」

 

 酒はもう三杯目に入っていた。景気づけにしては、少し過ぎたかもしれない。

 

 

 

 

 

 酔いが回ってくると、俺の頭には現実的な悩みが浮かび始めた。

 

 祝言というものは、この時代の庶民の間では、さほど大仰な段取りを踏むものではない。何しろ暮らし向きの厳しい家がほとんどだ。婚礼の日取りを決め、両家が仲人を立てて挨拶を交わし、簡単な結納の品――金子と呼べるほどのものではなく、酒肴や反物程度――を取り交わす。祝言当日も、近しい者を呼んで酒を酌み交わす程度のもので、武家のような格式張った作法は要らない。俺のような貧乏道場の主にとっては、むしろありがたい話だった。

 

 問題は、その「仲人」という奴だ。

 

 祝言の場を取り持ち、両家の間に立って話をまとめる。誰でもいいわけではない。それなりに顔の利く、近所付き合いのある年配者に頼むのが常だった。

 

 ――さて、誰に頼むか。

 

 腕を組んで唸る。

 

 素流(そりゅう)道場は、これまで隣の玄武(げんぶ)道場との確執続きで、正直なところ近隣との付き合いはお世辞にも広いとは言えなかった。あちらに睨まれるのを恐れて、商人ですら及び腰になる始末だ。祭りの寄合にすら、下座にすら座らせてもらえないことがあった。

 

 顔を思い浮かべる。米屋の親父は玄武(げんぶ)道場から睨まれるのを気にして、うちとは表向きの付き合いしかしない。近所の隠居連中も、似たようなものだ。

 

「……いねえ」

 

 思わず声に出た。

 

 酒屋の親爺、あれは口が達者だが軽すぎる。鍛冶屋の爺さんは頑固で他人の家のことに首を突っ込むのを嫌う質だ。数えれば数えるほど、心当たりが尽きていく。

 

「仲人もいない道場が、祝言だけは立派にやろうってのか、俺は……」

 

 盃を片手に、ひとり天井を仰いだ。狛治(はくじ)に頭を下げられて感慨に浸っていたのが嘘のように、今度は情けない唸り声が漏れる。

 

「これは、明日から頭を絞らねぇとなあ……」

 

 酔いの回った頭で唸りながら、俺はもう一杯だけ、と徳利を傾けた。

 

 

 

 

 ***

 

 自分の部屋に戻った途端、膝から力が抜けて、その場にへたり込みそうになった。

 

 ――決まった。

 

 決まってしまった。

 

 障子を後ろ手に閉めて、しばらくその場に立ち尽くす。外はもう静かで、虫の声だけがやけに大きく聞こえた。

 

(いや、待て。待ってくれ)

 

 心の中で、俺は――いや、わたしは、両手で顔を覆った。

 

(告白されてから、まだ数刻も経ってないんだけど? それでもう父さんに話通してるって、展開早すぎない? 恋人期間どこ行った? デートの一回もしてなくない? 花火見ただけだよね、今夜? それってデートって言うの? いや言うのか、この時代だと言うのかもしれないけど!)

 

 部屋の中を意味もなくうろうろと歩き回る。行灯(あんどん)の灯りが、忙しなく動く自分の影を壁に映していた。

 

(プロポーズから結婚まで、ワープしてる。距離感、完全にワープしてる。俺の知ってる恋愛の手順、どこ行った? 段階、何個か抜けてない?)

 

 そこまで考えて、はたと気づく。自分が今、内心で「俺」と言ったことに。

 

 ――いや、まあ、いつものことだけど。

 

 しかし続けて思考を重ねるうちに、いつの間にか言葉の主語が変わっていることに、わたし自身、途中まで気づかなかった。

 

(わたし、これから狛治(はくじ)さんの……え、なに、奥さんになるってこと? わたしが? この体で? わたしが花嫁ってこと!?)

 

 俺、ではなく、わたし。

 

 その響きに、自分でも少し驚く。今までなら「俺が女の格好してるだけ」くらいの感覚で流していた言葉が、今夜だけはやけに実感を伴って耳の奥に響いた。

 

(いやいやいや、混乱してる場合か。今それどころじゃ――)

 

 そこまで考えたところで、頭の隅にひとつの単語がぽつりと浮かんだ。

 

 ――しょや。

 

 しょ、や。

 

 初、夜。

 

「――っ!!!」

 

 声にならない悲鳴が喉の奥で弾けた。両手で口元を押さえ、その場にしゃがみ込む。頬という頬に一気に血が上るのがわかった。耳の先まで熱い。

 

(ちょっと待って待って待って! そこまで考えてなかった! いやでも当然そうなるやつだよね!? 結婚ってそういうものだよね!? わたし、今の体で、それって――)

 

 うずくまったまま、両膝を抱えて体を丸める。目がぐるぐると回っているのが自分でもわかった。畳の目を見つめながら、頭の中は完全に処理落ちを起こしている。

 

(無理無理無理無理、心の準備が、心の準備がまるで、なんの、その、心構えというか、シミュレーションが、脳内会議が、まだ開催すらされてなくて――)

 

 障子の向こうを、廊下を歩く足音が通り過ぎていく。それだけで肩が跳ねた。狛治(はくじ)の足音かもしれないと思うと、また新たな羞恥が押し寄せてくる。

 

 はた目には、恥じらう花嫁が一人、行灯(あんどん)の灯りの下でしどけなく身をよじっているようにしか見えなかっただろう。その内側で繰り広げられている大混乱の脳内会議のことなど、誰も知る由もない。

 

 わたしは畳の上に突っ伏したまま、しばらく起き上がれずにいた。

 

 畳に突っ伏したまま、しばらく息を整える。それでも思考は勝手に回り続けていた。

 

(落ち着け……落ち着くんだ、俺は)

 

 久しぶりに戻ってきた一人称に、自分でも少し安心する。うん、こういう時はこっちの方がしっくりくる。

 

(整理しよう。まず、事実確認から入ろう。俺は現代日本で、平々凡々なサラリーマンをやっていた。恋愛経験? まあ人並み程度にはあった。合コンにも行ったし。結局、恋人はできたことはなかったけど……。それでも知識としては、その、色々わかってるつもりだった)

 

 むくりと体を起こし、正座に座り直す。妙に几帳面な仕草だった。

 

(現代の結婚っていうのはだな、まず交際期間があって、相手のことをよく知って、価値観のすり合わせをして、それから――)

 

 そこまで考えて、ふと我に返る。

 

 ――いや、ここ、江戸っぽい時代なんだが?

 

(そうだ、そうだった。ここでは十歳そこらで許嫁が決まるのも普通、恋人期間なんて概念自体がふわっとしてる。狛治(はくじ)さんとの今日までの積み重ねだって、現代基準で言えば「年上の弟兼介護者兼恩人」みたいな謎ポジションだったわけで――)

 

 現代の常識と、この時代の当たり前が、頭の中で交差点のど真ん中でぶつかり合っている。信号無視の玉突き事故のような有様だった。

 

(でも、待てよ。俺の中の現代知識がどれだけ喚こうと、今のこの体は、紛れもなく)

 

 そこで一度、自分の両手を見下ろす。細く白い指。前世の武骨な手とはまるで違う、恋雪(こゆき)という少女の手だった。

 

(――女なんだよな、俺)

 

 わかっていたはずのことが、今夜に限って妙に重たく肩にのしかかってきた。

 

 胸のあたりを、無意識に片手で押さえる。それはただの動揺の仕草のはずだったが、その手つきひとつが、まるで恥じらう乙女そのものに見えることに、俺自身は気づいていない。

 

(結婚するってことは、その、色々あるってことで。この体で、その、色々って――)

 

 考えかけて、また顔に熱が集まってくるのを感じた。頬を両手で挟み込むようにして、ふるふると首を振る。

 

(いやいやいや、今考えることじゃない! 今夜はまだ、婚礼の日取りも決まってないだろ! 気が早すぎる! 気が早すぎるぞ、俺!)

 

 そう自分に言い聞かせながらも、部屋の中をまたうろうろと歩き始める。行灯(あんどん)の灯りに照らされて、影が右に左に落ち着きなく揺れた。

 

 うずくまっては立ち上がり、頬を染めては胸を押さえ、時折首を振ってはまた歩き出す。その一部始終は、傍から見れば、嫁入りを前にした乙女の初々しい恥じらいそのものだっただろう。病弱で儚げな美少女が、幸福な戸惑いに身をよじっている――そんな微笑ましい光景に。

 

 その内側で、元社畜の三十路手前の男が一人、脳内会議を延々と紛糾させ続けているとは、この部屋の外にいる誰一人として、想像すらしていなかった。

 

 しばらくして、ようやく息が整ってきた頃、俺の――いや、わたしの一人称は、いつの間にかまた元に戻っていた。

 

(もう、こんなことで悩んでる場合じゃないでしょ、わたし)

 

 そう自分に言い聞かせて、わたしは布団の上にへたり込むように腰を下ろした。まだ頬は熱かったが、さっきよりは幾分か落ち着いていた。

 

 窓の外では、夏の虫がまだ鳴き続けている。長い夜になりそうだった。

 

 

 

 

 

 布団の上に座り込んで、まだ火照る頬を両手で扇いでいた時だった。廊下から、控えめな足音が近づいてくるのがわかった。

 

 ――え、誰。

 

 心臓が跳ねる。足音の主は、襖の手前でぴたりと止まった。

 

「恋雪(こゆき)さん」

 

 狛治(はくじ)の声だった。いつもより少し掠れていて、遠慮がちだった。

 

「大丈夫ですか。物音がしたので……」

 

「しょやッ!?」

 

 飛び上がりそうになるのを、寸前で堪える。うずくまって身悶えしていた気配が、廊下まで漏れていたらしい。

 

(見られてない、見られてないよね!? まさか今の脳内会議の様子とか、そんなわけない、襖閉まってたし――)

 

「な、なんでもありません!」

 

 裏返った声が出た。自分でも驚くくらいの音程だった。慌てて咳払いを一つ挟む。

 

「その、少し、寝苦しくて……!」

 

 我ながら苦しい言い訳だと思ったが、これ以上まともな言葉が出てくる気がしなかった。

 

 襖の向こうで、狛治(はくじ)が息を呑む気配がした。

 

「体調が悪いんですか。今、水を持ってきます」

 

「い、いえ! 本当に平気ですから!」

 

 慌てて引き止める。狛治(はくじ)が動き出す足音が、一瞬止まった。

 

しばらく、襖越しに沈黙が続いた。虫の声だけが間を埋める。

 

「……そうですか」

 

 安堵と、それでも拭いきれない心配の両方が滲んだ声だった。

 

「何かあったら、いつでも呼んでください。俺は部屋にいますから」

 

 いつもより幾分、声が柔らかい。というより、少し落ち着かない響きがあった。よく聞けば、狛治(はくじ)の方も呼吸が微妙に浅い気がする。

 

(あれ。もしかして、この人も)

 

 今夜のことを思えば、無理もない話だった。プロポーズをして、慶蔵(けいぞう)さんに頭を下げて、道場を継ぐと言われて。そんな一日の終わりに、素直に眠れる人間の方が少ないだろう。

 

 そう思うと、少しだけ、こちらの気が紛れた。

 

(なんだ。俺だけじゃないのか、今夜眠れなくなってるの)

 

 足音が遠ざかっていく。その気配に、恋雪(こゆき)はほっと息をついた。

 

 ――が、途中で足音がまた止まった。

 

 数拍の間があって、それから、独り言のような小さな呟きが襖越しに聞こえてきた。

 

「……もう一度だけ、顔を見たかったな」

 

 聞こえるか聞こえないかの声だった。狛治(はくじ)自身、口に出すつもりなどなかったのかもしれない。それだけ言うと、今度こそ足音は静かに遠ざかっていった。

 

 恋雪(こゆき)は、その場に固まったまま、しばらく動けなかった。

 

(ずるい。それはずるいって、狛治(はくじ)さん)

 

 さっきまでの混乱とはまた別の熱が、じわりと胸の奥に広がっていく。頬に当てていた手のひらが、いつまで経っても冷めなかった。

 

 

 

 

 

 祝言の準備でにわかに慌ただしくなるのは、翌日からのことになる。

 

 

 

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