佐吉が再び姿を見せたのは、月のない夜だった。
「若様。先だっては、無礼を申しました」
殊勝な口ぶりで頭を下げる佐吉に、玄真は苛立ちを隠さなかった。
「まだ懲りとらんのか。次に見たら只では済まさんと言ったはずだぞ」
「ええ、覚えております。ですから今日は、何かをせよと申し上げに来たわけではございません。ただ、証拠を一つ手に入れたということだけをお伝えしたくて」
佐吉はそう前置きすると、声を落として続けた。
「素流道場に、珍しい薬があるそうとはお伝えした通りです。それをなんとか入手しました」
玄真は眉をひそめた。何を言っているのか、すぐには呑み込めなかった。
「まあ、もともとそいつの持主は素流道場のものです。だから、なにかの手違いで。そう例えば、事故かなにかで。たまたま素流道場の井戸にでも落としてしまえば。飲んだものを少し苦しませる程度のことが起きてしまうでしょう」
「少し苦しませるだけで、済む……?」
「はい。表向きは『不幸な事故』として片付けられましょう。誰の目にも、悪意など見えはしません。むしろ――」
佐吉の声は、諭すような、それでいて甘く粘つくような響きを帯びていた。
「これが原因で、そばにある井戸の水を飲んだ玄武道場の人間になにか起きれば、素流道場にもいろいろと都合よく話ができるようになるはずです。若様は、何もお手を汚す必要はございません。ただ、成り行きに任せるだけで、済むのです」
玄真は何も答えなかった。答えられなかった、という方が正しいのかもしれない。ただ、佐吉の言葉のひとつひとつが、耳の奥にべったりと張りついて離れなかった。
その夜、一人になった部屋で、玄真は何度も自分に言い聞かせた。あんな男の口車に乗るものかと。だが、頭の中で打ち消そうとするたびに、父の死からこちら積み重なってきた重圧が、まるで潮のように押し寄せてきた。
家督。縁談。断てという要求。守れという遺言。
そのどれもが、玄真一人の肩に、有無を言わさず乗せられていた。誰かに愚痴をこぼすことも、弱音を吐くことも、玄真には許されていないように思えた。玄武道場の跡取りとして、常に堂々としていなければならない。そう思い込んでいる自分と、今にも押し潰されそうな自分との間で、玄真の心はどうしようもなく引き裂かれていた。
——誰かに、分かってほしい。
そう思った瞬間、頭に浮かんだのは、恋雪の顔だった。
理屈ではなかった。ただ、幼い頃から病弱なあの娘の前でだけは、格好をつけずにいられた記憶がある。乱暴を働いたことも、意地を張ったことも数え切れないほどあったが、それでも、恋雪と過ごした時間の底には、確かに気の許せる何かがあった。今のこの苦しさを、笑い飛ばしてくれるでもいい。呆れてくれるでもいい。ただ、話を聞いてほしかった。
その夜が、玄武道場で開かれる祝いの席と重なっていたのは、玄真にとって都合の悪いことだった。父の死からしばらく経ち、家中の空気を少しでも和らげようという重臣たちの計らいで、ささやかな酒宴が催されていたのだ。花火が上がるというので、屋敷の庭先からも見えるようにと、灯りを落とした広間には人が集まっていた。
杯を重ねるうちに、玄真の頭は次第に重くなった。周囲から向けられる祝いの言葉も、次期道場主への期待を込めた視線も、今の玄真には息苦しいだけだった。
「若様、少々お顔が赤いですぞ」
「……酔った。少し、涼んでくる」
そう言い残し、玄真は誰にも呼び止められないうちに、広間をそっと抜け出した。
夜風が火照った頬に触れる。空の彼方では、既に花火が上がり始めていた。景気よく夜空を彩る光の残像を横目に、玄真は当てもなく夜道を歩き出した。
行く先は決めていなかった。ただ、足は自然と、素流道場のある方角へと向いていた。
夜道の先に、二つの人影があった。
最初は、誰かとすぐには分からなかった。花火の余韻に浮かれた男女が、手をつないで歩いているだけだと、ただそう思った。だが、提灯の淡い明かりが横顔を照らした瞬間、玄真の足は、その場に縫い付けられたように止まった。
狛治と、恋雪だった。
見慣れた二人のはずだった。だが、目の前にいるのは、玄真の知っている二人とは、どこか違って見えた。恋雪は頬を赤らめ、俯きながらも、繋いだ手を離そうとはしない。狛治もまた、いつもの生真面目な硬さが抜け落ちたような、柔らかな表情で恋雪を見つめていた。互いの間に流れる空気には、余人の入り込む隙間などなかった。
玄真は、物陰に半ば身を隠すようにして、その光景を見つめ続けた。
——ああ。
胸の奥で、何かが冷たく凍りついていく感覚があった。
自分は今夜、誰にも本音を明かせぬまま、酔いを言い訳に宴席を抜け出してきた。誰かに苦しさを分かってほしくて、行く当てもなく夜道をさまよっていた。それなのに、目の前のこの二人には、そんな孤独の影すら見当たらない。父を失ったわけでもない。縁談に縛られているわけでもない。ただ、幸せそうに笑い合っている。
自分にはないものを、あの拳術遣いの野良犬は、当たり前のように手にしていた。
喉の奥から、声にならない何かがせり上がってきた。それは怒りとも、嫉妬とも、あるいは違う名前のつく感情だったのかもしれない。だが玄真自身には、それを言葉にして整理する余裕など、もう残されていなかった。
二人が角を曲がり、路地の暗がりへと姿を消していく。玄真はその後ろ姿を、ただ黙って睨みつけていた。声をかける気力もなければ、資格もない。そんな自覚だけが、胸の底に鉛のように沈んでいった。
何かが、決定的に壊れる音がした。
それは実際の音ではなく、玄真自身の内側で鳴った音だった。これまで必死に守ってきた何か——道場の跡取りとしての体裁も、幼馴染としての建前も、狛治との間に一応は築いてきたつもりの和解の形も——そのすべてが、たった今、音を立てて崩れ落ちていくのを、玄真は他人事のように感じていた。
気づけば、玄真は走り出していた。
行き先を定めたわけではない。ただ、あの光景から一刻も早く離れたかった。夜道を蹴るように駆け、息が上がっても止まらなかった。見えないはずの二人の影が、遠く背中を追いかけてくる。振り返る余裕もなく、玄真はただひたすらに走り続けた。
たどり着いた先は、いつからか近寄らなくなっていた、小さな神社だった。子供の頃、恋雪や、時には狛治とも肩を並べて座った覚えのある、あの石段の上だった。
息を切らせながら、玄真はその場に膝から崩れ落ちた。
肩が上下に震えていた。それが息切れのせいなのか、それとも別の何かのせいなのか、玄真自身にも分からなかった。ただ、乾いた笑いのようなものが、喉の奥から漏れた。
——馬鹿みたいだ。
自分は一体、何を望んでいたのだろう。恋雪に話を聞いてもらいたかっただけなのに。ただそれだけのはずだったのに。今、玄真の胸を満たしているのは、そんな穏やかな願いとはまるで違う、どす黒い何かだった。
夜空には、まだ花火の残像が滲んでいた。その光の名残を見上げながら、玄真は自分の中で何かが、後戻りのできない形で歪んでいくのを、ただ感じ続けていた。
石段の上に座り込んだまま、どれほどの時間が過ぎたのか、玄真には分からなかった。
ふいに、随分と昔の記憶が蘇った。
恋雪の母が死んだ日のことだ。まだ幼かった玄真は、神妙な顔ひとつ作れず、死というものがよく分からないまま、恋雪に声をかけた覚えがある。恋雪が母の死を悲しむ様を横目に、「オレは、母上が生きてるから分からない」というようなことを、悪びれもせず口にした覚えがある。あの時、恋雪がどんな目でこちらを見ていたか、玄真は今になって、ようやく思い出した。
蔑みでも、怒りでもなかった。ただ、静かに諦めたような目だった。
——オレは、あの頃から、ろくな人間じゃなかった。
自嘲するでもなく、ただ淡々と、玄真はその事実を認めた。乱暴を働き、恋雪を泣かせ、狛治を見下し、そのくせ表面だけを取り繕って、いっぱしの跡取り息子を演じてきた。父が死んで、その化けの皮を保つ余裕すらなくなった今、残ったのはただの空っぽな器だった。
もともと、ドブカスのような人間だった。
そう思い至った瞬間、不思議と、体から力が抜けていった。恐怖も、罪悪感も、何かを取り繕おうとする意志すらも、すべてがどこか遠くへ行ってしまったような感覚だった。
——だったら。
だったら、何をしたところで、今更ではないか。
その言葉が、頭の中で何度も繰り返された。最初はただの投げやりな呟きだったはずが、繰り返すうちに、次第に輪郭を持ち始めた。今更、何を恐れる必要がある。今更、誰の期待に応える必要がある。今更――今更――
思考が、うまく纏まらなかった。
石段に座ったまま、玄真は自分の膝を見つめていた。何を考えていたのか、途中で分からなくなることが、何度もあった。ふと我に返ると、随分と長い時間、同じ場所で同じ姿勢のまま、ただ呆けていたらしいと気づく。腹が空いているはずなのに、何も食べたいとは思わなかった。喉も渇いているはずなのに、それすらどうでもよかった。
佐吉の声が、耳の奥で蘇った。
——これを井戸に混ぜれば、殺すまでもなく、少し苦しませる。
殺すつもりなど、微塵もなかった。それだけは、玄真の中でまだかろうじて残っている一線だった。ただ、苦しませる。それだけなら、罪と呼べるほどのものではないのかもしれない。
——表向き『不幸な事故』として片付けられる。
誰も、玄真を責めはしない。誰の目にも、悪意など映らない。
——これで、素流道場にも有利になる。
父の遺志。守れという、あの最期の言葉。縁談元が突きつけてきた条件。板挟みになって、身動きひとつ取れずにいたはずのものが、佐吉の言葉ひとつで、まるで一本の糸に通ったかのように繋がっていく気がした。
あんな子悪党の話は、一度は、突っぱねたはずだった。あの時の自分には、まだ怒る力があったのだと、今になって思う。だが今は、あの日のように声を荒げる気力さえ湧いてこない。怒りも、疑いも、何かを拒む力さえも、この数日ですっかり磨り減ってしまったらしかった。
冷静に考えれば、どこかに歪みがあることくらい、玄真にも分かっていたのかもしれない。だが、もはやそれを見極めるだけの力は、玄真の中に残っていなかった。
本当は、恋雪にすがりたかった。
情けなく、子供の時のようにただただ甘やかしてほしかった。
大人ではなく、昔のように責任のない時代に戻りたかった。
けれど、もう戻れない。
時間は等しく過ぎていく。
玄真が変わったように、恋雪も変わってしまった。
戻さなければ、ならない。
そのきっかけが必要なんだ。
石段に爪を立てながら、玄真は乾いた声で、誰に言うでもなく呟いた。
「……俺と同じ苦しみを少し感じさせる。それだけだから」
その声は、自分自身に言い聞かせるための、脆く頼りない呪文のようだった。
頭の中で、幾つもの声が同時に喋っているようだった。
あの二人の祝言を見てしまえば、今の自分はきっと二人を殺してしまう。理屈ではなかった。だが、そう確信めいたものが、玄真の胸の奥に居座っていた。狛治の首に手をかける自分の姿さえ、はっきりと思い描けてしまう。それが恐ろしいのか、それとも、どこかでその光景を望んでいるのか、玄真自身にも見分けがつかなくなっていた。
——だったら、その前に。
少しばかり、痛い目を見せてやればいい。それだけのことだ。祝言など挙げられぬよう、ほんの少し、水を差してやればいい。誰も死にはしない。ただ、少しだけ苦しませるだけなのだから。
いや、違う。
そうではない。あの毒から、恋雪を救い出してやれば、いい。
思考は、また別の方向へと転がった。恋雪が苦しんでいるところへ、自分が颯爽と現れ、間一髪のところで助け出してやる。そうすれば、恋雪はきっと、また昔のように――幼い頃、頭を撫でてやったあの時のように――自分を頼ってくれるのではないか。
そんな都合のいい筋書きが、頭の中でまことしやかに組み上がっていく。おかしいと分かっていながら、玄真はそれを打ち消すことができなかった。むしろ、その筋書きにすがりつくことでしか、自分を支えられなかった。
嫌がらせと、救済と、殺意と、愛着。
そのどれもが、玄真の中で境目を失い、ぐちゃぐちゃに溶け合っていた。ひとつの考えを追おうとすると、すぐに別の考えがそれを塗り潰し、また別の考えが、その上から塗り重なっていく。もう、どれが本当に自分の望んでいることなのか、玄真にも分からなくなっていた。
それからの数日かもっと長い間か。玄真の記憶の中で、奇妙なほど輪郭を失っていた。
朝と夜の区別すら、曖昧だった。誰かに話しかけられても、返事をした覚えがあるかどうかすら定かではない。屋敷の廊下を歩いていたはずが、気づけば庭先に立っていたこともあった。稽古をする気力はとうに失せていたが、それでも体だけは、惰性のように日課をなぞっていたらしい。
食事の味も、ほとんど覚えていなかった。誰かが心配そうに声をかけてきた気もするが、それが誰だったのか、何を言われたのかも、記憶の底に沈んで戻ってこなかった。ただ、頭の芯だけが、絶えず熱を持ったように痺れていた。
夜になると、決まって同じ光景が瞼の裏に蘇った。手をつないで歩く二人の後ろ姿。花火の残光。石段の上で握りしめた、あの言葉。
——なに、ほんの少しだけだ。
その一言だけが、崩れかけた玄真の中で、唯一形を保ち続けていた。
神社の高台に立つと、町の明かりがずっと下の方に、小さく散らばって見えた。
花火は、数日前に終わっていた。それでも玄真の目には、まだ夜空のどこかに、光の尾を引く残像が焼きついているような気がしてならなかった。実際にはもう何もない場所を見上げながら、玄真はしばらくの間、身動きひとつせずに立ち尽くしていた。
懐から、小瓶を取り出す。
佐吉から受け取った、あの薬だった。掌に収まるほどの小さな瓶の中で、赤い液体が、玄真の手の震えに合わせてかすかに揺れている。月明かりが硝子の表面を滑り、液体の赤を透かして、玄真の目には、まるで小さな月がもうひとつ、そこに浮かんでいるように映った。
赤い月。
そう思った瞬間、なぜか背筋に冷たいものが走った。理由のない怖気だった。だが同時に、その禍々しいまでの赤さに、玄真はどこか目を離せずにいる自分にも気づいていた。
人は、人でありながら、鬼になることもある。
そんな言葉が、どこからともなく玄真の胸に浮かんだ。誰から聞いた話でもない。ただ、今の自分の内側にあるものを言い当てるには、それ以外の言葉が見つからなかった。姿形は変わらずとも、心の在り様だけが、いつの間にか人ならざる何かに近づいていく――そういう感覚が、確かにあった。
小瓶を握りしめたまま、玄真はなんだか、おかしくなって笑ってしまった。
***
その翌日。町外れの人気のない林道で、二つの死体が見つかった。
発見したのは、早朝に薪を集めに来た木こりだった。倒れていたのは、佐吉と久太郎の二人だった。いずれも刃物によるものと見られる傷を負っており、既に事切れてから半日以上は経っていると思われた。争った形跡はあったものの、周囲に目立った物盗りの痕跡はなく、金目の物もそのまま懐に残されていた。
役人による検分が行われたが、目撃者は現れなかった。二人がその夜、何のためにその場所へ足を運んだのかも、はっきりとは分からなかった。恨みを買っていた人間なら、佐吉にも久太郎にも、数え上げれば切りがないほどいるという噂だけが、まことしやかに囁かれた。
結局、下手人が誰であるのかは、ついに分からぬままだった。
しかし、町の人々の間では、その事件が話題になることはなかった。
なぜなら、この後のさらなる大きな事件により、人々の記憶からは消されることになる。しかし、この事件が玄武道場と素流道場、二つの道場をめぐる因縁であったことは推測されていた。だが、それを確かめる者は、ついぞ現れなかった。