恋雪にTS転生したので、猗窩座を救いたい人生だった 作:自分の性癖に素直になろう小説
花火の夜から、季節がひとつ巡った。
祝言の日取りが決まったのは、つい先日のことだ。
そして、師範に再び頭を下げに行った日のことを、俺はまだよく覚えている。師範は少しの間黙ってから、いつもの豪快な調子とは違う、妙に静かな声で「頼んだぞ」とだけ言った。それだけで十分だった。あの人が余計な言葉を並べないときほど、本気だということを、俺はもう知っている。
正直に言えば、怖い。
強くなりたいと思ってきたのは、いつだって誰かを守るためだった。実の父親を守れなかった。だから拳を鍛えた。師範や
それでも、
幸せすぎて、怖い。
道場の朝稽古を終え、井戸端で水を浴びながら、俺はふとそんなことを思った。空はどこまでも晴れていて、風は乾いていて、今日という日がこの先もずっと続くのだと、根拠もなく信じられるような朝だった。
祝言の日付が決まってから、俺は誰にも告げずに朝早くに道場を出た。
まだ人通りのない道を歩く。踏みしめる土の感触も、頬を撫でる風の冷たさも、今日はやけに鮮明だった。向かう先は、以前住んでいた町にある小さな墓地だ。
親父の墓は、他のものに比べて随分と質素だった。碑石と呼ぶにはあまりに小さな石が一つ、地面から覗いているだけ。それでも俺には、これで十分だった。ここに眠っていると分かっているだけで、十分だったのだ。
死んだ親父に、祝言を上げるって報告したくて。
そのためだけに、今日はここまで来た。
親父は、体の弱い人だった。働けない体で、それでも俺を育てようとしてくれた。俺が盗みを働いたと知ったときの、あの顔を今でも思い出す。怒るでも嘆くでもなく、ただ静かに、俺を見つめていた。そうして親父は、これ以上俺が罪を重ねずに済むようにと、自ら命を絶った。
あなたが、命と引き換えに新たな罪から逃がしてくれた俺が。
ようやく――ここまで来ました。
言葉にはしなかった。声を出せば、何かが崩れてしまいそうな気がしたからだ。だから俺は、ただ墓の前に膝をつき、しばらくの間、目を閉じていた。
風の音だけが耳に届く。遠くで鳥が鳴いた。
親父。俺は今度、祝言を上げます。あなたが命をもって教えてくれたことを、今度こそ誰かのためにこの力を使います。もう二度と、あの日のような選び方はさせません。
そう心の中で告げたとき、不思議と体が軽くなった気がした。まるで、長い間背負っていた何かを、少しだけ下ろせたような感覚だった。
立ち上がり、墓石にもう一度目をやる。
日の光が、白く乾いた地面を照らしていた。今日は、いい日になる。根拠などどこにもないのに、俺はそう信じて疑わなかった。
俺は踵を返し、道場への道を歩き始めた。
***
墓地を出てから、思いのほか長く歩いた。
途中、市の立つ通りを避けて回り道をした。祝言の話が町に広がっていることから、うっかり誰かに顔を見られて冷やかされるのも、悪くはないが今は少し気恥ずかしい。そんなことを考えながら、俺は普段より緩やかな足取りで町を抜けた。
日はまだ高かった。
日が暮れる前には、道場に戻ったのに。
それなのに、道場が近づくにつれて、妙に息が詰まる。
最初は、ただの歩き疲れだと思った。祝言を控えた緊張のせいだとも思った。だが、それにしては様子がおかしい。横隔膜のあたりが、勝手に小さく痙攣する。一度ではない。二度、三度と、間隔を空けて繰り返す。
腕に鳥肌が立った。
暑くもなく、寒くもない、ただの午後だ。風が強いわけでもない。なのに、皮膚の表面だけが、まるで冷たい水にでも浸けられたかのように粟立っている。
理由がわからない。
歩調を速めた。
自分の足音だけが、やけに大きく耳に響いた。道場までの道のりを、こんなに長く感じたのは初めてだった。
道場の門が見えてきたとき、俺は思わず足を止めた。
そこには、見たこともないほどの人だかりができていた。近所の年寄りたち、
「誰かが井戸に毒を入れた……!」
風に乗って、そんな声が耳に届いた。
聞き間違いだと思いたかった。だが、続けて聞こえてくる声のどれもが、同じ方向を指している。
「
誰の声だったか、俺にはわからない。輪郭のはっきりしない、近いのか遠くなのかその誰かの呟きだった。それでも、その言葉は矢のように俺の耳を貫いた。
「あいつら、ひどい真似を……!」
「惨たらしい……あんまりだ……!!」
声は次々と重なり、溶け合い、もはや誰が何を言っているのかも判別がつかなくなっていく。俺はただ、その声の渦の中を、ゆっくりと――いや、自分では速く歩いているつもりだったのに、体はまるで泥の中を進むように鈍かった――道場の門へと近づいていった。
そして、決定的な一言が耳を打った。
「
その瞬間、俺の中で何かが止まった。
――俺は。
俺は、大事な人間が危機に見舞われている時、いつも傍にいない。
そんな考えが、まるで他人の声のように頭の中で響いた。なぜ今、こんなことを思い出すのか自分でもわからなかった。ただ、遠い昔、俺がまだ幼く、親父が独りで首を括ったあの夜も――俺はその場にいなかった。
人だかりをかき分けるようにして進む。誰かが俺に気づいて何かを言った気がしたが、声は耳を素通りしていった。
道場の敷地に足を踏み入れた瞬間、辺りの音が遠のいた。
井戸端の脇、いつも二人が並んで座る縁側のあたりに、師範と
俺は最初、二人が眠っているのだと思った。
俺は近づいた。膝をつき、
指先が震えていることに、その時初めて気がついた。
紙をめくる。
口からは血の跡が残っていた。
俺は、その場から動けなくなった。
呼吸の仕方を忘れてしまったような気がした。実際、自分がどれくらいの間、息を止めていたのか、俺にはわからない。目の前の光景は、少しも変わらなかった。時間だけが、そこで止まっているようだった。
頭の奥で、ある声が蘇る。
『俺は誰よりも強くなって、一生あなたを守ります』
花火の夜、俺が口にした言葉だった。あの時、
結局。
口先ばかりで、何一つ成し遂げれなかった。
その言葉が、頭の中で静かに、けれど確実に、俺という人間の輪郭を塗り潰していくのがわかった。
***
その惨殺事件の詳細は、奉行所に記録が残されている。
激しい抵抗があったと見え、遺体の多くには争った形跡が見て取れたが、それも一瞬のことであったらしく、ほとんどの者は為す術もなく命を落としたと推察されている。
殆どの遺体は潰されて原形をとどめず、ひしゃげた肉塊と化していた。その上、身体の一部が多数欠損しており、顎、脳、眼球、手足、内臓が天井や壁に飛び散り、そのまま張りついていた。地獄絵図としか言いようのない有様であったと、当時この現場に立ち会った検分の者は書き残している。
ただし、
そして、唯一生き延びた女中も、正気を失っていたという。
あまりにも荒唐無稽な内容であったため、この記録は三十年ほどのちに、作り話であるとして廃棄されている。
***
血の匂いが、まとわりついて離れなかった。
歩くたびに、足元から赤い痕がついていく。着物も、腕も、頬にまで飛び散ったそれが、乾ききらないまま冷えていくのがわかる。それでも、俺はどこか他人事のように、自分の足取りを眺めていた。まるで、誰か別の人間の後ろをついて歩いているような感覚だった。
先ほどまでの喧騒は、いつの間にか遠のいていた。人の悲鳴も、怒号も、意味のない謝罪も、何もかもが背後に置き去りにされ、聞こえてくるのは自分の足音と、川の流れる音だけになっていた。
気づけば、見覚えのある橋の上に立っていた。
ここは――。
ああ、そうだ。ここは、
あの夜、俺はここで、この人を一生守ると誓った。
今、同じ場所に立って、俺は何を思えばいいのだろう。
守ると誓ったその人は、もういない。師範も、もういない。俺の両手には、まだ生々しい感触が残っている。誰かの命を、いくつも、いくつも、この手で終わらせてきた感触。それが誰であったかさえ、俺の記憶はもう定かではなかった。ただ、気づけばここに立っていた。ただ、それだけだった。
俺の体に最後に残された
川面を見下ろす。
月光を映して、水は静かに、何事もなかったかのように流れている。
俺は、何のために強くなったのだろう。
考えても、答えは出なかった。強さとは、誰かを守るための手段だったはずだ。だが、その誰かがいなくなってしまえば、この強さは一体、何を守るためにあるというのか。この両腕は、もう何も抱きしめることができない。この足は、もう誰かのもとへ駆けつける必要がない。この命は――。
このまま、ここから。
そう思う自分に、驚きはなかった。恐怖もなかった。ただ、極めて自然な結論として、その考えは俺の中に降りてきた。橋の欄干に手をかけようとする。
生きる意味は、もうない。
誰に言い聞かせるでもなく、俺は静かにそう結論づけた。感情は、もうどこにも見当たらなかった。悲しみさえ、遠くに置き去りにしてきたようだった。ただ、川の流れる音だけが、いやに耳につく。
体を、一歩傾ける。
そのまま落ちれば、全てが終わる。それだけのことだった。
俺は、それでいいと思った。
欄干にかけようとした手が、止まる。
橋の中央に、誰かが立っていた。
いつからそこにいたのか、俺にはわからない。足音も、気配も、何一つ感じ取れなかった。それでいて、そこにいるという事実だけが、やけにはっきりと肌に伝わってくる。
美しい、と思った。同時に、ひどく歪だとも思った。
深い夜に溶けるような、上等な着物を纏った男だった。長い髪が、風もないのにわずかに揺れている。その双眸は、まるでこの世の何もかもを見下ろすかのような、静かな昏さを湛えていた。
男が、口を開いた。
「
声は低く、抑揚に乏しかった。
「
その一言一言が、酷く場違いに響いた。まるで、この橋の上で起きたことなど、路傍の石ころほどの価値もないとでもいうように。
頭の中で、何かが焼き切れる音がした。
「だまれ」
自分でも驚くほど低い声が出た。
「殺す――ぞ」
言い終えるより先に、俺は地を蹴っていた。ただ、拳術で鍛え上げてきたこの体だけを頼りに、俺は出し得る限りの速さで、男へと拳を放った。
届く、と思った。
いや――届いていたはずだった。
視界が、ぶれた。
気づいた時には、何か途方もなく重いものが、頭部に叩き込まれていた。痛みという感覚すら追いつかない、それほどの速さだった。骨が軋む音を、俺は自分の内側から聞いた。
男の手刀が、俺の頭を捉えていた。
――速い。
人の域を、明らかに超えている。
それでも、俺の体は止まらなかった。頭を潰されながらも、俺の拳はなおも軌道を描き続けていた。人としての反射、鍛え上げてきた技術、それだけが、意識の途切れかけたこの体を、まだ戦わせようとしていた。
だが、届かない。
男は、眉一つ動かさなかった。
俺という人間が積み上げてきた技も、速さも、覚悟も、この男の前ではまるで意味を成さなかった。それでも俺の体は、最後の一瞬まで、諦めずに拳を握り続けていた。
頭は、確かに潰されたはずだった。
それなのに、意識はまだかろうじて、この体につなぎとめられていた。痛みすら、もう遠い。視界は霞み、色を失いかけている。それでも、男の姿だけは、やけに鮮明に映っていた。
男は、倒れかけた俺を見下ろしていた。
値踏みするような、その目。まるで、道端に転がる石の質を確かめるような、そんな眼差しだった。
「十二体程、強い鬼を造ろうと思っているんだ」
男の声は、変わらず平坦だった。
「お前は、与えられる血の量に耐えられるかな?」
その問いが、何を意味するのか。俺には、もう考える力すら残っていなかった。
鬼になるということなのか。人であることをやめるということなのか。それが、俺にとって何を意味するのか。
考えようとしても、思考はどこにも辿り着かなかった。
師範の、あの豪快さが失われた顔が浮かぶ。
親父の、あの日の静かな眼差しが浮かぶ。
守ると誓った。強くなると誓った。なのに、この手には何一つ、残っていない。俺という人間は、結局、誰一人として救うことができなかった。それが、この人生の全てだった。
だとしたら――。
俺が人であろうと、そうでなかろうと。
もう、何の違いがあるというのだろう。
唇が、勝手に動いた。声にすらなっていないような、掠れた息だけが漏れる。
「……ど、う」
もう、どうでもいい。
「もう……どうでもいい……」
全てが、意味を失っていた。生きることも、死ぬことも、人であることも、何かになることも。何もかもが、等しく色を失い、等しく価値を失っていた。
「全て……が……」
そこから先の言葉は、続かなかった。
続ける必要も、もう、なかった。
男から何かが、自分の頭に流し込まれるのを感じる。
冷たい、と思った。人のものとは思えない、静かな冷たさだった。何かが、体の奥深くに流れ込んでくる。血液とは違う何かが、心臓から手足の先まで、じわりと染み渡っていくのがわかる。
痛みは、なかった。
不思議なほどに、何も感じなかった。
視界の端で、川面が月明りを静かに返している。あの橋の上で、俺と
体の内側で、何かが作り替えられていく感覚があった。骨が軋み、肉が沸き立ち、それでいて、どこか懐かしいような、生まれ変わるような感覚。抗おうにも、抗うための「俺」という輪郭そのものが、少しずつ溶けていく。
――
最後に浮かんだのは、その名前だった。
声にはならなかった。もう、声を出すための「口」が、
視界が白く染まっていく。
音が、遠のいていく。
橋の上に立つ男の姿だけが、いつまでも、俺の中に焼き付いていた。
そこで、
………………。
…………。
……。
>次回、エピローグ。