恋雪にTS転生したので、猗窩座を救いたい人生だった   作:自分の性癖に素直になろう小説

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第三話 素流道場の日常回

 

 その日は、朝から妙に静かだった。

 

 いや、正確に言えば「静かすぎる」だった。俺の第六感――もとい、社畜時代に培った「上司の機嫌が悪い日の空気を読むスキル」が、盛大に警報を鳴らしていた。

 

 台所の方から漂ってくる、味噌汁とは違う、ピリついた空気。障子越しに聞こえる、いつもより一音高い母さんの声。

 

「――で、いくら渡したんですか」

 

「いや、その、大した額じゃあ……」

 

「いくらですか」

 

 母さんの声が、笑顔のまま圧をかけてくるタイプの声色になっていた。これは修羅場の予感がする。俺は布団の上で身を起こし、聞き耳を立てる体勢に入った。人としてどうかと思うが、こちとら前世からして他人の修羅場を対岸の火事として楽しむタイプの人種である。

 

「その……一両ほど」

 

「一両」

 

 母さんの声のトーンが、一段階、静かになった。これはまずい。声のボリュームが下がる時ほど本気の時だと、社畜時代に学んだ経験則が告げていた。

 

「あなた、それは誰にです」

 

「久太郎(きゅうたろう)だ。あいつの実家の母親がな、床に臥せっちまって、薬代がどうしても足りないと言うから……」

 

「久太郎(きゅうたろう)さん、ですか」

 

 母さんの声に、明らかな険が混じった。

 

「あの、うちに門下生として入って、隣の道場に嫌がらせされた途端、逃げるように出て行った人ですよね。それも、恋雪(こゆき)の発作で道場中が大変だった、あの夜に」

 

「……そうだったか?」

 

「そうです」

 

 即答だった。母さんは忘れていなかったらしい。俺も忘れていない。あの時、真っ先に逃げ出した背中は、まだうっすらと記憶に残っている。

 

「実家の母親が病気、というのも、あの人が三年前にも同じことを言って、隣町の呉服屋から金を借りて、そのまま姿を消したという話を聞いたことがあります」

 

「そ、そうなのか」

 

「ええ。それも、恋雪(こゆき)が寝込んでいる隙を見計らったように」

 

 母さんの声のトーンが、また少し下がった。ここに来て、俺の名前が出てきたことに、俺は布団の中で身を固くした。巻き込まれる予感がする。

 

「病人を抱えていて、断りにくいだろうと踏んで来たんだと思いますよ、あの人」

 

「……」

 

 父さんが、珍しく黙り込んだ。図星を突かれたのだろう。俺は思わず、布団の中で「うわぁ」と声にならない声を漏らした。久太郎(きゅうたろう)、なかなかやる。詐欺の手口としては、なかなか的確な急所の突き方だ。前世で言うところの「高齢者を狙う振り込め詐欺」の手口に通じるものがある。

 

「まあ、あなたが情に厚いのは、良いところだと思いますけど」

 

 母さんの声が、少しだけ柔らかくなった。

 

「困っている人を放っておけない。それは、出会った頃からずっと変わらないところですものね」

 

「お、おう」

 

「でも、それと、人を見る目がないのとは、また別の話です」

 

「うっ」

 

 見事な返す刀だった。俺は布団の中で、母さんに拍手を送りたい気持ちになった。うちの母さん、キレ味が鋭い。

 

「今度あの人を見かけても、絶対に、金は貸さないでくださいね」

 

「わ、わかった」

 

「本当ですか?」

 

「……多分」

 

「多分、はやめてください」

 

「わ、わかった、わかったから。次は、本当に、断る」

 

 父さんの声に、切実な響きが混じっていた。母さんの小さな笑い声が、それに続いた。どうやら今回も、我が家の夫婦喧嘩は、母さんの完全勝利という名の平和的着地で幕を閉じるらしい。

 

 しばらくして、ふすまがそっと開いた。

 

「起きてたのね、恋雪(こゆき)」

 

 母さんが、盆に湯呑みを乗せて入ってきた。表情はもう、いつもの穏やかなものに戻っている。

 

「聞こえてた?」

 

「……少しだけ」

 

 嘘である。一言一句聞いていた。だが、正直に言うと藪蛇な気がしたので、聞こえなかったふりをする方に全振りした。

 

 母さんは小さく笑って、湯呑みを枕元に置いた。

 

「お父さんはああいう人だから。困ったものだけど……まあ、そこが良いところでもあるのよ」

 

 その口調に、責める色はほとんどなかった。むしろ、どこか誇らしげにすら聞こえた。

 

「恋雪(こゆき)も、大きくなったら覚えておきなさい。人を助けたいと思う気持ちは、大事にしなさい。ただし、その優しさに付け込む人がいることも、忘れないように」

 

「……肝に銘じておきます」

 

 そこで咳が出ると、母さんはくすくすと笑いながら俺の頭を撫でた。その手のひらの温かさに、俺はいつも通り、少しだけ照れくさい気持ちになる。

 

 廊下の向こうから、父さんのばつの悪そうな足音が近づいてきて、ちょうど台所の方へ逃げるように消えていった。

 

 まったく、うちの両親は。

 

 傍から見れば、お人好しが過ぎる亭主と、それを尻に敷きながらもしっかり支える気の強い女房、という、どこにでもありそうな夫婦の形かもしれない。だが、俺の目には――前世の記憶を持つ俺の目にはなおさら――その何でもない掛け合いの一つひとつが、ひどく尊いものに映っていた。

 

 いつまでも、こうしていられたらいいのに。

 

 そんな、柄にもない願いが、ふと胸の奥をよぎった。

 

 

 

 

 

 それはお風呂というには、あまりに慎ましい代物だった。

 

 たらいに張られた湯に、手ぬぐいを浸して絞る。それで体を拭う、というのが、俺が生まれてからの「入浴」だった。江戸の庶民に内風呂などという贅沢品はない。銭湯があるとは聞いているが、そこまで歩いて通うだけの体力が、生憎この病弱な体には備わっていなかった。

 

 ――肩まで浸かって「あ゛ー」って言いたい。

 

 前世で当たり前のようにあった、あの幸福を思い出すたび、俺は行水のたびに小さな喪失感を噛み締めることになる。湯船。追い焚き。入浴剤。あの、全身が湯に包まれる瞬間の多幸感。それらすべてが、この時代にはまだ存在しない未来の贅沢だった。

 

「はい、恋雪(こゆき)。もう少し温かいのに変えるわね」

 

 母さんが、新しい湯を張ったたらいを運んできた。手際よく、それでいて手荒くはない、慣れた動きだった。俺は素直に袖をまくり、差し出された腕を委ねる。

 

「……母さん。銭湯って、すごく気持ちいいものなの?」

 

「あら、恋雪(こゆき)、興味あるの?」

 

「肩まで浸かれるって噂に聞いて。憧れが、そこそこあります」

 

「気持ちいいわよ。特に冬なんて、体の芯から温まって。でも、あなたの体じゃあ、あの人混みと湯気に長くあたるのは、ちょっと厳しいかしらね」

 

「ですよねぇ……」

 

 俺は肩を落とした。憧れの湯船は、まだまだ遠い夢らしい。せめて心の中だけでも「肩まで浸かった気分」を味わおうと、目を閉じて脳内で妄想の温泉に浸かってみたが、当然、現実の体感温度は一向に上がらなかった。

 

 母さんは、そんな俺の様子にくすりと笑いながら、丁寧に手ぬぐいを肩に這わせていった。湯の温かさが、じんわりと肌に染みていく。悪くない。悪くはないのだが、やはり湯船への未練は捨てきれない。

 

「体、傾けてちょうだい。背中も拭くから」

 

 促されるまま、俺は体を傾けた。母さんの手が、背中を優しく、それでいて丁寧に拭っていく。子供扱いされるのは、正直、前世三十路手前だった記憶を持つ身としては複雑な気分だが、この温かい手のひらの感触だけは、素直に心地よいと思ってしまう自分がいた。

 

「恋雪(こゆき)の肌、白くて綺麗ねぇ」

 

 ふと、母さんが呟くように言った。

 

「太陽にあまりあたっていないのもあるんでしょうけど……この分だと、大きくなったら、相当な美人になるわね」

 

「……はあ」

 

 曖昧な相槌しか返せなかった。

 

 美人。なるほど、美人か。

 

 頭の中で、その言葉が奇妙な反響を起こしていた。悪い気はしない。しないのだが、素直に喜べる類の褒め言葉でもなかった。何せ、この体の中身は、社畜として働き詰めだったどこにでもいる成人男性である。中身は「オッサン」寄りの精神年齢を持つ人間が、「美人になるわね」と言われても、リアクションに困るというのが正直なところだった。

 

 ――いや、俺、中身男なんですけど。

 

 そう叫びたい衝動を、いつものように飲み込む。飲み込み慣れているはずのその衝動が、今日はやけに喉の奥に引っかかった。

 

「どうしたの、恋雪(こゆき)。ぼうっとして」

 

「あ、いえ。なんでもないです」

 

 誤魔化すように、俺は湯に浸した手ぬぐいで顔を拭った。熱くもない湯のはずなのに、頬がやけに火照っている気がした。

 

「照れちゃって、可愛いこと」

 

「照れてないです」

 

「あら、そう?」

 

 母さんは、楽しそうにくすくすと笑いながら、最後にもう一度手ぬぐいを絞り直した。その笑い声に、俺はそれ以上何も言い返せなくなって、ただ黙って湯浴みの続きに身を委ねることにした。

 

 遠くない未来、自分がどんな顔つきに育っていくのか。それを想像するたび、いまだにこの奇妙な違和感からは逃れられずにいる。

 

 

 

 

 その時だった。

 

「おーい、恋雪(こゆき)、まだ入って――」

 

 断りもなく、障子が勢いよく開け放たれた。

 

「あなた!」

 

 母さんの声が、鋭く飛んだ。

 

 父さんは、稽古着のまま、汗の匂いを漂わせて土間に踏み込んできたところだった。悪気は微塵もない、いつも通りの豪快な足取りだった。

 

「恋雪(こゆき)の湯浴みの最中だと、言ったはずですよね」

 

「あ――いや、すまん。稽古が長引いてな、水を貰いに」

 

「水なら台所の甕にあるでしょう」

 

「そうなんだが、こっちの方が近くてな。おお、恋雪(こゆき)、元気そうだな」

 

 悪びれる様子もなく、父さんは俺に向かって笑いかけた。

 

 なお、断っておくと、この時代、十歳の娘の裸を父親が見たところで、格別何かが問題になるわけではない。行水は家族総出で世話をするのが当たり前で、幼い子供の体に対する羞恥の感覚は、現代よりもずっと緩やかなものだった。裸を見られること自体は、この時代の恋雪(こゆき)にとっても、さして深刻な話ではない。

 

「恋雪(こゆき)ももう十歳なのですから、少しは遠慮してください!」

 

 とは言え、成人する年齢が現代よりも早いので、七歳が一つの区切りとされている。

 

「もう、せっかく温かい湯にしたところなのに! 戸を開けっ放しにしたら、湯が冷めてしまうでしょう!」

 

「おお、悪い悪い」

 

「それに、その汗と土埃のまま入ってこないでください! 桶の水が汚れます!」

 

「わかったわかった、今すぐ出る出る」

 

 慌てて父さんが後ずさりしようとした、その拍子に、足が濡れた床にわずかに滑った。

 

「うおっ」

 

 大きな体が、たたらを踏むように傾く。とっさに掴んだ柱のおかげで、なんとか転倒だけは免れたが、その拍子に膝が桶の縁にぶつかり、湯がわずかに跳ねた。

 

「もう! 本当に危ない! 恋雪(こゆき)もいるんだから!」

 

「わ、悪い、悪かった。だが、無事だ、無事だぞ」

 

「無事とかそういう話をしているんじゃありません」

 

 母さんのお小言が、矢継ぎ早に飛んでいく。父さんは、道場では師範として威厳たっぷりに振る舞っているはずのあの人が、ここではすっかり形無しだった。大の大人が、妻の一喝ひとつでしゅんと肩を縮こまらせている様は、なんというか、実に見慣れた我が家の光景だった。

 

 俺はその一部始終を、たらいの中から眺めていた。

 

 ――うちの父さん、道場では鬼みたいに強いのに、家では母さんに一切勝てないんだよな。

 

 その落差がおかしくて、こらえきれず、小さく吹き出してしまった。

 

「くくっ……」

 

「あら、恋雪(こゆき)、どうしたの」

 

「いえ……ただ、父さんって、道場では強いのに、母さんには全然敵わないなって」

 

「当然だろう。俺の拳より、お前の母の小言の方が、よっぽど効くからな」

 

 父さんが、悔しさ半分、諦め半分といった顔で言うものだから、俺はますます笑いが止まらなくなった。母さんも、呆れながらも口元に笑みを浮かべている。

 

「ほら、笑ってないで、さっさと出て行ってください。恋雪(こゆき)が湯冷めしてしまいます」

 

「わかった、わかった。……恋雪(こゆき)、あとでな」

 

 父さんは、そそくさと足早に去っていった。その大きな背中が障子の向こうに消えるのを見届けて、俺はまだくすくすと笑い続けていた。

 

「まったく、あの人ときたら」

 

 母さんがため息をつきながら、それでも仕方なさそうに微笑んでいる。その表情には、呆れの中に、確かな愛情のようなものが滲んでいた。

 

 湯気の立つたらいの中で、俺はその温かい光景を、しっかりと目に焼き付けていた。

 

 

 

 

 

 その日の夜。布団に横になってもなお、俺の思考はしつこく同じ場所を巡っていた。

 

 ――美人になるわね、か。

 

 母さんのあの一言が、どうにも頭から離れない。褒め言葉として受け取るべきなのはわかっている。わかっているのだが、中身が男だった俺に「将来は美人になる」と言われたところで、素直に喜べる感性は、とうの昔にどこかへ置き忘れてきてしまったらしい。

 

 ――容姿を褒められて動揺するオッサン、我ながら情けない。

 

 布団の中で悶々と枕を抱え込んでいると、ふすまがそっと開いた。

 

「あら、まだ起きていたの?」

 

 母さんが、行灯(あんどん)を片手に顔を覗かせた。心配そうな、それでいてどこか楽しそうな表情だった。

 

「今日はたくさん褒めすぎたかしら」

 

「い、いえ、そういうわけじゃ」

 

「照れ屋さんね、恋雪(こゆき)は」

 

 くすくすと笑いながら、母さんは枕元に腰を下ろした。夜着の袖から覗く手が、俺の額に軽く触れる。熱を確かめる仕草だった。行水の疲れがまだ残っていたが、熱そのものは落ち着いている。母さんは安心したように頷いた。

 

「そうそう、器量よしといえば――」

 

「はい?」

 

「隣の玄真(げんま)くんのところ、どうかしらね」

 

 一瞬、何を言われたのか理解が追いつかなかった。

 

「……へ?」

 

「顔立ちも悪くないし、体も丈夫だし。恋雪(こゆき)のことを、まんざらでもなさそうにしているし」

 

「い、いや、あの、それは」

 

「まあ、まだ気の早い話だけれど。将来、そういう相手がいてくれると、母としては安心なのよ」

 

 母さんは、実に楽しそうに、それでいてまるで悪びれる様子もなく、とんでもない爆弾を投下してのけた。冗談なのか本気なのか、その絶妙な塩梅が、余計にたちが悪い。

 

 頭の中で、盛大な悲鳴が響き渡った。

 

 ――待て待て待て、それだけはない。それだけは、絶対にない。

 

 あのジャイアン系俺様思考回路の幼馴染と、将来を誓う自分の姿を想像しただけで、全身に鳥肌が立った。中身が男である以上に、そもそもあの傲慢さと相性が悪すぎる。晩酌しながら愚痴を聞いてもらう相手には向いていても、伴侶には全く向いていない。断言できる。

 

「……勘弁してください」

 

 声にならない悲鳴をなんとか言葉に変換すると、それだけを絞り出すのが精一杯だった。

 

「あら、そう? まあ、隣の道場とは色々とあるからねぇ……」

 

 母さんは少し困ったように笑うと、行灯(あんどん)を持ってすっと立ち上がった。

 

「今日はもう寝なさいね。おやすみ、恋雪(こゆき)」

 

「……おやすみなさい」

 

 ふすまが静かに閉まり、足音が遠ざかっていく。一人残された俺は、布団の中で天井を睨みつけながら、深く長いため息をついた。

 

 美人になるという評価にも困っていたところに、まさかの縁談めいた冗談まで飛んでくるとは。今日という日は、平穏なようでいて、精神的にはなかなかに忙しい一日だった。

 

 ――まったく、うちの家族は、揃いも揃って人をからかうのが好きなんだから。

 

 そう内心でぼやきながら、俺はようやく目を閉じた。明日もまた、この賑やかな日常が続くのだろう。そんな予感を胸に抱きながら、眠りに落ちていった。

 

 

 

 

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